2011年07月28日(木)
おウメばあさん? [家族]
◎毎日新聞 7月27日(水)20時2分配信
<天皇、皇后両陛下>那須で福島からの被災者らにお見舞い
天皇、皇后両陛下は27日、栃木県那須町のホテルを訪れ、東日本大震災で福島県から避難している被災者らを見舞った。両陛下は26日から静養のため那須御用邸に滞在しているが、同町長らから話を聴くなど被災状況の把握に努めている。
ホテルでは14世帯27人と懇談。天皇陛下は、浪江町から避難している八橋清美さん(38)の長女で那須町立那須小4年、美優さん(10)に「お友達はできましたか」と問いかけ、美優さんは「はい」と小さな声で答えた。
美優さんは4月に同町に避難してから2度小学校を替わり、9月には福島市内の小学校に転校するという。清美さんは「娘もやっと落ち着くと思います。両陛下に声をかけられて勇気づけられました」と話した。
両陛下は時には被災者の手を握りながら見舞った。天皇陛下はホテルを去り際に「いい方向に向かうといいですね。みなさん、どうぞ、お元気でね」と被災者を励ました。
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テレビでこのニュースを見た時、ドキッとした。天皇陛下が、うちのおばあさんにそっくりだったから。
うちのおばあさんは、正真正銘、花背別称町の生まれ。中の町の「おけや」の出。私が12歳の時(43年前)亡くなった。まあ、天皇家とは何の関係もない。でも、似すぎてるんですよねえ。
私のふるさと京都市左京区花背別所町は、鞍馬から標高765mの花背峠を越えたところ。鞍馬から約10km山奥に入ったところである。この村がどのようにしてできていったのか、諸説あって定かではない。冬には1m以上の雪が積もり、どの作物を育てるのにも適さないこのような土地に、あえて住もうとした最初の人はどんな人だったのだろう。比叡山のお坊さんという説が有力だと聞いたことがあるが、比叡山は確か天台宗。うちのいなかは禅宗の曹洞宗だし・・・。
天皇家ゆかりの方が、わけあってうちのいなかに来られ・・・、というようなことは考えられないのだろうか。このあたりは、ブログ「晴徨雨読」を書いておられる物知り・じょんのび村村長さんに聞いてみよう。
まあ、日本中に天皇家の末裔伝説があるらしいので、いろいろ勝手に想像しても悪くはないですよね。
今、手元におばあさんの写真がないのが残念。今度いなかに帰ったら、さがしてこようっと。
代わりに、このブログの2009年8月15日の記事に使った写真を載せておきます。
真ん中の写真の一番右がおウメばあさん。と言っても小さすぎて分かりませんね。その息子(つまり私の父)も皇族ぽく見えません?
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2011年07月27日(水)
第19回勝手に国労応援ラン [ランニング]
「高岡蒼甫のん、知ってる?」とヨメさん。
「ああ、韓流ブーム批判でツイッター炎上ちゅうやつやろ。」
「宮崎あおいは私と一緒の思想ではありません、と書けと言われたので書いておきますやて。アンタもそうしいや。」
「なにそれ。ますみちゃんが宮崎あおいってゆうこと? おー、ほならボク高岡蒼甫かーい。」
「じゃなくてー・・・(深いため息)。」
ヨメさんはいつも言う。「アンタのやっていることは自己満足なだけで、人の迷惑などまったく考えていない」と。(昨日の記事についても同じことを言われた。)
そのとーり。私は人の迷惑などまったく考えていません。でも、24年間の辛苦に絶えてきた国労の人たちが、私のブログの記事ごときでうろたえるとは思えない。
以前、中野勇人さんに「私の勝手な応援が、かえって迷惑になりませんか」と相談したことがある。それに対する答えは、「藤井さんのような部外者が、一人でも多く私たちに関心を持ってくれているということは、相手(国交省・JRなど)にはこたえるんですよ」とのこと。私はその言葉を信じ、日夜「勝手に国労応援」にまい進しております(・・・って、たいそうか。)
うちのすぐ近く、京都バス「地球研前」バス停からバスに乗ったのが11時9分。国際会館前から地下鉄で京都駅。京都駅からJR。大阪駅で和歌山行きにうまく乗り継げた。阪和線「山中渓(やまなかだに)」駅に着いたのは13時35分。家から2時間半で来れた。
行きしの費用は、京都バス160円、地下鉄280円、JR1530円で合計1970円。
「国労闘争団が解散」ということで、中野勇人さんからいただいたアピールゼッケンを着けて走るのには抵抗があった。今日は、「京都キャロット」のTシャツで。「国労応援」は心の中で。
