2020年02月03日(月)
節分ラン [ランニング]
「ますみちゃんの写真載せたら、アクセス数増えんねん。」
「なにそれ。きもっ。」
とか言いつつ、ちょっとうれしそうな・・・。
とか書いたら、また「バシッ、ビシッ」になるかも・・・。
ヨメさんがかぶりついていたのは、「巻きずし」ではなく「ロールちゃん」。
巻きずしよりおいしかったね。
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今日は朝から、歩いていける近くの医院へ。
昨日こけた胸が痛くて。
「走ってる途中でこけて、あちこち痛い」と言うと、「さっそくおじいさんが呼んだんやな」とヨメさん。
「それはそれでうれしいやん」と私。お気楽対応です。
病院嫌いの私なのだが、ヨメさんから「京都走ろう会に迷惑かけたらあかんやろう」と言われシブシブ。
月曜は混んでいると思っていたら、意外とすいていた。診察券がなかったのでいつ以来かなと思ったら、前も走っていてこけて診てもらったんやった。
「痛いのはこのあたりですか」と言いながら押さえられた個所がバッチリ。心の中で思わず「名医!」とつぶやいた。
「肋骨にヒビがいってるんじゃないでしょうか」と私が言ったので、レントゲンを撮ってくださった。
その画像を見て、「骨はだいじょうぶです」と。「胸は打っていません」とも言われた。
セキをしただけで響いて痛いのに、そうですかー。そうなんですか。こけたときに腕を出して腱がひねれて、具合悪くなったらしい。
痛み止めの薬と湿布をもらって帰宅。
たいしたことがなくてよかったが、痛みはましになっていくんでしょうか。
レントゲンを撮ってもらったので高いかと心配だったが、全部で2000円で済んだ。
午後5時、今日は行き先を決めず走る。
走り出してすぐに、アルちゃんに遭遇。
そうそう、アルちゃんの夕方のお散歩は5時前後。
今日も、会えてラッキー。
圓通寺裏の黒犬ちゃん。
「ウォン、ウォン」と吠えていた。
急坂手前で折り返し。
ここで家から1.7kmくらい。
もう一度、黒犬ちゃんにごあいさつ。
不思議そうに、こっちを見つめてくれてたなあ。
圓通寺の塀沿いに南へ。
遠くに比叡山が見える。
京都博愛会病院へ。
多鶴子姉は「気にせんとき」と言ってくれたが、やっぱり臨終前日にお見舞いに行かなかったのが悔やまれる。
「おとちゃん、ごめんな」と言いながら拝んでおいた。
「京都乗馬クラブ」の丘を越えて深泥池へ。
遠回りをしたので、深泥池で4km。
少し走ると、ネコちゃん2ひきに遭遇。
1ぴきはあっという間に逃げて行った。
こちらは逃げずに堂々としていたネコちゃん。
さっきのネコちゃんが、道を横切った。
やっと写真が撮れた。
なーんや、いつもの「ごんぞう」やんか。
池を一周したところでもネコちゃんに遭遇。
もう暗くなっていて、うまく撮れなかった。
国際会館の横を通り、同志社の東をまわって帰宅。
9.25km、1時間09分。
キロ7分半ペースとは、またゆっくり走れたもんやねえ。
中途半端なので、10kmになるまで町内ラン。こけた翌日なのに、よく走れました。胸の痛みは、走るのにはそんなに影響なかった。
明日もしっかり走ろう。
「おっ、三毛猫ちゃん!」
たぶんこのネコちゃんは、まだ手術が済んでいない。
早う捕まえたらなあかんね。
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【きょうのきく】
かわいい寝顔。
シェパードというより「狼の子」?
