2014年04月18日(金)
国頭村立北国小学校 [沖縄・学校]
「くにがみそんりつ きたくにしょうがっこう」
さて、京都府民の何割がこの学校名を正しく読めるだろうか。たぶん、限りなく0に近いだろう。
私が沖縄にはまってしまったのは、2006年に鳩間小中や船浮小中を訪問させてもらってから。沖縄の小規模校は、私や廉・真樹の出身校である京都の別所小学校によく似ていた。それぞれ、「小さくともキラリと光る学校」だった。
それ以来、機会があれば沖縄の学校を見学したいと思い続けていた。私のこのブログのカテゴリーの一つに、「沖縄・学校」というのを作ったのもそういう思いからだ。しかし、なかなかそんなチャンスはないんですねー。
鳩間・船浮のあと、2008年に石垣の平久保小、そして2010年に本島の嘉手納小を訪問させてもらった。平久保小は船浮の校長の異動先、嘉手納小は鳩間の教諭の異動先というご縁で見学させていただいた。今回はそれ以来4年ぶりの「沖縄・学校」訪問になった。
今回は何の縁もゆかりもない学校に飛び込んだように見えるが、私には私なりの理由がある。2008年2月3日、滋賀沖縄県人会の「新垣優子 島うたライブ」でのこと。
当時のブログにこんなことを書いていた。
◇ ◇ ◇
沖縄本島最北端ヤンバル、「辺戸」出身の新垣優子さんのライブ。
申し訳ないけれど、まったく知らない方でした。
いきなり、沖縄の言葉で話し始められ、何がなんだかさっぱり。(会場の半分くらいの人は、わかっていたようだ。)
辺戸は、100人足らずの村で、今はおじいおばあの一人暮らしがほとんどだそうだ。
現在、長崎・五島列島・福江在住で、今日の滋賀の雪景色には、びっくりしたとおっしゃていた。
夫は公表、ご自分の年齢は未公表。(かな?)
どんな人なんかなーと見ていると、まず、かわいいわらべうた。その後一変して、のびのある沖縄民謡。しんみりした永良部の唄もあり、さんしん一つでこんなにいろいろなことができるんだと感心した。
お話の中で、一番おもしろかったこと。
中学生の時、顔にできものができ、近くにお医者さんもいないので困っていたら、「○○のおばあのとこに行け。」と言われた。そこでは、おはらいのような用意がされ、目をつぶっていると、「ペッ、ペッ」と言う音と「シュッ、シュッ」と言う音が交互に聞こえる。恐る恐る目をあけると、「ペッ、ペッ」はおばあのつば、「シュッ、シュッ」はほうきのような物で顔をはく音だった。
自分のおばあにその話をしたら、「あのおばあは、効かん。」と言われ、また別のおはらいをしてくれたそうだ。(そのおはらい、ちょっと体験してみたいような・・・。)
◇ ◇ ◇
この島うたライブのあと、いつか沖縄最北端の地に行ってみたいと思っていた。それが、先日4月14日にやっと実現したというわけです。
4月14日、本島北部の観光に行こうとは思っていたが、正直、新垣優子さんのことは意識していなかった。辺戸岬に向かっているとき、カーナビに「北国小」の表示。ここは新垣優子さんの出身校にちがいない、とここで思い出した。
しかし、学校の周りは何もないことになっている。まさかとは思ったが、近づくとほんとうに周りは原っぱで人家はなかった。これは、「宜名真」と「辺戸」の二つの集落の中間地点に学校を持ってきたからだ。
私がおじゃましたのはちょうど給食の時間。
最初に、ランチルームから事務員さんらしき方が出て来られた。「学校見学させていただきたい」と申し出ると、「校長先生に伺います」とのこと。そのあと、校長先生が出てきてくださった。
「京都から来たものですが、娘が名桜大学で観光の勉強をしてまして・・・。私も沖縄のあちこちを見て回っているんです。」
これで、私が不審者でないことを分かってもらえる。
「うちの子も京都のいなかの小学校に通ってまして、すごく人数の少ない小学校で、今は統合されてなくなってしまいました。」
これで、なぜこの小学校を見に来たかったかが分かってもらえる。
「島うたを歌っておられる新垣優子さんが、この小学校の出身だと思うんですが・・・。」
