2020年01月31日(金)
享年、百歳! [家族]
「お亡くなりになったご年齢を紹介させていただくとき、満年齢であったり数えの年齢だったりまちまちなんです。お寺のご住職様がおっしゃられる年齢に合わせてご紹介させていただくことにいたします。」
葬儀会館の係の方がそうおっしゃった時は、「ふーん」という感じで聞いていたのだが、いざ紹介というときに「百歳」とアナウンスされてうれしくなった。
「うちのおとちゃんは、1世紀も生きたんや!」
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怒涛の3日間でした。
1月29日(水)、私は寮1に17時間バイト。
この日に限って午後に新入寮生が2名あり、バタバタしていた。一息ついてケイタイを見たのが4時過ぎ。すると、めったにかかってこない兄からの着信記録と留守録があった。
3時27分着の留守録では「おじいさんの具合が悪いので、一応知らせておきます」と。しかし4時にも着信記録があり、その分は留守録にはなっていなかった。
ゆっくり電話している時間もないので、ヨメさんに連絡し、兄に電話してもらにうことにした。その15分後、ヨメさんから「おじいさんがなくなられました」と。
あとで分かったのだが、父が亡くなったのは午後3時34分。私が新入寮生にいろいろと説明している時間だった。
ああ、それにしても・・・。父が亡くなる7分前にしか連絡してもらえない末の弟。まあ、ふだんがふだんですから。
11時過ぎ、寮の戸締りをして勤務終了。
父のお通夜、葬儀を行う会館は堀川今出川。私の勤務地からすぐだった。
会館に着くと、もうほとんどの者が一旦帰宅していた。多鶴子姉夫婦がお泊りをしてくれるとのこと。
「昨日な、期日前投票で左京区役所に走って行ったんや。その帰りに病院に寄る予定やったんやけど、雨がザーザー降ってきて、寄らんと帰ってしもてん。帰ってそれが心残りやわ。」
「そんなもん、気にせんとき。」
泣き虫弟とちがって、多鶴子姉はいつも強い。
1時前までしゃべっていたのだが、あとは姉夫婦に任せて帰宅した。
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1月30日(木)、東京に単身赴任中の廉が帰ってきてくれた。(真樹は沖縄なので、「帰って来なくていい」ということにした。)
廉が帰ってきたら、さっそくきくちゃんをかまってくれた。
これは「ハブ巻き」。
きくちゃんもうれしそう。これで長生きできるわ。
私は兄に頼まれた「父の写真」を探してプリントアウト。これがけっこう時間がかかった。
ヒマを見つけてちょっと走りに行ったろうと思っていたが、さすがにお通夜当日は無理でした。
午後7時からお通夜。
なんと立派な祭壇なこと。
でも、数え「百歳」の父にはこれくらいがふさわしい。
「孫一同」からのお花には、廉と真樹も入っている。
孫は14人、ひ孫は25人らしい。(孫は全員の名前が言えるが、ひ孫は無理。)
受付には、私のまたいとこにあたる春嗣さん(じんろく)と宗明さん(そうは)、そしてうちの廉。我が家からお役に立てる要員が出せてよかった。
「あっ、戒名の中に『俊子』の『俊』が入っとるわ!」
私が一番に気づいた。
父の戒名は「善峰俊英居士」。「善一」の「善」と(私の母)「俊子」の「俊」が仲良く入ったいい戒名だった。
最後のお礼のごあいさつも、さすが兄。
言うことなしのいいあいさつだった。
そのあと別室で会食。
「兄弟4人で撮っとき」と言われ、お言葉に甘えまして。
私の左へ、8歳上のみき江姉、7歳上の優三兄、4歳上の多鶴子姉。
「父に似てかっこいい者はだれもいない」とよく言われる。
孫最年長の淳。もう49歳だそうだ。
Vシネマの男優感がすごかったのでいっしょに写真を撮ってもらったのだが、「いいお父さん」にしか見えません。
もう一枚撮り直したのがこれ。
この写真はなかかな強面感が出ている。
