2011年07月31日(日)
別所ラン [ランニング]
今日は7月の最終日。足と腰は相変わらず痛いけど、ちょっとだけでも走っておきたい。
夕方6時半過ぎ、別所の中を走ることにする。我が家の前をスタートして、花背峠側へ1.5km走るとちょうど在所の端になる。
上りばかりの1.5kmはさすがにしんどかった。10分06秒。
折り返したら、あとはずっと下り。ただし、ここで調子にのってはまたまた故障を悪化させてしまう。それに気をつけながらリズムよく走れた。
うちの家が見えるとほっとする。
3kmのゴール、18分20秒。下り1.5kmは8分14秒でいけた。
これで故障に悩まされ続けた7月は、86.8km、12日の練習に終わった。
でも、「パオパオだより」月間アクセス数は2ヶ月連続15万を突破。今月は158971アクセス。1日平均5000は超えた。
何べんも言うけど、1アクセス1円もらえたらなあ・・・。(ヨメさんに言わせると、「アンタのしょうもないブログにはビタ一文出すもんはおらん」とのこと。)
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避暑地の花火 [家族]
今、いなかに帰っています。
百均の花火をしました。
(注) ヨメさんの携帯からアップしました。
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2011年07月30日(土)
滋賀マスターズ練習会 ( なでしこは?) [ランニング]
今日は真樹が四条にお出かけ。小学校時代1学年上だった「さっちゃん」と。
家を10時に出て、10時25分くらいに河原町三条で降ろす。
ここから一路、滋賀県野洲へ。滋賀マスターズの練習会に参加するために。
今日の副題は、「なでしこSHIGA」にしようと思っていた。もちろん「なでしこJAPAN」の便乗企画です。
いつも練習会に来られている女性ランナーで前から顔見知りの方は、私をここに誘ってくださった太田君子さん。「京都キャロット」のお得意様でもある小嶋祐子さん。
新しく知り合いにならせてもらったのが、前回紹介させてもらった井上さん(大塚製薬・井上彩花選手のお母さん)。
また、いつもスピードを競ってられるMさんと?さん(まだ実名表記の許可をいただいていないのでイニシャルで)。
私の知る限りでは、Mさん、?さん、太田君子さんには今のところ私は歯が立たない。(でも、負けへんでー。いつか・・・。)
このバラエティにとんだ女性ランナーのみなさんの写真を撮らせてもらおうと意気込んでいた。ところが、11時過ぎに着いたため、みなさんがどこにおられるのかく分からない。私は近眼で、なおかつ注意力散漫なため、自分から人を見つけるというようなことはめったにない。
頼みの綱の中島コーチと太田君子さんも、今日は欠席のようだった。今日の撮影会は断念。自己練習に励むことにした。
話は戻りますが・・・。
昨日のヨメさんとの会話。
「ますみちゃん、なでしこJAPANの一番かわいい人・川澄さんなあ、どっかで見たことあるなあとおもとったんやけど、滋賀の太田さんにそっくりやろ。」
「あっ、ほんまや。私もどっかで見たことあるような気がしてたんや。ほんま、そっくりやなあ。」
「太田さん、若いときあんな感じやったんちゃうやろか。」
元埼玉県議・小沢遼子さんがワイドショーの中でコメントしておられた。
「なでしこJAPANの『なでしこ』って失礼じゃない。男子サッカー日本代表チームをなでしこJAPANにして、女子がサムライJAPANでしょう。」
うーん、なかなかおもしろいこと言わはるね。今日、私の便乗「なでしこSHIGA」企画がつぶれたのも、こういうことを考えるとよかったのかも・・・。
あっ、それから女性ランナーのうちお一人だけMさんが来られていたようです。声をかけさせていただこうかとも思いましたが、私は故障中でいっしょの練習はとても無理だし・・・。今日は一人黙々と・・・。
最初、トラックのまわりの芝生を逆まわり。5周約2.5km、17分くらい。
