パオパオだより

2009年08月15日(土)

1945年8月15日 [平和]

 3年前、私は、私の子どもたちが通っていた別所小・花背一中のPTA広報部長をしていた。そのとき発行していた「PTAだより」の8月号に、私の父のことを載せさせてもらった。そのときの私としてはがんばって書いた記事なので、読んでください。

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 日本の夏、8月と言えば、広島・長崎そして終戦記念日。
 終戦後61年、別所でも、戦争(戦地)体験者の方がずいぶん少なくなりました。うんぱの物部秀雄さん、きょうもんのいんきょの物部好孝さん、たひちの藤井征造さん、そして私の父・藤井善一(かんろくのいんきょ)。

 今年の8月15日、私は、たまたまあの話題の靖国神社に行く機会がありました。
 夏休みに息子とヤクルトの試合を見る約束をしていたので、ついでに東京であるマラソン大会をさがし、参加しました。わずか5名の参加でしたが、皇居や靖国神社などを走るユニークな会でした。
 正午の時報に合わせて1分間の黙祷。その1分間に考えたことは、終戦の日、父と母は何をしていたのだろう、ということでした。
 母は、久多か別所のどちらかで小学校の先生をしていたはず。でも8月は夏休みだし、小野郷に帰省かな。
 父は、中国で戦闘の真っ最中(?)。私が小学生のころは、父からよく戦争中の話を聞いたのですが、その後40年ほどはその機会がありませんでした。一番身近な所に戦争体験者がいるのに、話を聞かないのはもったいない。皇居の周りを走りながら、そんなことを考えました。

 そして午後1時過ぎに、靖国神社へ。
 小泉首相は早朝に参拝をすまされたと聞いたので、どんな様子かなと思ったら、ビックリ!人、人、人で、前に進むのもたいへんな大混雑でした。参道では、教科書で学ぶ内容とはかけ離れた歴史観を主張する声、ビラ、看板。「何でこんなににぎわってるの?」 靖国神社は慰霊の場だとばかりかんちがいしていたのは、私だけでしょうか。よく考えたら、神社は神様をおまつりする場。でも、たとえば、藤井克己さんのお母さんは、このごったがえしたような靖国神社を見たら、どう思われるんでしょう。
 帰ったら、父にいろいろ聞いてみようと思いながら、ランニング姿で境内をウロウロ観察しました。

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 私の父は、大正10年(1921年)12月5日生まれ。現在、84歳です。
 昭和17年(1942年)12月に召集され、中支派遣。(中支の中は中央部、支は中国のこと)
 12月20日、京都駅を出発。下関から船で朝鮮に上陸。その後、鉄道で満州を経由し、南京に到着したのは翌18年(1943年)1月8日。
 この時、父も含め多くの人が寒さから肺炎になり倒れたそうです。20歳過ぎの元気な若者が倒れるのだから、そうとうな寒さだったらしい。
 1月10日、南京で入隊式。
 部隊名は、「嵐六二一三部隊(渡辺隊)」です。
 入隊後、隊付衛生兵として教育を受け、南京より西の揚子江沿岸の警備にあたりました。

 その年の7月12日、望江の近くでの戦闘で、右足太ももに銃弾を受けました。片足の力で体をずらしながら後退したので、新しいズボンのお尻に穴があいたそうです。出血もかなりなもので、今でも肉のえぐられたあとが残っています。
 私は小さいころ、父といっしょにおフロに入った時、父のその右足の大きなキズを見てショックを受けました。でも、なぜか私の右足の同じ所にキズがあるのです。「おとちゃんとおんなじとこにキズがある」。戦争の意味がよくわからなかった私は、そのころそう言って無邪気によろこんでいました。一つまちがえば、父の命はなかったのに。

 昭和19年(1944年)からは、さらに西の武昌・油坊嶺地区の警備にあたりました。
 そのころ、戦死者をだびに付すのに歩哨に立たねばならず、肉をねらって出てくる野犬がこわかったそうです。自分が襲われるのではないかと、ビクビクしていたそうです。

 その後、さらに西へ西へと進み、昭和20年(1945年)には宝慶へ。そこからさらに芷江(しこう)へ進む作戦に参加となりました。結局、これが最後の戦いとなり、芷江にたどり着くことなく撤退。8月15日には、川向かいからのスピーカーの声で終戦を知ったそうです。「日本ノ兵隊サン、戦争ハ終ワリマシタ、・・・」