13時40分ころ、和歌山に向かってスタート。
駅のすぐ近くに、入場無料の遊園地「わんぱく王国」の入り口があった。
そのすぐ近くに交番があり、道路案内図があった。
ここ阪南市から和歌山に抜ける道は雄ノ山峠というらしい。
峠というからかなりきついのぼりを想像していたが、適度な上りと時々下りも挟まり飽きないコースだった。
県境までおよそ10分。先月、こんなに和歌山に近いところまで来ていたんですね。
県境を越えたところに、数十軒の小さな集落があった。
見知らぬ人などめったに通らないのだろう。ワンちゃんが、不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。
線路を越えるところがあったので、写真を撮っておいた。
この集落を越えると、また人家のない山道。
ここは交通量が少ないので、駅伝にピッタリだと思う。いざとなったら、有料の阪和道を無料にして迂回してもらったら、大規模な駅伝でもだいじょうぶ。
そんなことを考えながら走っていると、足の故障もあまり気にならない。
和歌山市街をのぞめる気持ちのいいランニングコース。休日なら、走っている人もいるのだろうか。
山のふもとにお地蔵さん。「幸福地蔵」と書いてあった。
お地蔵さんを見れば拝んでおくという癖がついた。
こちらは動物の慰霊碑。
うちはいっぱい飼っていていっぱい死んじゃったので、短時間では拝めない。つい最近に死んじゃった「あんも」に代表してもらって「ナンマイダー・・・」。
このお地蔵さんの団体はすごい。
このお寺を過ぎると、やっと平坦な道になった。
「谷」交差点でコンビニ発見。
走り出して1時間ほどたったので、ちょっとお腹がすいた。お昼ごはんとして、おにぎり1個とぺットボトル500のお茶。もちろんおにぎりは紀州梅。
5分ほどで食べ終わり、さあ再スタート。しかし、ここで異変が・・・。
それまで気にならなかった右アキレス腱が、ズキズキと痛み出してきた。
「リズム、リズム、走りのリズムを取り戻さなくては・・・。」
峠越えは所々日陰もあったが、このあたりから日光を遮るものなし。天気予報では「曇り」だったのに、ギラギラと太陽が照りつける。
「山中渓」駅の次の「紀伊」駅。
ここでもう3時前。
和歌山港発徳島行き16時30分に乗れたらめっけもんと思っていたが、全然無理。その次は19時10分発なので、それに乗ってしまったら京都に帰れなくなってしまう。
阪和道の下をくぐる。
この時の所持金12000円くらい。フェリーが2000円。徳島から京都に帰る交通費が4000円とすると、残りは6000円。これは泊まれんこともないな。でも食費がいるし、着替えも持ってきてないし・・・。
心は揺れたが、この時点で、和歌山港から南海電車で帰ることにした。
田の横を走っていると、向こうに立派な建物。
「開智中学校・高等学校」
よくありそうな名前ですが、有名な学校なんでしょうか。
「六十谷(むそた)」駅到着。3時半。
汗びちゃびちゃで顔を洗いたかったが、水を使えそうなところは見つからず。
駅からちょっと南に走ると紀ノ川にぶつかった。
ここを渡ると、市の中心部ということだろうか。
長い橋だが、渡っている時に出会ったのは自転車のおじさんただ一人。この暑いのに出歩いている人などほとんどないということだろう。
ここまで分かりやすい道だったので迷走なし。ところが、橋を渡ってから狭い道に入り込んでしまった。
プリントアウトして持ってきた地図は、汗で所々に穴があいてしまっていた。住宅街のようなところでジュース購入。こんな時はやっぱり炭酸系。ファンタグレープ一気飲み。
「紀伊中ノ島」駅到着。4時10分。
広い通りが見つかったのでそこを南下。
途中に「円満寺」というお寺さん発見。しっかり拝んでおきました。もちろん、「夫婦円満・・・」。
途中の交差点で、和歌山駅より西を走っていたことが分かる。本当は和歌山駅のまん前で記念撮影をしたかったのだが、戻る気力なし。ちょっとだけ戻って、望遠で撮影。
このあたりで足は限界を超えていた。でも、一息つくとまた走り出せる。ダラダラ歩くよりは、ゆっくりペースでもリズムよく走るほうがよっぽど楽だった。
私が死んだら墓はいらんから、こんな石像をどっかに置いてもらいたい。迷惑かな。
見えましたー、和歌山城。
和歌山県は人口減少が著しく、昨年、県人口が100万人を切ったそうだ。私が見た範囲だけで言わせてもらうと、落ち着いた雰囲気の住みやすそうな県に見えるのですが・・・。
