2011年08月02日(火)
「いのち問答」香山リカ・対本宗訓 [書評]
◎紀伊國屋書店BookWebより
「いのち問答―最後の頼みは医療か、宗教か?」
香山 リカ 対本 宗訓【著】
角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2011/03/10 出版)
172p / 18cm
ISBN: 9784047102781
NDC分類: 490.15
価格: ¥760 (税込)
詳細
死んだらどうなる?西洋医学代表の精神科医と宗教者として生きる僧医が「いのち」の行方を徹底問答。
序章 僧医という存在
第1章 「いのち」の現場へ
第2章 予め用意されている「死の仕組み」
第3章 「死」は点ではなくプロセスである
第4章 自分の「死」をどこまでデザインできるか
第5章 「生老病死」は変えられない
第6章 すがる心、求める心
第7章 「死」は終わりではない
著者紹介
香山リカ[カヤマリカ]
精神科医。立教大学現代心理学部教授。1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。臨床経験を活かし、各メディアで社会批評、文化批評、書評など幅広く活躍し、現代人の“心の病”への洞察を続ける。専門は精神病理学だが、サブカルチャーにも造詣が深い
対本宗訓[ツシモトソウクン]
僧医。1954年愛媛県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業、京都嵯峨天龍寺僧堂で修行僧として過ごし、ヨーロッパなど諸外国で禅指導にも携わる。93年臨済宗佛通寺派管長に就任。2000年帝京大学医学部に入学、同年佛通寺派管長を辞任。同大医学部卒業後は、心や魂に寄り添う僧侶と、身体を科学的視点で診る医師を兼ねた「僧医」として活躍(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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このブログに「書評」カテゴリーを作った時、最低月に1回は書こうと思っていた。
ところが、7月も何冊かの本をあっち読みこっち読み。これは私の悪い癖で、同時に何冊かを並行して読む。これをすると、なかなか1冊が読み終わらない。そして、読みかけで放置された本がたまっていく。
そうそう、この悪いパターンをなんとかくずそうとして「書評」カテゴリーを設けたのだ。7月31日は、その中で最も終わりに近づいていた「いのち問答」を集中して読んだ。いなかに帰って廉の部屋の勉強机で読んだので、その後半部分はまあまあ頭に入ったと思う。
2004年2月、私はスケートリンクで転倒し顔面を強打した。そのあと、ヨメさんの運転で近くの六地蔵病院へ。しかし、このあたりの記憶がまったくない。私が覚えているシーンは、診察室から出てきたら廉と真樹がニコニコしながら座って待ってくれていたこと。なぜか、いっしょにいたはずのヨメさんがいない(実際はいた)。
このあと、また記憶が飛ぶ。そうとう頭もやられていたらしい。もうちょっときつく頭を打っていたら・・・。
レントゲン検査の結果、頬の骨がバラバラに砕けていた。口の中を開いて手術する必要があったため、京都府立病院に転院。2月の末にその手術が行われた。
夕方5時に手術台に乗せられ、すぐに全身麻酔の点滴。
「藤井さん、ちょっと冷たく感じますよー・・・」の声を聞いて3秒ほどで意識がなくなった。
「藤井さーん、藤井さーん、終わりましたよー。」
耳元で大きな声で呼ばれ、目が覚めた。その時、9時半。4時間以上の手術がやっと終わった。当たり前のことだと思うが、4時間半の間、夢も何も見ていない。
当時、私は48歳。これが、私にとっての臨死体験に一番近いものと言えるのではないだろうか。
思春期、私もいっぱしに死にたいと思ったことがある。ただ、死んだあとのこの世が見られるのならという条件つきで。当時のあまり回転のよくない私の頭でいろいろ考えてみたが、それはありえないという結論になった。だから、今も生きている。
たしか寺山修司だったと思うが、「死」は生きている者だけに存在するものだと言っていた。死んだ者には「死」さえない。この言葉はすごく納得できた。「自殺者」は、「生」だけでなく「死」をもなくしてしまう人なのだ。
50歳を境目に、思春期とはまったくちがう「死」が身近なってきた。