次は2周約1kmを、さっきより速めに。ちょうど5分くらい。
1周500m歩いた後、トラックに入り1000m1本。
1分34秒、1分40秒、45秒で4分00秒79。
あー、やっとここまで回復した。10日ほど前は、足が痛くて後ろに蹴ることができなかったのに、今日はそこそこ蹴れた。最後の200mはかなりアキレス腱にビリビリと来たけど・・・。
もう一ヶ所、左のぎっくり腰はようやっと落ち着いてきた。今までなら長くても1週間で治っていたのに、今回はちょっとしつこかった。今で80%の回復というとこでしょうか。
トラックでなら、1000mタイムトライアルをしてもだいじょうぶそう。ただし、ほかのところではまだこんな練習はしてはいけない。またここ野洲川にくるか、西京極に行くか・・・。そろそろハードルの練習もせんなんしなあ。
最後にトラック2周800mをジョグ。これで、今日の合計は5.8km。短時間の練習だったが、汗だくになった。
帰りはいつもどおり、「ラーメン藤」。
びわ湖大橋から途中越え、江文峠越えの道は、車で走りなれているので運転も楽。
また時間が取れたら野洲川に行こう。
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2011年07月29日(金)
こま爺とおウメ婆 [家族]
毎年恒例の墓そうじ。
うちは分家なので墓の数は少ない。曽祖父、曾祖母、祖父、祖母、伯母と叔母。そして、ちゃんとした墓石がまだない私の母。母が亡くなってもう20年。ちゃんとした墓石を作らないのは、父が亡くなったときにいっしよにするつもりだからだ。
お墓そうじに行ってビックリした。ほとんど草が生えていない。墓の後ろの土が崩れていたので、鍬で整地。そのあとはひたすら墓石磨き。
墓石を磨きながら、祖父と祖母の命日を確認した。
祖父・駒夫、昭和45年9月10日。
祖母・ウメ、昭和53年7月25日。
おばあさんが亡くなった日のことはよく覚えている。洗濯ものを干している時に倒れ、長い間寝たきりになっていた。でもそれが中1の夏休みだったとは意外だった。私の記憶では、冬であったと思っていた。毎週毎週あるご詠歌が、寒い中で行われていたという記憶があった。実際は真夏だったのか・・・。記憶っていいかげんなもんですね。
おじいさんが亡くなったときの記憶はほとんどない。おふとんのすそで、おばあさんが泣いていたシーンだけ鮮明に覚えている。計算すると、私は4歳9ヶ月。5歳くらいなら、もうちょっと覚えていてもいいようなものだが・・・。やっぱり、あんまりかしこなかったか・・・。
おじいさんは、田んぼの水を見に行ってその場で倒れてしまったと聞いていた。でも、9月で田んぼの水っておかしいな。今やったら稲刈りの季節やで。父に聞いてみた。
「別所は寒いさけ、そのころでも水はっとったんやろ。」
おじいさんは田んぼの脇でうつ伏せのまま息を引き取った。検死の必要があったので、甚六のおっさん(親戚)がうちのおじいさんの横でおまわりさんを待ってくれていたそうだ。
その日、父はなんかの集金日で千本四条まで出て来ていた。帰ってきたら、「おとうさん、死なはったで」と言われ、びっくりしたそうだ。出かける前、元気にしゃべっていたはずなのに・・・。心臓マヒだったんでしょうか。
おじいさんについては、その生前の記憶もほとんどない。いつもニコニコしいた顔しか覚えていない。
うちの母に言わせると、「こま爺は争いが嫌いで、何でも賛成するし『賛成党』と言われていた」らしい。母にとっては、いい舅だったんじゃないでしょうか。私もその血を受け継いで行きたいと思っている。
父は、祖父の命日だけでなく、祖母の命日も正確に覚えていた。
昭和53年7月25日は、花背二中のグランドで消防団の査察があったらしい。当時、私の父は花背消防分団の分団長。責任ある仕事をずっと担っていた。
今日、父と話していて思った。「父はボケてはいない!」
私が死んでも、ここには埋めんといてね。あくまで石像ということで・・・。
ますみちゃんは、その石像の鼻の穴の中にでも入っとく?