そういえば、あまり大規模なマラソン大会もありませんでしたよね。和歌山の良さを広く知ってもらうためには、マラソン大会開催も一つの方法だと思います。
やまたくさーん、やまたくさんのふるさと・網屋町はこの「材木町」バス停の近くですよね。ちょっとだけうろつかせていただきました。和歌山港フェリー乗り場のすぐ近くじゃないですか。
材木町バス停から15分ほどでフェリー乗り場。
14時30分発の徳島行きフェリーは、50ほど前に出てしまっていた。
走っていた時間は3時間45分。
サイトの地図上の2点間距離では、山中渓駅→和歌山港は23kmくらいだったが、絶対にもっと走っている。多少歩いたとは言え、キロ8分ペースは下回っていないだろう。その計算で行くと、休けいの合計10分ほどを引いても27km。迷走も入れて27km走ったことにしとこうっと。
海岸沿いまで行って海峡の写真を撮りたかったのだが、停車している南海電車が気になった。
この時間帯、1時間に2本しかない。今停まっている電車があと5分ほどで発車。その次はだいぶあと。心残りもあったが、急いで切符を買って乗り込んだ。和歌山港→難波は890円。
乗ってみると車内はガラガラ。1両に3、4人。
よく考えて見ると、南海電車に乗るのは生まれて初めて。電車の音がすごかった。また、家のぎりぎりのところを走っている。家の窓から手を出したら、電車に持っていかれそうな・・・。
あれ、体感速度120kmくらいです。こわいっちゅうねん!
電車の座席で足を組んだりしていると、足に噴出した塩が床に落ちて、うっすら雪化粧。これ、ほんまなんです。ものすごい塩の量。
難波→淀屋橋、大阪地下鉄200円。
淀屋橋→出町柳、京阪電車460円。
出町柳→京都精華大前、叡山電車320円。
(南海電車の890円をたして、帰りは合計1870円。帰りのほうが遠いのに安い。)
和歌山港を5時35分に出て、精華大前に8時半ころに着いた。帰りも乗継がうまくいき、早く帰ってこれた。
出町から叡電に乗ったとき、電車内をクモが歩いていた。急いで捕まえて安全なところへ逃がしてやった。これで、私が地獄に落ちた時、助けてくれるクモの糸1本ゲット!
ああ、これこれ。私の「勝手に国労応援ラン」は、このクモの糸1本分くらいの値打ちかな。
南海電車の半分くらいのスピードでゴットンゴットンと走る叡電の中で、これからの応援の仕方について思案した。「どうしましょ。」
家に着いたら、ヨメさんと真樹はすでにいなかに帰っていた。廉はこっちでテスト勉強をしたいということで残っていた。
「パオパオ、風呂わかしたろか。」
「おう、すまんね。」
風呂がわく間に、コンビニで食糧調達。
お風呂に入る前に恒例の体重測定。「61.7kg!」(前日比約3kg減。)
お昼おにぎり1個で27kmほど走り、ばんごはん前ならこんなもんですか。これで喜んでたらあかんけど、まずこれくらいを目標に減量していきたい。
右アキレス腱は確かに痛い。でもゆっくり走ったのでだいじょうぶ。
私のブログを読んでくださっているある女性ランナーがおっしゃっていた。
「藤井さんは、故障から復帰する過程も楽しまれる気がします。」
「うまい!」
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2011年07月26日(火)
国労を応援したいんですけど・・・ [時事]
◎毎日新聞6月25日朝刊
国労「JR復帰」断念
四者四団体月末に解散 24年の闘争に終止符
87年の国鉄分割・民営化に伴うJR不採用問題で、国鉄労働組合(国労)と旧全動労(現全日本建設交運一般労組)や支援組織などでつくる「四者四団体」が今月末、解散することになった。「JR復帰」を訴えてきた1047人のうち9割以上を占める国労系グループが「政府・与党に解決を棚上げされ、展望が開けない」と雇用要請の取り下げを決めたため。運動を続ける意向の組合員はいるものの、戦後最大の労働争議とされる国鉄闘争は事実上、終結へ向かう。
昨年4月、当時の与党3党(民主、社民、国民新)と公明党は、清算事業団を継承した独立行政法人が和解金など1人平均約2200万円を支払う▽政府はJR7社への再雇用について努力するが、(JR7社への)強制はできない−−などの解決案を提示。組合員910人(世帯)のうち904人が受け入れ、同6月に全訴訟を取り下げた。
しかし、政治解決案に基づき、関連会社などを含め約330人の再雇用を求めた組合員側に対し、7社は「03年の最高裁判決で解決済み」と拒否し続け、民主党と国土交通省も積極的姿勢をみせなかった。