大学の時仲のよかったK君(金沢で教師をしていた)が、肺ガンであっという間に亡くなってしまった。奥様から喪中ハガキをいただいた時、「死ぬんやったら、もうちょっとはよう知らせてくれよー」と思った。その時、大学のクラス会を計画中やったから、余計に残念やった。「K君、自分のしたいことして死んだかなー」と気になった。
「臨終の際に、自分の人生はよかったと思って死にたい」という言葉をよく聞く。
「へへーんだ! 」
私はそれだけは思わない。死んだら、「無」でしょう。この期に及んで、「よかった」とか「悪かった」とか思い返したってしょうがない。逆に言うと、いつ死んでもよかったと思えるようにしとかんと。
私のようなあんまりかしこくないものにも分かりやすい心理学系の本を乱発している香山リカさんと、38歳(最年少)で臨済宗佛通寺派管長となるも45歳で医学部に入学し医師になられた対本(つしもと)宗訓さん。香山さん1960年生まれ、対本さん1954年生まれ。ええぞ50代。これはおもろい。
興味を持たれた方にはぜひこの本を読んでいただくとして、内容の紹介は控えさせていただきます。ただし、対本さんの姿勢がよくわかる部分のみ一部引用させていただきます。
✿ ✿ ✿
対本・経典を学ぶだけでは、とても厳しい現実には通用しない。修行を否定するわけではないですが、それだけならタダの修行僧に終わってしまうと痛感しました。
香山・なるほど。修行で得られる“悟り”だけでは現実に対応しきれない、と。
対本・私は現場で学ぼうと思ったんです。外の方にはあまり見えないことかもしれませんが、今の仏教界は、数百年の権威と檀家制度の上に安住していると言って過言ではないのです。
坊さんたちが陥りがちな弊害は、自分の宗派の教義や教理の枠組みにあてはめて考えようとすることです。硬直化した祖師の言葉にとらわれるあまり、生の現実を見ようとせず、カビ臭い経典の方に合わせてしまっています。本当は現実をありのままに見て、自分の頭で考え自分の言葉で語らなくてはいけないのに。これは何とかしなくちゃいけないと思いました。坊さんが現場に出ていかなければと。
✿ ✿ ✿
これはすごい。この言葉はすべての組織に当てはまる。私は、「硬直化した祖師の言葉にとらわれるあまり」のところを、「硬直化した組織の・・・」と読みまちがえてしまいました。
でも常にこういう姿勢でいる人の言葉なら、信じてもいいかなあと思ってしまう。
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いなかで、2004年の写真が見つかりました。
2004年2月21日、転倒事故より5日目。
手術準備のためいったん退院。その隙に、「天竜杉の里ロードレース」に出張販売。目がパンダになっている。
口がうまく動かせないため、旅館に頼んでおかゆを作っていただいた。食欲だけはあったので、全部ペロリ。
こんなこわい顔のパオパオとでも、にこやかに写真におさまる真樹(当時小3)でした。
2004年2月24日、京都府立病院。
手術に髪の毛がジャマになるかもしれないということで、地下の散髪屋さんで丸坊主に。48歳にして、生まれて初めて。たしか、この日に手術をしたような・・・。
2004年3月14日、「なかじま万葉の里マラソン」。
この1週前の「篠山マラソン」は、さすがに出走せず販売に専念。しかし、この「なかじま」は廉との最後の親子レースだったので強行出場。高学年の子と親のレースのあとすぐに、低学年の子と親のレース。もちろん私は連続で出ました。
ああなつかしい丸坊主。
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2011年08月01日(月)
グランドダッシュ! [わんこ・にゃんこ]
「夫婦ふたりでしっぽりと、きくの散歩をすること」
今日の朝、ヨメさんから指令が出た。
「夫婦とかブログに書くなー、仲ええと思われたらかなんし」と常々言ってる割には、突然こんなことも言い出す。
うちの家から北ヘ500mほどのところに「花背山の家」のグランドがある。朝早い時間だとまだ誰も使っていないので、きくを走らせることができる。
街の家に連れて行ってから、きくのロープをはずして自由に走らせたことはない。きくも久しぶりなせいか、大回りして走り回るというところまでは行かなかった。
「ちょっと、お疲れかい?」
「帰るでー」といったら、固まってしまった。
以前ならここから逃げ回っていたのだが、きくも大人になったもんや。あっさりとつかまった。ヨメさんに言わせると、「きくも人間でゆうたら40代やし・・・。」(犬の6歳は人間の40代で合っているでしょうか。)