 8月18日、宝慶で復員下令。9月3日、反転。9月30日、岳州で武装解除。
 しかし、実際に復員輸送が開始されたのは、昭和21年(1946年)5月2日です。この間、約7ヶ月は部隊の形のまま、農家の手伝いをしたりして生き延びていたらしいです。寝泊りをしていたのは、戦禍をのがれるため空き家となっていた家を勝手に使っていたそうです。

 6月11日、上海より内地帰還。
 鹿児島に上陸し、そこから京都駅に着いたのは6月21日。鞍馬から別所まで歩いて、ようやく家に着きました。
 そのころ、家は田植えの後片づけで、父の祖母・おヤスばあさん以外は、家から離れた田んぼにいました。父を見たおヤスばあさんは、腰を抜かすくらいビックリしたらしいです。おばけちゃうんか、と。
 うんぱの物部秀雄さんの弟・宇一さん(復員兵)が、「善一さんは戦死した」と言っていたらしく、家の者は皆そう思いこんでいたそうです。
 それでおヤスばあさんが田んぼにむかって、「善一が、かえってきたー」と大声で叫んでも、みんな「おばあ、なにゆうとんね」という感じやったそうです。
 別所に帰ってしばらくは、父の末の弟・清作さん(当時・中1)が、山に行くにも田んぼに行くにもどこに行くにもついてきて困ったそうです。死んだと思っていた兄が帰ってきて、めちゃくちゃうれしかったんやろなあ。私自身も四人兄弟の末っ子なので、清作さんの気持ちがよくわかります。そのことを話す父の顔もほころんでいました。
 父の母・ウメは、父が帰った時どんな気持ちだったんでしょう。生きているうちに聞いておきたかったなあ。私が小6の時、死んでしまったし。今思えば、惜しいことをした。

 戦争中に困ったこと。(戦闘以外で)
 1.しらみにおうじょう。動いている時は気にならないが、寝る時かゆくて眠れない。
 2.衛生兵のため、負傷者の手当て、衣類の洗濯、縫い物など、今までしたことがないことをやらされ苦労した。
 3.食べ物は何とか調達できても、それを煮炊きする燃料がない。松の根っこを掘り起こしたり、防風林の樫の木を勝手に切って持って行ったりした。

 それに、今回、父から初めて聞いた話。
 藤井春嗣さんのお母さんキヨ子さんが、戦中、南京の陸軍病院で看護婦として勤務されていたとのこと。当時、看護婦さんは、父より位が上で敬礼をする対象であったらしい。もちろん、当時面識はないが、敬礼をした先にキヨ子さんがいたことはまちがいない。
 キヨ子さんは、終戦後、病院で知り合った藤井甚六さんと結婚。(父と甚六さんはいとこ) キヨ子さんは、それはそれはべっぴんさんで、別所でも評判になったそうです。
 今度お会いしたら、絶対当時の話を聞かせてもらおう。(できたら、写真も見せてほしいなあ。)

 もう一つ、小さい時、父から聞いた戦争の話で一番心に残っていたこと。それは中国でのことではなく、中国から日本に帰る船での出来事です。もうすぐ日本に着くというところで亡くなった方がいたそうです。(なんて悲しい。)
 その話を最近父に確かめてみて、またビックリしました。亡くなったのは鋸屋教頭先生のご親戚、鋸屋まつさんのご主人でした。もうすぐ日本にと言うより、もうすぐ八桝に帰れるとゆう時に、病気で息を引き取られたのです。
 鋸屋まつさんは、永年、花背第二中学校の管理用務員をされていたので、私のことも知ってもらっているはずです。会って、お話がしたくなりました。

 さて、話は元にもどりますが・・・。

 父の話を聞いていて、映画によく出で来る「靖国で会おう」という言葉は、まったく思い浮かびません。話を聞けば聞くほど、20歳すぎの青年の「生きて、生きて、生き抜こう」という執念を感じます。
 そのことを父に問うと、「死んで人の役に立つのではなく、生きて人の役に立つことを考えていた」という意味の答えが返ってきました。
 藤井克己さんの父・勘六さんの「死んだらあかん」という言葉を守り抜いたような気がしてなりません。
 勘六さん自身は、准尉であり、軍隊の教育係の仕事をされていた立場上、覚悟はされていたようです。小さいながらも後継ぎ息子もいたし。当時まだ結婚もしていなかった分家の長男である父には、本音ではげましてくださっていたようです。
 (沖縄で戦死された勘六さんは、遺骨も遺品もなく、名前が書かれた木の札だけが別所の家に送られてきたそうです。)

 父が、よく言っています。
 「戦争も行ってへんもんが、何も知らんと、何えらそうにゆうとんねん。」
 こんな声も聞いてください、○○さん!