組合員の平均年齢は57歳で、既に69人が死去。四者四団体の一つ「国鉄闘争共闘会議」の二瓶久勝議長は「国は震災対応で手いっぱいという事情もあるのだろうが、これ以上先送りされると、組合員や家族が第二の人生を歩めない」と苦渋の選択を明かした。
国労系組合員と家族が北海道や九州などで結成した36カ所の「闘争団」も近く解散する方向だ。
北海道・名寄闘争団の佐久間誠さん(56)は「国鉄から天下った多くのJR幹部に贖罪(しょくざい)をさせることなく、旗を降ろすのは無念だが、国による差別という道義的責任は歴史に残る」と話した。【坂本高志】
《JR不採用問題》
分割・民営化に反対した国労組合員を中心に約7600人がJRに採用されず、1047人は国鉄清算事業団からも解雇された。中央労働委員会は大半の採用や選考の見直しを命じたが、JR側は訴訟を起こし、03年に「JRに責任なし」との判決が確定した。その後、組合員側は旧国鉄を相手取った訴訟を続けたが、昨年夏に政治解決を経た和解が成立。和解を拒否した一部組合員の訴訟は今年6月、解雇を有効としつつ、所属労組を理由とした「旧国鉄の採用差別」を認め、1人550万円の賠償を命じる判決が最高裁で確定した。
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1ヶ月前の新聞記事を引っ張り出してきて、「時事」問題でもあるまいに・・・、と思われるかもしれません。でも、この記事の内容を自分にどう納得させればいいのか、1ヶ月たった今も分かりません。
6月22日、いつもどおりに「勝手に国労応援ラン」。右アキレス腱を痛めていたので、走ったり歩いたり・・・、というよりほとんど足を引きずりながらの歩きだったかな。
それでも「闘いはまだまだ続く」という中野勇人さんの言葉を信じ、一歩一歩進んでいたつもりだった。
しかし、その翌々日にこの重大発表。今まで様々な手を尽くしてこられた中野さんも、さぞ落ち込んでおられることだろう。
政治のことがまったく分からない私は、今の状況がよく読めない。明日、恒例の「勝手に国労応援ラン」に出かけようと思っているのだが、いったいどう応援したらいいのだろう。
明日こそ和歌山港を目指し、フェリーで四国徳島入りを計画していたのだが・・・。
自分に直接関係のないことには誰しも無関心。国労闘争団は、そんな人たちをどの程度自分たちの味方にすることができたのだろう。そのあたりを総括して、今まで支援してくださった方へ報告する必要はあると思う。
最後に、このブログの2010年5月7日の記事「JR不採用から『下方への競争社会』へ」を再録します。内容はほとんど毎日新聞の「記者の目」ですが、もう一度読んで見る価値はあると思います。
◎毎日新聞 2010年5月7日朝刊
記者の目:JR不採用の政治決着=坂本高志(東京社会部)
87年の国鉄分割民営化に伴う1047人のJR不採用問題で、政府・与党と公明党は4月、不採用になった国鉄労働組合(国労)組合員や遺族ら計910世帯に1人平均約2200万円の和解金を支払うなどの政治解決案をまとめ、大半の組合員が受け入れを決めた。歴代自民党政権と組合側双方が“挫折”を重ねた末の決着は「政治とカネ」などで迷走する鳩山内閣の数少ない成果かもしれないし、逆に「労組に甘い」と政権批判につなげる向きもある。だが政治的評価よりも、戦後最大の労働争議から見える教訓を探ることが重要だと考える。
◇バイトで生計 子の進学断念も
「闘争」にも「団結」にもなじみが薄い私がこの問題を取材し始めたのは、東京地裁を担当する司法記者だった約6年前。国鉄債務を引き継いだ旧国鉄清算事業団を相手に、国労の一部組合員が起こした解雇無効訴訟の審理が進んでいた。十数年間争い続ける理由を、原告の一人は「世の中では風化したかもしれないが、たまたま民営化に反対した組合に属したというだけで紙切れ一枚で首になった時を忘れることができない」と話した。静かな怒りが伝わった。
昨年1月、原告が多い北海道名寄(なよろ)市を訪れた。JR発足と同時に、不採用となった約180人が事業団名寄雇用対策支所に送られ、90年に36人が解雇された。以来、原告と家族は土木作業や山菜とりなどのアルバイトのほか、設立したクリーニング店などで得た金を分け合って暮らす。月収は十数万円。進学を断念した子供も珍しくなく、原告たちは「極寒のバイトよりも、家族に苦労をかけたことがつらい」と口をそろえた。
