2011年01月13日(木)
「春との旅」 [映画]
◎日経トレンディネットより
名優・仲代達矢が「自分の長い役者人生のなかでも、この脚本の出来映えは150本中、5本の指に入る」と絶賛するほどに脚本に惚れ込み、9年ぶりに主演した映画が『春との旅』だ。74歳の老人と19歳の孫娘が、親類を訪ねて旅をする物語のなかに、仲代は何を見たのだろうか?
物語は北海道・増毛の寂れた海辺から始まる。忠男(仲代達矢)はここでニシン漁を生業にしてきたが、そのニシン漁も今は廃れ、かつての面影もない。忠男自身、足が不自由となり、5年前に娘を亡くしてからは、孫娘の春(徳永えり)に頼って暮らす日々。だが、地元小学校の廃校に伴い、春が給食係の仕事を失ったことからドラマが幕を開ける。
春は「東京に出て仕事を探す」と言い出し、その一言に、春がいないと暮らせない忠男は激怒。引き留める春を振り切り、家を出てしまうのだ。行く先は、今は疎遠となっている姉兄弟の家。頼れる家があれば、そのまま居候させてもらう魂胆だ。だが春は、足の不自由な忠男を1人で行かせるわけにもいかず、慌てて祖父を追いかけることに。かくして、忠男と春との2人旅が始まっていく。
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仲代達矢が好き。仲代達矢が主演、それだけで見に行きたいと思った映画。(私は目に狂気を漂わせている俳優さんが好き。)
ただ封切りの時には見逃していた。京都には「2番館」はもうほとんどない。唯一残っている2番館と言っていい祇園会館。そこでグッドタイミングで上映されていた。
昨日は午前中運転免許更新、昼過ぎおっはー候補激励、そのあと時間があったので見に行くことにした。
本来2本立てで1600円なのだが、京都新聞トマトクラブカード提示で800円になる。これはお得。この料金だと、1本だけ見て帰ってももったいないという感じがしない。
3時35分からの上映。少し早く着いたので館内に入ると、もう1本の「フラワーズ」の上映中で、そろそろ終わりというところだった。祇園会館の割にはたくさんのお客さんだった。しかし、それが終わるとどどどっと出て行ってしまわれた。私の感覚では3分の1くらいに減ってしまった感じ。
「なんで、『春との旅』のほうがおもしろそうやのに・・・。」
仲代達矢は、アップに耐えられる俳優。あらためてそう思った。映画の内容がどうであれ、顔の表情変化を見ているだけでも値打ちがある。さすが。
仲代達矢さんに関しては、私がどうのこうのと言えるレベルの俳優さんではない。日本の最高峰と言っても過言ではないでしよう。
まったく期待もしていなくて、見たら意外によかったのが孫娘役・徳永えり。初めて見た女優さんだが、こちらも十分アップに耐えられる。
一番印象的だったのは、がに股ペンギン歩き。私的には、そのシーンがこの映画のキーになっているような・・・。(そんな評価をする人はいないでしょうね。)
大阪吹田の出身だそうだ。もう、それだけで応援したくなる。彼女の出る次回作も見てみたい。
映画の中味はくらーい話が延々と続き・・・、私はこんなん好きです。ただ最後がねえ・・・。ありえへんねえ。「リヤ王かい!」とつっこみたくなった。
そういやあ、「リヤ王」の時代劇リメイク版ともいえる「乱」の主役は仲代達矢やったなあ・・・。
あっ、そうか。これを一般人におきかえたらあかんにゃ。じいさんが仲代達矢やったらと思って見んとあかんにゃ。ふむふむ。それやったら納得です。
私の言ってること、意味不明でしょうね。まあ、見て損をしたとは思えない映画ではあると思います。自分自身の行く末も含め、いろいろなことを考える時間がたっぷりととってある映画でした。ぜひ。
※ 「仲代達矢」で検索してびっくり。1932年12月13日生まれ。私の誕生日と1日ちがい。
ねっ、私の「12月生まれはかしこそう」って、あってると思いません?
