2017年10月16日(月)
久米島行き危うし [ランニング]
◎tenki.jpより
台風21号 今週末以降 列島に影響か
台風21号は「非常に強い勢力」に発達し、北上する予想です。21日(土)には日本の南へ進み、沖縄は荒れた天気の恐れも。本州付近に延びる秋雨前線の活動が活発化する可能性もあり、台風の動向に注意が必要です。
◆台風21号 非常に強い勢力へ
今日(16日)の午前3時、台風21号がフィリピンの東のカロリン諸島で発生しました。台風21号は今後もフィリピンの東をゆっくりと北上する見込みです。この海域の海面水温はまだ高く、18日(水)には「非常に強い勢力」にまで発達する予想です。台風の強さは最大風速で決まり、下の図の通り「非常に強い勢力」とは最大風速が44メートル以上54メートル未満で、上から2つ目のランクです。
台風21号は21日(土)には日本の南に進むでしょう。台風の進路によっては、沖縄では21日(土)頃から荒れた天気となる恐れがあります。台風がこのまま勢力を保って北上するかはまだ分かりませんが、沖縄近海はまだ海面水温が高いため、油断はできません。
◆台風と秋雨前線
もう一つ懸念されるのが秋雨前線です。この先も秋雨前線が南北に動きながらも本州付近に停滞する見込みです。台風の北上に伴い、台風周辺の湿った空気が流れ込むため、21日(土)頃から前線の活動が活発化する恐れあります。太平洋側を中心に雨が強まる可能性もあり、注意が必要です。
その後の台風の進路はまだはっきりしません。
ただ、台風は太平洋高気圧の縁に沿うように進むことがよくありますが、今週末頃から日本の東に太平洋高気圧が張り出す見込みです。今週末から来週前半ぐらいにかけて、台風の動向に注意が必要です。
(2017年10月16日 16時37分)
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えらいこっちゃ!
台風21号、何してくれる。
楽しみにしている「久米島マラソン」は10月22日。
20日(金)の神戸→那覇、那覇→久米島はたぶんだいじょうぶとしても、22日の大会当日がまともに台風通過日になりそう。
ひょっとして、久米島のホテルに3日間缶詰で帰ってこんなんかもしれん。ただ久米島に行って帰ってくるだけになるかも。
そんなことなら22日の神戸→那覇便が欠航になった方が、その後のツアー分がキャンセルできるしいいのかも・・・。(沖縄のツアー会社は、台風によるキャンセルは全額返金してくれる。LCCの帰りの分はダメだと思うが。)
台風がそれてマラソン大会が予定通り実施されることを祈ろう。
せっかくいい感じで調整できてるんやから。
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【今日のきく】
今日は朝から、なぜか私になついているきくちゃん。
一日雨の予報だったが、夕方ちょっとだけ小やみになった。
17時36分のバスに乗るオバサンの見送り。
いつも通り、22時40分着のバスで帰ってくるオバサンのお迎え。
今度はきつめの雨で、短時間の間にけっこうぬれてしまった。
きくの大好きな、「ごおー」だよ〜ん。
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【RUN】
今日はずっと雨だったので、走るのはお休みでもいいと思っていた。
ところが、夕方ちょっとやんだ時があった。
玄関の蛍光灯がちょうど切れたので、「コーナン」まで走って買いに行くことにした。
以前はよく走っていたコーナン往復。
コーナンまでは2.57km、16分22秒。
蛍光灯を買って、持って走る。
家まで2.61km、17分11秒。
まあ、今日は軽くこんなところで。
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2017年10月15日(日)
京都走ろう会例会〜駅伝延期で通常例会〜 [ランニング]
今日はKRC駅伝の日。
去年は同じチームの1区ヨメさん、4区私で優勝させてもらった。今年も天気が良ければ二人で参加させてもらおうと思っていたが、朝からポツポツ降っていた。