ほんとうに疲れたのか、家に帰ったらふとんにくるまって寝てしまった。
夏の間はできるだけいなかに帰って、きくを思い切り走らせてやろう。できたら、「夫婦しっぽり散歩」で・・・。
以下、きくとますみさんの「グランドダッシュ!」のアップ写真です。
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【RUN】
午後、市原の家に戻る。
夕食後、7時45分から走りに出る。ちょっと前まで、これくらいの時刻ならまだ明るかったのに。今はもう真っ暗。
ゆっくりゆっくり5kmコース。行きの下り、15分14秒。帰りの上り、14分55秒。
5km、30分10秒。
今はこれで十分。足の様子を見ながら、ぼちぼちペースを上げていこう。
1kmジョグをプラスして、今日は合計6km。
ジュースやビールはしんぼうして、お茶をゴクゴク。
「体重減らしてブヨンブヨン解消!」
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2011年07月31日(日)
別所ラン [ランニング]
今日は7月の最終日。足と腰は相変わらず痛いけど、ちょっとだけでも走っておきたい。
夕方6時半過ぎ、別所の中を走ることにする。我が家の前をスタートして、花背峠側へ1.5km走るとちょうど在所の端になる。
上りばかりの1.5kmはさすがにしんどかった。10分06秒。
折り返したら、あとはずっと下り。ただし、ここで調子にのってはまたまた故障を悪化させてしまう。それに気をつけながらリズムよく走れた。
うちの家が見えるとほっとする。
3kmのゴール、18分20秒。下り1.5kmは8分14秒でいけた。
これで故障に悩まされ続けた7月は、86.8km、12日の練習に終わった。
でも、「パオパオだより」月間アクセス数は2ヶ月連続15万を突破。今月は158971アクセス。1日平均5000は超えた。
何べんも言うけど、1アクセス1円もらえたらなあ・・・。(ヨメさんに言わせると、「アンタのしょうもないブログにはビタ一文出すもんはおらん」とのこと。)
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避暑地の花火 [家族]
今、いなかに帰っています。
百均の花火をしました。
(注) ヨメさんの携帯からアップしました。
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2011年07月30日(土)
滋賀マスターズ練習会 ( なでしこは?) [ランニング]
今日は真樹が四条にお出かけ。小学校時代1学年上だった「さっちゃん」と。
家を10時に出て、10時25分くらいに河原町三条で降ろす。
ここから一路、滋賀県野洲へ。滋賀マスターズの練習会に参加するために。
今日の副題は、「なでしこSHIGA」にしようと思っていた。もちろん「なでしこJAPAN」の便乗企画です。
いつも練習会に来られている女性ランナーで前から顔見知りの方は、私をここに誘ってくださった太田君子さん。「京都キャロット」のお得意様でもある小嶋祐子さん。
新しく知り合いにならせてもらったのが、前回紹介させてもらった井上さん(大塚製薬・井上彩花選手のお母さん)。
また、いつもスピードを競ってられるMさんと?さん(まだ実名表記の許可をいただいていないのでイニシャルで)。
私の知る限りでは、Mさん、?さん、太田君子さんには今のところ私は歯が立たない。(でも、負けへんでー。いつか・・・。)
このバラエティにとんだ女性ランナーのみなさんの写真を撮らせてもらおうと意気込んでいた。ところが、11時過ぎに着いたため、みなさんがどこにおられるのかく分からない。私は近眼で、なおかつ注意力散漫なため、自分から人を見つけるというようなことはめったにない。
頼みの綱の中島コーチと太田君子さんも、今日は欠席のようだった。今日の撮影会は断念。自己練習に励むことにした。
話は戻りますが・・・。
昨日のヨメさんとの会話。
「ますみちゃん、なでしこJAPANの一番かわいい人・川澄さんなあ、どっかで見たことあるなあとおもとったんやけど、滋賀の太田さんにそっくりやろ。」
「あっ、ほんまや。私もどっかで見たことあるような気がしてたんや。ほんま、そっくりやなあ。」
「太田さん、若いときあんな感じやったんちゃうやろか。」
元埼玉県議・小沢遼子さんがワイドショーの中でコメントしておられた。
「なでしこJAPANの『なでしこ』って失礼じゃない。男子サッカー日本代表チームをなでしこJAPANにして、女子がサムライJAPANでしょう。」
