2019年01月12日(土)
「チマチョゴリ」 [演劇]
◎朝日新聞1月9日夕刊・葦−夕べに考える−
門出の一人芝居「チマチョゴリ」 中野晃(論説委員)
大阪朝鮮高級学校に通う姜河那(カンハナ)さん(18)には、ふたつの「制服」がある。校内で着用する民族服のチマ・チョゴリと登下校時に着替えるブレザーなどだ。
「チョゴリは朝鮮学校生のあかし。そのままで通学したいですが、怖さも感じます」。姜さんの言葉に、はっとした。
1990年代、北朝鮮の核開発疑惑などが浮上するたび、無関係の朝鮮学校生が各地で登下校中に暴行されたり、制服を刃物で切り裂かれたりした。99年ごろから通学用の「第二制服」が導入されて約20年。社会の排他的な空気はよどみ、朝鮮学校生が感じる「怖さ」は増す。
姜さんは幼い頃から、母が主宰する在日コリアン劇団の公演で日韓の舞台に立った。韓国で難関の国立芸術系大学に合格し、春にはソウルでの生活が始まる。
「演じることで社会を変える」俳優になるのが夢。旅立ちを前に、母の体験もこめた一人芝居に地元で挑み、訴える。
「堂々とチマ・チョゴリが着たい」
公演は11、12日の計3回、東大阪市立荒本人権文化センターで。問い合わせは「劇団タルオルム」へ。
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昨日から今日の朝にかけて、寮2の24時間バイト。
恒例、朝日・日経の2週間分のチェックをしていた。
その時私の目に留まったのが、「門出の一人芝居」の見出し。
「チマチョゴリか・・・。」
現在朝鮮高級学校3年のカン・ハナさんが演じる。そしてこの春ソウルの大学に進学され、たぶん当分日本には戻られないだろう。
ここまで読んで、「こら、行かな!」と思った。
今日は明日の「武庫川新春ロードレース」出店の荷物積み込みをしなくてはならないのだが、13時からの公演の分なら何とか行けそう。
うちから会場である東大阪までを調べると、バス・地下鉄・近鉄を乗り継いで1時間50分くらい。車で行くと1時間10分くらい。近くにコインパーキングがあるかどうかは分らなかったが、車で行くことにした。
10時40分くらいに家を出て、第二京阪を通って東大阪市へ。実際、1時間10分で到着。お昼ごはんを食べる時間があったので、近くのラーメン屋さんへ。
会場の「東大阪市立荒本人権文化センター」に戻ったのは12時半ころ。
受付に行くと、ほとんどの方が事前予約で、当日受付はほとんどおられなかった。(私が当日1番で、そのあと2名のみ。)
「事前予約の方が先に入場されて、当日受付の方はそのあとの入場になります。もしかしたら座れなくて立ち見になるかもしれませんが・・・。」
「(股関節炎で立ち見はきついなーと思いつつ)、あっ、全然だいじょうぶですよー。」
事前予約の方々が次々と。受付をされている方たちのお知り合いの方が多い。私のように京都からの参加なんて異色のようですね。
ひと通り入場されたあと、「当日受付の方、どうぞ―」と招き入れられたところは一番前のかぶりつき。地べたに小さなざぶとんが敷いてある。
「おっ、これは意外といい場所かも・・・。」
◇ ◇ ◇
会場でいただいたチラシより
「劇団タルオルム 一人芝居 『チマチョゴリ』」
作・演出/金民樹 出演/姜河那
私の名前はカン ハナ。朝鮮学校に通う高校3年生。―――――――――――私たちには、制服が2着あります。
母から聞いた、昔本当にあった話や、近所に暮らす在日コリアンのおばさんの話など、チマチョゴリにまつわるエピソードを織りまぜながら、18の少女の想いを綴る、小さな小さな一人芝居