仕方ないので私一人で出かけるかと、京都走ろう会のホームページをちょこっと見てみると・・・。
◇ ◇ ◇
KRC駅伝は開催当日荒天が見込まれるため
11/5 (第1例会日) に延期いたします。
なお通常例会は実施いたします。
◇ ◇ ◇
あらら、今日は4区4.8kmをぶっ飛ばすつもりだったのに・・・。
「10kmをゆっくりと」に変更です。
9時半過ぎ、いつものコインパーキングに車を入れ出雲路橋へ。
途中2ひきのネコがじゃれあっているのかと思ったら、ミケ1ぴきでした。
いつもの集合場所に行くと、なんと美人ランナーがお二人来られているだけ。もう9時40分を過ぎているのに、役員さんは一人も来られていなかった。雨模様だと、こんな感じなんですかね。
私はいつも通り1.4kmコースを使ってアップ。6分58秒だったのでキロ4分40秒ペース。このペースで10km行きたいなあ。(10km、46分40秒。)
出雲路橋に戻った時、後ろから声をかけてくれるランナーあり。
私を追い抜いて軽快に進んでいくのは外峯さん。
私の後ろ姿だけで識別できるというのは、「頭のハゲ具合からかなあ」と思ったりして・・・。
いつも計時してくださっている村瀬さんが、銀杏をくださった。お友だちがきれいにパーケージして、大原野で販売されているのだそうだ。
ありがとうございます。私の大好きな茶碗蒸しに・・・。胆のう炎でタマゴがあかんのですけどね。
河川敷では「鴨川走友会」が練習会をされていた。かたまって走ってられるのを見た中嶋さんが、「私は集団走って苦手なんですよねえ。マイペースで走りたいほうなんで」と。いっしょやいっしょや。それを聞いてうれしくなった。練習は一人でするもんやん、ね。
中嶋さんは私と同じ一匹狼・・・、いやいや女性に狼は気の毒やから「一匹カモシカ」かな。
三輪さんの指導による準備運動。
「今日は10人くらいか知らん」と心配していたが、次第に増えてきて、けっきょくいつもと変わらないくらいにぎやかに。
御薗橋下の通行止めのため、5kmと10kmのスタート地点がほぼ同じところになった。これで両方のスタート前の写真が撮れた。
こちらは5km。
いつも私の背後に迫る中嶋さんや、女子高校生ランナーは5kmコースへ。
10kmは私を含めて7人。
ちょっとさびしい。
スタートしてすぐに3人が前へ。
松本さんや北出さんが来ていないのに、いきなり4番手かいな。やっぱり昨日の16km走が効いているのか、足が思い通りに動かない。
丸太町橋を折り返して一番は山越さん。
次は一日会員さん。
あとで、小田さんと分かった。
3番は内田さん。
ブレてしまいました。
丸太町橋までは下りなので、キロ4分40秒ペースで行けていた。
スタート前はポツポツの雨だったが、次第にきつくなってきた。天気予報通り。
私の後ろに斉藤さん。
続いて、安本さん、鍵谷さん。
出雲路橋手前で5km、23分23秒。
これは後半そうとうがんばらないと47分を超えてしまう。
「写真撮らせてねー」と声をかけたらニッコリ。
若くて元気な子が参加してくれると、すごく励みになる。
御薗橋下の通行止めの前には吉田康彦さん。
私たち10km7人のために、ご苦労様です。
ここまでの上りは下りよりは遅くなったが、キロ4分50秒を超えることはなかった。残りの約2.5kmの下りをがんばればそこそこのタイムが狙える。
北大路橋北に「鴨川走友会」のエイドあり。そこに走り終えられた外峯さんの姿。その応援の声に奮起し、最後の600mほどをがんばる。
いつも北大路橋をくぐり終わってからゴールまで3分近くかかっているのだが、今日は2分45秒で。
ゴール46分47秒。
なんと、後半23分24秒で前半とほぼ同じ。後半がんばりましたねえ。
体が冷えないうちに、ダウンジョグを兼ねた仲間の応援へ。
斉藤さんを見守る松山会長。
安本さん、ずぶぬれでも笑顔でした。
最終は、鍵谷さん、吉田康彦さん、岩井さん。
カモがちょっと迷惑そう。
最後は本降りになってしまったが、みなさん力強く走っておられました。
次回11月5日がKRC駅伝です。
