パオパオだより

2019年04月19日(金)

ショーケン [私の好きな人]

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◎朝日新聞2019年4月11日31面

   寂聴 残された日々 46 ショーケンとの再会

       切れぬ悪縁 次はあの世で 

 ショーケンこと萩原健一さんが三月二十六日に亡くなって、早くも二週間が過ぎた。その間、私はショーケンの追悼文を書きかけては胸に迫ってきて、涙があふれ書けなくなってしまう。仕方がないので、彼と一緒に仕事をした雑誌を繰り返し読んで気をまぎらわせている。

 ショーケンは生前、私とつきっている間、いつも私のことを「おかあさん」と呼んでいた。毎朝早く電話がかかり、疳高い声で「おかあさん、お早よう」と呼びかける。「うるさいなあ、まだ寝てるよ」「もう六時すぎたよ。年寄りのくせにいつまで眠るの。あんまり眠ると、早く呆けるってよ」

 そういうショーケンは毎朝五時から一時間半も歩きつづけている。自慢のスタイルを保つためだそうだが、毎朝の電話で彼が私に伝えたいのは、二人の女性の噂話をしたいためであった。二人ともショーケンの熱烈なファンで、ひたすらショーケンと一緒に歩きたいために、毎朝やってくるという。一緒に歩くのは他にも男女十人くらいがいるらしい。

 ショーケンが私に話したのは、その中の二人の女性のことだけで、一人は人妻だが、自分はそっちの方が好きだけれど、夫と別れてこないと相手にはできない話を早朝から聞かされても、腹も立てないのだから、私もいい加減阿呆になっている。

     ◇     ◇     ◇

 そもそものつきあいの始めは、ショーケンが大麻事件で逮捕された後、世間で騒がれて居場所がなくなった時、ふとした縁で、京都の私の寂庵へ頼ってきて、かくまったのが縁であった。新幹線の三時間、トイレに身をひそめてやってきたという。おどおどして、目を伏せたきりで見るも哀れな姿だった。夕方だったので先ず夕食をすすめたら、すき焼きの前で泣きだしてしまった。

 「いただきてもいいのでしょうか」「どうぞ、とにかくたくさん食べて精をつけなきゃ」泣きながらすき焼きを食べていたショーケンの姿を、ありありと想いだす。あの世では、誰とすき焼きを食べていることか!

 長いつきあいの中で、彼の恋人とか、妻と呼ばれた女性に巡り逢ったが、ほとんどの人は、私に「早くショーケンと縁をお切りなさい。ろくなことありませんよ」という。縁を切るも何も私とショーケンとは、あかあさんと息子の関係を一度もふみ誤ったことがないので、別れようもない。ただ長い歳月に、気まぐれなショーケンは、何度も私との音信を断ち、全くつきあいのとだえたことも幾度となくあった。

     ◇     ◇     ◇

 寂庵は尼寺なので、ショーケンのような危険な男を置くわけにはいかず、私の判断で、近くの禅寺の天龍寺へ預けることにした。平田精耕管長が雲水と共に預かってやると言って下さったので、法衣一切を買い整え、寂庵え頭を剃って、天龍寺へ私が送りこんだ。法衣を身につけたとたん、ショーケンは一見見事な雲水になりきるのは、さすがの役者だった。

 ところが天龍寺で、ショーケンは、ありとあらゆる悪いことをしてくれたが、寺では一旦預かった以上は一切寺の責任だといって一事も私に伝えなかった。以来、私は天龍寺に頭が上がらない。

 不貞で不良のショーケンとの悪縁は、現在の夫人との結婚までつづいいたが、突然の死で、この世の縁は一旦切れた。しかし、すでに九十七歳を目の前にした私は程なくあの世の入り口で「おかあさん!おそかったね!」と手を振って迎えてくれるショーケンに再会することだろう。

