2020年01月31日(金)
享年、百歳! [家族]
「お亡くなりになったご年齢を紹介させていただくとき、満年齢であったり数えの年齢だったりまちまちなんです。お寺のご住職様がおっしゃられる年齢に合わせてご紹介させていただくことにいたします。」
葬儀会館の係の方がそうおっしゃった時は、「ふーん」という感じで聞いていたのだが、いざ紹介というときに「百歳」とアナウンスされてうれしくなった。
「うちのおとちゃんは、1世紀も生きたんや!」
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怒涛の3日間でした。
1月29日(水)、私は寮1に17時間バイト。
この日に限って午後に新入寮生が2名あり、バタバタしていた。一息ついてケイタイを見たのが4時過ぎ。すると、めったにかかってこない兄からの着信記録と留守録があった。
3時27分着の留守録では「おじいさんの具合が悪いので、一応知らせておきます」と。しかし4時にも着信記録があり、その分は留守録にはなっていなかった。
ゆっくり電話している時間もないので、ヨメさんに連絡し、兄に電話してもらにうことにした。その15分後、ヨメさんから「おじいさんがなくなられました」と。
あとで分かったのだが、父が亡くなったのは午後3時34分。私が新入寮生にいろいろと説明している時間だった。
ああ、それにしても・・・。父が亡くなる7分前にしか連絡してもらえない末の弟。まあ、ふだんがふだんですから。
11時過ぎ、寮の戸締りをして勤務終了。
父のお通夜、葬儀を行う会館は堀川今出川。私の勤務地からすぐだった。
会館に着くと、もうほとんどの者が一旦帰宅していた。多鶴子姉夫婦がお泊りをしてくれるとのこと。
「昨日な、期日前投票で左京区役所に走って行ったんや。その帰りに病院に寄る予定やったんやけど、雨がザーザー降ってきて、寄らんと帰ってしもてん。帰ってそれが心残りやわ。」
「そんなもん、気にせんとき。」
泣き虫弟とちがって、多鶴子姉はいつも強い。
1時前までしゃべっていたのだが、あとは姉夫婦に任せて帰宅した。
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1月30日(木)、東京に単身赴任中の廉が帰ってきてくれた。(真樹は沖縄なので、「帰って来なくていい」ということにした。)
廉が帰ってきたら、さっそくきくちゃんをかまってくれた。
これは「ハブ巻き」。
きくちゃんもうれしそう。これで長生きできるわ。
私は兄に頼まれた「父の写真」を探してプリントアウト。これがけっこう時間がかかった。
ヒマを見つけてちょっと走りに行ったろうと思っていたが、さすがにお通夜当日は無理でした。
午後7時からお通夜。
なんと立派な祭壇なこと。
でも、数え「百歳」の父にはこれくらいがふさわしい。
「孫一同」からのお花には、廉と真樹も入っている。
孫は14人、ひ孫は25人らしい。(孫は全員の名前が言えるが、ひ孫は無理。)
受付には、私のまたいとこにあたる春嗣さん(じんろく)と宗明さん(そうは)、そしてうちの廉。我が家からお役に立てる要員が出せてよかった。
「あっ、戒名の中に『俊子』の『俊』が入っとるわ!」
私が一番に気づいた。
父の戒名は「善峰俊英居士」。「善一」の「善」と(私の母)「俊子」の「俊」が仲良く入ったいい戒名だった。
最後のお礼のごあいさつも、さすが兄。
言うことなしのいいあいさつだった。
そのあと別室で会食。
「兄弟4人で撮っとき」と言われ、お言葉に甘えまして。
私の左へ、8歳上のみき江姉、7歳上の優三兄、4歳上の多鶴子姉。
「父に似てかっこいい者はだれもいない」とよく言われる。
孫最年長の淳。もう49歳だそうだ。
Vシネマの男優感がすごかったのでいっしょに写真を撮ってもらったのだが、「いいお父さん」にしか見えません。