今度こそいい天気になればいいですね。
私は土山マラソンに出張販売で、参加できませんが・・・。
私は、雨でも元気なランシャツランパン姿でした。
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2017年10月14日(土)
丸太町橋往復 [ランニング]
久しぶりにお会いでき、少し話もできてうれしかった。
古くからの走友・朝日直樹さん。
私はまったく気づいていなかったのだが、朝日さんのほうから「藤井さん!」と声をかけて来てくださった。
以前はよく「鴨川ゆっくりラン」やウルトラマラソンでお会いしていたのに、最近はサッパリ姿を見なかった。くわしくお聞きすると、それは勤務体制の変化が理由であったようだ。
土日はいそがしく、平日は比較的時間が取れることが多いらしい。
ということは、大会でお会いすることは望めないが、こうして平日に鴨川河川敷を走っていると会える可能性が高いということですね。
また、このへん走りに来ますねー。よろしくー。
今日は24時間バイトからの朝帰りなので体が重い。
ゆっくり、ちょっと長めに走りたい。となると、やっぱり鴨川ですね。
出雲路橋くらいで折り返すと、往復で11kmになる。それを目標にスタートした。
9月末に新しい御薗橋が半分完成。半分ずつ作って合体させるらしい。
ここまで3km、約16分。
出雲路橋で5.5km。
足の具合もまあまあなので、もう少し行くことにした。
丸太町橋まであと2.5kmなので、そこまで行くか。
出町辺りの左岸はつながっていないので、右岸に渡ろうと思っていた。
そこで下流から走ってきた人が「藤井さん!」と。
お久しぶりの朝日直樹さん。
あいさつだけしてすれちがったが、立ち止まってしゃべったらよかったなと後悔した。でも私はもうすぐ折り返すし、たぶん朝日さんも折り返して走られるだろうから、もう一度会える可能性はある。そう思い、先を急いだ。
丸太町橋の中間でちょうど8km、43分18秒。キロ5分24秒ペース。
折り返したら緩やかな上りになるし、ちょっと時間がかかるかなあ。
ここから、ネコちゃんの応援が始まった。
飛び石を渡ろうかとも思ったが、この風情を楽しんでおられる方の迷惑になるしやめておいた。一旦上の道に上がって、また河川敷へ。
またネコちゃん応援。
あっ、応援してくれてへんな。
ネコちゃん応援3びき目。
こいつは応援してくれている感じ。
これは、いつも出雲路橋の近くにいるネコちゃん。
元気そうでよかった。
やっぱり会えましたー、朝日さん。
ここでは立ち止まり、長話。
「朝日さんて、救急救命士ですよね。」
「いえ、救急車には乗ってましたけど、救急救命士ではないです。」
ここから話がいろいろと。
お歳が46で、家がこの近所・・・。
ひょっとして上賀茂小学校の卒業生?
私が上賀茂小で最初に教えた子は、確か今46歳くらい。
ひょっとして、ひょっとして・・・。
今度会ったら、その辺聞いてみようっと。
朝日さんから、「太田さんも走ってられましたよ」と聞いた。
ほんまや。元気に走ってはるやん。
しゃべらず、写真だけ撮らせてもらった。
ネコちゃん、朝日さん、太田さんのおかげで、上り坂も疲れ知らず。すごくいい感じで走ることができた。
「京都キャロット」の写真を撮ると、入り口にきくちゃんの姿。
きくは鼻はきかないのに目はきくようだ。私を見つけて、のそのそと出てきた。
「ダメダメ」と合図してスルー。
自宅前で16km、1時間26分29秒。
帰りの8kmは43分11秒。下りよりちょっとだけ速い。がんばりましたなあ。
思いもかけなかった人にも会えたし、ゆっくり走った割にはいい練習になりました。
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【今日のきく】
土曜朝帰りの時、ヨメさんはたいていまだ寝ている。
金曜が実習で、そのあといろいろと書きものをしなくてはならないらしい。それで夜なべをしている。夜遅くに寝ているので、朝の7時はまだ就寝中。
ここできくの登場。
「オバサン寝てるし、オッサン散歩行って―!」