なんちゃって、私にとっては一番かわいい甥です。
控室に戻り休けいしていると、「棺桶のふたがずれとる」。
「ああ、さっきまあちゃん(私の姪)がふたごとあけて、おじさんさわっとったわ。」
「なんちゅうことすんねん。」
本人にくわしく聞くと、しっかりとした考えがあった上での行動とのことで感心した。死がどういうものであるかを、子どもたちにしっかり感じさせてやりたいとのことだった。
甥や姪と話す機会はあまりない。こんなときこそ、しっかりしゃべっとかなあかんね。
今夜は、優三兄夫婦と多鶴子姉夫婦が泊まってくれる。私も一応泊まる用意をして行ったのだが、用なし。先に帰っていたヨメさんにお迎えに来てもらい帰宅。
もちろん、私の用事はきくのお散歩。
ちょっと前までしたばっかり向いていたきくが、顔を上げて歩いてくれることがうれしい。
ほんまにほんまに、きくには長生きしてもらわな困る。
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【RUN】
1月30日、葬儀当日。
朝から左の耳の下が腫れる。ものが食べづらい。
「お医者さん、行ってき―」とヨメさんに言われたが、そんな時間があるんなら走りに行こ―。
10時、ちょっとでも走ろうとスタート。
一応喪に服して、黒いウインドブレーカー上下で(?)。
いつもの十王堂橋往復5km。
すれちがう叡電の車両も、喪に服して(?)深緑色。
5km、28分03秒。
ゆっくり走るつもりだったのに、そこそこ速く走れた。
今日からやっと冬らしい天気。
雨が降っていたかと思えば晴れ。そしてまた雨、晴れ、雨、晴れ。
そんな天気もまた、葬儀の日の印象として残るんでしょうね。
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1月30日午後1時半より葬儀。
(注)もうちょっと、続きます。
29年前の母の葬儀は、いなかの家で行ったので500名以上の方が来てくださった。雪の中大変だった。
今回は親族と町内以外はご遠慮願ったということで、100名程度になるらしい。いなかからは、マイクロバス2台で来ていただくとのこと。
今日の受付には、彩ちゃんにも入ってもらった。
うちの親族の中では、一番受付にふさわしいかも。
「焼香のお香には何が使われているか」があとで話題になった。
「あの七味みたいなやつなあ・・・。」
◇ ◇ ◇
焼香で使われる抹香とは
香木を刻み混ぜ合わせた供香のことで、直接火種にくべて焚く他、火種として使われます。混ぜ合わせる香木は基本的なもので5種類あります。
白檀(びゃくだん)熱帯性常緑樹で甘い香りが特徴で、サンダルウッドと呼ばれています。
沈香(じんこう)香木の中で高級とされるジンチョウゲ科の沈香樹から摂れる香木です。
丁子(ちょうじ)フトモモ科の常緑高木で、クローブと呼ばれています。
鬱金(うこん)ショウガ科の多年草で、根茎を乾燥させて使います。
龍脳(りゅうのう)龍脳樹の樹脂から摂れる塩状の結晶で、ボルネオールと呼ばれています。
その他、甘松香や安息香が、かつては使われていましたが、現在は樒(しきみ)が使われています。
また、10種類以上を配合しているものがあり、等級の目安として使うことがあります。
父のスライド上映。
私が撮った餅つきの写真も採用してもらえてよかった。
今日は、宗仙寺の一番偉いお坊さんが来てくださったそうだ。
兄・優三からお礼のごあいさつ。
昨日のお通夜の時とまたちがうあいさつで、すごくよかった。
参列者の写真もちょこっと。
孫とひ孫なんで、いいですよね。
棺にみんなで花を入れて行った。
最後にご住職も。
真樹は沖縄なので無理やったけど、うちからはヨメさんと廉彩夫婦が参列できたのでよかった。
最後の花束は、ひ孫代表の二人が。
そのあと、山科の火葬場へ。
棺といっしょに、喪主・優三、遺影・みき江、骨壺・廣司が車に乗って行った。それ以外は、マイクロバスで。