夕方散歩に連れ出すと、ササッと川に向かって降りて行った。
「おっ、前足つけて水飲んどるやん。」
そうそう、きくは川が大好きやった。久しぶりに、ちょっとだけ川に入れてよかったね。
今日は野菜買いではなく、町内会の配りもののお付き合い。
町内一周、ご苦労さん。
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2020年02月02日(日)
京都走ろう会例会〜世代交代〜 [ランニング]
わたし的に、今日の例会のニュースは「若き新入会員さん」と「私の転倒」。
やっぱり、明るいニュースをトップにしましょう。
10kmの部の4kmあたり、後ろから追って来た「若き新入会員さん」に追い抜かれた。
「『鈴木さん・20歳・京大生』、ここまで公開していいですか。」
追い抜かれざまにそう聞くと、「いいですよ」と。
こんな活きのいい若者が出てきてくれたら、なんでもないところでつまづいて転倒するようなジジイは引退ですかね。
いやいやいや・・・。
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いつもよりちょっと早めに家を出ると、出雲路橋西詰の会場にはまだ誰も来られてなかった。
3.1kmコースを使ってアッブジヨグ。17分36秒。
走っているとき、少し離れたところをきれいなフォームで走り去るランナーあり。
「えっ、吉澤さんやん。なんと若々しい。」
あとでお話させてもらうと、吉澤さんは北海道旭川の出身でスキーの選手だったそうだ。その関係で短距離走にも力を入れ、「フォームがきれい」とよく言われるとのこと。
会場に戻ると、我らがアイドル・Sさんに遭遇。
この春に入学される大学の話などをくわしく聞かせてもらった。
1年に1回でも2回でもいいので、京都走ろう会の例会に帰ってきてもらえんもんかなあ・・・。
今日も多数の参加。
冬の例会と言えば「北風ピューピュー」というイメージだが、今年はそれもない。今日も10℃近くあり、無風。走るには絶好のコンディション。
「今日、長そでTシャツとランシャツしか持って来てへんねん。長そでは暑いような気がするし・・・。」
「藤井さんはランシャツでしょ。雪が降っているときでもランシャツって言ってはったじゃないですか」と中嶋さん。
「中嶋さんがゆうたし、ランシャツにしたってことにしとこう。」
結果的には、これでよかった。
幹事の三輪さんより、新入会員さんの紹介。
簡単なごあいさつが終わったあと、すぐに取材に行った。
なんと、20歳!
なんと、京大生!
京都走ろう会会員としては異色だが、末永くよろしくお願いいたします。
10kmの部は、私を含めて10名。
最後尾担当役員さんが鍵谷さん。
松山会長にも入ってもらい、スタート前の記念撮影。
さすがに、ランシャツ・ランパンは私だけ。
スタート直後に橋本さんが飛び出し、グングン離されてしまった。
私は最初の1km4分20秒、次の1kmが4分30秒で2番手。
丸太町橋でちょうど11分。
丸太町橋で折り返し北上すると、もうすぐ後ろに鈴木さんが迫って来ていた。
けっこうねぱって4kmあたりまで。しかし、そこで抜かれてしまった。
出雲路橋で22分30秒(11分29秒)。
そのちょっと先で5km、22分53秒。
後半がんばらないと、45分台ゴールはむずかしい。
5kmの部トップのみきちゃんをパチリ。
吉澤さんを撮ろうとしたら、速くてちょっと枠外へ。
このあと北大路橋をくぐったところ(6km手前)で、突然前にバッタリ。なんとか手が出たが、左ほほと左胸を強打。
時計も止まってしまったが、すぐに立ち上がり、時計も再開してスタート。(あとで計算すると、この間6秒。)
あちこち痛かったが、行ってまえー!