 「おとちゃん。生きてる限り、いっぱいいっぱいしゃべってや。中3の廉や小6の真樹が、自分からすすんでおじいさんの話が聞きたくなるくらいに成長するまで、どうか長生きしてください。」

 また、話を聞かせてもらいに行きます。

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2009年08月14日(金)

きくの受難・その後 [わんこ・にゃんこ]

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右前足関節周辺は毛をそられてハゲハゲ

 きくがかみちゃちゃくったろうとかかって行って、返り討ちにあって早1週間。
 このごろずっといなかで寝泊りしているので、きくの散歩も「事件現場」の近くばかり。私はできるだけちがうコースを行こうとするのに、きくは「仕返しに行かな、どもならん!」と思っているらしく、そっち方面に引っ張っていく。
 「どこまで我が身知らずなんじゃー。」

 おとといの夜から昨日の朝にかけ、真樹は毎年恒例の「雲ヶ畑キャンプ」に参加させてもらった。岩屋橋近くの空き地にテントを張り、中高生を中心にしたキャンプを楽しませてもらったようだ。(夜が明けるまで起きていたらしい。)

 キャンプが終わったあと、あーちゃんのお父さんの車で高山牧場まで牛乳を買いに行ったとのこと。
 高山牧場は、うちのきくの実家(?)。
 真樹は、きくをもらいに行った4年前の5月以来の訪問。

 そのとき、こんな会話があったらしい。

 「真樹ちゃん、きくはかしこい?」
 「うーん、あんまりかしこくないです。」
 「そうか。うちの犬もみんなあんまりかしこくないからなあ・・・。」

 ここで、かみちゃちゃくられた話をしてほしかったなあ。ほんまにいちびりのあんまりかしこくない犬、ということがわかってもらえたのに。
 でも、きくちゃん。顔がめっちゃかわいいし、そんなん気にすなー。

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もう、仕返しはええか

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2009年08月13日(木)

毒針・その後 [雑感]

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 8月5日、6日に刺された蜂は、やはりスズメバチだった。
 巣が見つからないのでちがうのかもとも思ったが、その巣が見つかった。あの松の木の皮のような色。まちがいない!

 家の前にあった自転車置き用のビニールハウス。雪の重さでつぶれてしまい、そのままになっていた。そのビニールをこわごわずらしてみると・・・。

 出たー!
 保健所に電話したが、2週間先くらいでないと駆除にはこられないそうだ。これ以上刺されんように気をつけんと・・・。

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2009年08月12日(水)

伊藤さんとの対話 [学校]

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うちの庭に ヨメさんが植えた花

 「ずーっと、学校の好きな先生でいてくださいね。」
 「はい。」

 森之宮駅前で伊藤千尋さんとお別れするとき、もう一度念を押しておいた。

 8月8日大阪城公園での「夕涼みRun」で、伊藤さんにもう一度追いついたらまたしゃべらせてもらおうと思っていたが追いつけなかった。その代わり、ゴールしてそのちょっと先で「ゼイゼイ」言っている私を見つけて話しかけてきてくださった。

 「相談とかに答えたりしておられるんですか?」
 うん? 
 カウンセラーでもあるまいに、私が何でと思ったが、よーく聞いてみると「京都キャロット」に来られたお客様にアドバイスをしてるのかという問いだった。
 「いっつもヨメさんに言われてますねん。アンタのええかげんな話は逆効果やから、絶対お店には来んといて。頼むし、ほかの仕事探して、とっととどっか行って・・・、って。ほんま、仮面夫婦はたいへんなんやから。」
 「そうなんですか。でも、ブログに出ている奥さんの写真、すごくいい感じじゃないですか。」
 「そうでしょう。」
 うちのヨメさんは顔はかわいいんやけど根性はババ、と言いかけてやめておいた。「アンタのブログのせいで、私をこわがる人が多なってかなん」と、またおこられる。

 20分ほどしゃべったと思うが、伊藤さんのほうから話されたのはこれだけ。あとは、ほとんど私の話を聞いてくださった。
 家族以外では私のブログに最多登場であると思われる伊藤さん。私の娘でもおかしくない歳だが、落ち着いておられる。
 私は自分が教師を辞めてから、現役の教職の方は避けていた。いろいろなトラウマのようなものがよみがえってくるのがいやだったからかな。
 でも、伊藤さんが自分から教師であることを話されたとき、なぜか「ふつうに、スッと」受け入れられた。なーんでか。