「私も、4月1日にこちらに来たばかりで・・・。これからこの地域のことをいろいろと知っていこうと思っているところです。」
「そうなんですか。前は大きな学校だったんですか。」
「はい。700人を超える小学校でした。」
沖縄はいい。いろんな経験を積んでこられた先生が、へき地でもまたその力を発揮してくださる。
新垣優子さんの話題で盛り上がる算段は狂ってしまったが、次に来るときはもうちょっとよく調べてから来ることにしよう。校長先生も、地域のことをよく調べてくださいね。
いなかに暮らしたいと思う人は多い。そのとき一番心配なのは、子どもが通えるが学校が近くにあるかどうかということ。その点、沖縄は地域の文化センター的な役割を担っている小学校は死守しているといっていい。子どもが一人でもいれば、統合などありえないという姿勢だ。何でもかんでもすぐ統合、分けの分からん小中一貫校にしてしまう京都とはえらいちがい。京都も沖縄に学ぶべきだと思う。
もし私が沖縄に住むとしたら、やっぱり国頭村ですかねえ。うちのいなかと似たフンイキで、すごく落ち着く気がします。
「また、行こうっと。」
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2010年02月07日(日)
嘉手納小学校学芸会 [沖縄・学校]
朝、レンタカーで嘉手納小学校へ向かった。
嘉手納小学校には、以前鳩間小中学校におられた古我知先生がおられる。古我知先生とは、2006年の鳩間小中の運動会の時と、2008年の「やまねこマラソン」(西表島)の時に少しだけお話させてもらった。
当時、真樹が同じような小規模校で年配の先生に囲まれていたので、若くておもしろそうな古我知先生をうらやましそうに見ていたことを覚えている。
嘉手納小学校の学芸会が、「とかしき島マラソン」の翌日という日程だったのでおじゃまさせていだたくことにした。
【嘉手納小学校・学校概要より】
嘉手納町は那覇から約20kmのところ(北)にあり、町全体の83%が東洋最大の米軍基地「嘉手納基地」でしめられ、狭い面積に多くの人が集中して生活しています。
学級数23(特別支援学級2)
在籍数705 (昨年度データ)
古我知先生はおいそがしいだろうと思い、校舎正面玄関におられた女性の先生に名刺とお土産をことづけさせてもらった。
「古我知先生は舞台係なので、すぐ分かるところにいると思います。お声をかけていただいたら・・・」
大きな講堂の壁にプログラムが掲示されていた。
児童数から見ると各学年3〜4学級あるが、出し物は学年で1つ。1、3、5年が音楽、2、4、6年が劇である。
舞台そでにおられる古我知先生をすぐ見つけることができた。
しばらくして、こちらに向かって手を振っておられたが、まさか私に向かってではないと思っていた。しかし、学年出し物の入れ替わりの時に、わざわざ私のすわっているところまで来てくださってお礼を言ってくださった。
「今日は、遠いところありがとうございます。」
「ちょうど昨日に渡嘉敷島でマラソンがありまして、日程がうまく合ったんで見に来させてもらいました。」
「この後はまた鳩間ですか?」
「いえ、今回はちょっと余裕がなくて行けないんです。」
「おひとりで?」
「いや、ヨメさんとふたりで来たんですけど、今ヨメさん、ホテルでエステとかゆってました。」
「そうなんですか・・・、ハハハ・・・」
人なつっこそうな古我知先生の笑顔が見られて、本当によかった。これだけでも来た甲斐があった。
一、(1年) 「はじめのあいさつ」
二、(1年) 「レッツエンジョイ ダンシングタイム」
三、(2年) 「スイミー」
四、(5年) 「未来へ残そう美しい宝物」
五、(4年) 「浦島太郎」(英語劇)
六、学校長あいさつ (久場明子校長)
七、(3年)「ひびかせ! レッツミュージック」
八、(6年)「ナビー小と蛇(ナビーグァーとジャー)」
九、(6年)「おわりのあいさつ」
9時に始まり、すべてが終わったのが11時40分ごろ。
700人規模の小学校の学芸会としては、見事にコンパクトにまとめられていた。各学年3〜4クラスあるはずなのに、学年ごとの一体感・連帯感がすごく感じられた。お見事です。