御薗橋を折り返してきた橋本さん。
余裕の表情だった。
2番手は鈴木さん。
こちらもにこやか。
私は34分36秒(12分05秒)。
またまたゴール45分台が微妙になってきた。
「痛いもクソもない、しっかり走らんかい」と自分にハッパをかけて走った。
ゴールはなんと、46分00秒(11分23秒)。
1月第1例会の45分59秒とほぼ同じ。
こけてもがんばって走れたのは、先を行く鈴木さんおかげ。やっぱり参加者が多いと、レース感覚で走れるのでいい。
ゴールしたとき、「顔に血が・・・」と言われた。
吉田康彦さんにお願いして顔のアップを撮ってもらった。左のほほの腫れはよく見ると分かります。でも、血が付いているところはよく分かりませんね。
さあ、後続の仲間の応援へ。
これで私も2kmのダウンジョグができた。
もろもろ入れて全部で16km。
こけてしまったのは想定外だったったが、今日は次のレースに向けていい練習になった。
あごについていた血は、あごから出たものではなく、手の血がついたものだった。そらそうや。こけてあごを打つほど、私のあごは長くない。
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2020年02月01日(土)
走っていれば福来る [ランニング]
「なあ、きくちゃん。オッサンは走っとったら機嫌がええねん。きくちゃんはもう走るのはしんどいやろうけど、しっかり歩こうなあ。」
今年の目標は、バイト日以外はできるだけ走る。月に20日以上で200km以上走る。
1月のバイト日は8日間。残りの23日走れる日があったのだが、さすがに父のお通夜の日は走る時間がなかった。でもそれ以外の日は走り、22日、237.9km。よくできました。
2月も走るどー。
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去年は1日5kmが基本だったので、「たったそれだけ?」とよく驚かれた。
今年は、できるだけ10km以上走る日も作って行こう。(それ以上は無理。)
午後5時半くらいから。
このごろGPSの捕捉が遅くなり、まずは町内を1kmアップジョグ。
ネコちゃん、けんかの寸前でしょうか。
あらためてスタート。
恵光寺さんのありがたいお言葉。
誰かの受け答えは
「そやけど」より
「そやなあ」
がええ。
暗くてよく見えなかったが、だいたいこれであっているでしょう。
私の曽祖父・幾次郎は前者、祖父・駒夫は後者だったようだ。父・善一は冷静沈着に物事が判断できる人間だったので、そのどちらにも当てはまらない。私はそもそも返事をしないような人間なので、これもまたどちらにも当てはまらないのかも。
東北部クリーンセンター前で2.5km。
この小さい峠を越えると、あとは下り。
京都産業大学のグランド前で5kmにちょっと足らず。
グランドに上がる道を駆け上がる。
5km、31分03秒。
ウインドブレーカーを着て走り出したが、すぐに暑くなって脱いだ。
帰りの十三石橋の近くの寒暖計は2℃。
それでも暑く感じたのは、風がまったくないからだと思う。
家に帰って10km、1時間01分55秒(30分52秒)。
近くにガレージをお借りしたので、家の前の景色が変わった。なんか変な感じ。
ダウンジョグ1kmをプラスして、今日は12km。
毎日これくらい走れたらいいんやけど・・・。
父の通夜・葬儀が終わり、やっと落ち着いた。
「くみやまマラソン」のとき、そうへいさんからもらったビールやお菓子をありがたくいただく。
「ああ、味わい深い。」
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【今日のきく】
寝てばっかりは、あかんでー。
また、近くの田んぼに連れてきた。
きくをつかまえて、記念撮影。
ちょっといやがってます。
アルちゃん登場。
アルちゃんは「あそぼ」と言ってくれているのに、きくは知らんぷり。
アルちゃんみたいにいい性格のワンちゃんと、仲良く遊べたらよかったのにねえ。
もう、きくはなんにも興味がないみたい。ごめんな。
夜のお散歩は2人引き。
きくが歩くのをしんどがったら、私の肩へ。