彼らの多くは「安定職だから」と国鉄を選び、先輩の誘いなどで自然と第1組合の国労に加入した。だが、民営化を前に、職場では「国労ではJRに行けない」と脱退を迫る動きが相次ぎ、民営化に賛成した労組の採用率はほぼ100%、国労は48%程度。国鉄は全国の「人材活用センター」に余剰人員を集めた後、約7600人を事業団に回した。旧国鉄やJR側は「手厚い雇用対策が行われた」などと説明するが、原告らの受け止めは違う。「職安の紙が張り出されただけ」「廃屋に集められてひたすら自学自習。ほとんどいじめだった」と憤る。
民営化前後は職員の自殺も急増したという。働く者に踏み絵を迫る、荒廃した環境が作られたことは否定しがたい。民営化の理由である巨額債務の背景に「我田引鉄」と称された政治家による利益誘導もあった。不採用の1047人に限らず、やむなく他労組に移ったり転職したすべての人が国策の犠牲者といえる。
国鉄改革法の審議で中曽根内閣は「一人も路頭に迷わせない」と述べ、参院も所属労組による差別が行われないよう付帯決議した。何度か和解への試みがあったとはいえ、政治の側に約束を守る強い責任感があれば、23年の月日は必要だったろうか。その反省に立てば、政府は今回の和解金に加え、再就職への支援も怠ってはならない。
国労の責任にも触れる。民営化を前に1人1人の雇用確保よりも政治闘争にまい進し、皮肉にも労働運動全体が衰退する流れを加速させた。
さらに、00年に当時の与党と社民党が政治解決に合意し、国労は定期大会で受け入れた。これを不服とする組合員が02年、今回の解決への足がかりとなった訴訟を起こした際、国労執行部は与党側の強硬姿勢を受け、提訴した組合員を大量処分するなど内部を統一できなかった。この訴訟が05年に一部勝訴して以降、原告支援に転じたものの、労組本来の役割とは何かという重い宿題が残った。
◇非正規労働など 今日につながる
大分大の石井まこと教授(社会政策)は労働運動の弱体化に伴う90年代以降の労使関係の変容を指摘する。「国鉄のケースでは、労働者が不利な条件で残るか、辞めるか判断せざるを得ない状況に追い込む手法がとられ、バブル崩壊後の企業リストラにも広がった。その結果、非正規労働の拡大を招き、正規公務員や正社員という身分も批判の対象となる『下方への競争社会』につながった」と語る。
公共部門の縮小を唱えた81年設置の「第2臨調」は世論の高い支持を集め、分割民営化への道を開いた。「行革フィーバー」を生んだ成功体験は基本的に継承されている。
出口の見えなかった原告らにとって、今回の政治決着は名誉回復の一助になるだろう。ただ、改革の「影」の部分は今後も検証されていくべきだ。私にはそこに「官と民」や「正規と非正規」に象徴される、働く者を巡る今の状況を読み解く一つのカギがあると思う。
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公務員をたたけば、政治家は票がとれるらしい。その典型的かつ象徴的だった例が、小泉元首相である。
弱いもんどうしで足を引っ張り合ったとき、一番喜ぶのはダレ? そこをよく考えなければ・・・。
足らないところを補い合い、みんなで助け合って楽しく暮らせる社会を作っていこうという考えは、もう古くさい?
「下方への競争社会」とは、なんと分かりやすく、またむなしい言葉であろうか。でも、もうそんなバカな競争をやめる必要性に早く気付かなければ・・・。
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2011年07月25日(月)
第41回大文字山ランニング・続き [ランニング]
私ら夫婦は超久しぶりの参加なので、いったいどれくらいかかるのか見当もつかない。
18年前と言うと、私は2歳になるちょっと前の廉を背中におぶって参加。その時確か16分くらいで登れたような気がするのだが・・・。その前の年に普通に登って12分台だったような・・・。記録をきっちり残すタイプではないので、よう分からん。
ヨメさんの目標は、一応30分くらいらしい。若ちゃんもそれくらいで行きたいと言ってはったけど、いざスタートとなったらそうゆっくりとは・・・。
上り坂はきついけど、緑に囲まれた道を駆け上がる気持ちのよさ。
振り返ると、かなり後ろに若ちゃん。
そしてそのまたかなり後ろに眞寿美さん。
おー、その後ろには誰もおらず。早くも最下位独走か・・・。
ヨメさんの写真を撮りながら登ろうと思っていたが、ちょっと離れすぎて無理。自分のペースで登って、折り返して写真を撮りに帰ってくることにしよう。
広い道から橋を渡って登山道に入るところ。
「いやー、酉脇(とりわき)さん。こんなとこまで来てくれてはったんですか。お写真撮らせてもらいますわー。」
酉脇さんは歩くのも大変なはずなのに、こんな上まで、お一人で?