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2011年01月12日(水)
おっはー [雑用]
行ってきましたでー。
ただ、このことをどう書くかがちょっと問題。
いろいろな制約があるらしいが、私が覚えている限りの会話をそのままここに書くというのはどうでしょう。(もしご迷惑をおかけする箇所がありましたらご指摘お願いします。即座に訂正または削除します。)
「すいませーん、突然おじゃまします。」
「どうぞとうぞ、お入りください。」
「あのー、いきなりですけど激励に来ました。」
「ありがとうございます。まずは・・・」と言われ、両手を出されかたい握手。
「えー、どういうつながりで来させてもらったかと言いますと・・・。お父さん、じょんのび村の。」
「あっ、父ですか。」
「私、お父さんの友だちの友だちです。その友だちは京都ランナーズというランニングクラブの・・・。」
「あっ、京都ランナーズ・・・・。」
(知ってくれてはるんや。)
「私、『平和・憲法九条』と書いてあるのぼり持って走ってるんですよ。門さんが知事選に出られたときも応援に行って、いっしょに走らせてもらいました。生まれて初めて選挙カーに上らせてもらって、応援演説もさせてもらいました。
実はね、今日免許の更新に来たついでにちょっとのぞかせてもらおうかなと思って寄ってみたんです。」
「そうだったんですか。ありがとうございます。」
「私の義理の兄が、何回か前の市長選に立候補した中村です。」(あとで思い出したのだが、16年前と12年前。)
「えっ、中村さん。ついさっきも来ておられたんですよ。」
「そうですか。ボク来たゆうといてください。」
「はい。・・・と言うことは、お姉さんはタヅコさん。長岡市役所にはきちんとした労働組合がなかったんですよ。それをね、お姉さんたちが中心になって作っていかれたんですよ。」
「そうなんですか。私も20年前までは組合の活動してたんですけど、仕事も辞めて、今はヨメさんに食わしてもらってる身ですから・・・。今はそのへんのことさっぱり分かりませんねん。
あっ、そうそう、その姉が暮れのもちつきでおうた時ゆうてましたわ。O君はほんまによう勉強してる。候補者同士の討論会のときも、具体的な数字をどんどん出して反論してた。抽象的な政策じゃなく具体的な話をしてもらえると説得力あるなー、って。」
「そう言っていただけるとうれしいです。」
「あのー、せっかく寄せてもらってこんなこと言うのもなんなんですけど、ここに来たことをブログに書いたりできないんですよね。まだ全面解禁じゃないですもんね。」
「いや、候補者本人やその選挙関係者についてはちょっと厳しいですけど、一般の人が選挙事務所に行ってきましたというのをブログに書く程度ならまったく問題ありませんよ。」
「そうなんですか。・・・そうですよね。」
「投票依頼さえ書かなければ大丈夫です。」
(選挙のプロが言っておられるのだからまちがいないでしょう。)
「投票日っていつでしたっけ?」
「今度の日曜です。」
「あー、それやったらもう日がありませんねえ。にぎやかしになんかさせてもらおうかなあと思ってたんですけど・・・。」
「それなら、土曜の3時から、イズミヤ前からパレードをするんです。よろしかったらそれに来ていただけませんか。」
「分かりました。できるだけ来れるようにします。」
「ありがとうございます。」
最後に、同席されていた選挙本部長さん(?)にお願いしてOさんとの2ショット。どうもありがとうございました。
(なお、上の会話はOさんだけでなく写真を撮ってくださった方の話も混ぜてあります。)
今日の記事の題「おっはー」は、Oさんの愛称。
京都府南部N市の、33歳の市長候補。
ご本人のホームページ、「おっはー!」にリンクさせてもらおうと思いましたがうまくいきませんでした。まあ、それはそれで変なところからいちゃもんをつけられんでよかったかも・・・。
興味のある方は、「おっはー!」で検索を。
(注) 昨日(1/12)、○○天神の写真をまちがって載せていました。昨日の写真は、祇園会館の近くの八坂神社でした。かっこわるー。
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2011年01月11日(火)
おかちゃんの思い出 [家族]
後列右から3人目が母、その隣りが父。