このスタイルにも慣れてきて、きくが暴れるということはありません。
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2020年01月31日(金)
享年、百歳! [家族]
「お亡くなりになったご年齢を紹介させていただくとき、満年齢であったり数えの年齢だったりまちまちなんです。お寺のご住職様がおっしゃられる年齢に合わせてご紹介させていただくことにいたします。」
葬儀会館の係の方がそうおっしゃった時は、「ふーん」という感じで聞いていたのだが、いざ紹介というときに「百歳」とアナウンスされてうれしくなった。
「うちのおとちゃんは、1世紀も生きたんや!」
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怒涛の3日間でした。
1月29日(水)、私は寮1に17時間バイト。
この日に限って午後に新入寮生が2名あり、バタバタしていた。一息ついてケイタイを見たのが4時過ぎ。すると、めったにかかってこない兄からの着信記録と留守録があった。
3時27分着の留守録では「おじいさんの具合が悪いので、一応知らせておきます」と。しかし4時にも着信記録があり、その分は留守録にはなっていなかった。
ゆっくり電話している時間もないので、ヨメさんに連絡し、兄に電話してもらにうことにした。その15分後、ヨメさんから「おじいさんがなくなられました」と。
あとで分かったのだが、父が亡くなったのは午後3時34分。私が新入寮生にいろいろと説明している時間だった。
ああ、それにしても・・・。父が亡くなる7分前にしか連絡してもらえない末の弟。まあ、ふだんがふだんですから。
11時過ぎ、寮の戸締りをして勤務終了。
父のお通夜、葬儀を行う会館は堀川今出川。私の勤務地からすぐだった。
会館に着くと、もうほとんどの者が一旦帰宅していた。多鶴子姉夫婦がお泊りをしてくれるとのこと。
「昨日な、期日前投票で左京区役所に走って行ったんや。その帰りに病院に寄る予定やったんやけど、雨がザーザー降ってきて、寄らんと帰ってしもてん。帰ってそれが心残りやわ。」
「そんなもん、気にせんとき。」
泣き虫弟とちがって、多鶴子姉はいつも強い。
1時前までしゃべっていたのだが、あとは姉夫婦に任せて帰宅した。
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1月30日(木)、東京に単身赴任中の廉が帰ってきてくれた。(真樹は沖縄なので、「帰って来なくていい」ということにした。)
廉が帰ってきたら、さっそくきくちゃんをかまってくれた。
これは「ハブ巻き」。
きくちゃんもうれしそう。これで長生きできるわ。
私は兄に頼まれた「父の写真」を探してプリントアウト。これがけっこう時間がかかった。
ヒマを見つけてちょっと走りに行ったろうと思っていたが、さすがにお通夜当日は無理でした。
午後7時からお通夜。
なんと立派な祭壇なこと。
でも、数え「百歳」の父にはこれくらいがふさわしい。
「孫一同」からのお花には、廉と真樹も入っている。
孫は14人、ひ孫は25人らしい。(孫は全員の名前が言えるが、ひ孫は無理。)
受付には、私のまたいとこにあたる春嗣さん(じんろく)と宗明さん(そうは)、そしてうちの廉。我が家からお役に立てる要員が出せてよかった。
「あっ、戒名の中に『俊子』の『俊』が入っとるわ!」
私が一番に気づいた。
父の戒名は「善峰俊英居士」。「善一」の「善」と(私の母)「俊子」の「俊」が仲良く入ったいい戒名だった。
最後のお礼のごあいさつも、さすが兄。
言うことなしのいいあいさつだった。
そのあと別室で会食。
「兄弟4人で撮っとき」と言われ、お言葉に甘えまして。
私の左へ、8歳上のみき江姉、7歳上の優三兄、4歳上の多鶴子姉。
「父に似てかっこいい者はだれもいない」とよく言われる。
孫最年長の淳。もう49歳だそうだ。
Vシネマの男優感がすごかったのでいっしょに写真を撮ってもらったのだが、「いいお父さん」にしか見えません。
もう一枚撮り直したのがこれ。
この写真はなかかな強面感が出ている。