火葬場は撮影禁止なので写真なし。
帰ってすぐに初七日の法要。
そのあと「藤井善一を偲ぶ会」「になった。
参加者は極々身内の20名ほど。
(藤井善一を偲ぶ会で)
善一の次男の廣司です。父が34歳、母が30歳の時の子で、今64歳です。
父のことで一番心に残っているのは、私が小学1年くらいの時のことです。そのころ牛を飼っていて、田んぼを耕すのに使っていたんですが、「まんきがさす」といって突然暴れ出すことがありました。
うちの家から30mくらいのところに田んぼがあって、居間からそこが見えます。ある日その田んぼを見ていると、牛が暴れ出し、父が牛の角を捕まえておさえつけていました。ビックリしました。すごい力やなあと思いました。
それともう一つ。
父が農協に勤めていた時のことです。私が小学校の低学年の時だったと思いますが、一晩で1m近くの雪が積もったことがあります。
学校は休みになったんですが、父はその1m近く積もった雪の中を、ただ一人で農協に向かってガシッガシッと歩いて行きました。その後ろ姿は今も忘れられません。
この二つは今まであまり人には言っていない話ですが、こんな父をずっと誇りに思っています。
つ 今日は棺おけに手紙を書いて入れようと思っていました。でも、忘れてしまいました。
「おじいさん、お散歩に連れて行ってくれてありがとう。えりより」と書こうと思っていました。えりというのは、10年以上前に死んだうちの犬です。
私らに用事があっておじいさんに散歩を頼んだとき、えりを迎えに行こうと思ったら、遠くの田んぼの下の方からおじいさんがえりを連れて上がってきたんです。散歩を頼んでも適当にしておくと思っていたのに、こんなたくさん散歩してくれたんやとうれしくなりました。父の意外な一面を見た気がします。
以上です。
父の思い出はいいことばっかりでいやなことは一つもありませんでした。
参加してもらった中の最高齢は父の弟夫婦だが、その次の年配者に当たる春嗣さん。最初のごあいさつをしてくださった。
お料理とヨメさんの写真。
横にいた兄が、「いっしょに撮っといてもらおう」と入ってきた。
兄がほとんど残していたのを、ヨメさんが心配していた。喪主が大変で、食べる気にならへんかったのかもしれん。
うちの本家から克己のおっちゃん(私のまたいとこ)が来てほしいところだったが、代わりに次男の和彦君が来てくれた。なかなかいいお話をしてくださった。
遺影と共に、お骨の横で記念撮影。
バタバタとした3日間だったが、これで一区切り。
29年前に母が亡くなった時は、「まだ父がいるのでだいじょうぶ」と思っていた。でも、もうこれで私の後ろにはだれもいない。
29年前までは「善一・俊子の息子」を前面に出し、そのあとは「善一の息子」で大きな顔をさせてもらった。
「これからは『優三の弟』で世の中渡って行こうかなあ」と言うと、兄は笑っていた。
「自分の力で生きられんのかい!」
思っていたより早く帰れて、きくちゃんも何事もなく無事だった。
長めのお散歩にも行けてよかった。
きくはまだ15歳にもなってへんのやから、まだまだ長生きしてもらわんとね。
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2020年01月30日(木)
大いなるものを失って [家族]
1月29日午後3時半、父・藤井善一が亡くなりました。
私の母・俊子が亡くなったのが、1991年1月11日。それから29年、よくひとりでがんばったものです。
私は4人兄弟(姉・兄・姉)の末っ子で、お母さん子だと思いこんでいた。でも、そうでもないのかもしれない。
母が亡くなったのが私が35歳の時、父は私が64歳の時なので付き合った長さがちがう。ほんとうに大きなものを失った。
もう私のバックにはだれもいない。
今夜がお通夜。
明日がお葬式。
父がほめてくれた私の記事を載せておきます。
ぜひ見てください。
「1945年8月15日 」