■劇団タルオルム
日本語と朝鮮韓国語で芝居をするバイリンガル劇団。大阪を拠点に活動しながらも、日本全国にある朝鮮学校や、日本学校での公演を精力的に行っている。韓国国内での招聘公演も多数。主に在日コリアンのルーツを辿る作品や、伝統文化の歌や楽器を取り入れた作品を創作している。
◇ ◇ ◇
午後1時、まず最初に主催者からのごあいさつがあった。あとで、カン ハナさんのお母さんがこの劇団の主催者であることが分かった。あの方がお母さんだったのだろうか。
そして、一人芝居「チマチョゴリ」が始まった。
暗闇から出てきてスポットライトを浴びたカン ハナさんは、チラシの何倍もかわいくて美人。しかし、「63歳のジジイが、18歳の女子高校生を凝視していいものだろうか」という気持ちになった。凝視はできない。沖縄で言う「すーみー(チラ見)」ですね。
内容については、もう何も言うことなし。素晴らしかった。どう素晴らしかったかは、見てもらうしかない。
高3の子が一生懸命演じているだけでも◯。それが自分や自分の家族に深くかかわるテーマであることも◯。
ええもん見せてもらいましたわー。
ただ誤解してほしくないのは、アマチュアががんばっていたという評価ではない。きっちり観劇料を取るプロとしていい評価を与えたい。
私なりに考えた評価の観点は、「感情表現の上げ下げ」と「間の取り方」。このどちらも高い点があげられると思う。
公演後のアンケートに、「ソウルの大学に進学されたら、あまり日本に戻られることないかもしれませんが、戻られてまた演じられるときには必ず見に来ます」書いておいた。
その日を待ってます!
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2018年06月09日(土)
田中泯 × 中村達也@京都美山・ゆるり [演劇]
2018年6月8日/6月9日 田中泯(ダンス)+中村達也(ドラムス)京都公演のご案内!
芒の植え付け/踊り場・叩き場
田中泯meets中村達也
地球のいのち、芽生え、悦び、讃歌を謳うことを願い、<土>を耕し<種>を蒔く。農民のように、その<産土の場>に<種>を蒔く。
いのちの捧げものとしての情動は、<うぶすな神>となって、時に迦陵頻伽となって火の輪をくぐり、時に竜神となって海原を走る。<息する惑星>を取り戻すために。
身体という森羅万象を抱えて土に向かい、<踊り>と<農業>を同義語とする田中泯と、巨と微を行き交い、<時空>を呼び起こすドラマー中村達也の<身体パフォーマンスと演奏>の10年続くプロジェクトであり、2018年度の新たな京都版プロジェクト!
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肩書きについて|about BUTOH
★田中泯の関する全ての肩書き表記についてのご理解とご協力をお願い申し上げます
田中泯は長いキャリアの中で、主に1980年代〜90年代 暗黒舞踏の創設者である土方巽に敬意を表し「舞踏公演」と銘打ったパフォーマンスを行ったことは過去に多数ございます。しかしながら、土方巽の死後 国内外問わず急速な発展を遂げてきた一つのジャンルとしてカテゴライズされた舞踏に一切の関心をもってはおりません。残念ながらこれらのことを発言し続けてきたにもかかわらず、誤った表記として『BUTHO舞踏家(ぶとうか)』または最近では『俳優』の表記もございます。近年では 本人の希望により、表記が必要な場合はすべて『ダンサー』、もしくは「舞踊家」とさせて頂いただいております。よろしくお願い申し上げます。Madada Inc.