うーん、なかなかおもしろいこと言わはるね。今日、私の便乗「なでしこSHIGA」企画がつぶれたのも、こういうことを考えるとよかったのかも・・・。
あっ、それから女性ランナーのうちお一人だけMさんが来られていたようです。声をかけさせていただこうかとも思いましたが、私は故障中でいっしょの練習はとても無理だし・・・。今日は一人黙々と・・・。
最初、トラックのまわりの芝生を逆まわり。5周約2.5km、17分くらい。
次は2周約1kmを、さっきより速めに。ちょうど5分くらい。
1周500m歩いた後、トラックに入り1000m1本。
1分34秒、1分40秒、45秒で4分00秒79。
あー、やっとここまで回復した。10日ほど前は、足が痛くて後ろに蹴ることができなかったのに、今日はそこそこ蹴れた。最後の200mはかなりアキレス腱にビリビリと来たけど・・・。
もう一ヶ所、左のぎっくり腰はようやっと落ち着いてきた。今までなら長くても1週間で治っていたのに、今回はちょっとしつこかった。今で80%の回復というとこでしょうか。
トラックでなら、1000mタイムトライアルをしてもだいじょうぶそう。ただし、ほかのところではまだこんな練習はしてはいけない。またここ野洲川にくるか、西京極に行くか・・・。そろそろハードルの練習もせんなんしなあ。
最後にトラック2周800mをジョグ。これで、今日の合計は5.8km。短時間の練習だったが、汗だくになった。
帰りはいつもどおり、「ラーメン藤」。
びわ湖大橋から途中越え、江文峠越えの道は、車で走りなれているので運転も楽。
また時間が取れたら野洲川に行こう。
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2011年07月29日(金)
こま爺とおウメ婆 [家族]
毎年恒例の墓そうじ。
うちは分家なので墓の数は少ない。曽祖父、曾祖母、祖父、祖母、伯母と叔母。そして、ちゃんとした墓石がまだない私の母。母が亡くなってもう20年。ちゃんとした墓石を作らないのは、父が亡くなったときにいっしよにするつもりだからだ。
お墓そうじに行ってビックリした。ほとんど草が生えていない。墓の後ろの土が崩れていたので、鍬で整地。そのあとはひたすら墓石磨き。
墓石を磨きながら、祖父と祖母の命日を確認した。
祖父・駒夫、昭和45年9月10日。
祖母・ウメ、昭和53年7月25日。
おばあさんが亡くなった日のことはよく覚えている。洗濯ものを干している時に倒れ、長い間寝たきりになっていた。でもそれが中1の夏休みだったとは意外だった。私の記憶では、冬であったと思っていた。毎週毎週あるご詠歌が、寒い中で行われていたという記憶があった。実際は真夏だったのか・・・。記憶っていいかげんなもんですね。
おじいさんが亡くなったときの記憶はほとんどない。おふとんのすそで、おばあさんが泣いていたシーンだけ鮮明に覚えている。計算すると、私は4歳9ヶ月。5歳くらいなら、もうちょっと覚えていてもいいようなものだが・・・。やっぱり、あんまりかしこなかったか・・・。
おじいさんは、田んぼの水を見に行ってその場で倒れてしまったと聞いていた。でも、9月で田んぼの水っておかしいな。今やったら稲刈りの季節やで。父に聞いてみた。
「別所は寒いさけ、そのころでも水はっとったんやろ。」
おじいさんは田んぼの脇でうつ伏せのまま息を引き取った。検死の必要があったので、甚六のおっさん(親戚)がうちのおじいさんの横でおまわりさんを待ってくれていたそうだ。
その日、父はなんかの集金日で千本四条まで出て来ていた。帰ってきたら、「おとうさん、死なはったで」と言われ、びっくりしたそうだ。出かける前、元気にしゃべっていたはずなのに・・・。心臓マヒだったんでしょうか。
おじいさんについては、その生前の記憶もほとんどない。いつもニコニコしいた顔しか覚えていない。
うちの母に言わせると、「こま爺は争いが嫌いで、何でも賛成するし『賛成党』と言われていた」らしい。母にとっては、いい舅だったんじゃないでしょうか。私もその血を受け継いで行きたいと思っている。
父は、祖父の命日だけでなく、祖母の命日も正確に覚えていた。
昭和53年7月25日は、花背二中のグランドで消防団の査察があったらしい。当時、私の父は花背消防分団の分団長。責任ある仕事をずっと担っていた。
今日、父と話していて思った。「父はボケてはいない!」
私が死んでも、ここには埋めんといてね。あくまで石像ということで・・・。
ますみちゃんは、その石像の鼻の穴の中にでも入っとく?