前列右端が姉(長女)みき江、その隣りが私、一人飛ばして兄優三、姉(次女)多鶴子。
私が2歳だとすると、父36歳、母32歳、みき江姉10歳、兄9歳、多鶴子姉6歳。
うちの家だけなのかうちのいなか全体がそうなのかわからないが、母親のことを「おかちゃん」と呼ぶ。(ここは「か」にアクセントをつける。サッカー監督の<お>かちゃんではない。)
うちのおかちゃんが死んで、今日でちょうど20年。命日は1月11日という1が3つ並ぶ日で覚えやすい。
私の母・俊子は、1925年(大正14年)北区小野郷生まれ。18歳で小学校教師になり、左京区久多小学校に赴任。そのあと、左京区別所小学校に転任。
そこで中国から帰国した藤井善一(私の父)と知り合い結婚、退職(22歳)。その後は、畑仕事山仕事をしながら4人の子を育て上げる。
母が亡くなったのは、1991年1月11日の早朝。そのとき65歳。胃がんだった。
おかちゃんの一番の思い出と言えば、「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」やね。この「バシン!」はほっぺたをしばかれる音。あのこわさは、今も忘れられん。ほっぺた、痛かったなあ。
でも、おとちゃん(父)のことを聞かれても、やっぱり怒られてこわかったことになるのでいっしょか。要するに、私は末っ子やから甘やかされてゆうこと聞かん子やっただけのことか。
「マザコン」という言葉がある。私はまぎれもなくマザコンですなあ。ただし、「コンプレックス」本来の意味「複雑なもの」という意味で。「マザコン」というのは母に対する劣等感ではなく、母に対する複雑な感情というのが本来の意味のはず。
単純より複雑のほうが、なんか賢そうでいいですやん。ああ、「マザー」なんてとんでもないから「おかコン(おかちゃんコンプレックス)」と言ったほうがいいかも。
母が亡くなったのが、1991年1月。小学校教師の退職願いを出したのがその少しあと。辞めようと思った理由はしっかりとあったのだが、辞めたら一番怒るであろう母が亡くなったのも大きかった。
当時私は35歳だったのだが、そんな歳にもなって母の落胆を恐れていたのだから、やっぱりマザコン。
ただ、私が教員採用試験に合格した時一番喜んでくれたのも母だった。母は、少しの間でも小学校教師をしていた自分のあと継ぎのように思ってくれていたんでしょう。
もし、母が天国から今の私を見ることができたらきっとこうです。
「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」
ウェーン・・・。
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2011年01月10日(月)
第16回9の日平和ラン〜三宅愛子さんを訪ねて〜 [ランニング]
昨日9の日だったのだが出張販売日と重なったため、今日あらためて「平和ラン」をすることにした。
今日の行き先は、三宅誠孝さんち。私が今まで出会った人の中で一番好きな人。亡くなられて、もうすぐ2年になる。(三宅誠孝さんは、元京都市会議員さん。このブログにも何回も登場していただきました。)
今年の愛子さん(誠孝さんの奥様)の年賀状に、ちょっと気になることが書いてあった。しかしその表現が文学的すぎて、石頭かんたろう的な私にはそのこころが読めない。本人さんの話を聞いてみたい。
「そや、近くやし走って行こー!」
カーナビで調べたら、うちから三宅誠孝さんちまで4.5km。ということは、往復で9km。
やったー、「9の日平和ラン」にぴったり。
お昼ごはんを食べ、スタートしようとすると雪。
ゆっくり時間をかけて「平和・憲法九条」のアピールランをしようと思ったので厚着していくことにした。。ジャージの上にウィンドブレーカー、その上に「ランナーズ9の会」のランシャツ。もう、お腹パンパン。
北稜高校を過ぎたところの交差点で、三宅誠孝さんの後継者・ひぐち英明京都市議の車に遭遇。しっかりのぼりを振って激励しておいた。
10日ほど前、うちいなかのおもちつきでお会いして以来だがお元気そうだった。街頭演説にでも行かれるのだろうか。
パンダ帽子をかぶり「平和・憲法九条」ののぼりを持って走っているところをカメラに収めたかったのだが、風がきつくてうまくいかない。
今度は成功かと思ったら、風にたなびきすぎてのぼりの文字が見えない。うまいこといかんもんです。
しばらく走ると雪はやみ、青空が広がった。比叡山もくっきりと見える。