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2020年01月29日(水)
時代錯誤の下品な広告 [時事]
1月26日の京都新聞を見てビックリ。
「タイムスリップしたか?」
ビラでは似たような内容のものを見たことはあるが、新聞広告でこんなんを見たのは人生初ですね。
悪代官が「金にもの言わす」というか、いったいいくらかかっているんでしょうね。良識ある京都市民が、この下品な広告をどう判断されるか・・・。
私も現京都市長も60歳代。「反共は戦争前夜の声」という言葉を知っている世代なのに、そのリスクを分かった上での博打広告でしょうか。
私を左翼(共産党系?)と勘違いしている人もおられるようだが、それは大まちがい。なんの関わりもありません。私が一番好きなのは、沖縄の喜屋武真栄元参議院議員のような「革新統一候補」。(ああ、これも死語ですね。)
過去の記憶をどんどん忘れてしまっている私が、この広告をきっかけに鮮明に思い出したことがある。
過去を辿ること40年。
私がやっとのことで小学校教諭になったころ。最初に赴任したのは大原小学校百井分校。そこで児童1人の担任に。でも、へき地校(別所小学校)出身の私にとっては、お隣の百井分校に赴任を命じられたのは名誉なことと思っていた。
「労働組合は、困っている人、弱いものを助ける組織です」と説明され、すぐに仲間に入れてもらった。いざ入ってみると、一番力を入れているのが「授業研究」。ええ加減なルートをたどってギリギリ採用された私にとっては、こんな「ためになる」ありがたいことはなかった。
そんなある日、組合のへき地部が教育委員会に待遇改善要求する会合に出席することになった。
京都市役所内の京都市教育委員会に出向き、へき地校で困っていることを要求させてもらった。その要求のほとんどが、自分たちの待遇ではなく子どもたちに関わることだった。
ところがその答弁に立っているのが、並み居るお偉いさんではなく20代の一係員。「何から何までペラペラと答えてるけど、中身はゼロ回答やん」「お偉いさんたちは言ったことをあとで追及されると困るから、こんな下っ端に答えさせて、あとは責任逃れしようとしてるんやなあ」と思っていた。
その中で、へき地校出身者である私が一番腹が立ったこと。
社会見学に出て行こうにも交通費が莫大にかかる。わずかな補助が出てはいたのだが、それを増額してほしいと言ったときのこと。
「へき地には豊富な自然環境があるわけですから、それを生かした授業に力を入れてもらって、わざわざ街に出てくることにこだわる必要はないのではないかと思います。」
「はあ? 田舎者は田舎に引っ込んどれちゅうこと?」
もちろん新採の私がそんな発言をできるわけがなかったが、へき地校の児童がバカにされたようではらわたは煮えくり返っていた。
その時答弁を一手に引き受けていたのが、当時教育委員会の一係員だった「かどかわ」さんです。
今も40年前も同じ、人を小バカにしたような答弁で活躍した一係員は、のちに教育長に上り詰め、そこで終わらず市長にまで。
これは選挙妨害でもなんでもない。私自身が目の前で見た光景です。40年たって細部は正確さを欠くかもしれないが、同じような証言をしてくれるであろう仲間はいっぱいいます。(昔の仲間がボケていなければ・・・。)
私の父の教えは、「最初に顔を見たら、その人がどんな人かだいたいわかる。のちにその評価が覆ることはほとんどない」。
申し訳ないけど、私の40年前の最初の評価は覆ることなく今も続いている。
(ひとさまのことをほめるにしてもけなすにしても、憶測ではなく、こういうふうに自分の目で見たことをもとにして話してほしいと思う。)
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◎五十嵐仁(法政大学大原社会問題研究所)の転成仁語より
4月29日(金) 再びかみしめるべき..