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今日、私は寮の管理代行のバイトから朝帰り。
また、きくちゃんがしっぽブンブンでお出迎え。
家にも上がらず、そのままお散歩へ。
美山で舞踊を見るので、家を11時には出発したい。
そのため急いで商品の積み込みなのだが、例によって例のごとく、きくちゃんのじゃまし。
何とか11時ちょっとすぎに出発。
きくも、車に乗って出張に行くのに慣れてきたようだ。
かやぶき民家を改造した「ゆるり」さんに到着すると、車と人があふれていた。
駐車場はもう一杯だったので、3kmほど離れた旧鶴ケ丘小学校へ。
その臨時駐車場から会場まで車で送ってくださったのは、地元の下中さん(35歳くらいの男性)。
「今車を停めさせてもらったのは、小学校ですよね。」
「そうですけど、3年前に統合で休校になりました。」
「そうなんですか。たくさん子どもさんがおられるように見えましたけど。」
「私も子どもが3人いるんですけど、5校が1校に統合してそこに通っています。」
「5校が1校? ということは、だいぶ遠くまで通わんならんですね。」
ヨメさんが、自分らの子も統合を機に転校したことなどを話した。
美山は162号線で京都市に出るので、「花脊別所」と言ってもあまり詳しくは知っておられなかった。
「美山と言えば、私の時代には北星中学校という中学校がありましたけど・・・。」
「とっくの昔になくなりました。ひょっとして、60ちょっとくらいですか。」
「62です。」
「私の父が61で、北星中学校出身です。」
1992年4月,美山町立北星中学校、美山町立八ヶ峰中学校の2校を統合し、美山町立美山中学校開校(北星中学校の校地を使用)。
なるほど、これで下中さんのお父さんが北星中学校出身で、下中さんが美山中学校出身ということか。
「よく北星中学校を知ってられましたね。」
「名前がかっこいいから覚えてたんです。」
こういう時、私の雑記憶が役立つ。小学校から会場まで車で10分もかからなかったが、下中さんと話せてよかった。
まずは昼食。
「ゆるり」さんは、ふだんはちょっと高めのお食事処。しかし、今日は特別メニュー(1000円)で3種類の昼食を用意してくださっていた。
会場は30人規模と書いてあったのだが、私らが到着した1時ころですでに50人は超えていた。そのため、残っていたのはジビエカレーのみ。
鹿の肉が入っているカレーらしいが、カレーに入れたらどの肉もそう変わらん。
いい景色を見ながらおいしくいただいた。
あれよあれよという間に人が増え、確実に100人は超えていた。
天気はよかったのだが、風があり、Tシャツ1枚の私は寒くて仕方なかった。
予定では、2時30分から2時60〜70分。
一人舞踊を延々と1時間というのが想像もつかなかった。
2時30分、ドラムの中村達也さんが出て来られ、静かに演奏が始まった。
そしてその5分後くらい、外の池があるの右手から、着物を着た田中泯さんが登場。静かな静かな舞踊が始まった。
ドラムと舞踊が見事にマッチして、静かな動きではあるが見入ってしまった。
この間、写真を撮ってはいけないと思いおとなしくしていた。
しかし、田中泯さんが池のほうに出られてから会場の雰囲気は一変。
あの静かな動きだった田中泯さんが、樋から流れでる水を頭に浴び「踊り狂う」。
そこで歓声が上がり、一斉に観客のカメラが動き出した。
「これは撮ってもいいんですね」と判断し、私も撮影させてもらうことにした。
水をかぶった田中泯さんは別人になった。
つつじの花壇に顔を突っ込んだりして、大暴れ。
ずぶぬれになった田中泯さんは、家に入られてから、床に滑って倒れられた。これは舞踊ではなく、本気倒れだと思う。
最初の静かな動きが1時間続くのかと思っていたので、後半の展開は目を見張った。
最後のほうに、「うごごがうぎがー」みたいな呪文のような言葉が。あれがどういう意味だったかが気になる。何をおっしゃっていたんでしょうね。