こうなると、今度は暑い。
三宅誠孝さんのご自宅近くまで来ると、また雪がちらほら。いかにも冬らしいお天気。
私は一度もおじゃまさせてもらったことがないので、そこらへんの人に聞きまくってなんとか到着することができた。
4.5kmのはずなのに、40分ほどかかったことになる。
「すんませーん、藤井です。ちょっと心配になってお伺いしました。」
「いやー、ありがとうございます。どうぞ入ってください。散らかってますけど・・・。」
この後40分ほどお話させてもらった。
内容については、極めて個人的なものも含まれるのでここには書きません。ただ、私が心配していたようなことはなかったのでほっとした。
私は自分で勝手に一番の「三宅誠孝ファン」だと思い込んでいた。今年4月から月刊誌「ねっとわーく京都」に連載させてもらっている記事の題を〜「憲法9条」+「ランニング」=「パオパオ」と言われる日をめざして〜にしたのも、三宅誠孝さんを意識してのものだ。
だが、大事な人を忘れてました。「愛子さん」のお話をお聞きしていると、奥様のお話というより大ファンのお話ですね。「夫」とか「主人」とか「ダンナ」ではなく、「誠孝は・・・」、「誠孝は・・・」とおっしゃっていたのがすごく印象的でした。
なかでも、お二人で広河原のバス終点から岩倉のご自宅まで歩かれたことや、滋賀県の堅田まで往復された話など。その話をされている時の愛子さんの表情はピカ一でした。
愛子さんが三宅誠孝さんの志を少しでも継いでいこうとされているように、私も私のやり方で力を尽くしたい。私は三宅誠孝さんとはランニングクラブ「京都ランナーズ」を通して知り合ったので、ランニングによる平和運動を続けていこうと思っている。即効性はなくても、誰かのどこかの記憶に残るように・・・。
お別れするとき、愛子さんの写真を撮らせてもらおうかとも思ったがやめておいた。愛子さんも「京都ランナーズ」で知り合った人だ。私にとっては、京都の女性ランナーの草分け的存在である。
「走ってはらへんのですか?」とお聞きすると、「この2年間はまったく・・・。でも、今年はまた走り始めます」ときっぱり。
「今の言葉、ボクのブログに書いときますわー。こら走ってもらわなどもならん!」
愛子さんのお写真は、その日までの楽しみにとっておきます。
「私ねえ、パソコンてほとんどさわらへんにゃけど、息子に頼んで『パオパオだより』はお気に入りに入れてあんのよ。見せてもらってます。」
「いやー、そんなんゆうてもろたらうれしいですわ。ボクのブログの読者って、結構ご高齢の方が多いみたいで、そんな話ようお聞きします。ありがたいこってすわー。」
期待してくれてはる人がいやはんにゃったら、それを裏切らんようにしっかり書かなあかんとあらためて思う。
帰りは下りで、暑くもなく寒くもなく走りやすかった。
「平和・憲法九条」ののぼりを見てくれてはる人もけっこうおられたし・・・。
自宅まであと500mくらいの頼光橋のあたりで、サングラスのかっこいいランナーが私を見て立ち止まる。
「四万十でご一緒させてもらった原です。」
「あー・・・、このお近くでしたっけ?」
「いえ、今日は練習で30kmほど、ぐるっと回ってるんです。もうすぐあの時一緒だった彼女も追いついてきます。」
「はー、そうなんですか。練習で30kmも・・・。でも、今日は走りやすい気候ですよね。」
「そうですね。・・・また、四万十は行かれるんでしょ。」
「いや、今年はちょっと考えなおそうかなあと思ったりもして・・・。」}
「えっ! 申込もされないんですか!?」
「はあ、今のところ・・・。」
そこで追い付いてきた彼女に向かって、「藤井さん、今年、四万十申し込まないって!」
「えっ! どうしてですか。」
「いやいや、まあ、まだ考え中で・・・。」
私がウルトラを申し込まないということだけで、こんなに盛り上がってしまうとは・・・。全然完走できてへんのに、「パオパオ=ウルトラ」というイメージができあがってしまってんのかなあ。
「パオパオ=平和アピールランナー」の道険し。
道路の反対側にかわいいワンちゃん見っけ。
「すんませーん、ワンちゃんの写真撮らせてください。甲斐犬ですよね。」
「そうです。」
「お名前は?」
「○○です。」
おー、なんてこったい!
私ともあろうものが、聞いた名前を忘れてしまった。犬の名前が覚えられんようになった時が私のランニング引退の時と決めてあるのに、もう?