途中のちょっと道が広くなったところで、かわいいワンちゃんが・・・。こんなところを散歩しているワンちゃんはめずらしい。
「たま・メス・2歳」
ちっちゃくてかわいいワンちゃんでした。
お地蔵さんの前を通過すると、残り500mくらいでしょうか。
走路員をしていてくださっているのは、塚本副会長さん。
(すいません、手ブレしてしまいました。)
長い階段の上のほうには、井上郁さん(私と同い年)。
今日はレースには参加せず、応援に回られました。
ゴールの写真を撮ろうとカメラを出してモタモタしていると、後ろからすっと抜いていく少年あり。でもそのおかげで、臨場感あふれるいい写真が撮れた。
私のゴールタイムは、14分48秒。
右アキレス腱炎と左のぎっくり腰の割にはよう走ったと言えるかも。アキレス腱も腰も、このレースで悪化はしていないようだ。よかった。
さあ、ヨメさんの写真を撮りに行かなくては・・・。
若ちゃん、笑顔のゴール。
30分はかかるとおっしゃっていたのに、16分台でのゴール。練習を続けている方なら、これくらいで行けますって。
今日の最高齢・佐藤光一さんの力強いランニングフォーム。
さあ、そろそろヨメさんが来るかなあ。
ゴール写真も上手に撮れた。
ヨメさんも30分はかかると言っていたが、20分ちょっとでゴール。
サロマに向けて練習した貯金が、まだ残ってるようですね。
応援に来ておられた女性の方にお願いして、夫婦ツーショット写真。上手に撮っていただきました。ありがとうございました。
このあと、参加者全員で記念撮影。向こうでカメラを構えておられる紺Tシャツは、京都走ろう会の阿加井さん。いつもいつも撮影係、ご苦労さまです。
(全員の集合写真は、京都走ろう会のホームページで見ることができます。)
ゴールでいただいた凍らせたアップルジュースを飲み干して、帰路へ。
ヨメさんは佐藤光一さんとおしゃべりしながら・・・。だいぶ前になくなったお父さんと佐藤さんが同い年らしい。また一人、お父さんみたいにしゃべれる人が増えたね。
登りはあっと言う間という感じだったのに、帰り道の遠いこと。ほんまに1.5kmかいなと思えてきた。
佐藤光一さんの説によると・・・。
この大文字ランニングの1.5kmと、夏場の京都走ろう会例会の3.1kmのタイムがだいたい同じだそうだ。そういえば、私の14分48秒、ヨメさんの20分46秒もそれに当てはまりそう。このコースは、平坦地の倍かかると思っといたらいいんですね。
大文字の送り火で使う杉葉を、ロープウェイで上げておられた。このロープウェイは、この行事のためだけに設置されていたんですね。
「足が痛くならんでよかったです」とお地蔵さんに報告。
アップ1km、レース1.5km、下りの1.5kmがダウンということで、今日は合計4km。
荷物置き場に戻ると、声を賭けてくださる方あり。
「次はどこの大会に行かれるんですか。」
「いやー、夏場はあんまり大会には行かないんです。」
「三瓶クロカンとかは?」
「あっ、それは行きます。ひろしまクロカン、三瓶クロカンの連続で。」
「私も連続で参加します。三瓶は立派な賞状がもらえるんでいいですよね。」
「そうそう。うちのヨメさんも、7位とか8位のぎりぎりですけど賞状もうてますわ。あっ、でも男子はけっこう入賞きついんちゃいます?」
「39歳以下がひっくるめて一つの部門やから、きついですよ。」
「そうですよね。それで入賞ということは、かなり速いんですね。」
「いえ、いつもいっぱいいっぱいです。」
話しかけてくださった方は、宇治市の磯俣さん。三瓶では3kmと5kmの2種目連続で出場されるらしい。元気あまってますね。今年は私も3kmに出場するので対決です。(と言っても、今日の結果10位と31位を見てもその実力の差は明らか。)
八神社境内に戻り、表彰式。
男子優勝は今西さん。9分14秒。
2年連続橋本さんに次ぐ2位に入っておられた方。ほんとうは、橋本さんに競り勝って優勝したかったでしょうね。
女子優勝は北川さん。11分29秒。
2連覇のあと、1年挟んでまた2連覇。すごい!