一番最後に、観客席にいた小さな男の子が呼びだされドラムをたたいた。ドラマーの中村達也さんと同じ名字だったので、息子さんかと思った。でもそうではなかった。すごい子が見に来ていたものだ。
田中泯さんは、錦戸亮主演の映画「羊の木」に元やくざの役で出られていた。その時にすごくいい印象が残っていた。
京都新聞にこの公演の紹介記事が出ていた。「みかた残酷」の行きしに立ち寄れる場所・時間だったので、軽い気持ちで予約していた。しかし、思っていた以上に値打ちがあった。
また機会があれば見に行きたい。
運転手だけ、また小学校まで送ってもらった。
きくちゃんは、2時間ほど待ちぼうけ。
中途半端な時間に待たされた経験がないので、なぜ待たされているのか分からなかったようだ。
4時ごろ、会場を後にして「みかた」へ。
ほんとうは出店の準備をしに行きたかったのだが、もうだいぶ遅くなってしまったので直接宿へ。
毎年お世話になっているハチ北スキー場前の「さかえ」さん。
きくちゃんの晩ごはんをやって、かしこう寝とくよう言い聞かせて。
きくちゃんは、そんなことよりとにかくごはん。ひとの話はいいかげんにしか聞いていない。私といっしょ。
夕食はすき焼きか鴨鍋が選べた。
私はすき焼きがいいと言っていたのだが、ヨメさんは鴨鍋でお願いしていた。夜はだいぶ冷え込んでいたので、この選択は正解だった。おいしい鴨鍋、ありがとうございました。
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2016年08月27日(土)
「日輪の翼」高松公演 [演劇]
◎毎日新聞8月16日夕刊・ニッポンへの発言
キーワード 中上健次の熊野へ!=中森明夫
中上健次は戦後生まれ初の芥川賞作家だ(1975年度下半期に『岬』にて受賞)。92年、46歳で亡くなった。今年は生誕70年である。彼の故郷、和歌山県新宮市へと行った。中上が創始した自主講座・熊野大学のセミナーに参加したのだ。
中上健次は私にとっても特別な作家だ。10代の頃、家出先のアパートで『十九歳の地図』を読んだ。そうして、私が生まれて初めて対談した作家でもあった。85年春、私は新人類と呼ばれる25歳で、ひと回りも年上の中上は仰ぎ見るような大作家だった(体格も立派だった!?)。強面(こわもて)、暴力的な伝説も数知れず、殴られるんじゃないかとビビった。『平凡パンチ』の対談で、会うと、なぜか気に入られ「おまえは小説を書ける。書けよ、絶対!」と言われた。その夜は新宿の酒場でハシゴして、帰りのタクシーの後部座席で手を握られ「どうだ、『文学界』新人賞を取らしてやろうか?」と言われて、面食らった。「文学をやれよ、文学を」と何度も私に言った。
私が純文学雑誌『新潮』に小説『アナーキー・イン・ザ・JP』を発表したのは2010年、50歳になっていた。すぐに中上健次の顔を思い浮かべた。この夏、初めて訪れた中上の故郷・熊野。高台の緑に囲まれた墓地へと行くと、ゴツゴツした巨岩の真ん中に自筆の署名がある。あのゴツゴツした風貌のやさしい瞳をした男を思い出した。手を合わせ「中上さん、あなたは僕にとって文学そのもの(、、、、、、)でした!」と呼びかけた。
今年の熊野大学・夏期セミナーは盛況だった。<次世代へ>と題され、新・芥川賞作家の村田沙耶香や若い映画監督の山戸結希らが参加した。山戸監督の新作「溺れるナイフ」が上映された(原作の人気少女漫画は中上作品の影響が色濃い)。初日、田中康夫と浅田彰の「憂国呆談」に飛び入り出演して、翌日、渡部直己と浅田彰との鼎談(ていだん)に臨んだ。テーマは<『日輪の翼』をめぐって>。中上文学の重要な主題に“路地”がある。『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の3部作は故郷・熊野の“路地”が舞台だ。血が沸騰するような豊饒(ほうじょう)かつ過剰な物語的空間としての“路地”−−しかし、それは消滅する。『日輪の翼』は、そんな熊野から飛び出した冷凍トレーラーによるロードノベルだ。運転するのは色男の若衆、荷台には7人の老婆らを載せて日本中を旅する。若者と老人、都市と地方、日常と非日常の境界を突っ切る破天荒な物語だ。“路地”はこの世のどこにでもある! そんな中上のメッセージに心躍った。