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寂庵の庭に咲いたアセビの花=京都市右京区

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◎大人のミュージックカレンダー 2015年7月26日

   テンプターズ、傷だらけの天使、ショーケン!  執筆者:小野善太郎

私は「萩原健一」とは言わないな〜。「ショーケン」一辺倒。
ショーケンがザ・テンプターズの一員として世に出たのは1967年10 月25日、17歳の時。
グループ・サウンズ(GS)の2本柱はザ・タイガースのジュリー(沢田研二)とショーケンだったが、ジュリーより2歳(も)若い。
デビューはタイガースから8か月あまりも遅れたとはいえ、優等生的な印象のジュリーでは満足し得ない女性ファンの渇望は、その間にデビューした幾多のグループをスルーした後、ついにショーケンと出逢ったことで一気に満たされて、翌1968年にこそGSブームは爆発的に全開。

1968年1月に発足した『オリジナル・コンフィデンス(オリコン)』のチャートで、以降1位を獲得したGSの曲は、タイガースの「花の首飾り」と「シー・シー・シー」、そしてテンプターズの「エメラルドの伝説」の3曲のみというのも象徴的で、かのビートルズに対峙するローリング・ストーンズの感があったが、ストーンズのミック・ジャガーとショーケンは、あらま、同じ7月26日生まれ!

ところが、翌1969年3月にタイガースから加橋かつみが脱退したあたりを境に、GSブームは下り坂に転じる。
そして、タイガースもテンプターズも解散を余儀なくされた1971年初頭、一時代を築いた超人気者だったからこそ、これからの道のりは厳しそうと思えたように、最後の裏技的にジュリーとショーケンが組んだ新バンドPYGが直ぐに立ち行かなくなったのも当然と納得したものだ。
しかし、むしろストーリーはそこから始まったのだった。

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ジュリーはPYGの音楽的母体の井上(堯之)バンドを伴ったソロ歌手として1972年には「許されない愛」のヒットで初めてNHK『紅白歌合戦』にも出演、翌1973年には「危険なふたり」で日本歌謡大賞も受賞して、タイガース時代を大きく乗り超えて行く。

一方、ショーケンは役者の道へと進み、1972年にスタートしたTVドラマ『太陽にほえろ!』でブレイク。
石原裕次郎やベテランの芸達者たちに囲まれて、時に浮きまくりながらも、既存の役者では絶対に表現出来なかった同時代的感覚をヴィヴィッドに発散し続け、新たな人気が高まる中、あっけなくカッコ悪く死ぬという、通常あり得ないドラマの幕切れも衝撃的。

だが、ジュリーが太陽ならば、ショーケンは暗闇で月のように光源を反射する映画のスクリーンでこそ私には輝いて見えた。
特に1974年、従来の若者像とは真逆の、明るい将来など信じられない心象を演じ切った神代辰巳監督の『青春の蹉跌』で、定評ある老舗の『キネマ旬報』主演男優賞を、前年の深作欣二監督作品『仁義なき戦い』での菅原文太に続いて受賞。

そして、神代や深作らを監督として招いた、映画みたいなTVドラマ『傷だらけの天使』では、相棒役の水谷豊とのコンビで、カッコ良いんだかカッコ悪いんだか分からんカッコ良さ、というようなシラケの1970年代を体現する存在として、その水谷豊や松田優作らの、孤高の先駆となった。

もはや歌手ではないように見えたが、ジュリーが井上バンドの演奏で唄っていたのと同じく、実はショーケンもまた、出演するTVドラマや映画を担当することになった井上バンドの音楽を背に受けながら、全身で唄っていたと思えてならない。
演技する歌手ではなく、唄う役者でもなく、演技を唄う。それがショーケンなのだ。

ともあれ、ショーケンも今日で65歳かあ。今そこにいる(だけで)奇蹟、てな気もする。
ま、暴力的行為はアカンがのう、今や日本映画界絶滅種の’危ない’大物役者として、ヌルい世間に映画で物申していただきたいと思うのは見果てぬ夢なのか。

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 ショーケンが好きやった。
 グループサウンズ時代のショーケンが。
 