 私が帰る道々、彼女に話したことは三つ。

 ?「子どもが好きな先生じゃなく、学校が好きな先生でいてほしい」

 子どもが好きという人は、大人が嫌いなことが多い。学校が大好きな先生は、子どもも保護者も同僚の先生もみんな好きになれる。

 ?「学校べったりじゃなく、広くいろいろなところへ出ていろいろなことを体験してほしい」

 至れり尽くせりの先生をありがたいと思う人は多いかもしれないけれど、学校べったりで視野のせまい先生は困る。(そんな先生ばかりにしてしまったのは、我々保護者の責任でもある。)
 こうして走りに来ておられるのもすごくいいこと。そのとき出会ったいろいろな方としゃべってかえってほしい。

 ?「自分が体験したことは、必ず学校で話してほしい」

 いろいろな制約がありむずかしいとは思うが、自分が体験したことそのとき感じたことを子どもたちに話すことは、すごく大事なことだと思う。
 私ももし教師を続けていたら、「鯖街道ウルトラ」の賀茂川パートナーズのお二人のことは、次の日の朝一番に絶対に子どもに話していたと思う。
 「無関心な子もいるかもしれんけど、きっと一生懸命聞いてくれる子もいるし・・・」

 
 私のお願いみたいなことばっかりになってしまいました。聞き疲れたでしょう。すいません。
 でも、いつまでも、「学校が大好きな先生でいてくださいね。」 

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2009年08月11日(火)

廉、18歳! (8月10日生まれ) [家族]

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 今年の廉の誕生日は、いなかの家(花背別所町)。

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 一応、ヨメさんがケーキを買ってきてくれた。

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 今回は、チョコレートケーキ。

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 「きくちゃん、廉とパオパオといっしょに写真撮ろうなあ」と誘ったが、「じゃっかましいんじゃー、ガウガウガウ・・・」

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 いなかの家は広すぎて落ち着かないのか、なぜかすぐコタツに入ってしまうネコのようなきくちゃんでした。

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2009年08月10日(月)

兄弟全員集合 [家族]

 昨日(8/9)、いなかのお墓参りで、久しぶりに兄弟4人がそろった。

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兄・優三、60歳  藤井家の「常識」

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姉・みき江、61歳  藤井家の「やさしさ」

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姉・多鶴子、57歳  藤井家の「元気」

 私たち4人兄弟がそろうのは、この墓参りのときと暮れのお餅つきの年2回。
 私のいなかの家の300mほど北、兄夫婦と父が住んでいる家に集合する。(おねえさん、いつもお世話になっています。)

 

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 この12月に88歳になる父は、この4人の子をどういうふうに思っているのだろう。
 私がひと言で言うなら・・・。

 8歳上の姉・みき江は、「やさしさ」。
 私とはだいぶ歳がはなれているので、いろいろ心配をかけ世話にもなった。
 今年の墓参りでは、「怖いほどやせるダイエット」という本を買ったとみんなに冷やかされていた。12月のお餅つきが楽しみ。

 7歳上の兄・優三は、「常識」。
 とにかく、何でも知っている物知り。私もわからないことをよく教えてもらった。ただし、「石橋をたたいて渡ったはずが、思わぬ落とし穴に」という一面もある。今回も炭の入ったビニールの口をナタで切ろうとし、自分の指をザックリ切っていた。

 4歳上の姉・多鶴子は、「元気」。
 小さいときから、勉強もスポーツもできる人だった。
 私の姪(兄の娘)がうまいこと表現した。「私が勤めている病院に絶対来てほしくないのが、ターコおばさんやな。もう、やかましくて・・・。それに、お見舞いに来る人がまたやかましいやろ・・・」 姉の周りも元気な人ばかりです。

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 末っ子の私をひと言で言うと・・・。
 「甘えた」、これにつきます。
 小さいときからずっと甘やかされて育ち、それが身についている。相手が誰であれ、すきあらば甘えてやろうという気持ちが無意識のうちに働く。ヨメさんに言わせると、50を過ぎたオッサンのそれはただ「気持ち悪い」だけだそうだ。

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 今年も、毎夏恒例のお墓参り3か所がしっかりとできた。
 最後に行ったお墓は、伝染病で死んだご先祖様のもの。墓石さえもなかったので、そこらから探してきた平べったい石を代わりに置いておいた。写真に撮ると、それなりに立派に見えた。
 来年もその先も、みんなでお参りができますように。

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