その夜、新宮港に近い緑地に本物の巨大トレーラーが到着した。荷台が大きな翼を広げると、老婆らが、若衆が、女たちが、異形の者らが、次々と現れる。アーティスト・やなぎみわ演出による野外劇「日輪の翼」だ。やなぎは台湾から運んだ巨大トレーラー(移動舞台車)を走らせ、日本中で公演を続け、遂(つい)に中上の故郷・新宮での上演を実現した。その夜の野外劇は圧巻だった! 中上文学を大胆に換骨奪胎して、老婆らが歌い、若衆が踊り、女たちが艶めき、熊野の夜空を背景に曲芸を披露した。お祭り好きの中上健次が観(み)たら大喜びしたことだろう。生前の中上の『アンコ椿は恋の花』の歌声が流れた時は、ウルッときた。
被差別部落に生まれ、日本中の辺境の地を旅して、韓国へも飛んで、死ぬまで物語を紡いだ中上健次。彼の文学は、マイノリティー(少数者)やマージナル(周縁的)なものの持つ豊かさに満ちあふれている。熊野の森や川、青い空の向こう側から、そんな中上の心やさしい視線によって見つめられている気がした。
ヘイトスピーチやネット右翼、タカ派政権、相模原での凄惨(せいさん)な事件……マイノリティーの声が押しつぶされてゆくこの現在を、彼が存命なら、どう語ったことだろう? 夏の熊野でもらったそんな宿題を、決して手放すことなく考えていこうと思った。作家・中上健次の“路地”は、はるか未来に向けて開かれている!(コラムニスト)=毎月第3火曜掲載
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カプセルホテルの駐車場に車をとめ、高松港へ。
港付近は大きな公園になっている。
どことも犬のふんで困っておられるんですね。
6時13分、ヨメさんにメール。
「会場入り・・・座るとこないと思って組み立てイス持ってきたのに、立派なひな壇がありました。でも、雨が降ったらムリ。まあまあの人出。」
6時30分開演で9時まで。途中2回しぐれたが、なんとか持ちこたえた。
内容については・・、どう言っていいいのか。
まあ、すごいのひと言です。これで3500円は安すぎる。絶対赤字やと思います。
最後のほうの「リオのカーニバル」ふうの場面は、私が三途の川を渡るときに繰り返し頭に浮かんでくるやろうと思った。
「あー、頭の中がチンチラポッポ・・・。」
最後に演じられていた役者さんがそのまま大型トレーラーを運転して会場を去り、それで終演。かっこよすぎます。
また歩いてカプセルホテルまで。
高松がどんな町なのかよく知らないが、カプセルホテルはほぼ満室。
10時11分にまたヨメさんにメール。
「お疲れさまです・・・お仕事お疲れ様です。今カプセルホテルに帰って、ふろに入って、晩ごはんを食べているところです。日輪の翼、よかったです。ただ、説明ができません。ボクにふさわしい演劇であった、というくらいしかないかな。
きくちゃん元気ですか。あしたはいっぱい散歩に行きます。」
あまり綿密な計画を立てず思い付きで出てきたけれど、最近まれにみる充実した一日になりました。よかった。
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2008年06月23日(月)
「族譜(チョッポ)」 [演劇]
6月21日午前中、関大千里丘キャンパス内を走った後いったん市原の家に帰り、昼ごはんを食べてまたすぐ出かけた。京都市呉竹文化センター(丹波橋)で上演される、「族譜」を見るためだ。
私の今までの人生で一回しか演劇を見たことがなかったのに、今年に入りもう二回目。
きっかけは、新聞記事。(6月12日、京都新聞)
「創氏改名」テーマ
劇「族譜」関西公演 京都は21日