 「グループサウンズ」ってゆっても、今の若い人にはチンプンカンプンやろね。
 「だいたい5人くらいでガチャガチャやるやつ・・・」
 これで分かってもらえますかね。

 私が中1の時(1968年)、グループサウンズが絶頂期。
 夜8時からの歌番組が週に3つもあった時代。そのどれもがグルーブサウンズをガンガンやっていた。

 テンプターズが解散して、ショーケンは俳優としても成功した。でも、私はそのあたりをほとんど知らない。
 テンプターズの時のショーケンが一番かっこよかった。あとの俳優時代はおまけかな。

 最後の仕事は、NHKの夜のドラマではないだろうか。初老のオッサンたちがラグビーをし始めるやつ。
 ちょっと見かけたけど、ショーケンの危うさが活かされていない内容だったので見るのをやめた。最後の仕事があれでは、気の毒やねえ。

 ショーケンには、ショーケンにしかできない「かっこよくて危うい役」を、やってほしかったなあ・・・。

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2019年03月02日(土)

約束のてるてる坊主 [私の好きな人]

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 約束通りつくりましたよー、てるてる坊主。

 下山さんからのコメントで、「お願いしたいことがあります」と書かれていた時はビビりました。
 でも、「昨年道路が濡れてて車椅子をこぐのに大変苦労いたしましたので、大会当日も道路が濡れない天気であるように1週間前からてるてる坊主を飾ってください。(笑) 」と続きましたね。

 お安い御用!
 古いTシャツを切って、顔は一般的な丸ではなく、下山さんのように四角。メガネをかけて笑っているところなんか、下山さんそっくりじゃないですか。

 「いつかは 東京マラソン 下山利博」の願掛け入り。

 うちの庭の梅の木にぶら下げてみました。
 いいですねえ。でも、てるてる坊主に見えませんねえ。

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 「パオパオさんと葛飾の河川敷を一緒に走ることができる喜びを今年も実感できると思うと、とても嬉しく思っております」という言葉は、本当にうれしかったです。
 私も3月10日の「かつしかハーフ」を楽しみにしています。下山さんの横から、ビシビシと厳しい声をかけさせてもらいますからね。

 明日は、「篠山マラソン」に出張販売。週間予報では雨確実だったのに、どんどんずれて来て、大会が終わるまで天気が持つかもしれません。

 下山さんのおかげかな。
 てるてる坊主のおかげかな。

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 今日もヨメさんは鍼灸施術で忙しく、一人晩ごはん。
 明日暗いうちに出て行かんなんのに、ヨメさんはたいへんやわ。
 たくさん売れたらいいやんけどね・・・。

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【RUN】

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 昨日とまったく同じ練習。
 ちがうところはウエアとシューズ。暖かかったのでウインドフレーカー上下を脱いで。シューズも軽いアディゼロ・ジャパンで。

 3kmウォーミングアップをしたあと、1000mタイムトライアル。

 いつものように、地球研前バス停の北にあるマンホールのふたからスタート。
 今日は昨日よりずっと調子がいい。

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 北稜高校前のバス停でちょうど1000m。
 タイムは・・・、なんと4分01秒。昨日より1秒速いだけ。ガックリ。
 3分58秒くらいは出ていると思ってたのに・・・。

 昨日と同じく、ここから2kmダウンジョグ。
 昨日も今日も6km。

 次は1000m×3本とかにしようかなあ。

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2019年02月02日(土)

ニイヤになりたい [私の好きな人]

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興譲館高校時代

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2012ロンドン五輪

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2014引退

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◎毎日新聞1月25日夕刊

   陸上・新谷復帰 個性と才能健在

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全国都道府県対抗女子駅伝で9区区間賞と復活の走りを見せた新谷仁美

 4年ぶりの現役復帰だったが、力強い走りと個性の強さは変わらなかった。

 13日に京都市で開かれた全国都道府県対抗女子駅伝に東京のアンカーとして出場した新谷(にいや)仁美(30)=ナイキTOKYOTC。16位でタスキを受けると、7人を抜いて9位でフィニッシュ。10キロを31分6秒のタイムで区間賞を獲得した。「走るのは嫌い。普段なら10キロ走るのはストレスの塊」と本音を語る。だが、その一方で「必要とされるのはありがたい。『お帰り』と言ってもらえてうれしかった」と笑顔を見せた。