「バシッ、ドコッ、ボスッ!」
おー、久しぶりの効果音。
おウメばあさんの写真を撮ってきた。
この写真ではも一つだが、実物はほんまに天皇陛下にそっくり。顔も似ているが、そのしぐさがめっちゃ似ていた。
今日、父にその話をしたら大笑いをしていた。でも、まんざらでもなさそうな気配もあった。
「おっきゃ(屋号・おけや)の顔は、皇族系かーい。」
「おばさーん! おう、こま爺の写真とって来るのん忘れたー!」
(うちの家では、おばあさんことを「おばさん」と呼んでいた。「おばさん」は、「お」ではなく「ば」にアクセント。)
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2011年07月28日(木)
おウメばあさん? [家族]
◎毎日新聞 7月27日(水)20時2分配信
<天皇、皇后両陛下>那須で福島からの被災者らにお見舞い
天皇、皇后両陛下は27日、栃木県那須町のホテルを訪れ、東日本大震災で福島県から避難している被災者らを見舞った。両陛下は26日から静養のため那須御用邸に滞在しているが、同町長らから話を聴くなど被災状況の把握に努めている。
ホテルでは14世帯27人と懇談。天皇陛下は、浪江町から避難している八橋清美さん(38)の長女で那須町立那須小4年、美優さん(10)に「お友達はできましたか」と問いかけ、美優さんは「はい」と小さな声で答えた。
美優さんは4月に同町に避難してから2度小学校を替わり、9月には福島市内の小学校に転校するという。清美さんは「娘もやっと落ち着くと思います。両陛下に声をかけられて勇気づけられました」と話した。
両陛下は時には被災者の手を握りながら見舞った。天皇陛下はホテルを去り際に「いい方向に向かうといいですね。みなさん、どうぞ、お元気でね」と被災者を励ました。
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テレビでこのニュースを見た時、ドキッとした。天皇陛下が、うちのおばあさんにそっくりだったから。
うちのおばあさんは、正真正銘、花背別称町の生まれ。中の町の「おけや」の出。私が12歳の時(43年前)亡くなった。まあ、天皇家とは何の関係もない。でも、似すぎてるんですよねえ。
私のふるさと京都市左京区花背別所町は、鞍馬から標高765mの花背峠を越えたところ。鞍馬から約10km山奥に入ったところである。この村がどのようにしてできていったのか、諸説あって定かではない。冬には1m以上の雪が積もり、どの作物を育てるのにも適さないこのような土地に、あえて住もうとした最初の人はどんな人だったのだろう。比叡山のお坊さんという説が有力だと聞いたことがあるが、比叡山は確か天台宗。うちのいなかは禅宗の曹洞宗だし・・・。
天皇家ゆかりの方が、わけあってうちのいなかに来られ・・・、というようなことは考えられないのだろうか。このあたりは、ブログ「晴徨雨読」を書いておられる物知り・じょんのび村村長さんに聞いてみよう。
まあ、日本中に天皇家の末裔伝説があるらしいので、いろいろ勝手に想像しても悪くはないですよね。
今、手元におばあさんの写真がないのが残念。今度いなかに帰ったら、さがしてこようっと。
代わりに、このブログの2009年8月15日の記事に使った写真を載せておきます。
真ん中の写真の一番右がおウメばあさん。と言っても小さすぎて分かりませんね。その息子(つまり私の父)も皇族ぽく見えません?
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2011年07月27日(水)
第19回勝手に国労応援ラン [ランニング]
「高岡蒼甫のん、知ってる?」とヨメさん。
「ああ、韓流ブーム批判でツイッター炎上ちゅうやつやろ。」
「宮崎あおいは私と一緒の思想ではありません、と書けと言われたので書いておきますやて。アンタもそうしいや。」
「なにそれ。ますみちゃんが宮崎あおいってゆうこと? おー、ほならボク高岡蒼甫かーい。」
「じゃなくてー・・・(深いため息)。」
ヨメさんはいつも言う。「アンタのやっていることは自己満足なだけで、人の迷惑などまったく考えていない」と。(昨日の記事についても同じことを言われた。)
そのとーり。私は人の迷惑などまったく考えていません。でも、24年間の辛苦に絶えてきた国労の人たちが、私のブログの記事ごときでうろたえるとは思えない。