ただ、ちょっと立派すぎて・・・。
私が沖縄の学校を見学させていただいたのは、鳩間小中(2006年6月、10月、2007年3月)、船浮小中(2006年10月、2007年3月、2008年2月)、平久保小(2008年2月)。三校とも、超小規模校だった。船浮小中では学習発表会も見せていただいた。
そして縁あって、今回やや大きな規模の小学校の学芸会を見せてもらうことができた。
1年から6年までどの学年もすばらしい発表で、非の打ちどころがないと言ってもいい内容であったと思う。途中で自分たちの決意のような発表もあったが、はきはきとした立派な誓いの言葉だった。
でも、私は・・・。
鳩間や船浮や平久保にあったほっこりするようなところ、「あそび」の部分とでも言うんでしょうか、それがほしかったなあと感じました。よい子ちゃんばかりが目立って、やんちゃな子や失敗してしまう子が見当たらなかった。
確かに、この短い割り当て時間の中にピッシリはめ込むためには「あそび」の時間など無理。先生方のご苦労も容易に想像できます。
ただの無責任な一旅行者の感想と聞き流してもらってけっこうですが、やっぱり私は小さな小さな学校が好き。そこで苦労苦心工夫して行われる運動会や学芸会が大好きです。
今ある大規模な学校を小さくせよとは言いませんが、どうか「安易な学校統合」だけはやめていただきたい。
そんなふうないろいろなことを、あらためて考えさせられる学芸会でした。
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2008年04月08日(火)
平久保小学校-やっと八重山5-(2月12日分) [沖縄・学校]
朝起きると、外は強風。
一応、「スカイアドベンチャーうーまくぅ」さんに電話してみた。
「今日は、ダメですよね。」
「はい。風が強くて。」
残念。ちょうど、平久保小学校の帰りに寄るのにぴったりだと思っていたのに。
ゆっくりゆっくり朝ごはんを食べた。
パラグライダー体験がボツになってしまったので、今日の予定は平久保小学校訪問だけになってしまった。
でもよく考えてみると、この旅行を平日まで延ばしたのは、平久保小学校を訪問し宮良校長先生に会いたかったからだ。本来の目的を忘れてはいけません。
フサキリゾートヴィレッジのすぐそばに、唐人墓があったので行ってみた。そこには、こんな説明が・・・
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。
そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還した。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の機運が盛り上がった・・・
(この歴史的事件については、まったく知りませんでした。)
平久保小学校は、石垣島の最北端に近い所にある。
宮良校長先生のご自宅は離島桟橋の近くだから、石垣島最南端。毎日、南北に長い石垣島を往復されている。船浮から石垣島に戻ったと思ったら、今度は毎日往復2時間のドライブらしい。
私たちが学校に着いたのは、10時半くらいだった。
すぐに校長室に通していただいた。先生方に「私のお友達の藤井さんです。」と紹介してしてくださった。
あいさつの後、宮良先生が最初に言われた言葉。
「奥さんのお疲れは、取れましたでしょうか?」
今回の旅行は、うちのヨメさんの疲れをやわらげるが目的ですと言っていたのをよく覚えていてくださったのだ。(さすが、です。)
その後、各教室を案内していただき、併設されている幼稚園も見せていただいた。
それぞれの学級は複式でも5名以下、幼稚園も2学年合わせて5名。学校の存続が危ぶまれているとのこと。
近くにたくさん牧場があるのどかな環境にある学校なのに、なくすのはもったいない。
4・5年複式学級の三崎先生とお話させてもらって、びっくりした。
三崎先生は京都出身ということで、詳しく聞いてみると・・・