 岡山県出身。女子1万メートルで2012年ロンドン五輪9位、13年世界選手権5位入賞と長距離界で活躍した。
 実力はもちろん、奔放な言動でも注目を集めたが、14年1月に引退を発表。会社の事務職員として働いたが、「同僚から『新谷さん落ち着いて』と言われていた」というようにデスクワークは性に合わなかった。現在の所属会社から復帰の要請を受けて、4年ぶりに本格的にシューズを履いた。会社員時代は「夏にビキニを着たいから」という理由で毎日腹筋を300回していたが、走ることはなかった。
 それでも、昨年12月には豪州であった競技会で、1万メートルで世界選手権の参加標準記録(31分50秒00)を突破する31分32秒50をマークし、ブランクを感じさせなかった。

 「1円でももらっている以上、やることはやる。でも、東京五輪も世界陸上も視野にはない」と言い切るが、「駅伝のレース後のインタビューでは「2020年に向けていい弾みがついた」と充実した様子で語った。今後は1万メートルで競技を続けていく方針だ。「頑張ることとか努力することとか大嫌い。才能で押し切っていくタイプ」という新谷。個性も才能も豊かなその走りに注目だ。     【長田舞子】
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 ニイヤが好き。
 でもそれは今のニイヤではない。
 1枚目の写真と2枚目の写真の間に、超地味なニイヤがいた。
 前にも書いたと思うのだが、たぶん豊田自動織機女子陸上部所属の時の奄美合宿。どこかのテレビ局のインタビューに答えていた。
 あの「ガウガウ系」の興譲館高時代からは考えられないような静かな女性。一つ一つの質問に、深く考えながら静かに答えていた。
 それを見て、「めっちゃ、かっこええやん」と思ってしまった。その時以来のニイヤファン。

 髪を茶髪にし、化粧をして競技会に出てきたニイヤにはビックラゲーション。でもそれでさらに速くなってんにゃから、もう何も言うことはなかった。過去をスパッと捨てて変身できる人は、尊敬するに値する。
 「ニイヤさま〜」の世界やね。

 「頑張ることとか努力することとか大嫌い。才能で押し切っていくタイプ」って、私といっしょやん(レベルがちがいすぎるか?)。
 ああ、ニイヤになりたいなあ・・・。

 みんな思ってはるやろねえ、「1万じゃなくて、マラソンに出えよ。」
 今停滞している女子マラソン界を活気づけるのは、ニイヤしかおらんやろ。

 「ニイヤ―、東京五輪にマラソンで出られることになったら、東京まで応援に行くでー。」

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2019年01月30日(水)

じんしろうさんは山田哲人に似ている [私の好きな人]

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 前から思っていたのだが、「『辺野古』県民投票の会」代表の元山仁士郎さんは、ヤクルトスワローズの山田哲人選手に似ている。
 体がでかく、顔もでかく、目がちょっとトロンとしていて親しみがわく。
 山田哲人が大好きな私なので、じんしろうさんも応援したくなったのかもしれん。

 今日の毎日新聞に、論点――「辺野古」県民投票――という記事があった。
 元山さんは「日本全体で基地負担考えて」、元防衛相の中谷元さんは「安全の観点含め移設理解を」、元在沖縄米海兵隊政務外交部次長のロバート・D・エルドリッヂさんは「政府は説明責任果たせ」という観点から意見を述べておられた。

 どっかからコピーでけへんかと探してみたが、どこにもない。ケチやわ。せめて、じんしろうさんの分だけでもパチパチ打ち込もう。

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   日本全体で基地負担考えて
                 元山仁士郎

 「辺野古の碧(あお)く美しい海」に米軍基地を建設するための埋め立てが進められている。国は普天間飛行場の危険性を除去するための「唯一の解決策」だと主張しているが、県民の多くは強い疑問を抱いている。沖縄には米軍専用施設の約7割が集中する。新たな米軍基地が必要なら、本土を含めた日本全体で負担すべきではないだろうか。