以前、中野勇人さんに「私の勝手な応援が、かえって迷惑になりませんか」と相談したことがある。それに対する答えは、「藤井さんのような部外者が、一人でも多く私たちに関心を持ってくれているということは、相手(国交省・JRなど)にはこたえるんですよ」とのこと。私はその言葉を信じ、日夜「勝手に国労応援」にまい進しております(・・・って、たいそうか。)
うちのすぐ近く、京都バス「地球研前」バス停からバスに乗ったのが11時9分。国際会館前から地下鉄で京都駅。京都駅からJR。大阪駅で和歌山行きにうまく乗り継げた。阪和線「山中渓(やまなかだに)」駅に着いたのは13時35分。家から2時間半で来れた。
行きしの費用は、京都バス160円、地下鉄280円、JR1530円で合計1970円。
「国労闘争団が解散」ということで、中野勇人さんからいただいたアピールゼッケンを着けて走るのには抵抗があった。今日は、「京都キャロット」のTシャツで。「国労応援」は心の中で。
13時40分ころ、和歌山に向かってスタート。
駅のすぐ近くに、入場無料の遊園地「わんぱく王国」の入り口があった。
そのすぐ近くに交番があり、道路案内図があった。
ここ阪南市から和歌山に抜ける道は雄ノ山峠というらしい。
峠というからかなりきついのぼりを想像していたが、適度な上りと時々下りも挟まり飽きないコースだった。
県境までおよそ10分。先月、こんなに和歌山に近いところまで来ていたんですね。
県境を越えたところに、数十軒の小さな集落があった。
見知らぬ人などめったに通らないのだろう。ワンちゃんが、不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。
線路を越えるところがあったので、写真を撮っておいた。
この集落を越えると、また人家のない山道。
ここは交通量が少ないので、駅伝にピッタリだと思う。いざとなったら、有料の阪和道を無料にして迂回してもらったら、大規模な駅伝でもだいじょうぶ。
そんなことを考えながら走っていると、足の故障もあまり気にならない。
和歌山市街をのぞめる気持ちのいいランニングコース。休日なら、走っている人もいるのだろうか。
山のふもとにお地蔵さん。「幸福地蔵」と書いてあった。
お地蔵さんを見れば拝んでおくという癖がついた。
こちらは動物の慰霊碑。
うちはいっぱい飼っていていっぱい死んじゃったので、短時間では拝めない。つい最近に死んじゃった「あんも」に代表してもらって「ナンマイダー・・・」。
このお地蔵さんの団体はすごい。
このお寺を過ぎると、やっと平坦な道になった。
「谷」交差点でコンビニ発見。
走り出して1時間ほどたったので、ちょっとお腹がすいた。お昼ごはんとして、おにぎり1個とぺットボトル500のお茶。もちろんおにぎりは紀州梅。
5分ほどで食べ終わり、さあ再スタート。しかし、ここで異変が・・・。
それまで気にならなかった右アキレス腱が、ズキズキと痛み出してきた。
「リズム、リズム、走りのリズムを取り戻さなくては・・・。」
峠越えは所々日陰もあったが、このあたりから日光を遮るものなし。天気予報では「曇り」だったのに、ギラギラと太陽が照りつける。
「山中渓」駅の次の「紀伊」駅。
ここでもう3時前。
和歌山港発徳島行き16時30分に乗れたらめっけもんと思っていたが、全然無理。その次は19時10分発なので、それに乗ってしまったら京都に帰れなくなってしまう。
阪和道の下をくぐる。
この時の所持金12000円くらい。フェリーが2000円。徳島から京都に帰る交通費が4000円とすると、残りは6000円。これは泊まれんこともないな。でも食費がいるし、着替えも持ってきてないし・・・。
心は揺れたが、この時点で、和歌山港から南海電車で帰ることにした。
田の横を走っていると、向こうに立派な建物。
「開智中学校・高等学校」
よくありそうな名前ですが、有名な学校なんでしょうか。
「六十谷(むそた)」駅到着。3時半。
汗びちゃびちゃで顔を洗いたかったが、水を使えそうなところは見つからず。
駅からちょっと南に走ると紀ノ川にぶつかった。
ここを渡ると、市の中心部ということだろうか。
長い橋だが、渡っている時に出会ったのは自転車のおじさんただ一人。この暑いのに出歩いている人などほとんどないということだろう。
ここまで分かりやすい道だったので迷走なし。ところが、橋を渡ってから狭い道に入り込んでしまった。
プリントアウトして持ってきた地図は、汗で所々に穴があいてしまっていた。住宅街のようなところでジュース購入。こんな時はやっぱり炭酸系。ファンタグレープ一気飲み。