でも、ご近所さんみたいやし、きっとまた会えるね。
「○○・メス・9歳」
ちょっとこわがりやったけど、今日もしめはかわいいワンちゃん。
「平和・憲法九条」、どうかよろしくお願いします。
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◎2009年、三宅誠孝さんからの年賀状 (この半月後の1月17日に亡くなられました。)
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2011年01月09日(日)
第37回武庫川新春ロードレース [ランニング・出張販売]
精悍な顔つきの大型犬・・・、実はこわがりな雑種。
「チロ・オス・2歳」
朝からかわいいワンちゃんに会えた日は、レースのほうもがんばれる。
今年は5km10kmをがんばると決めてから、それ以上の距離のレースはどう走ったらいいのか分からなくなった。
ここはスタート時刻のかげんで、ヨメさんが10時からの5km、私が11時50分からのハーフに出場というパターンが続いている。でも、もうハーフでも「ながっ!」という感覚になってきた。
今日は廉が手伝いに来てくれたので、ヨメさんの走っている写真も撮りに行くことができる。
スタートから300mくらい先に行くと、かわいいワンちゃん。
「ココア・メス・8歳」
「ワンちゃんの写真、撮らせてください」と言うと、「こんな犬の写真撮ってもなあ」と飼い主さん。
「いやー、めっちゃかわいいですやん。背中のガラなんか、ハスキーが入ってんのとちゃいます?」
「ははー、ただの雑種です。」
そんなことをしゃべっているうちに、「ランナーズ9の会」の9ちゃんの姿が。
女性で青のランシャツランパンは少ないので見つけやすい。(女性ランナーは、赤やピンク系のウェアが多いから。)
そのだいぶあと、ヨメさんの姿を発見するも人ごみにまぎれている。
何とか撮れたのが、上の一枚。
毎年10kmに出場されていた一(はじめ)さん。今年は5km。
と言うことは、私と同じでスピードレース志向?
9ちゃんが戻ってきた。
「練習ができてない」とおっしゃていた割に、早く戻ってこられてびっくり。(23分台でゴールされたらしい。)
それほど間もあかず、ヨメさんが帰ってきた。
髪の毛がたなびくということは、いつもよりはスピードが出ているということだろうか。
ゴール前も力強い走りで、29分55秒。
久しぶりの30分切り。
「めざせ、若き日の自己ベスト24分!」
武庫川では、カヤックの練習をしている人たちが・・・。
さあ、次は私の出番。
今日の目標をどうしたらいいか分からなかったが、いいことを忘れてた。それは、「新しいシューズ」のデビュー。
フルやウルトラ用のシューズは山ほど持っているのだが、短い距離のレース用のシューズは「ミズノ・ウェーブスぺーサーGL」のみ。このシューズもはき出してだいぶたつのでだいぶへたっている。やっぱりもう1足はいる。
「オッサンは機能性ではなく、見た目で選ぶ。」
「京都キャロット」にあるレース用シューズを片っ端から観察してみた。その中で一番「かっちょいいー」と思ったのが「アディゼロジャパンKYOSO」。
フラッシュオレンジとフラッシュグリーンのカラーリング。それに、アディダスの3本ラインの間からあやしいオッサンがのぞいている・・・。
「これに決まり!」
今日もまた、100m×5本の流しを含めて3kmのウォーミングアップ。
そのあと21kmも走らんなんのに、ちょっとアップしすぎかなとも思ったが・・・。
スタート地点にも、めずらしく20分近く前に並んだ。
競技役員さんから、ていねいなコース説明があった。例年ハーフは南に向かってスタートするのだが、今年は北向きに変更。ハーフは1324人のエントリー。史上最高らしい。
ウォーミングアップの時ずっしりと重たかった足も、レースがスタートすると軽くなっていた。
折り返して戻ってきたトップ争いの写真を撮っておいた。
後で見てびっくり。先頭のランナーはピースサインをしているじゃーありませんか!