もう一枚撮り直したのがこれ。
この写真はなかかな強面感が出ている。
なんちゃって、私にとっては一番かわいい甥です。
控室に戻り休けいしていると、「棺桶のふたがずれとる」。
「ああ、さっきまあちゃん(私の姪)がふたごとあけて、おじさんさわっとったわ。」
「なんちゅうことすんねん。」
本人にくわしく聞くと、しっかりとした考えがあった上での行動とのことで感心した。死がどういうものであるかを、子どもたちにしっかり感じさせてやりたいとのことだった。
甥や姪と話す機会はあまりない。こんなときこそ、しっかりしゃべっとかなあかんね。
今夜は、優三兄夫婦と多鶴子姉夫婦が泊まってくれる。私も一応泊まる用意をして行ったのだが、用なし。先に帰っていたヨメさんにお迎えに来てもらい帰宅。
もちろん、私の用事はきくのお散歩。
ちょっと前までしたばっかり向いていたきくが、顔を上げて歩いてくれることがうれしい。
ほんまにほんまに、きくには長生きしてもらわな困る。
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【RUN】
1月30日、葬儀当日。
朝から左の耳の下が腫れる。ものが食べづらい。
「お医者さん、行ってき―」とヨメさんに言われたが、そんな時間があるんなら走りに行こ―。
10時、ちょっとでも走ろうとスタート。
一応喪に服して、黒いウインドブレーカー上下で(?)。
いつもの十王堂橋往復5km。
すれちがう叡電の車両も、喪に服して(?)深緑色。
5km、28分03秒。
ゆっくり走るつもりだったのに、そこそこ速く走れた。
今日からやっと冬らしい天気。
雨が降っていたかと思えば晴れ。そしてまた雨、晴れ、雨、晴れ。
そんな天気もまた、葬儀の日の印象として残るんでしょうね。
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1月30日午後1時半より葬儀。
(注)もうちょっと、続きます。
29年前の母の葬儀は、いなかの家で行ったので500名以上の方が来てくださった。雪の中大変だった。
今回は親族と町内以外はご遠慮願ったということで、100名程度になるらしい。いなかからは、マイクロバス2台で来ていただくとのこと。
今日の受付には、彩ちゃんにも入ってもらった。
うちの親族の中では、一番受付にふさわしいかも。
「焼香のお香には何が使われているか」があとで話題になった。
「あの七味みたいなやつなあ・・・。」
◇ ◇ ◇
焼香で使われる抹香とは
香木を刻み混ぜ合わせた供香のことで、直接火種にくべて焚く他、火種として使われます。混ぜ合わせる香木は基本的なもので5種類あります。
白檀(びゃくだん)熱帯性常緑樹で甘い香りが特徴で、サンダルウッドと呼ばれています。
沈香(じんこう)香木の中で高級とされるジンチョウゲ科の沈香樹から摂れる香木です。
丁子(ちょうじ)フトモモ科の常緑高木で、クローブと呼ばれています。
鬱金(うこん)ショウガ科の多年草で、根茎を乾燥させて使います。
龍脳(りゅうのう)龍脳樹の樹脂から摂れる塩状の結晶で、ボルネオールと呼ばれています。
その他、甘松香や安息香が、かつては使われていましたが、現在は樒(しきみ)が使われています。
また、10種類以上を配合しているものがあり、等級の目安として使うことがあります。
父のスライド上映。
私が撮った餅つきの写真も採用してもらえてよかった。
今日は、宗仙寺の一番偉いお坊さんが来てくださったそうだ。
兄・優三からお礼のごあいさつ。
昨日のお通夜の時とまたちがうあいさつで、すごくよかった。
参列者の写真もちょこっと。
孫とひ孫なんで、いいですよね。
棺にみんなで花を入れて行った。
最後にご住職も。
真樹は沖縄なので無理やったけど、うちからはヨメさんと廉彩夫婦が参列できたのでよかった。
最後の花束は、ひ孫代表の二人が。