植民地時代に朝鮮民族に対して日本式の姓名に改めるように推し進めた創氏改名をテーマにした劇「族譜」が16日、堺市民会館(堺区)を皮切りに、関西地区7カ所で上演される。
ソウル生まれの作家、梶山季之(1930〜1975)の原作で、日本が韓国を併合していた時代、創氏改名を受け入れるよう朝鮮人地主を説得する日本人青年が、地主から一族の家系図や出来事を記した「族譜」を見せられて断られ、苦悩していく物語。韓国では78年に映画化され、劇団「青年劇場」(東京)がジェームス三木さんの脚本・演出で一昨年に舞台化した。
ジェームス三木さんは「重いテーマだが、まずその事実を知ることが日韓の文化交流を深めることにつながる」と言う。公演予定は、・・・(略) 【池田知隆】
会場は満席。立ち見が出るほどだった。
年代層も、年配の方が多かったが若い人もおられた。さすが京都。歴史認識、差別や人権問題に対する姿勢も他府県とは違うと感じた。鑑賞中もすごい集中力で、客席の全員が舞台を凝視している感じがした。
一つだけ残念だったのは、自由席だったため後ろから3列目だったこと。私は視力がよくないから、もっと前の席を確保すべきだった。4月の「月のまぴろーま」は、前から6列目だったので役者さんのツバが飛ぶところまで見えた。息づかいまで感じられる距離だった。
演劇のいいところは、映画とちがい撮りなおしができないところ。ツバが飛んだり、いいまちがいをしたりするのもいい。1時間上演、15分休憩、1時間上演というのもパターンなのかな。
さて、内容は・・・。
重い。
日本人の本質を問われる内容と言ってもいいと思う。
韓国の歴史教科書で、過去の日本に対する怨みのような内容が書かれているらしいが、それが理解できない人はぜひこの劇を見てほしい。
何度も何度も、朝鮮の地主の「強制ではないですね。」と言う言葉が出てきた。強制ではないが実質強制と同じ。
あれっ? これって、今学校で強制されている日の丸・君が代といっしょやん。東京なんかひどいもんなあ。そうか、時の権力者は、いつの時代もこんな手を使うのか。
「逆の立場であれば、どうですか。」これも、何回も出てきた言葉だ。
「もし逆であれば・・・」
日本語の強制、天皇崇拝の強制、そして日本名の強制・・・。
「相手の立場になって考えてみること」。これは、今までの日本人がしっかりできていなかったことだと思う。ずっとずっと島に住み、鎖国をしていた影響が今も続いているのだろうか。
どんな目にあわされても絶対に名前を変えないという信念を押し通していた地主・薛鎮永(ソルヂニョン)。3人のかわいい孫たちが学校に通うことを拒否され、ついに改名届けを出してしまう。そしてその直後、井戸に身を投げ自殺。(この自殺の部分は実話だそうです。)
最後に薛鎮永(ソルヂニョン)の娘・玉順(オクスン)の強烈な言葉があった。
「やさしい日本人が、突然野蛮に豹変する時がある。それは、いつも『愛国心』という言葉をきっかけに。」
この言葉は、よく噛みしめなければならない。「愛国心」という言葉、今どんな場で出て来ています? こんなものを強制する時代が幸せであったかどうか、今までの歴史から学びましょう。
◎余談。
薛鎮永(ソルヂニョン)の娘・玉順(オクスン)役の女優さんが、すごく印象に残った。若々しく美しくて、そのよく通る声は、見ている人たちの胸を揺さぶった。
その時は、若手で実力のある女優さんがおられるのだなあと感心して見ていた。
家に帰ってから、プログラムなどで調べてびっくり。
その女優・佐藤尚子(たかこ)さんは、うちのヨメさんより一歳上。つまり、実年齢のちょうど半分くらいの結婚前の娘さんの役をやっておられたわけだ。(入団27年目の大ベテランさんでした。)
これも、舞台ならではの醍醐味ですよね。
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2008年04月19日(土)
「月のまぴろーま」 [演劇]
このブログは、一応カテゴリー別に分けてある。
今回は、「演劇」。(めずらし!)