「行かなしゃーないな。」
朝早い時は、きくはきくなりに気を使うのか「もっといっぱい」と要求はしない。
実はかしこい犬なんです。
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2017年10月13日(金)
「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」 [映画]
◎シネマトゥデイより
■(C) TBSテレビ
製作年:2017年
製作国:日本
日本公開:2017年8月26日 (ユーロスペースほか)
上映時間:1時間47分
配給:彩プロ
カラー(一部モノクロ)/ビスタサイズ/ステレオ
■見どころ:占領下の沖縄で米軍の弾圧にひるむことなく非難の声を上げ続けた政治家の瀬長亀次郎氏の人生をひもとくドキュメンタリー。2016年にテレビ番組「報道の魂」で放送された内容に追加取材や再編集を行い、瀬長氏の闘いを描く。監督は、長年TBSでキャスターを務めてきた佐古忠彦。テーマ音楽を坂本龍一が担当する。
■あらすじ:第2次世界大戦後、米軍統治下の沖縄でアメリカに抗った瀬長亀次郎氏。演説会を開けば何万人もの人々が押し寄せ、祖国への復帰に向けて民衆を先導し、那覇市長選挙で当選する。度重なる弾圧を受けながらも立ち向かい、アメリカを恐れさせた瀬長氏を写真や映像、彼の次女や元沖縄県知事の稲嶺惠一氏らの言葉で紹介する。
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◎琉球新報2001年10月6日
「私は米軍が一番嫌いだ」/瀬長亀次郎語録
▽「白、黒で争うべきではない。アメリカは軍用地料を支払え、祖国復帰を勝ち取ろうと叫ぶべきだ。瀬長一人が叫んだなら50メートル先まで聞こえる。ここに集まった人たちが声をそろえて叫べば、全那覇市民まで聞こえる。沖縄の90万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を越えてワシントン政府を動かすことができる」(1950年9月13日、沖縄群島知事選挙の立会演説会で)
▽「瀬長の口を封じることはできても、虐げられた幾百万人の口を封じることはできない。被告瀬長の耳を閉ざすことはできるが、一般大衆の耳を閉ざすことはできない。被告瀬長の目は砕かれ盲目にされても、世界の民衆の目を砕き盲目にすることはできない。被告瀬長を投獄することはできても70万県民を閉じ込めることはできない」(1954年10月18日、人民党事件裁判に第2回公判で不宣誓陳述)
▽「2時間40分の最終弁論を準備したが、十分間に制限したのは米琉検察官の自信のなさを表している。この裁判は明らかに政治的裁判である。階級裁判であり、植民地裁判である。この裁判が世界の人民に軍事的支配の弱点を暴いた。最終的判決は世界の働く人々によって行われるだろう」(1954年10月21日、人民党事件裁判の最終弁論)
▽「私は11万市民のために市政に精魂を傾け、何一つ悪いことをしていないにもかかわらず、財界や軍の威力をかさに着た24人の議員によって不信任された。私は断固汚辱の市会に解散を命ずる。近く市会議員選挙が行われるが、彼ら24人の中から一人でも当選することがあれば、那覇の街は暗黒に化するであろう」(1957年6月17日、那覇市議会の瀬長市長不信任案可決後、議場で傍聴人に訴え)
▽「基地権力者による私の追放は一応成功したようだが、50日後の市長選挙の結果、再び第二の瀬長が現れ、基地権力者に対する市民の無言の抵抗を示すであろう。不当な圧迫、干渉に対しては四原則貫徹、祖国復帰を掲げた闘争を断固継続することを宣言する」(1957年11月25日、那覇市議会が2度目の市長不信任案を可決した際の弁)
▽「国政参加は実現したが、日米帝国主義との戦いはこれからだ。佐藤-ニクソン会談はまやかし。沖縄の核を認めた形での返還であり、基地の自由使用を認めたものだ。基地をなくし、アメリカのいない沖縄をつくることが県民の願い。その願いを国会に持ち込み全面返還に努力する」(1970年10月23日、国政参加選挙の第一声)