私の教師生活のスタートが、大原小学校百井分校。その時、本校にいたのが三崎先生(三崎君!)。サッカーをすごくがんばってやっていたので、私は覚えていた。
当時、大原はサッカーが盛んで、スポーツ少年団の指導も学校の先生がすべて行っていた。私は、時々お手伝いに行っていた程度なので、残念ながら三崎先生の記憶にはなかったようだ。
それでも、指導しておられた安田先生、義井先生、同級生のチョウ君のことなど、ローカルな話題で盛り上がった。
こんな所で大原の話ができるとは、思ってもみなかった。
宮良校長先生もお元気そうで、私の好きな歯切れのいい話し方も健在だった。宮良先生は、沖縄独特の「・・・しましょうね」がない。話し方は、江戸っ子ぽい。沖縄ではめずらしい人だと思う。
午後から校長会があるとのことだったので、お昼前に先生とはお別れした。
正味4日間の旅行で、3人の校長先生とお会いした。鳩間小中の小山校長先生、船浮小中の崎濱校長先生、平久保小の宮良校長先生。
もし、私が今も現役の教師だったとして、このお三方の下で働くとしたら・・・
人間的に一番おもしろそうなのは、小山先生。一番しっかり働けそうなのが、宮良先生。何でも相談にのってもらえそうなのが、崎濱先生。
とにかく、三人とも尊敬できるすばらしい先生です。
(なんか、校長さんめぐりみたいになってしもたなあ。私何様? 教育委員会の視察でもあるまいに・・・。)
平久保小学校を出た後、せっかくなんで最北端の平久保崎へ行った。そこはとにかく、風がビュンビュンでこわかった。
ガイドブックにも載っている「明石食堂」さんが休みだったので、宮良先生ご推薦の「はまゆう」に食べに行った。
メニューは少なかったが、当店自慢のという「タコライス」を注文した。これが、意外とおいしかった。ぜひ、食べてみてください。
店の厨房のあたりを、小さな子が動きまわっていた。
あれっ、あの子、さっき平久保幼稚園にいた子とちがう? お昼やし、帰ってきたんかな。それとも、人ちがい?
どっちにしても、小さな子がいるだけで、その場がなごむ。大人だけ、年寄りだけの集落に未来はない。
どんなことがあっても、無理をしてでも学校は守ってほしい。それが、学校がなくなってしまった地区に住んでいた者の願いです。
効率ばかりが優先されて、ひとりひとりをしっかり見つめるという教育の基本が忘れられていく。
今まで小学校が担ってきた地域の文化センター的な役割も、忘れられていく。
「本当に、学校がなくなってもいいんですか?」
考えて考えて考えて、その上もう一回考えてみてください。お願いです。
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2008年03月29日(土)
船浮小中学校学習発表会-やっと八重山3の1-(2月10日分) [沖縄・学校]
西表アイランドホテルの車で、白浜港まで送ってもらった。白浜港には、新しいきれいな桟橋ができていた。
一番の船に乗ろうとした時、先生らしい方が何人か乗ってこられた。たぶん、白浜小中学校の先生方だろう。
そのほかは数名。運動会の時と比べるとさびしい。
船浮に着き、まず、港の前の「ふねっちゃーぬ家」に行った。お昼ごはんの予約をしておいたので、大きな荷物を預かってもらおうと思っていた。
しかし、店はまだ開いていない。どうしようかと困っていたところ、いっしょの船から降りた女性が声をかけてくださった。彼女はこの店の従業員さんのようで、お昼を予約している者だと言うと、「店が開くまでお預かりします。」と言ってくださった。
その方は、ゼッターランド・ヨーコさんのような超美人。お写真を撮らせてもらえばよかった。悔やまれる。あとでヨメさんと、「いったいあの人は、どういう人なんやろ。船浮に咲く花?」とか言っていた。
学校に着き、職員室におられた方にごあいさつし、体育館にむかった。
受付に、また超美人。たぶん、あの人が事務の宮城さん。
「宮城さんですよね。なんべんも電話させてもらって、すみません。プログラムまで送ってもらって・・・」「いいえ、どういたしまして。」