「紀伊中ノ島」駅到着。4時10分。
広い通りが見つかったのでそこを南下。
途中に「円満寺」というお寺さん発見。しっかり拝んでおきました。もちろん、「夫婦円満・・・」。
途中の交差点で、和歌山駅より西を走っていたことが分かる。本当は和歌山駅のまん前で記念撮影をしたかったのだが、戻る気力なし。ちょっとだけ戻って、望遠で撮影。
このあたりで足は限界を超えていた。でも、一息つくとまた走り出せる。ダラダラ歩くよりは、ゆっくりペースでもリズムよく走るほうがよっぽど楽だった。
私が死んだら墓はいらんから、こんな石像をどっかに置いてもらいたい。迷惑かな。
見えましたー、和歌山城。
和歌山県は人口減少が著しく、昨年、県人口が100万人を切ったそうだ。私が見た範囲だけで言わせてもらうと、落ち着いた雰囲気の住みやすそうな県に見えるのですが・・・。
そういえば、あまり大規模なマラソン大会もありませんでしたよね。和歌山の良さを広く知ってもらうためには、マラソン大会開催も一つの方法だと思います。
やまたくさーん、やまたくさんのふるさと・網屋町はこの「材木町」バス停の近くですよね。ちょっとだけうろつかせていただきました。和歌山港フェリー乗り場のすぐ近くじゃないですか。
材木町バス停から15分ほどでフェリー乗り場。
14時30分発の徳島行きフェリーは、50ほど前に出てしまっていた。
走っていた時間は3時間45分。
サイトの地図上の2点間距離では、山中渓駅→和歌山港は23kmくらいだったが、絶対にもっと走っている。多少歩いたとは言え、キロ8分ペースは下回っていないだろう。その計算で行くと、休けいの合計10分ほどを引いても27km。迷走も入れて27km走ったことにしとこうっと。
海岸沿いまで行って海峡の写真を撮りたかったのだが、停車している南海電車が気になった。
この時間帯、1時間に2本しかない。今停まっている電車があと5分ほどで発車。その次はだいぶあと。心残りもあったが、急いで切符を買って乗り込んだ。和歌山港→難波は890円。
乗ってみると車内はガラガラ。1両に3、4人。
よく考えて見ると、南海電車に乗るのは生まれて初めて。電車の音がすごかった。また、家のぎりぎりのところを走っている。家の窓から手を出したら、電車に持っていかれそうな・・・。
あれ、体感速度120kmくらいです。こわいっちゅうねん!
電車の座席で足を組んだりしていると、足に噴出した塩が床に落ちて、うっすら雪化粧。これ、ほんまなんです。ものすごい塩の量。
難波→淀屋橋、大阪地下鉄200円。
淀屋橋→出町柳、京阪電車460円。
出町柳→京都精華大前、叡山電車320円。
(南海電車の890円をたして、帰りは合計1870円。帰りのほうが遠いのに安い。)
和歌山港を5時35分に出て、精華大前に8時半ころに着いた。帰りも乗継がうまくいき、早く帰ってこれた。
出町から叡電に乗ったとき、電車内をクモが歩いていた。急いで捕まえて安全なところへ逃がしてやった。これで、私が地獄に落ちた時、助けてくれるクモの糸1本ゲット!
ああ、これこれ。私の「勝手に国労応援ラン」は、このクモの糸1本分くらいの値打ちかな。
南海電車の半分くらいのスピードでゴットンゴットンと走る叡電の中で、これからの応援の仕方について思案した。「どうしましょ。」
家に着いたら、ヨメさんと真樹はすでにいなかに帰っていた。廉はこっちでテスト勉強をしたいということで残っていた。
「パオパオ、風呂わかしたろか。」
「おう、すまんね。」
風呂がわく間に、コンビニで食糧調達。
お風呂に入る前に恒例の体重測定。「61.7kg!」(前日比約3kg減。)
お昼おにぎり1個で27kmほど走り、ばんごはん前ならこんなもんですか。これで喜んでたらあかんけど、まずこれくらいを目標に減量していきたい。
右アキレス腱は確かに痛い。でもゆっくり走ったのでだいじょうぶ。
私のブログを読んでくださっているある女性ランナーがおっしゃっていた。
「藤井さんは、故障から復帰する過程も楽しまれる気がします。」
「うまい!」
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2011年07月26日(火)
国労を応援したいんですけど・・・ [時事]
◎毎日新聞6月25日朝刊
国労「JR復帰」断念
四者四団体月末に解散 24年の闘争に終止符