〔以下の論攷は、『六町だより』第25号、2016年4月号、に掲載されたものです。〕
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」
これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。
悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。
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2020年01月28日(火)
第121回勝手に国労応援ラン [ランニング]
今回はJR沿線ではなく、左京区役所へ。
ちょうど京都市長選挙の期日前投票ができるので。
午後4時半過ぎ、自宅出発。
「身はいやしくも 心は高くありなん」
そのとおりやね。
心までいやしくなったら人生終わり。
地下鉄・北山駅まで3km。
このまま進んで府立大の手前を左折。(北泉通というらしい。)
下鴨本通との交差点角にペットの美容室。
上等な白いワンちゃんが待機していたので、撮らせてもらった。これはなんちゅう種類かな。きれいにしてもらったあとかなあ。
左京区役所まで4.39km、27分05秒。
期日前投票の部屋はガラガラだった。
「お車ですか。」
「いえ、走ってきました。」
毎回、こう言うのが楽しみ。
国労をつぶしにかかった勢力とは反対の立場であると思われる候補に1票。
あまり迷わずに投票できた。
「さあ、父の病院によって帰ろう」と思って区役所を出ると、雨がザーザー。ついさっきまで降ってへんかったのにー。
お見舞は中止で、高野川沿いを北上して帰ることに。
例の「ムダ橋」、まだできてへんのやねえ。これも現市長の失策やと思いますが・・・。
橋の名前はもう決まってんのかなあ。もし公募があったら、私は絶対「ムダ橋」。橋の名前ってなかなか覚えられへんけど、これならバッチリ。
こないだでっかいおにいさんにお世話になったドコモショップ。
地下鉄・国際会館駅前で区役所から3.2kmほど。
ますます雨がきつくなり、もう全身びちょぴちょ。
いつもの叡電沿線に沿って家まで。
やっと着きました、5.77km、37分20秒。
これで全部で10kmをちょっとだけ超えた。
雨の日は走りたくはないが、今日は用事の帰りに降ったのでどうしようもない。かえっていい練習になった。
すぐに着替えて、体を温めなければ。カゼひいたらえらいこっちゃし。
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いつも今が一番 [わんこ・にゃんこ]
今日「京都キャロット」のお客様が早く来られるということで、私がきくの朝の散歩に連れて行った。(いつもは、朝はヨメさん。)
最近夜は町内の公園ばかりなので、前によく行っていた長代川沿いの散歩道へ。そこでリードを外すと、少し下の田んぼへスタスタと歩いて行った。
刈り取られたあとの田んぼやから、犬が入ってもいいでしょう。この田んぼの持ち主さんは、私やきくのこともよく知ってくださっているし。
きくは田んぼに入ると、しっぽがピーン!
なんぼでもなんぼでも歩き回る。うれしかったみたい。
いつもなら頭を下げて、元気なく歩いているのに。
稲の切り株が伸びてちょうど顔の高さで、それが刺激になって顔を上げて歩いているのかもしれない。
まるで、ソフィア・ローレンの「ひまわり」みたいやん。
去年の11月の「南紀日置川マラソン」で、急激に弱って歩けなくなったきくを見て涙が止まらなかった。「もう絶対に1年も生きられへん」と思った。
でも「アンタが死んでも、きくと私はしっかり生きていく」というますみさんが、鍼灸とか食べ物とか考え付くことをいろいろやってくれて元気になってきた。
今は、ゆっくりしか歩けないきくを見ても悲しくはない。
「いっぱい歩けてよかったなあ」とうれしくなる。
子犬しかかわいいと思えない人はかわいそう。
もちろん、きくは子犬の時からかわいかった。でも、元気が有り余ってひとさまに迷惑をかけまくっていた時もかわいかったし、年老いて目だれが気になる今もかわいい。
そのうちのどの時期のきくが一番かわいいかと聞かれたら、迷わず「今日」と答える。