 県民投票には「現在進行する辺野古埋め立てについて県民が意思を明確に表明する」という意味がある。埋め立てに関する権限は沖縄県知事にある。埋め立てを承認した仲井真弘多元知事は「県外(移設)」を掲げた自らの公約に反しており、2014年の知事選では、承認取り消し・撤回を公約した翁長雄志前知事に敗れた。翁長氏は公約を実行し、玉城デニー知事は翁長氏の遺志を継いでいる。

 県民投票の会では、県民がこれから基地問題とどう向き合っていくかを離島も含めて議論し、考えを深める機会にしたいと、条例請制定請求の署名集めに取り組み、41市町村全てで請求に必要な有権者の2%以上の署名が集まった。1996年の県民投票は当時の太田昌秀知事の支持組織・連合の主導だったが、今回旗振り役となったのは既存の政党や団体に所属していない20代中心の人たちだった。

 宜野湾など5市長が、県民投票実施に必要な予算が否決されたことを受け、投票事務執行への協力を拒否した。民主主義国家の日本で市長が全市民からの投票権を奪うことがあっていいのか。抗議の意思表示として宜野湾市役所前でハンガーストライキ(ハンスト)を5日間行い、ワジワジーしている(はらわたが煮えくり返る思いをしている) 人がこんなにいるのかと実感した。「沖縄の現状はおかしい」と学校帰りの高校生が話してくれた。「すぐに賛否を決める必要はない。私もずっと悩んで考え続けている」と答えた。

 ハンストは5市長の態度は変えられなかったが、県議会と県当局の尽力で、選択肢に「どちらでもない」を加えて3択にして全県実施の道筋が見えてきた。賛否の2択で10万人超から署名を集めたことを考えると複雑な心境だが、全有権者に投票権を保障するための与野党の歩み寄りは歓迎したい。私自身、宜野湾市民として投票できると信じている。

 私は普天間飛行場のフェンスから約300メートルの所にある場所で生まれ育った。危険性は実感している。普天間の危険性除去は県民の総意であり、新基地建設は別の問題だ。「普天間返還のために辺野古新基地を受け入れるか」「新基地に反対して普天間は返還されないのか」の二者択一を沖縄県民だけが迫られるのは理不尽だ。

 日本政府の強権的なあり方に屈して付き従うのか、沖縄の誇りを持って声を上げるのか。沖縄は分岐点にある。将来、子どもに「お父さんはあの時、何をしていたの」と聞かれた時にきちんと答えたいという思いも県民投票には込められている。「反対」の投票結果が出て、それでも国が「日米同盟の抑止力を維持するためには辺野古移設が必要だ」と考えるあれば、「普天間飛行場をどうするか」を全国で考えてほしい。

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ハンスト応援ラン(2018.1.18)

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【今日のきく】

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 今日もお決まりの、バイト帰りの深夜お散歩。 
 いつものコースをちょっと変えてみました。

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2019年01月05日(土)

ねこ4あらわる [私の好きな人]

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 「ますみちゃんに似てるやろ。」
 「だれが?」
 「ねこ4さん。」

 「いや、よう見させてもらったら・・・、かわいい丸顔じゃなくて美人系やったな。」
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 昨日の午後、股間激痛に耐えられず「ロキソニン」を買いに行こうかと思っているときにヨメさんから電話。
 「今すぐ店にきー。」
 「なんで?」
 「なんでもいいし、きー。」

 何も説明してくれない。
 「上賀茂小の教え子でも来たんかなあ」と思いつつ店へ。

 店のドアを開けると、ひとみがキラリン美人さん。
 「沖縄でいっしょだった福井の・・・。」
 それですぐに「ねこ4」さんと分かったのだが、あの時の印象はうちのヨメさんに似た丸顔のかわいいランナー。今目の前に立っておられるのは、シューとしたかしこそうな美人ランナー。シチュエーションがちがうと、印象も全然ちがってくる。

 私は正直に言って美人が苦手。緊張してうまく話すことができない。
 しかし「沖縄100Kウルトラ」の途中でちょっとしゃべらせてもらっただけなのに、わざわざ店まで来てくださった「ねこ4」さん。もうそれだけで、「ええ人やないの」と思う。(「ねこ4」という名前だけでも好印象でしたが。)