87年の国鉄分割・民営化に伴うJR不採用問題で、国鉄労働組合(国労)と旧全動労(現全日本建設交運一般労組)や支援組織などでつくる「四者四団体」が今月末、解散することになった。「JR復帰」を訴えてきた1047人のうち9割以上を占める国労系グループが「政府・与党に解決を棚上げされ、展望が開けない」と雇用要請の取り下げを決めたため。運動を続ける意向の組合員はいるものの、戦後最大の労働争議とされる国鉄闘争は事実上、終結へ向かう。
昨年4月、当時の与党3党(民主、社民、国民新)と公明党は、清算事業団を継承した独立行政法人が和解金など1人平均約2200万円を支払う▽政府はJR7社への再雇用について努力するが、(JR7社への)強制はできない−−などの解決案を提示。組合員910人(世帯)のうち904人が受け入れ、同6月に全訴訟を取り下げた。
しかし、政治解決案に基づき、関連会社などを含め約330人の再雇用を求めた組合員側に対し、7社は「03年の最高裁判決で解決済み」と拒否し続け、民主党と国土交通省も積極的姿勢をみせなかった。
組合員の平均年齢は57歳で、既に69人が死去。四者四団体の一つ「国鉄闘争共闘会議」の二瓶久勝議長は「国は震災対応で手いっぱいという事情もあるのだろうが、これ以上先送りされると、組合員や家族が第二の人生を歩めない」と苦渋の選択を明かした。
国労系組合員と家族が北海道や九州などで結成した36カ所の「闘争団」も近く解散する方向だ。
北海道・名寄闘争団の佐久間誠さん(56)は「国鉄から天下った多くのJR幹部に贖罪(しょくざい)をさせることなく、旗を降ろすのは無念だが、国による差別という道義的責任は歴史に残る」と話した。【坂本高志】
《JR不採用問題》
分割・民営化に反対した国労組合員を中心に約7600人がJRに採用されず、1047人は国鉄清算事業団からも解雇された。中央労働委員会は大半の採用や選考の見直しを命じたが、JR側は訴訟を起こし、03年に「JRに責任なし」との判決が確定した。その後、組合員側は旧国鉄を相手取った訴訟を続けたが、昨年夏に政治解決を経た和解が成立。和解を拒否した一部組合員の訴訟は今年6月、解雇を有効としつつ、所属労組を理由とした「旧国鉄の採用差別」を認め、1人550万円の賠償を命じる判決が最高裁で確定した。
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1ヶ月前の新聞記事を引っ張り出してきて、「時事」問題でもあるまいに・・・、と思われるかもしれません。でも、この記事の内容を自分にどう納得させればいいのか、1ヶ月たった今も分かりません。
6月22日、いつもどおりに「勝手に国労応援ラン」。右アキレス腱を痛めていたので、走ったり歩いたり・・・、というよりほとんど足を引きずりながらの歩きだったかな。
それでも「闘いはまだまだ続く」という中野勇人さんの言葉を信じ、一歩一歩進んでいたつもりだった。
しかし、その翌々日にこの重大発表。今まで様々な手を尽くしてこられた中野さんも、さぞ落ち込んでおられることだろう。
政治のことがまったく分からない私は、今の状況がよく読めない。明日、恒例の「勝手に国労応援ラン」に出かけようと思っているのだが、いったいどう応援したらいいのだろう。
明日こそ和歌山港を目指し、フェリーで四国徳島入りを計画していたのだが・・・。
自分に直接関係のないことには誰しも無関心。国労闘争団は、そんな人たちをどの程度自分たちの味方にすることができたのだろう。そのあたりを総括して、今まで支援してくださった方へ報告する必要はあると思う。
最後に、このブログの2010年5月7日の記事「JR不採用から『下方への競争社会』へ」を再録します。内容はほとんど毎日新聞の「記者の目」ですが、もう一度読んで見る価値はあると思います。
◎毎日新聞 2010年5月7日朝刊
記者の目:JR不採用の政治決着=坂本高志(東京社会部)
87年の国鉄分割民営化に伴う1047人のJR不採用問題で、政府・与党と公明党は4月、不採用になった国鉄労働組合(国労)組合員や遺族ら計910世帯に1人平均約2200万円の和解金を支払うなどの政治解決案をまとめ、大半の組合員が受け入れを決めた。歴代自民党政権と組合側双方が“挫折”を重ねた末の決着は「政治とカネ」などで迷走する鳩山内閣の数少ない成果かもしれないし、逆に「労組に甘い」と政権批判につなげる向きもある。だが政治的評価よりも、戦後最大の労働争議から見える教訓を探ることが重要だと考える。
◇バイトで生計 子の進学断念も