そうでしょう。
余談ですが、ますみさんも若い時からかわいかったし、子育てが大変な時もかわいかったし、子どもらが離れてしまった今もかわいい。
そのうちのどの時期ますみさんが・・・(以下、同文)。
そうでしょう。
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2020年01月27日(月)
雨でも走らんかい [ランニング]
今日は一日雨。
小雨なら走りに行くが、そこそこ降っていた。
「ついに、『バイト日以外は全部走る』が途絶えてしまうのかー。」
そう思っていたら、夜9時過ぎにやっと小降りになった。
「晩ごはんが消化できてへんけど、走りに行くかー。」
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今日の夜、ヨメさんはお出かけだったので一人晩ごはん。作るのはめんどくさかったので食べに行った。
キャラバンが停められそうなところは、MKバイキングくらい。
560円のチケットを買って中に入ると、ビックリするほどガラガラ。
これだけいただきました。
みそ汁は3杯。それだけでも値打ちがあったかな。
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さあ、食べてから1時間後に走ってだいじょうぶなんでしょうか。
また町内1kmコースを3周。18分39秒。
この程度なら、お腹ゴロゴロもだいじょうぶでした。
これからは、雨でも、晩ごはんを食べたあとでも走るようにせんとあかんね。
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2020年01月26日(日)
第30回くみやまマラソン [ランニング・出張販売]
今日のブログの記事のタイトルは、「そんなそうへいにだまされて」にしようかと思っていた。でも、そんなあやしいタイトルだとアクセス数が減ってしまう。
この写真、見てください。
これだけでもかなりあやしいのに、さらにあやしいタイトルまでつけてキャッチするつもりはありません。
でも、とにかくだまされました。
ハーフに出られるそうへいさんに予想タイムを聞くと、「1時間50分くらいかかりそう」と。私は今日もレースには出ないので、そうへいさんのゴール写真を撮りに行った。
「なんぼなんでも1時間50分はかからんやろう。1時間40分くらいから行ったらええな。」
そう思ってゴール前でカメラを構えて待ち受けていた。ところが全然見当たらん。1時間52分くらいまで待って、あきらめて帰ってきた。
そのあとそうへいさんがご来店。
「1時間35分台でゴールしました。」
「えらい話がちがうがな。」
まあアイツはそうゆうやっちゃ。
そのあと知り合いの方に記録証を見てもらっていたときの顔は、まるで子ども。腹も立たん。
年の差はだいぶあるけど、これからも「良識あるヘンタイ仲間」としてよろしくね。
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5時45分起きで、お茶漬けさらさら。
6時15分に出発して、大会会場には7時前に着。
週間予報ではずっと雨だったが、朝の最新予報ではほとんど雨はだいじょうぶになっていた。
今年は5年ごとの記念大会で、ハーフがある。これで少しは売上増になるのではと目論んでいた。
商品数が少なくなったため、開店準備も1時間かからず。
8時前には並び終えたのだが、お客様はしばらく全然来られなかった。
この大会恒例の前年大会の写真サービス。
去年は走ったので写っていないかと探したがなかった。
地元の大会なので、以前は知り合いの方もたくさん出ておられた。ところが、今日は少なかった。
お隣のテントのたこ焼き、そのまたお隣のテントのみたらし団子を食べてちょっとあったまった。
空は曇っていたが、風はほとんどなかったので、走るには絶好のコンディションと言える。
10時半、ハーフの部がスタート。
スタートから500mくらいの地点で待機。知り合いでは、しげちゃんパパと植木屋そうへいさんが出ておられる。
しげちゃんパパ、ゲット。
ナイキのシューズの具合はどうでしょう。