塚本副会長さんの閉会のあいさつ。
ふだんあまり表立った役をされていないので、あいさつが終わった時満場の拍手がおこった。京都走ろう会のあたたかさが感じられる閉会式だった。
帰りに真樹のおみやげを・・・。
八つ橋のお店が多かったが、真樹はこっちのほうが好き。「おかき」を買うことに。
コインパークの横におそばやさん。大通りを少し入ったところなので、落ち着いた感じのお店。ここで食べて帰ることにした。
「にしん茄子定食」、おそばもついて880円。おいしくいただきました。
今年は廉の足の具合がイマイチだったのでいっしょに来れなかったが、来年は出てほしい。どうせ出るなら優勝目指して・・・。走った後は、ここでおいしいおそばを食べて祝勝会。
そうはうまくはいかんかな?
※ 京都走ろう会のホームページで、「大文字山ランニング」の過去10年の記録を調べていたら、私の大ボケ発覚。18年ぶりではなく、2005年に出場していました。記録は14分05秒。6年前に走ったことさえ記憶になかったとは・・・。
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2011年07月24日(日)
第41回大文字山ランニング [ランニング]
藤井廣司 14分48秒
藤井眞寿美 20分46秒
今日はいなかの家から大文字山へ。
「近畿マスターズ」の800m1500mを回避して、当日参加申し込みができる京都走ろう会主催の「第41回大文字山ランニング」へ。
きくのエサを持って帰るのを忘れ、特製犬メシ。ごはんにアスパラガス、鶏のから揚げ、じゃこをブレンド。
「きくは上手にアスパラガスだけよけよんなあ。パオパオのニンジンだけよけんのといっしょやなあ。」
そうそう、5月の大阪マスターズの大会で知り合った三重の森田さんに連絡しなくては。近畿マスターズで会う約束をしていたので・・・。急いでメール。
「すいません。京都の藤井です。
今日は近畿マスターズですね。私も800mと1500mにエントリーしていたのですが、足の故障のため棄権します。美人の娘さんとお会いするのを楽しみにしていたのに残念です。
自己ベストめざしてがんばってください。またお会いできる日を楽しみにしています。」
そのあと、花背峠を越えた電波の届かないところを運転中に森田さんから電話があった。留守電に入れてくださっていたので、家に着いてから聞いてみた。
「実は私も、1ヶ月前、家でネコのゲロを踏んで転倒してしまい、骨折に近い捻挫でまったく練習できていません。・・・」
えー、えらいこっちゃー。でも、なんとも言えんなごむコメントやねえ。「ネコを愛するスプリンター」って・・・。「ネコのゲロに滑って走れなくなった短距離王」、ほんまにいい方とお友だちになれました。
9時過ぎ、市原の家を出発。
銀閣寺の門前下のコインパークに車を入れ会場へ。
門前の坂の両側にはいろいろなお店。
「真樹のおみやげ、こうてかえったらんなんなあ。」(真樹ときくはいなかの家でお留守番。)
八神社前で、ヨメさんに写真を撮ってもらった。
88円足首サポーターとゲイターで固めてあるので、右アキレス腱は歩いた程度では痛くはならない。
受付終了の9時50分近くだったが、私らは35番と36番。
今年たぶん18年ぶりの参加になると思うのだが、18年前はこの2倍くらいの参加者があったような気がする。
八神社前では、大文字送り火保存会の方々が火床につける松明の準備をされていた。
年配の方が若者に、薪割りの手本を見せておられた。
「私も、いっぺん薪割りしてみたいなあ」とヨメさん。
「別所(私のいなか)でなんぼでもできるでー、マサカリもあるし・・・。」
おじいさんに教えてもろたらええわ。
このあと、1kmほどスロージョグ。ゆっくり走る分には、足は痛まない。「大文字山ランニング」は急坂だが、距離は1.5kmだそうだ。ゆっくり気をつけて走れば、何とか行けそう。
KBS京都の番組のレポーター・若ちゃん(若林順子さん)にお願いして、ヨメさんとのツーショット写真。
ご本人にも写真を確認してもらったが、べっぴんさんに撮れてますやん。それに比べてヨメさんは、目つぶってるし、顔大き見えるし、引き立て役かーい。
「今年の丹後ウルトラは?」と若ちゃんから聞かれた。
「10年連続関門収容を達成したので、丹後はもう引退しました。でもね、四万十の抽選に当たったんですよ。若ちゃん、ウルトラ初完走が四万十やって言ってはりましたやん。ボクも完走できるとしたら四万十かなって思ってるんですけど・・・。」
「最初の峠を越えると平坦やしね。でも、そのダラダラとしたコースがかなんって言わはる人もいやはるしね。」
「うーん、ボクには向いているような・・・。今年は90km目標で出てみようかなー、と。」