そのあと、山科の火葬場へ。
棺といっしょに、喪主・優三、遺影・みき江、骨壺・廣司が車に乗って行った。それ以外は、マイクロバスで。
火葬場は撮影禁止なので写真なし。
帰ってすぐに初七日の法要。
そのあと「藤井善一を偲ぶ会」「になった。
参加者は極々身内の20名ほど。
(藤井善一を偲ぶ会で)
善一の次男の廣司です。父が34歳、母が30歳の時の子で、今64歳です。
父のことで一番心に残っているのは、私が小学1年くらいの時のことです。そのころ牛を飼っていて、田んぼを耕すのに使っていたんですが、「まんきがさす」といって突然暴れ出すことがありました。
うちの家から30mくらいのところに田んぼがあって、居間からそこが見えます。ある日その田んぼを見ていると、牛が暴れ出し、父が牛の角を捕まえておさえつけていました。ビックリしました。すごい力やなあと思いました。
それともう一つ。
父が農協に勤めていた時のことです。私が小学校の低学年の時だったと思いますが、一晩で1m近くの雪が積もったことがあります。
学校は休みになったんですが、父はその1m近く積もった雪の中を、ただ一人で農協に向かってガシッガシッと歩いて行きました。その後ろ姿は今も忘れられません。
この二つは今まであまり人には言っていない話ですが、こんな父をずっと誇りに思っています。
つ 今日は棺おけに手紙を書いて入れようと思っていました。でも、忘れてしまいました。
「おじいさん、お散歩に連れて行ってくれてありがとう。えりより」と書こうと思っていました。えりというのは、10年以上前に死んだうちの犬です。
私らに用事があっておじいさんに散歩を頼んだとき、えりを迎えに行こうと思ったら、遠くの田んぼの下の方からおじいさんがえりを連れて上がってきたんです。散歩を頼んでも適当にしておくと思っていたのに、こんなたくさん散歩してくれたんやとうれしくなりました。父の意外な一面を見た気がします。
以上です。
父の思い出はいいことばっかりでいやなことは一つもありませんでした。
参加してもらった中の最高齢は父の弟夫婦だが、その次の年配者に当たる春嗣さん。最初のごあいさつをしてくださった。
お料理とヨメさんの写真。
横にいた兄が、「いっしょに撮っといてもらおう」と入ってきた。
兄がほとんど残していたのを、ヨメさんが心配していた。喪主が大変で、食べる気にならへんかったのかもしれん。
うちの本家から克己のおっちゃん(私のまたいとこ)が来てほしいところだったが、代わりに次男の和彦君が来てくれた。なかなかいいお話をしてくださった。
遺影と共に、お骨の横で記念撮影。
バタバタとした3日間だったが、これで一区切り。
29年前に母が亡くなった時は、「まだ父がいるのでだいじょうぶ」と思っていた。でも、もうこれで私の後ろにはだれもいない。
29年前までは「善一・俊子の息子」を前面に出し、そのあとは「善一の息子」で大きな顔をさせてもらった。
「これからは『優三の弟』で世の中渡って行こうかなあ」と言うと、兄は笑っていた。
「自分の力で生きられんのかい!」
思っていたより早く帰れて、きくちゃんも何事もなく無事だった。
長めのお散歩にも行けてよかった。
きくはまだ15歳にもなってへんのやから、まだまだ長生きしてもらわんとね。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 1 )
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コメント
義妹の告別式に写真撮ろうとしたら義弟がダメと・・
よくこんなにたくさん撮れたもんだと・・
記憶は遺すものなのに・・
ブログもしてない人には・・記録撮りの意義も理解されんような・・1枚、1枚に・・思いだされる父と母の告別式を・・
お疲れ様でした・・それにしても こんな時に走らんでもと・・