なんちゃって、私にとっては一番かわいい甥です。
控室に戻り休けいしていると、「棺桶のふたがずれとる」。
「ああ、さっきまあちゃん(私の姪)がふたごとあけて、おじさんさわっとったわ。」
「なんちゅうことすんねん。」
本人にくわしく聞くと、しっかりとした考えがあった上での行動とのことで感心した。死がどういうものであるかを、子どもたちにしっかり感じさせてやりたいとのことだった。
甥や姪と話す機会はあまりない。こんなときこそ、しっかりしゃべっとかなあかんね。
今夜は、優三兄夫婦と多鶴子姉夫婦が泊まってくれる。私も一応泊まる用意をして行ったのだが、用なし。先に帰っていたヨメさんにお迎えに来てもらい帰宅。
もちろん、私の用事はきくのお散歩。
ちょっと前までしたばっかり向いていたきくが、顔を上げて歩いてくれることがうれしい。
ほんまにほんまに、きくには長生きしてもらわな困る。
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【RUN】
1月30日、葬儀当日。
朝から左の耳の下が腫れる。ものが食べづらい。
「お医者さん、行ってき―」とヨメさんに言われたが、そんな時間があるんなら走りに行こ―。
10時、ちょっとでも走ろうとスタート。
一応喪に服して、黒いウインドブレーカー上下で(?)。
いつもの十王堂橋往復5km。
すれちがう叡電の車両も、喪に服して(?)深緑色。
5km、28分03秒。
ゆっくり走るつもりだったのに、そこそこ速く走れた。
今日からやっと冬らしい天気。
雨が降っていたかと思えば晴れ。そしてまた雨、晴れ、雨、晴れ。
そんな天気もまた、葬儀の日の印象として残るんでしょうね。
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1月30日午後1時半より葬儀。
(注)もうちょっと、続きます。
29年前の母の葬儀は、いなかの家で行ったので500名以上の方が来てくださった。雪の中大変だった。
今回は親族と町内以外はご遠慮願ったということで、100名程度になるらしい。いなかからは、マイクロバス2台で来ていただくとのこと。
今日の受付には、彩ちゃんにも入ってもらった。
うちの親族の中では、一番受付にふさわしいかも。
「焼香のお香には何が使われているか」があとで話題になった。
「あの七味みたいなやつなあ・・・。」
◇ ◇ ◇
焼香で使われる抹香とは
香木を刻み混ぜ合わせた供香のことで、直接火種にくべて焚く他、火種として使われます。混ぜ合わせる香木は基本的なもので5種類あります。
白檀(びゃくだん)熱帯性常緑樹で甘い香りが特徴で、サンダルウッドと呼ばれています。
沈香(じんこう)香木の中で高級とされるジンチョウゲ科の沈香樹から摂れる香木です。
丁子(ちょうじ)フトモモ科の常緑高木で、クローブと呼ばれています。
鬱金(うこん)ショウガ科の多年草で、根茎を乾燥させて使います。
龍脳(りゅうのう)龍脳樹の樹脂から摂れる塩状の結晶で、ボルネオールと呼ばれています。
その他、甘松香や安息香が、かつては使われていましたが、現在は樒(しきみ)が使われています。
また、10種類以上を配合しているものがあり、等級の目安として使うことがあります。
父のスライド上映。
私が撮った餅つきの写真も採用してもらえてよかった。
今日は、宗仙寺の一番偉いお坊さんが来てくださったそうだ。
兄・優三からお礼のごあいさつ。
昨日のお通夜の時とまたちがうあいさつで、すごくよかった。
参列者の写真もちょこっと。
孫とひ孫なんで、いいですよね。
棺にみんなで花を入れて行った。
最後にご住職も。
真樹は沖縄なので無理やったけど、うちからはヨメさんと廉彩夫婦が参列できたのでよかった。
最後の花束は、ひ孫代表の二人が。
そのあと、山科の火葬場へ。
棺といっしょに、喪主・優三、遺影・みき江、骨壺・廣司が車に乗って行った。それ以外は、マイクロバスで。
火葬場は撮影禁止なので写真なし。
帰ってすぐに初七日の法要。
そのあと「藤井善一を偲ぶ会」「になった。
参加者は極々身内の20名ほど。
(藤井善一を偲ぶ会で)