「バシッ、ドコッ、ボスッ!」
おー、久しぶりの効果音。
おウメばあさんの写真を撮ってきた。
この写真ではも一つだが、実物はほんまに天皇陛下にそっくり。顔も似ているが、そのしぐさがめっちゃ似ていた。
今日、父にその話をしたら大笑いをしていた。でも、まんざらでもなさそうな気配もあった。
「おっきゃ(屋号・おけや)の顔は、皇族系かーい。」
「おばさーん! おう、こま爺の写真とって来るのん忘れたー!」
(うちの家では、おばあさんことを「おばさん」と呼んでいた。「おばさん」は、「お」ではなく「ば」にアクセント。)
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2011年07月28日(木)
おウメばあさん? [家族]
◎毎日新聞 7月27日(水)20時2分配信
<天皇、皇后両陛下>那須で福島からの被災者らにお見舞い
天皇、皇后両陛下は27日、栃木県那須町のホテルを訪れ、東日本大震災で福島県から避難している被災者らを見舞った。両陛下は26日から静養のため那須御用邸に滞在しているが、同町長らから話を聴くなど被災状況の把握に努めている。
ホテルでは14世帯27人と懇談。天皇陛下は、浪江町から避難している八橋清美さん(38)の長女で那須町立那須小4年、美優さん(10)に「お友達はできましたか」と問いかけ、美優さんは「はい」と小さな声で答えた。
美優さんは4月に同町に避難してから2度小学校を替わり、9月には福島市内の小学校に転校するという。清美さんは「娘もやっと落ち着くと思います。両陛下に声をかけられて勇気づけられました」と話した。
両陛下は時には被災者の手を握りながら見舞った。天皇陛下はホテルを去り際に「いい方向に向かうといいですね。みなさん、どうぞ、お元気でね」と被災者を励ました。
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テレビでこのニュースを見た時、ドキッとした。天皇陛下が、うちのおばあさんにそっくりだったから。
うちのおばあさんは、正真正銘、花背別称町の生まれ。中の町の「おけや」の出。私が12歳の時(43年前)亡くなった。まあ、天皇家とは何の関係もない。でも、似すぎてるんですよねえ。
私のふるさと京都市左京区花背別所町は、鞍馬から標高765mの花背峠を越えたところ。鞍馬から約10km山奥に入ったところである。この村がどのようにしてできていったのか、諸説あって定かではない。冬には1m以上の雪が積もり、どの作物を育てるのにも適さないこのような土地に、あえて住もうとした最初の人はどんな人だったのだろう。比叡山のお坊さんという説が有力だと聞いたことがあるが、比叡山は確か天台宗。うちのいなかは禅宗の曹洞宗だし・・・。
天皇家ゆかりの方が、わけあってうちのいなかに来られ・・・、というようなことは考えられないのだろうか。このあたりは、ブログ「晴徨雨読」を書いておられる物知り・じょんのび村村長さんに聞いてみよう。
まあ、日本中に天皇家の末裔伝説があるらしいので、いろいろ勝手に想像しても悪くはないですよね。
今、手元におばあさんの写真がないのが残念。今度いなかに帰ったら、さがしてこようっと。
代わりに、このブログの2009年8月15日の記事に使った写真を載せておきます。
真ん中の写真の一番右がおウメばあさん。と言っても小さすぎて分かりませんね。その息子(つまり私の父)も皇族ぽく見えません?
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