2006年10月、船浮小中の運動会の時のこと。真樹とちょっと体育館を見てみようかということで見に行ったかえり、職員室あたりに待機している人とすれちがった。次の「エイサー」の出番を待っている女子教職員の方々だった。その横を通る時、本当に胸がドキドキした。あまりに、みなさんおきれいで。きっとあの中に宮城さんもおられたにちがいない。
大きな体育館の前のほうに、折りたたみイスがなられべられていた。その数もあまり多くなく、運動会の盛況さを知っているだけに、やはりさびしい。
後ろの部分には、作品の展示。児童生徒だけでなく、教職員、地域の人々の作品もたくさんあった。
作品を見ていると、声をかけてくださった女性がおられた。「前に来られてましたよねえ。」
すごい。1年前に一度お会いしただけなのに。
「はい、去年の3月、息子と来てました。かえりの船でいっしょになった大嶺さんですよね。」
こっちの記憶力も、けっこうすごい。
大嶺さんは、大阪出身で、家は公民館のうら、息子さんが本島の高校に行っておられるということを聞いた。(1年前の船の中での話。)
学習発表会のテーマ 「一心同体 一人ひとりの大舞台」〜無限の力でみんなが主役〜
いよいよ始まった。
最初のあいさつ。6年の石垣君と5年の迎里君。迎里君は、去年の4月に来た新入り(?)なのに、いやに堂々としている。後でわかったことだが、中1の具志堅君のいとこだそうだ。
次は、三線。地域の方も入っておられ、すごく感じがよかった。若い男性もおられた。
その次は、合唱。児童生徒3名なのでどうかなと思ったが、3人ともよく声が出ていた。教職員の方々とも調和しており、不自然な感じはしなかった。
次は、小学生2人のビデオニュース。がんばって作ったことはよくわかるのだが、最終処理がやや弱い。映像があまりよくなく、声も聞き取りにくいところがあった。
ここは、先生の出番でしょう。先生、しっかり!
ここで、いったん休憩。この間に作品として出しておられたドーナツやゼりー、サーターアンダギーなどをいただいた。どれもおいしく、量もたくさんあった。
そしてその次、合奏。さすがに3人では静か。でも3人が力を合わせている感じがとてもいい。校長先生が、一生懸命鉄琴をたたいておられた姿も印象に残った。
次に、校長先生のごあいさつ。
いつも思うのだが、沖縄の校長先生は自分の言葉で話される。京都の校長先生のように、だれかの作文を読んでいるようなあいさつは聞いたことがない。
崎濱校長先生もそうだった。特に、3人の子の特徴を話してくださったところは、我々旅行者にもよく理解できたし、保護者の方々にとってもうれしいことだと思う。わずか3人ではあるが、本当によく見ていただいていると思った。(お世辞ではありません。)
また、必ず、見に来ていただいた方へのお礼を具体的に言われる。私たちのことも、「京都から来ていただいた藤井さんご夫妻」と紹介していただいた。
校長先生の話の後、本日のメイン、オペレッタ「走れメロス」が始まった。小5・小6・中1の男子3人が、いったいどんなものを見せてくれるんだろう、とかまえて見ていたが、想像をはるかに越えたすばらしいものだった。
まず、3人がはずかしがらず、お腹の底からしっかり声を出して歌っている。中でも小6の石垣君には、びっくり。変幻自在とは、このことか。
もちろん先生方も出演されていたが、目立たないように目立たないようにと工夫されているのがよかった。
かなり長い出し物だったが、退屈することがなかった。個人的には、夢を見ているような感じすらした。よかった。
おわりのあいさつは、中1の具志堅君。
かなりあっさりしていた。無理もない。まだ中1やもん。まだ2回もあるし。来年は、石垣君の弟が入ってくるけど、もっともっと増えてほしいね。(女の子が来たらいいのにね。)
ああ、来年も見に来たいなあ。
お昼までまだ少し時間があったので、イダの浜へ行くことにした。おととしの10月は、ここで真樹と泳いだんや。ここに夫婦二人で来るとはね。
さっき「はまごう」さんにいた黒ラプが、浜で遊んでいる。「ナナ」と呼ばれていた。いっしょにいる男の人は、学習発表会で三線を弾いていた若い男性。「はまごう」の井上さんとこの人?