「闘争」にも「団結」にもなじみが薄い私がこの問題を取材し始めたのは、東京地裁を担当する司法記者だった約6年前。国鉄債務を引き継いだ旧国鉄清算事業団を相手に、国労の一部組合員が起こした解雇無効訴訟の審理が進んでいた。十数年間争い続ける理由を、原告の一人は「世の中では風化したかもしれないが、たまたま民営化に反対した組合に属したというだけで紙切れ一枚で首になった時を忘れることができない」と話した。静かな怒りが伝わった。
昨年1月、原告が多い北海道名寄(なよろ)市を訪れた。JR発足と同時に、不採用となった約180人が事業団名寄雇用対策支所に送られ、90年に36人が解雇された。以来、原告と家族は土木作業や山菜とりなどのアルバイトのほか、設立したクリーニング店などで得た金を分け合って暮らす。月収は十数万円。進学を断念した子供も珍しくなく、原告たちは「極寒のバイトよりも、家族に苦労をかけたことがつらい」と口をそろえた。
彼らの多くは「安定職だから」と国鉄を選び、先輩の誘いなどで自然と第1組合の国労に加入した。だが、民営化を前に、職場では「国労ではJRに行けない」と脱退を迫る動きが相次ぎ、民営化に賛成した労組の採用率はほぼ100%、国労は48%程度。国鉄は全国の「人材活用センター」に余剰人員を集めた後、約7600人を事業団に回した。旧国鉄やJR側は「手厚い雇用対策が行われた」などと説明するが、原告らの受け止めは違う。「職安の紙が張り出されただけ」「廃屋に集められてひたすら自学自習。ほとんどいじめだった」と憤る。
民営化前後は職員の自殺も急増したという。働く者に踏み絵を迫る、荒廃した環境が作られたことは否定しがたい。民営化の理由である巨額債務の背景に「我田引鉄」と称された政治家による利益誘導もあった。不採用の1047人に限らず、やむなく他労組に移ったり転職したすべての人が国策の犠牲者といえる。
国鉄改革法の審議で中曽根内閣は「一人も路頭に迷わせない」と述べ、参院も所属労組による差別が行われないよう付帯決議した。何度か和解への試みがあったとはいえ、政治の側に約束を守る強い責任感があれば、23年の月日は必要だったろうか。その反省に立てば、政府は今回の和解金に加え、再就職への支援も怠ってはならない。
国労の責任にも触れる。民営化を前に1人1人の雇用確保よりも政治闘争にまい進し、皮肉にも労働運動全体が衰退する流れを加速させた。
さらに、00年に当時の与党と社民党が政治解決に合意し、国労は定期大会で受け入れた。これを不服とする組合員が02年、今回の解決への足がかりとなった訴訟を起こした際、国労執行部は与党側の強硬姿勢を受け、提訴した組合員を大量処分するなど内部を統一できなかった。この訴訟が05年に一部勝訴して以降、原告支援に転じたものの、労組本来の役割とは何かという重い宿題が残った。
◇非正規労働など 今日につながる
大分大の石井まこと教授(社会政策)は労働運動の弱体化に伴う90年代以降の労使関係の変容を指摘する。「国鉄のケースでは、労働者が不利な条件で残るか、辞めるか判断せざるを得ない状況に追い込む手法がとられ、バブル崩壊後の企業リストラにも広がった。その結果、非正規労働の拡大を招き、正規公務員や正社員という身分も批判の対象となる『下方への競争社会』につながった」と語る。
公共部門の縮小を唱えた81年設置の「第2臨調」は世論の高い支持を集め、分割民営化への道を開いた。「行革フィーバー」を生んだ成功体験は基本的に継承されている。
出口の見えなかった原告らにとって、今回の政治決着は名誉回復の一助になるだろう。ただ、改革の「影」の部分は今後も検証されていくべきだ。私にはそこに「官と民」や「正規と非正規」に象徴される、働く者を巡る今の状況を読み解く一つのカギがあると思う。
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公務員をたたけば、政治家は票がとれるらしい。その典型的かつ象徴的だった例が、小泉元首相である。
弱いもんどうしで足を引っ張り合ったとき、一番喜ぶのはダレ? そこをよく考えなければ・・・。
足らないところを補い合い、みんなで助け合って楽しく暮らせる社会を作っていこうという考えは、もう古くさい?
「下方への競争社会」とは、なんと分かりやすく、またむなしい言葉であろうか。でも、もうそんなバカな競争をやめる必要性に早く気付かなければ・・・。
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