▽「国会では真っ先に返還協定の内容を明らかにさせ、米軍の撤退、布告布令の廃止、一切の損害補償、基地買い取り、資産買い取りの取りやめを実現させる。アメリカの占領が続き、真の復帰が実現しない限り、人民党は存続する」(1970年11月16日、国政参加選挙の当選の抱負)
▽「私の発言時間は十分に制限された。かつて軍事裁判で私は2年の懲役を受けたが、その際、判事が私の申し開きの時間を十分と制限した。発言を保証し、その時間も均等にすべきだ。各委員の配慮を求める」(1970年12月3日、衆院沖特委)
▽「私は日本共産党が好きだ。常に国民のために節を曲げずにきたからだ。私は米軍が一番嫌いだ。連中はうそばかりついている。沖縄は米軍に支配され、苦しめられてきた。毒ガスを持ち込んだり、核兵器を持ち込んだり、県民の貴い生命を虫けらのように扱ってきた。こんな連中を好きになれといっても無理だ」(1971年、地方選挙応援の全国行脚で)
▽「祖国復帰の原点について述べたい。これは遺骨だ。それは風にさらされ、大地と化している。その母なる大地は何を求めているのか。再び戦場にするな。沖縄を平和の島にして返せ、と叫んでいる。これが原点である。この県民の切なる願いに対し、一国の総理として責任を果たすのか」(1971年12月4日、衆院沖特委で佐藤首相を追及)
▽「沖縄のことわざに『ユクシェ、ジョーヌエーカントゥラン(うそは門を出る前にばれるもの)』というのがある。(略)核を抜けば部隊の任務がなくなる。沖縄にはハブという毒ヘビがいる。これから毒牙を取ったらハブではなくなる。任務がなくなった部隊はどうなるか」(71年12月4日、沖特委で福田外相が「沖縄に核があるとにらんでいるが、返還後は核はなくなる」と答弁したことを追及)
▽「沖縄を再び灰にしようとする米軍と安保条約というマジムン(魔物)、沖縄経済を食い荒らし吸い上げている大企業というマジムン、これらに全面奉仕している自民党というマジムン。このマジムンを日本共産党の躍進で退治しよう」(1984年、県議選の応援演説で)
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今日は寮2(出町)24時間。
昨日見た映画のことを思い出していた。
映画を見て思うことは人それぞれ。
私はこの映画の中で2つのことを思った。
1つは、「恐いから攻撃する」ということ。
トランプさんも金さんも、恐くて恐くてしょうがない人なんでしょうね。ネトウヨと呼ばれる人たちもそうかもしれない。そういう人たちに、この映画を見てほしいなあ。
もう1つは、「政敵も排除しない」ということ。
那覇市長職を追い落とされたあとの後継者選びの選挙で、カメジローさんの後継者が当選。しかし、政敵であった人たちにも、「一緒にガジュマルになろう」と呼びかけたそうだ。「排除」が好きな人たちにも、この映画を見てほしいなあ。
まあ、私の感想はこんなとこです。
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2017年10月12日(木)
次は久米島 [ランニング]
去年の手術と癌宣告から一年がたった。
10月1日の「ラブトライアスロン」は、癌宣告一周年記念(?)として、いい思い出のレースになった。27年ぶりにトライアスロンに出られるなんて・・・。
ただ、それだけではちょっと不満。やはり、現時点での自分の力を出しつくすレースをしてみたい。
以前から出てみたかった「久米島マラソン」。名護の比嘉増美さんが、以前から「すごくいいよー」とおっしゃっていた。ところが、この日はずっと「諏訪湖マラソン」の日と重なっていた。それで今まで行くことができなかった。
ところが今年は10月22日が「久米島」、29日が「諏訪湖」と重ならなかった。それで、真樹と相談して(密談して)申し込みをした。フル・ハーフ・10・5とあるが、二人ともハーフに申し込み。もちろん私は、ハーフの部門優勝狙いです。