善一の次男の廣司です。父が34歳、母が30歳の時の子で、今64歳です。
父のことで一番心に残っているのは、私が小学1年くらいの時のことです。そのころ牛を飼っていて、田んぼを耕すのに使っていたんですが、「まんきがさす」といって突然暴れ出すことがありました。
うちの家から30mくらいのところに田んぼがあって、居間からそこが見えます。ある日その田んぼを見ていると、牛が暴れ出し、父が牛の角を捕まえておさえつけていました。ビックリしました。すごい力やなあと思いました。
それともう一つ。
父が農協に勤めていた時のことです。私が小学校の低学年の時だったと思いますが、一晩で1m近くの雪が積もったことがあります。
学校は休みになったんですが、父はその1m近く積もった雪の中を、ただ一人で農協に向かってガシッガシッと歩いて行きました。その後ろ姿は今も忘れられません。
この二つは今まであまり人には言っていない話ですが、こんな父をずっと誇りに思っています。
つ 今日は棺おけに手紙を書いて入れようと思っていました。でも、忘れてしまいました。
「おじいさん、お散歩に連れて行ってくれてありがとう。えりより」と書こうと思っていました。えりというのは、10年以上前に死んだうちの犬です。
私らに用事があっておじいさんに散歩を頼んだとき、えりを迎えに行こうと思ったら、遠くの田んぼの下の方からおじいさんがえりを連れて上がってきたんです。散歩を頼んでも適当にしておくと思っていたのに、こんなたくさん散歩してくれたんやとうれしくなりました。父の意外な一面を見た気がします。
以上です。
父の思い出はいいことばっかりでいやなことは一つもありませんでした。
参加してもらった中の最高齢は父の弟夫婦だが、その次の年配者に当たる春嗣さん。最初のごあいさつをしてくださった。
お料理とヨメさんの写真。
横にいた兄が、「いっしょに撮っといてもらおう」と入ってきた。
兄がほとんど残していたのを、ヨメさんが心配していた。喪主が大変で、食べる気にならへんかったのかもしれん。
うちの本家から克己のおっちゃん(私のまたいとこ)が来てほしいところだったが、代わりに次男の和彦君が来てくれた。なかなかいいお話をしてくださった。
遺影と共に、お骨の横で記念撮影。
バタバタとした3日間だったが、これで一区切り。
29年前に母が亡くなった時は、「まだ父がいるのでだいじょうぶ」と思っていた。でも、もうこれで私の後ろにはだれもいない。
29年前までは「善一・俊子の息子」を前面に出し、そのあとは「善一の息子」で大きな顔をさせてもらった。
「これからは『優三の弟』で世の中渡って行こうかなあ」と言うと、兄は笑っていた。
「自分の力で生きられんのかい!」
思っていたより早く帰れて、きくちゃんも何事もなく無事だった。
長めのお散歩にも行けてよかった。
きくはまだ15歳にもなってへんのやから、まだまだ長生きしてもらわんとね。
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2020年01月30日(木)
大いなるものを失って [家族]
1月29日午後3時半、父・藤井善一が亡くなりました。
私の母・俊子が亡くなったのが、1991年1月11日。それから29年、よくひとりでがんばったものです。
私は4人兄弟(姉・兄・姉)の末っ子で、お母さん子だと思いこんでいた。でも、そうでもないのかもしれない。
母が亡くなったのが私が35歳の時、父は私が64歳の時なので付き合った長さがちがう。ほんとうに大きなものを失った。
もう私のバックにはだれもいない。
今夜がお通夜。
明日がお葬式。
父がほめてくれた私の記事を載せておきます。
ぜひ見てください。
「1945年8月15日 」
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2020年01月29日(水)
時代錯誤の下品な広告 [時事]
1月26日の京都新聞を見てビックリ。
「タイムスリップしたか?」
ビラでは似たような内容のものを見たことはあるが、新聞広告でこんなんを見たのは人生初ですね。