劇場に行ったのは、今まで一度だけ。たぶん25年くらい前。(京都会館)
筒井康隆の「ジーザス・クライスト・トリックスター」。これはおもしろかった。聖書のパロデイで、「クリスチャン見たら、めちゃくちゃおこんでー」という内容だった。
このサイクルでいくと、つぎに演劇を見るのは77歳。もう、死んどる。ということは、カテゴリーに分けるほどでもなかったか
この「月のまぴろーま」も、羽根田さんのブログに紹介してなかったら、題材が鳩間島でなかったら、文化座の座長が佐々木愛さんでなかったら、東京まで見に行くことはなかっただろう。
会場である俳優座劇場は、外から見るとこじんまりした感じだった。ひっそり落ち着いた気持ちで見られるのかな、と思いながら入ってビックリたくさんの花々。
「へー」と思いながら客席へ向かうと、なんかへん。若い人がまったくいない。どう見ても60代、いや70代のほうが多いかも。
「鳩間行ったことある人は、この中に何人いやはるやろう?」
私の席は、6列の2番。左端ではあったが、かなり前のいい席だった。
舞台が始まった。
森口 豁「子乞い」の原作に忠実な出だしだった。
鳩間の小学校から子どもがいなくなる。子どもがいなくなり、学校がなくなれば、島自体が消滅。それを防ぐために奔走する人々、また逆にその不自然な動きに反発する人。
最初の問題は、生産組合の3人の仲間割れである。主にかぼちゃを作る生産組合の話は、原作にも書いてあった。
舞台では、生産性にこだわる富永とのんびりしている他の2人との摩擦が大きくとりあげられていた。
「この島の人間はだれも人に勝とうという努力をしない。だから、みんないやになって出て行くんだ。」というようなことを言っていた。
のんびりした2人がトラクターをこわしてしまい、チヨおばあから借りた簡単な工具で修理しようとした場面があった。
富永「なおったのか。」
2人「それが・・・」
富永「おまえら!いいかげんにしろ!」
おばあ「なにー、今日はダメでもあしたはきっとなおるさー。」(もちろん、この役が佐々木愛さんです。)
ここで、涙があふれてしょうがなかった。
こう言ってもらえたら、救われる子どもが何人いるだろう。いや子どもだけでなく、大のおとなでも。
ちょっと気になって客席を見てみたが、誰も泣いてるふうはない。ここ、ええ場面やと思うけどなあ。
話ががぜんおもしろくなってきたのは、原作にはなかった詐欺師・稲村一也の存在だ。
鳩間ではないが沖縄のどこかの島で、指名手配犯が長く暮らしていたというニュースを聞いたことがある。その話をヒントにされたのだろうか。
実際、沖縄を食い物にしているヤマトンチューはいっぱいいる。しかしあの稲村のように、沖縄の人たちの心にふれ、自分の考えを変えていく人間はいったいどれくらいいるのだろう。
だまされ裏切られ続けても、決して心のすさむことのない沖縄の人々。うまく演じられていた。
最後の方に、チヨの夫・徹が言っていた。
「この島には、勝ちも負けもない。あるのは、ひとりひとりを大事にする気持ちだ。」
人間としての基本中の基本。これが今、忘れ去られようとしている。学校も、どうだろう?
舞台が終わった時、「もう一回見たい」と思った。たった11日間の公演とは、もったいない。
さすがプロの演劇はすごい。引き込まれた。
小学校存続の話なのに、子どもは話題として出るだけだった。それが、全然不自然ではない。十分演技でカバーできていた。
舞台は、宮里家(チヨ夫婦の家)の表と港へ続く道だけ。これで十分だった。
小中学生が劇をする時、背景や小道具にこだわりすぎるのも考え物。それは、演技に自身がない証拠かも。
自分が興味のあるテーマで、しっかりした劇団の公演なら見る価値あり。
25年後と言わず、1年に1回くらいは見に行ってもいいかなあ。
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