那覇からのツアーも、「沖縄ツーリスト名護支店」に電話して手配してもらった。早くに手配してもらったので、飛行機やホテルも格安。担当のKさん(女性)は、なんと真樹がお世話になった名桜大・大谷ゼミの先輩だった。おもしろいもんですねえ。
まずは、「Bike Laboratory」さんにお借りしていた自転車を返しに行った。
それがちょうど「ますみ・きく」の出勤と重なり、きくは「なんで車に乗せてもらえへんのかなあ」と不思議そうな顔をしていた。
楠本店長さんからは、先日のおみやげ「明石ぺったん焼」のお礼を言っていただいた。「見たときのインパクトもあったし、食べてもおいしかった」とのこと。本当によかった。
「娘が来年も出たいと言ってるんで、ロードレーサーを買おうかなと思ってるんですけど、また相談に乗ってください。ちょっと高いのはムリなんですが・・・。」
「遠慮せず、何でも言ってください。」
ほんまに遠慮せず、何でも言いますよー。
その続きで、京都みなみ会館へ。
どうしても見たい映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」。
那覇の桜坂劇場では、観客が多くて入れない日もあるらしい。京都みなみ会館も、那覇ほどではないが多くの観客だった。
最近見た映画の中では、群を抜いていい映画だった。瀬長亀次郎さんの「不屈」にしびれっぱなしだった。この映画一本で、沖縄の「不屈」の現代史がほとんど分かると言っても過言ではない。高校生や中学生にぜひ見てもらいたい映画だ。
映画は11時から12時50分。
そこから店に戻って、ヨメさんときくを乗せて帰りお昼ごはん。遅くなって申し訳なかった。
こんないい映画、ヨメさんといっしょに見たかったなあ。寮の管理代行のバイトの日を代わってもらっといたらよかった。この映画はもう明日で終わりやし。残念!
3時半ころからランスタート。
「久米島」に向けて、少し長めの距離を走りたい。しかし、「やぶらぶ」の坂で足を使いすぎたので無理は禁物。足の具合と相談しながら走ることにした。
家から北へ、鞍馬方面に。
こちらに来れば必ず寄る「二ノ瀬の猟犬」。
また、いっぱいいっぱい吠えられた。うれしー。
貴船口で3.7km。
いつもは右に進み、鞍馬寺山門前で折り返す(5.1km)。しかし今日は左に。貴船神社まで行ってみよう。
貴船のかかり、「べにや」さんの手前で5km。ここで折り返すと、鞍馬寺山門前と距離が変わらない。足の具合も良さそうなので、もうちょっと奥まで。
貴船神社前で5.7km。
つまり、貴船口からちょうど2km。意外に近い。もっと離れていると思っていた。
中途半端なので、さらにもうちょっとだけ奥へ。
「右源太」前でちょうど6km。ここで折り返し。
6分13、5分59、6分08、6分12、5分57、6分14で36分46秒。
休まず続けて下りへ。
下りはいい感じ。
足が笑いだすかと心配だったが、順調に走れている。
帰りも「二ノ瀬の猟犬」に吠えられ吠えられ・・・。
5分06、4分50、4分59、5分05、4分57、4分57で29分56秒。
12km、1時間06分43秒。
「久米島」までに20km走を1回やっておきたかったが、その必要はなさそう。距離は少ないがずっと走り続けてきているので、体調を整えて本番に臨むことだけを考えればいいと思う。
「久米島」は毎年すごく暑くなるらしい。それがどの程度のものかよく分からないが、目標はキロ5分ペースで1時間45分。これくらいで走れたら優勝も夢ではないと思うのだが・・・。
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※朗報
fukikoさんのところで「絶賛あまり中」だった銀ちゃんに、里親さんが見つかりました! めでたし、めでたし。
くわしくは、ブログ「猫と過ごす、こんな一日」へ。→(リンク集の一番下)
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【今日のきく】
おとつい、三線の練習をするのん忘れたー。
今日はやるでー。
きくちゃん聞いてやー。
きくは逃げて行ってしまった。
今日は「十九の春」と「涙そうそう」も弾いたのになあ。
迷惑やった?