「ふねっちゃーぬ家」に戻り、お昼ごはん。
食べたのは、「昔ごはん船浮三昧」1500円。おいしかった。
それにしても、あのゼッターランド・ヨーコさんが気になる。また、来たくなってしまう。
帰りの船に乗り込むと、崎濱校長先生も乗ってこられた。
「どうも、ありがとうございました。インターネットで見て、来ていただいたとか。」
「はい、そうなんですけど。おととしの運動会に参加させていただいて、それからのご縁で・・・」
校長先生は、私と年が変わらないくらい若々しい。
3人の男の子としっかり遊んでくださいね。お金がたまったら、必ず、また来ますから。
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2008年01月07日(月)
宮良美代子校長先生 [沖縄・学校]
お昼、私の携帯に電話あり。
「お仕事中にすみません。藤井さんでしょうか? 石垣・平久保小学校の宮良です。」
「わー、先生、お久しぶりです。」
「年賀状をいただたのに、お礼が遅くなってしまって・・・。実は昨年、私の父が亡くなりまして、年賀状が出せなかったんです。」
「そうなんですか。わざわざすみません。先生とこの学校のことは、新聞の記事で読みました。インターネットで見られるんですけど・・・。<人権の花>をみんなで植えたって。」
「ええ、そうなんですよ。人数は少ないけど、いろんな事やってますよ。今も花は少し咲いてますが、春になるといっぱいになるんですよ。
年賀状にも書いてありましたけど、2月に西表に来られるんですね。もし時間があれば、ぜひ石垣にも寄ってくださいね。こちらは暖かいですよ。今日も20度かな。ずっと雨ばっかりなんですけど。」
「スケジュールがどうなるかまだはっきり決まってないんですけど、行ってみたいです。
ほんとうに、わざわざご連絡していただいて、ありがとうございました。」
2006年6月、西表島の北にある鳩間島の小中学校の運動会に参加(ヨメさんと娘と3人で)。その学校は、当時うちの子どもらが通っていた学校と似たところがたくさんありそうだった。(過疎化による学校存続の問題など) そのころ学校がおもしろくなく少し元気がなくなっていた娘に、いろいろな世界を見せてやりたくて、日本の西の端まで行くことにした。
そこの運動会には「1000m走」があり、娘にいいとこ見せたくて参加。しかし、鳩間中の3年男子と若い女性に負け、3位だった。( この二人は、35度くらいの炎天下を3分台でぶっとばした。あの弾丸のような女の人は誰?)
ちょっとくやしくて話しかけてみると、彼女は西表島西部の陸の孤島と呼ばれる船浮の小中学校の先生だった。(だいぶ後でわかったことだが、その先生は2000年高校駅伝沖縄代表選手だつた。どうりで・・・)
「うちの学校の運動会にも、ぜひ来てください。」
その言葉をきっかけに船浮小中に電話してみると、校長先生が出られた。初めて電話したちょっとあやしい(?)私に対して、すごくていねいに対応してくださり、まよわず10月の運動会に行くことにした。
うちの娘も、父よりはるかに足の速い女の先生に感動して、「あんな元気な先生が、うちの学校にいたらなあ。」とあこがれの目で見ていた。
10月、当時小6の娘と二人、小中合わせて5名の船浮の運動会に参加させてもらつた。6月に顔見知りになった鳩間の古我知先生や生徒も参加しており、少し話すことが出来た。船浮の校長先生や例の足の速い先生(入波平先生)ともお話が出来て、ほんとうに楽しい運動会だった。近隣の子どもたちや親の友情出演(?)、先生方のてきぱきとした動き、その中に入れてもらった自分たちも心から楽しんだ。子ども・先生・地域の心がひとつになっているのが実感できた。
運動会の閉会式の校長先生のあいさつの中で、私たち親子のことも紹介してくださり、最後に上原港でお別れする時にはご自分のアクセサリーを取って娘にくださった。(そのまがたま型のアクセサリーは、今も娘の携帯についています。)
「こんな先生が、うちの学校にいてくれはったら・・・」
こんどは私がそう思ってしまいました。
もし2月にお会いできたら、1年4か月ぶり。すてきな笑顔が健在でありますように・・・。
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