悪代官が「金にもの言わす」というか、いったいいくらかかっているんでしょうね。良識ある京都市民が、この下品な広告をどう判断されるか・・・。
私も現京都市長も60歳代。「反共は戦争前夜の声」という言葉を知っている世代なのに、そのリスクを分かった上での博打広告でしょうか。
私を左翼(共産党系?)と勘違いしている人もおられるようだが、それは大まちがい。なんの関わりもありません。私が一番好きなのは、沖縄の喜屋武真栄元参議院議員のような「革新統一候補」。(ああ、これも死語ですね。)
過去の記憶をどんどん忘れてしまっている私が、この広告をきっかけに鮮明に思い出したことがある。
過去を辿ること40年。
私がやっとのことで小学校教諭になったころ。最初に赴任したのは大原小学校百井分校。そこで児童1人の担任に。でも、へき地校(別所小学校)出身の私にとっては、お隣の百井分校に赴任を命じられたのは名誉なことと思っていた。
「労働組合は、困っている人、弱いものを助ける組織です」と説明され、すぐに仲間に入れてもらった。いざ入ってみると、一番力を入れているのが「授業研究」。ええ加減なルートをたどってギリギリ採用された私にとっては、こんな「ためになる」ありがたいことはなかった。
そんなある日、組合のへき地部が教育委員会に待遇改善要求する会合に出席することになった。
京都市役所内の京都市教育委員会に出向き、へき地校で困っていることを要求させてもらった。その要求のほとんどが、自分たちの待遇ではなく子どもたちに関わることだった。
ところがその答弁に立っているのが、並み居るお偉いさんではなく20代の一係員。「何から何までペラペラと答えてるけど、中身はゼロ回答やん」「お偉いさんたちは言ったことをあとで追及されると困るから、こんな下っ端に答えさせて、あとは責任逃れしようとしてるんやなあ」と思っていた。
その中で、へき地校出身者である私が一番腹が立ったこと。
社会見学に出て行こうにも交通費が莫大にかかる。わずかな補助が出てはいたのだが、それを増額してほしいと言ったときのこと。
「へき地には豊富な自然環境があるわけですから、それを生かした授業に力を入れてもらって、わざわざ街に出てくることにこだわる必要はないのではないかと思います。」
「はあ? 田舎者は田舎に引っ込んどれちゅうこと?」
もちろん新採の私がそんな発言をできるわけがなかったが、へき地校の児童がバカにされたようではらわたは煮えくり返っていた。
その時答弁を一手に引き受けていたのが、当時教育委員会の一係員だった「かどかわ」さんです。
今も40年前も同じ、人を小バカにしたような答弁で活躍した一係員は、のちに教育長に上り詰め、そこで終わらず市長にまで。
これは選挙妨害でもなんでもない。私自身が目の前で見た光景です。40年たって細部は正確さを欠くかもしれないが、同じような証言をしてくれるであろう仲間はいっぱいいます。(昔の仲間がボケていなければ・・・。)
私の父の教えは、「最初に顔を見たら、その人がどんな人かだいたいわかる。のちにその評価が覆ることはほとんどない」。
申し訳ないけど、私の40年前の最初の評価は覆ることなく今も続いている。
(ひとさまのことをほめるにしてもけなすにしても、憶測ではなく、こういうふうに自分の目で見たことをもとにして話してほしいと思う。)
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◎五十嵐仁(法政大学大原社会問題研究所)の転成仁語より
4月29日(金) 再びかみしめるべき..
〔以下の論攷は、『六町だより』第25号、2016年4月号、に掲載されたものです。〕
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」
これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。
悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。
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