廉の高校時代の体育担当のT先生。
T先生も、手を振ってくださっているじゃーありませんか。
「いつもブログを見せてもらってます」と、朝あいさつに来てくださった奈良の橋本さん。
今日の目標は、1時間30分くらいでゴールすることらしいです。
やっと最初の折り返し。
ここで5km弱だそうだ。23分46秒。このペースで行ければ、1時間45分は切れる。
「ランナーズ9の会」のBUNさん。
「ランナーズ9の会」のウルトラマン8アスナロさん。
「京都走ろう会」の山本ほまれと書いてたかしさん。
「ランナーズ9の会」のかわせみさん。
私はこのあとスタート地点まで戻って10km弱、47分12秒(23分26秒)。
また、橋本さん。
620mほど南に下って、50分15秒。
またスタート地点に戻って(約11,1km)、53分25秒。
また、ウルトラマン8アスナロさん。
あと1往復というところで、「ますみちゃーん」。
「お仕事ご苦労さんどす」と感謝しつつ、残り10km弱へ。
おっと、「ランナーズ9の会」のトロイカ?
サワーさん、尼崎の酔うたろう君、9ちゃん。
こちらも、ご苦労さんどす。
「ランナーズ9の会」のお二人。
二人で走っていると、なんか楽なんですよねえ。
「すいませーん、ワンちゃんの写真撮らせてください。秋田犬ですよね。」
「はい、そうです。」
「お名前は?」
「ゆうです。」
「ゆうちゃん。オスですよね。」
「はい。」
「歳は?」
「7歳です。」
「ゆうちゃん、がんばって走ってくるわ。ありがとうございました。」
これで何秒かな。
T先生、快調です。
またまた、橋本さん。
目標達成なるか。
あんぱんまんバイキンマンさん、かわせみさんを引き離したよう。
ちょっと離されたかわせみさんも、笑顔。だいじょうぶ。
さて、私のゴール。
残り5kmくらいは足が棒。お腹もペコペコ。残念ながら気持ちいいゴールにはならなかった。
でも、1時間43分39秒だから良しとするか。
ゴール後は後に続くランナーの撮影を。、
BUNさん。
あんぱんまんバイキンマンさん。
山本誉さん。
いやー、竹下弁護士さん、走ってはったんや。
かわせみさん、最後はだいぶ時間がかかったようですが、笑顔のゴール。
今年は食べ物系のテントがたくさん出ていてよかった。私はゴール後、ラーメン(500円)を食べた。
この大会は今年から自動計測機が導入された。そのせいもあったのか、参加者が3000人を超えたそうだ。
大会に望むことは人それぞれだと思うが、私は自動計測にはそんなにこだわってはいない。(自分の時計で測るのが一番正確。)
それよりも重視しているのは、「正確な距離表示」と「トイレの数」。
この大会は、距離表示については、「残り3km、2km、1km」があるのみ。ハーフでは最初の1km、2kmと5kmごとの表示はほしい。
それからトイレの数。3000人で、「男子用3、女子用3」では少なすぎるでしょう。みなさんどうされたんでしょう。私は阪神・武庫川駅のトイレまで行きました。
ランネットの大会評価の項目に「トイレの数」がないのは不思議。私はその昔、「諏訪湖マラソン」のスタート前にトイレに行けなくて、その翌年から出場を断念しました。
距離表示はなかったが、スタート前に競技役員さんがだいたいの距離を説明しておられた。そこから計算すると、だいたい次のようになる。
北折り返し 4.93km 23分46秒
5km換算 24分06秒
1往復目 9.86km 47分12秒
10km換算 47分52秒(23分46秒)
南付けたし 11.1km 53分25秒
北折り返し16.03km 1時間18分04秒
15km換算 1時間13分03秒(25分11秒)
ゴール 21.097km 1時間43分39秒
20km換算 1時間38分17秒(25分14秒)
やっぱり2往復目はだいぶ落ちた。
しかし、ニューシューズ「アディゼロジャパンKYOSO」はバッチリ!
最初の足入れ感が抜群だったが、それはハーフ終盤でも変ることはなかった。軽い割にはかかと部分がやや厚めでしっかりしている。ハーフ以下の距離のレースなら十分使えそう。(ただし、サイズ選びに注意が必要。私は他のシューズは26.5だが、このシューズは26.0でいけた。)
「このシューズで、5km10kmのレースをがんばるぞ!」
後片づけをしている時、ヨメさんが「こうじさん、かわいいワンちゃん!」
「おー、こら写真撮らせてもらわんなん。」
私の手の大きさとくらべてみてください。
めっちゃ小さくてかわいいワンちゃん。
「リリー・メス・13歳」
最後のしめにチョーかわいい雑種に会えて、しあわせ!