 「ねこ4」さんは、私を抜いて行った後もペースを落とさず走り続け、制限時間3分前にゴール。私の前回のゴールが2分前だったので、このあたりの話が合う。
 ただし、まだ走り始めて数年のところや、短いレースもウルトラもほぼ同じペースで走られるところとかは私と全然ちがった。

 よくよく考えてみると、今までウルトラのあとにレースを振り返ってだれかと話し合ったことなどなかった。今回は同じくらいのレベルの方と話すことができて、とても楽しかった。

 できれば、またどこかの大会でご一緒させてもらいたいものだ。
 連絡先だけでもお聞きすればよかった。こっちがどう見てもあやしいジジイやから、女性にはきー使いますにゃわ。

 丸顔かわいい系ランナーなら、「一緒に写真を」とお願いしていたのだが、美人系はあきません。そんなこと気安く頼めません。
 いつかどこかの大会でまたご一緒することがあれば、その時にツーショットお願いします。(この股関節炎の具合では、「次」がないかもしれませんが・・・。)

 「ねこ4」さんからはおいしいおみやげまでいただき、「京都キャロット」でウルトラ用のシューズも買って行ってくださった。遠いところを出向いていただき、ほんとうにありがとうございました。

 「ねこ4」さん、次のレースもしっかりね。
 私は、早く股関節炎を治します。

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【今日のきく】

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 「きれいなワンちゃんですねー。」
 「えっ、そんなん言われたん初めてやな、きくちゃん。」

 昨日「ねこ4」さんからほめてもらった。
 きくは、「私はきれいですけど、なにか」みたいな顔をしてたけどね。

 「ねこ4」さんに一番うけた話。
 「飼い犬は飼い主に似るって言うじゃないですか。うちのきくも、弱虫のくせにけんか早くって、そのくせすぐに返り討ちにあってショボショボになってしまうんです。ますみちゃん、ますみちゃんによう似てるやんなあ。」

 きくと私が似ているとこは・・・、「ますみさん、こわこわ」やねえ。

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 今日は土曜日だが、イレギュラーで寮1の管理代行17時間。
 家に帰って、「きくちゃんお散歩行くでー」と言っても出て来ない。だいぶ耳も遠くなったみたい。ぐっさり寝てたねえ。
 でも気が付いて、ガバッと起きてお散歩へ。これがないとねえ。家に帰ってきた気がせんから。

 そうか、今日はいつもの水曜とちがうから準備してへんかったんかな。きくは、曜日が分かるくらいかしこかったんか・・・。

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2018年12月12日(水)

高石ともやさんを最終聖火ランナーに [私の好きな人]

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◎京都新聞12月11日夕刊

   今年もあなたへ 語り歌を
            高石ともや、恒例年忘れコンサート 29日、梅田

 京都市在住の歌手高石ともやが43回目となる「年忘れコンサート」を29日、大阪市北区のサンケイホールブリーゼで開く。今年も公私にわたるニュースを振り返りながら、「感謝の気持ちを忘れず、『語り歌』を続けたい」と意欲をみなぎらせる。

 「今夏、思い切って奥歯に入れたインプラント(人工の歯根を埋める義歯)が調子良くてね。子どものころは虫歯の治療なんて受けさせてもらわなかったので、本当にありがたい。私の(今年の)トップニュースです」

 食事だけでなく、会話や歌にも好影響を与えているのだろう。例年以上に大きな声が取材部屋に響く。「古くから付き合いのある大阪の音響係さんからは『機械で声量は大きくできない。客席まで届かなくなったら、黙っちゃいない(引退を勧告する)』と言われています」

 体力を維持するため、普段は自宅のある西京区の裏山を数キロ走る。取材日も上桂から催しのあった下京区の京都駅ビルまでランニング。喜寿を迎えた誕生日の9日には、米国・ハワイのホノルルマラソンで外国人最多となる42回目の連続完走記録を更新した。