また30分でクタクタ。
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2017年10月11日(水)
リベラルとは [時事]
◎朝日新聞10月9日朝刊
「リベラル」解釈さまざま
最近、「リベラル」という言葉をよく聞く。政党や候補者の理念を指すようだが、解釈は多様だ。衆院選に向けて政党の枠組みが変わる中、有権者にも関わりそうだが、そもそも「リベラル」って何なのか。
永田町では「護憲派」■仏語では「左派」
「リベラル新党、よくできたと期待をいただいている。リベラルによって日本が輝いていた時代の日本社会を取り戻す」ログイン前の続き。3日、東京都内で演説した立憲民主党の枝野幸男代表はこう訴えた。小池百合子・東京都知事の希望の党をめぐっては、民進党のリベラル系が排除されたと話題になった。
リベラルには「個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的」(広辞苑)「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま」(大辞泉)という意味がある。
だが、「永田町」で語られるリベラル=表=は「護憲派」といった受け止めが多いものの、厳密な定義はいま一つ定かではない。改憲を掲げる自民にも、「リベラル」を自任する政治家がいる。
通信社や雑誌向けに執筆する来日20年のフランス人ジャーナリスト、西村・プペ・カリンさん(47)は「日本の『リベラル』は説明が難しい」と話す。フランスで「リベラル」は経済の自由主義を指すため、仏語の記事では日本のリベラルを「左派」と訳すことが多い。編集会議で「使い方に注意を」と話題になった。
吉田徹・北海道大教授(政治学)によると、冷戦後、個人の自由を大事にすることがリベラルの核心になった。ただ、米国では少数者の権利擁護や女性の避妊、同性愛の是認など自己決定権の強調という文脈で語られ、欧州では市場への国の介入を防ぐという経済的な意味が強いという。
吉田教授は「護憲派=リベラル」という永田町的な見方について、自民党と社会党が対立した「55年体制の遺産」とみる。冷戦終結後も、改憲と護憲の対立は続いた。90年代に「民主・リベラル新党」結成をめざした社会党が消費者や生活者を大事にする立場からリベラルを使うようになり、革新政党とリベラルが結びついていったという。
衆院選を前に「リベラル」が飛び交う背景について、「『反戦・脱原発リベラル』はなぜ敗北するのか」(ちくま新書)の著者、浅羽通明さんは「野党は『反安倍』一点張り。有権者をつかむポジティブな政策が結局ないゆえ、リベラルというあいまいで口あたりのいいラベルにすがっているだけだ」と手厳しい。吉田教授は「選挙戦を通じ、『あなたが言うリベラルとは何か』という政治家同士の議論があっていい」と提案する。(清水大輔、仲村和代、田玉恵美)
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今日は寮1(二条)17時間。
またまた、恒例の朝日新聞チェック。
最近ちまたで飛び交う「リベラル」という言葉。これは希望の党代表の小池百合子東京都知事の「リベラルを排除」発言からはやりだした。
これから国政を担おうという人が、一部の人間を排除するなどと堂々と言っているのだから恐ろしいことだ。「あなたたちは人間の数に入っていない」と言われているようだ。それは、ヘイト団体の発想と変わらないような・・・。
話はそれるが、「戦争したいものが戦争に行け」とは絶対に言ってはならない。戦争したい人もしたくない人も、同じ大切な一つの命なんですから。
誰をも排除しない平和な世の中を作っていくには、左翼と右翼との連帯しかない。これを「混浴(混翼)の論理」という。ひひひ。
さて、本題。
以前「リベラル」について調べたことがあった。うろ覚えなのだが、たしか「リベラル」は「リバー」からできた言葉で、川の流れのようにゆるやかに同じ調子で流れていく様から、自由・平等・平和を求める考え方と書かれていたように思う。
そして、今日また調べなおした。
すると、「リバー」はriver、「リベラル」はliberalやないですか。全然ちゃう。
ついでに「水平な」の「レベル」から来てんのかなと思って調べたら、levelやてー。