「えー、完走は?」
「アホでしょ」とヨメさん。
「お子さんたち、大きくなられたでしょう」と若ちゃん。
「大文字駅伝の時取材してもらった息子が、8月で20歳になります。」
「えー、あの子が・・・。8年もたつんですねえ・・・。」
「ねえ、早いもんで。下の娘も、もう高2で・・・。」
「そんでお母さんが50の大台で・・・」と私。
「何でやねん、まだ半年以上あるっちゅうねん!」
「それで、このかっこうですわ・・・。」
10時。
「開会式を始めますので、みなさん、鳥居の奥に集まってください。」
京都走ろう会・津田会長さんのごあいさつ。
大震災のことにも触れられたが、ごく自然でソフトな感じの好印象なごあいさつだった。
最終的に、参加者は45名。
こんなこじんまりした大会は、今や超貴重である。
ヨメさんのスタイルは、廉に言わせると「60以上のオッサン喜ばすだけー」。
「ふむふむ。」
市民マラソンではめずらしい「スタート前コール」。京都走ろう会の松山さんが、ナンバーカード1番から順番に呼んでいかれた。
「35番、藤井眞寿美さん。」
「はいっ!」
ちょっと力水をつけに・・・。
「なんかぬるいでー。これ、水道の水かー。」
スタート5分ほど前。
いったん脇の鳥居下に集合し、スタート直前にスタートラインに移動という段取り。
スタート前、京都走ろう会の大ベテランランナーお二人と歓談。
「藤井さん、藤野さんはえらいんやでー。パートで働きに行ってはったとこから、あんまりマジメなもんやから正社員になってくれて言われはったんやで。」
「いや、そうなんですか。すごいですやん。藤野さん、おいくつですか。」
「わしか、わしは67や。」
「若いもんは時間にルーズやったり、勝手に休んだりするやろう。藤野さんはそんなこと一切ないからな」と佐藤さん。
「ほんま、歳いってはる人のほうがそのへんはきっちりしてはりますもんね。」
「ところで、佐藤さんはいくつにならはったん?」と藤野さん。
「僕は76。今日の参加者の最高齢らしいわ。ここも毎年出てるけど、年々タイムは落ちていく一方で・・・。」
「佐藤さん、大文字に走って登れるだけですごいことですって」と私。
私らが受付に上ってきたころ、入念にウォーミングアップをされていた佐藤さんの姿が印象的だった。体力維持には、それなりの自己管理が徹底されているということです。
佐藤光一さんは、京都走ろう会会員番号1番。みんなのお手本と言える、会の象徴的存在です。佐藤さんの走られるお姿を見て、自分もがんばろうと思われている方も多いでしょう。
さあ、10時20分。いよいよスタート。
今日は、何連覇も継続中の橋本猛志さんが不参加。さて、優勝杯は誰の手に・・・。
(注)続きは明日へ。
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2011年07月23日(土)
「完走する気もないくせに!」(四万十) [ランニング]
まったく走れない状態の時に、こんな話題もなんですが・・・。
「四万十川ウルトラマラソン」、当選しました。
3年前に初めて申し込んだ時から3年連続の当選。確率的にはかなりむずかしいはずですが・・・。
「ウルトラマラソン引退宣言したんちゃうん?」とおっしゃるみなさん、仰せの通りでございます。「100kmウルトラ15回連続関門収容、丹後ウルトラ第1回〜10回全滅、年間3大会全滅」という金字塔(?)を打ち立てた2010年を機に、もう二度と100kmウルトラには申し込むまいと思っていました。
でも、「四万十川ウルトラ」の締切日の6月20日に、「3年連続で当たるはずはないやろう」という軽い気持ちで申し込みました。
「また当たりましたがなー。」
「ますみちゃん・・・。」
「なにー!」
「ますみちゃん・・・。」
「なんやな、はよゆい、気持ち悪い。お金やったらないでー。」
「四万十申し込んだら、当たってしもた。」
「フン! ほんで?」
「行ってもいい?」
「なにゆうとんね、あほらしもない。完走する気もないくせに!」
ノンノンノンノンノン・・・。
完走する気もなくウルトラのスタートラインに立ったことなど、過去一度もない。いつも、「完走したら、みんなになんてゆうて自慢しよう」とワクワクしながらスタートしていたんです。これ、分からんかなあ・・・、分からんわなあ・・・。
「アンタみたいに、緊張感のない努力もなーんもせん人間に100kmなんか出る資格ないわ!」
「うまい!」
その的確な表現に、思わずうなるパオパオであった。
さて、どうしますか。
8月4日の参加料支払い期限までに決断しなくては・・・。
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