 「年忘れー」の初回は1968年。75年から、当時のサンケイホール支配人が年末の恒例イベントとして20代の高石を抜擢した。「当時は正月の桂米朝独演会や越路吹雪のコンサートが同ホールのドル箱。『はやり廃りとは別のもの』と認めていただいたのもうれしくて」と振り返る。

 京都では7月恒例の「宵々山コンサート」が、円山公園音楽堂(東山区)で2009年まで続いた。高石と二人三脚で企画や出演交渉を担った作家の永六輔は「私が語りで客を泣かせるには50分かかる。けれどあなたは歌ってわずか3分。飛び道具のギターを使うとはずるい」とうらやましがられた。

 それでも高石は、「語り歌」にこだわる。「ごんべんに『吾』と書いて『語る』。『舌』と書く『話す』とは別もので、大切なのは自分を伝えること。亡くなった小沢昭一さん(俳優、芸能研究家)から教わりました」

 「私からあなたへ」という関係がベースなだけに、観客が千人でも5人でも同じパフォーマンスが出せるという。大物歌手のコンサートがドタキャンになった今年の事例を挙げ、「大音響の太鼓(ドラム)やシンセサイザーを入れると、大人数でないとつらいよね。私はギター一本。『年忘れー』はバンジョーやベースが入る程度なので、お客さんが少なくても当日キャンセルすることはありません」

 公演は午後3時開演。5500円。
 ブリーゼチケットセンター 06(6341)8888。
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 2020年3月26日、福島県でスタートした聖火は、3月、4月というまだ寒さの残る時期であることから、まず南に向かい、5月上旬に沖縄県で実施した後は北上、6月中旬に北海道まで達します。
 次に岩手県に入り、その後、宮城県、静岡県など競技会場を持っている県を回り、最後に東京都に入ることとなり、2020年7月24日の東京2020オリンピック競技大会開会式を迎えます。

 この121日間という長いリレーの最終ランナーは・・・。
 いったい、だれがどのようにして選ぶのでしょう。

 私なら、迷わず高石ともやさん。
 「ホノルルマラソンで外国人最多となる42回目の連続完走記録を更新」というだけでも、最終聖火ランナーに選ばれるに値する。
     ◇     ◇     ◇

■高石ともや、人物と略歴(ウィキペディアより)

 1960年代後半の日本のフォークソングの創世期以来、現代に至るまで歌い続けている。また、マラソンランナーとしても活躍。本名は尻石友也。プロテスタントのクリスチャン。京都市在住。
 1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。
 使用する楽器は、ギター、フィドル、バンジョー、ハーモニカ、オートハープ、ベース、ドブロ・ギター、マンドリン、トロンボーン、ボーラン(アイリッシュドラム)と多彩。
 TVでは1980年代、NHK(中部地方)の番組「北陸東海」において、高石が東海・北陸7県を旅する「高石ともやの味な旅」に出演していた(なお番組出演者は後年、安田文吉(文さんの味な旅)を経て河島英五(英五のろまんちすと紀行)へと引き継がれている)。

 ランナーとしても活躍し、国内外のマラソンやトライアスロンの大会にも数多く参加している。ホノルルマラソンには、第5回の1977年(36歳)の初参加以来、毎年連続出場している[1]。
 また、日本初のトライアスロン大会(第一回全日本トライアスロン皆生大会)にて優勝を飾っているほか、トランス・アメリカフットレース(アメリカ大陸横断レース)の第二回大会に参加し日本人初の完走者となっている。
 1967年結婚。一女、一男あり。
 琵琶湖ジョギングコンサートを27年続けている。
 2012年7月、これから先20年走るために、狭窄症の手術を受ける。手術は40歳の時の胆石の手術以来で2回目。2回とも北山修の勧めで手術することになった。
     ◇     ◇     ◇
 ねっ、やっぱり聖火最終ランナーにふさわしいでしょ。
 2020年7月なら、高石ともやさんもまだ78歳。今なら、ちょっと若すぎると言えるくらいかも。

 「高石ともやさんを聖火最終ランナーに!」

 賛同者はおらんかなあ・・・。


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