植木屋そうへいさん、ゲット。
あちこち痛いとおっしゃっていた割には元気そう。
堤防に上る道のところまで走って行き、またここで待機。
トップ争いは洛南対桃山かな。
しげちゃんパパは、かなり前の方。
そうへいさんは、団子状態の左端。
なんとか撮れました。
堤防の上にも上がって、パチリ。
ここからずっと堤防上を走ることになる。
単調なので、私には向いていないコースと言える。
今度は11時スタートの5kmの部を見に行った。
先頭集団には洛南高校がいっぱい。
5kmの最後尾は、いつもの永田さんではなかった。
しかし、この方も95歳とアナウンスがあった方だと思う。
「しっかり走ってくださいね」と声をかけておいた。
5km男子トップが帰ってきた。
5km女子トップ。
この応援犬ちゃんは、「クック・6〜7歳・オス」。
まあまあ人懐っこいワンちゃんだった。
しばらくすると、ハーフの選手が国道をくぐって来た。
たぶんここらで残り5km。
しげちゃんパパ、快走。
「しっかり!」と声をかけると、「はい!」と返ってきた。
こちらは、たぶんハーフ女子のトップ。
えーと、こちらは・・・。忘れました。
そうへいさんを見つけたのだが、あちらも私が分かったようで大柄なランナーの後ろに隠れていた。そして、直前でひょっこり。なにしてんだか。
いったん京都キャロットのテントに戻り、今度はゴール写真を撮りに。
1時間15分くらいから待機していたのだが、間もなくしげちゃんパパ帰還。
ラストスパート。
1時間20分くらいだったと思うのだが、この結果はご本人にとってはどうだったんでしょうか。
ハーフ以外のランナーがほとんど豚汁を食べ終わり、ハーフのランナーがまだあまり帰ってきていないこの時間が一番すいている。ヨメさんも、ほとんど並ばずゲットしてきた。
食べもんとヨメさんは、ほんまよう似合います。
丸いたこ焼き、丸いみたらし団子、丸いうつわの豚汁。丸い顔に映えますねえ。
そうへいさんが帰ってこられた。
「全然1時間50分とちゃうやん」と言っても、「へへへ」という感じ。
朝に差し入れてくださった「抗がん剤」という名のビールとお菓子。(毎年ありがとうございます。)それらを持って記念撮影。これだけでもここに来た値打ちがありました。
心配していた天気はまったくだいじょうぶだった。しかし、レースの後にゆっくり見ていかれるお客様は少なかった。
またもや、売上げ最低記録を更新。ハーフもあったのに、残念過ぎる。
この先もう出張販売も行けないかもしれないという話をすると、そうへいさんがすごく残念がってくださっていた。なんとか、私一人でも行けるようにできたらいいんですけどねえ。無理ですかねえ。
2時25分くらいに会場出発。
ちょうど「大阪国際女子マラソン」のトップがゴールしそうな時間になっていた。外の駐車場に車を止めて、車についているテレビで観戦。
松田瑞生選手が、NBのシューズで優勝。2時間21分47秒。
おめでとうございます。鍼灸師であるお母さんのケアがよかったんでしょうか。
ただし、まだ「名古屋」が残っている。たぶん「名古屋」では、今までナイキのシューズを履いてなかった選手がイチかバチかに賭けてくる。もう最後の最後やから、四の五のゆうとられん。
わたし的には、ニイヤに出てほしいんですが・・・。しつこいか。
毎年「くみやま」の帰りはラーメン。
会場から近い「来来亭」へ。
ラーメン(700円)、手羽先から揚げ3本(410円)。
ヨメさんに支払いを任せて車に戻ろうとしたら、「こうじさん、お金が足らん。カード使えへん。」
今時カードが使えへんチェーン店があるんですね。
家に着いたのはちょうど4時。
留守中にきくが何かに絡んで動けなくなっていないか心配だったが、ちゃんとまんまるになって寝ていた。かしこー。
いったん起きたが、まだ寝ぼけている。
お散歩モードに切り替えるのに時間がかかる。これは仕方ない。
夜は、そうへいさんからいただいた本物のビールで乾杯。
そうへいさんは「宇治川」も「篠山」も申し込んでいないとのこと。そうなると、「香住」とか「みかた」とかで会えるのなら私も行きたい。
さて、どうなることやら・・・。
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