なんじゃらほい。
人の記憶って、ええかげんなもんですね。(人ではなく、私だけかも・・・。)
私自身の「リベラル」のイメージは、「革新統一候補」。私が子どものころからぼちぼち広がり、一時は大きな勢力になりかけたが、次第にすぼんでしまった。
その中でも、沖縄選出の参議院議員・喜屋武真栄氏の印象は強く心に残っている。
今こんな人が立候補してくれたら、迷わず投票するのになあ・・・。
◎琉球新報1997年7月16日
喜屋武真栄さん死去
元沖縄県祖国復帰協議会会長、元沖縄教職員会会長、前参院議員の喜屋武真栄(きゃん・しんえい)氏が16日午前7時12分、慢性腎(じん)不全による肺水腫(しゅ)のため沖縄市の中頭病院で死去した。84歳。北中城村比嘉出身。自宅は北中城村島袋708ノ2。喪主は長男・擴(ひろむ)氏。屋良朝苗氏(初代県知事)と二人三脚で祖国復帰運動に尽力。1970年の国政参加選挙で初当選して以来、5期24年参議院議員を務めた。
1946年、沖縄民政府設立と同時に文教部視学官。53年に沖縄県の教育振興を目指し屋良氏とともに戦災校舎復興募金のため、半年にわたる全国行脚を成し遂げた。さらに、沖縄教職員会会長として教職員の資質向上に貢献。70年に参院選に初当選。戦後沖縄県の振興開発に尽力、復帰運動に取り組んだ。
喜屋武氏は1912年、北中城村生まれ。沖縄師範学校卒業。62年、沖縄祖国復帰協議会会長、68年、沖縄教職員会会長、70年の国政参加選挙の参院選で革新統一候補として初当選。82年の知事選に出馬し落選したが、翌83年参院に返り咲いた。89年に5期目当選。95年に引退した。同年県功労者賞を受賞した。
60年のアイゼンハワー米大統領訪沖の際に、祖国復帰要求県民総決起大会とデモを開催。復帰協の3代目会長を8年間務め、県民大衆をけん引し復帰運動の先頭に立った。
24年間の議会活動で常に沖縄問題の解決に取り組んできた。「ミスター沖縄」の異名を取り、一貫して反戦平和を訴えた。国会で訴えた「小指の痛みは全身の痛み」の言葉は有名。沖縄問題を象徴する言葉となった。
喜屋武氏は、引退後、体調を崩し、自宅で療養生活を送っていた。慢性腎不全のため今年6月5日から中頭病院に入院。2週間ほど前に、肺炎を起こし、体力が低下。16日午前7時前に、急激に血圧が下がり、死去した。長男の擴氏らが最期をみとった。
屋良さんと「二人三脚」/大衆運動をリード
喜屋武真栄氏は敗戦後の1946年、沖縄民政府設立と同時に、文教部視学官として各地の学校を訪問。戦災の荒廃の中からの教育復興に力を注いだ。53年、後の行政主席(初代県知事)となった屋良朝苗氏(今年2月14日死去)とともに戦災校舎復興募金のため半年にわたって全国行脚。さらに、沖縄教職員会会長として、沖縄教育の資質向上に貢献した。
教育とともに喜屋武氏は復帰運動にも尽力。1960年に沖縄県祖国復帰協議会会長に就任。屋良氏らとともに復帰運動の先頭に立ち、無条件日本復帰を望む県民の願いをリードした。
70年の国政選挙で参議院議員に初当選。国会での「小指の痛みは全身の痛み」という喜屋武氏の発言は、日本から切り離され、苦難の戦後史を歩み、復帰を待ち望む沖縄の姿を象徴する言葉として後々まで語り継がれた。喜屋武氏は5期、参議院議員を務め、一貫して沖縄問題の解決に柱に据えた政治活動を続けた。
喜屋武氏は沖縄空手界でも名をはせた。特にサイと棒術の古武道に秀でていた。「空手は殺すものでなく、生かすものだ」という言葉は人間・喜屋武を表していた。
95年の引退後は自宅にで療養生活を送っていたが、絶えず新聞記事やニュースを通して、沖縄問題の動向に関心を向けた。2月の屋良氏の葬儀の際には姿を見せ、復帰運動を共に闘った同士の死去を悼んだ。
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【今日のきく】
夜12時前に家に帰り、玄関の戸をガラガラ。
そこにしっぽブンブンのきくちゃん登場。
遅いけど、ちょっとだけでも散歩に行ったろうと思う。
公園で興奮して、「ガウガウ」ゆうたのにはまいったけど・・・。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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