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2011年01月08日(土)
学校が大好き [学校]
◎毎日新聞1月8日朝刊 「新教育の森」欄より
「不適切な授業 なぜ多発」に全国からお便り
◇先生取り巻く問題、指摘と提案の数々
昨年11月に、このページで「不適切な授業」をしてしまう先生の実態と背景を取り上げ、ご意見を募集したところ、全国からお便りをいただいた。先生の資質や家庭教育の重要さ、多忙な教員の現状など、体験を交えて指摘された方もいた。一部を紹介する。【まとめ・澤圭一郎】
◇先生への敬意を家庭で教えなければ
不適切な授業をしてしまう先生が、その理由を問われると「子供たちの関心を引きたかった」と説明するケースが多い。親しみを持たれたいと考える先生が、行き過ぎた指導や授業をしてしまうのかもしれない。しかし、「教師と生徒の立ち位置は違う」と指摘する投書もあった。
大阪府高槻市の主婦、森佳奈子さん(41)は、幼稚園や小学校で読み聞かせをしている。その中で「おふざけが過ぎて羽目を外す子供もいますが、そういう時は大人として毅然(きぜん)とした態度で接します」という。「それで子供たちが私に対して距離を置くかというとまったく逆。一種の畏れを抱きつつも慕ってくれる。信頼を得ていると感じます。家庭で先生に対しての敬意を教えることが必要」という結論だ。
◇資質審査できないものか
資質や経験を問題視する意見もあった。東京都品川区のピアノ奏者、本田成子さん(59)は、自身の子供がかかわった教員の問題を書き、「国が何らかの方法で、適性のような基準を設けたらどうか」と、教員の資質審査ができないものかと問いかける。
愛知県豊田市の主婦(40)は「先生になる前に多様な子供とかかわるべきだ」とした上で、「人の話に注意を向けたり、聞き続けることが難しい子や席に座り続けることができない子、発達障害の症状がある子供たちを理解できずに、行き過ぎた発言や授業をしているケースもあるのでは」という見方だ。
先生の多忙さや環境に遠因を求める意見も多かった。
横浜市に住む国際救急法研究所理事長の宇田川規夫さん(64)は「戦後の教育行政は、教育にはなじまない目標管理体制がとられ、それが給与にも及ぶ仕組みになっている。報告書作りに追われ、管理だけを考える校長、安易に文句を言う親などとのあつれきが教員を襲い、学校がバラバラにされている」と書く。さらに「相談するゆとりもない中で、若い教員が試行錯誤することも許されず、孤立し、過労にさいなまれている実態」に原因があると見る。
◇書類作りに追われ孤立、過労にさいなまれている
東京都杉並区の元教員の女性(79)も「子供に向き合う時間もないほど、形ばかりの会議が多く、誰のために書くのかわからない書類の多さ、追いまくられる学校にしてしまったのは教育行政のせいではないか」と憤る。
◇保護者も教師と共に育つつもりで
大阪市の助産師、涌嶋嘉子さん(36)は、専門学校で教員をしていた経験から「教員は本当に多忙で、家に帰っても夜中まで授業の準備に追われていた」と振り返り、「小学校の先生は保護者の対応もある。保護者が学校に多くのことを求め過ぎている。しつけや道徳教育まで押しつけて、先生の目についたことに文句をつけるのでは、教師がつぶれてしまいます」という。報道されたケースは不適切だとした上で「保護者も教師を育て、共に育つつもりでつきあわないといけないと思います」という感想だ。
◇校長のリーダーシップで成果は上がる
不適切な授業が公立校で多発する現状に対し、埼玉県所沢市の元日本教育大学院大教授、井口哲夫さん(57)は「教育公務員である公立教員は、サラリーマン化してしまいプロ教師としての研さんを放棄しているところに問題がある」と指摘。「公立校でも、校長が、教育理念を実現しようとする意志の強さを持ち、教員集団をまとめ上げるリーダーシップがあれば、目に見える成果が上がる」という。
現役の先生からもメールをいただいた。埼玉県に住む高校の女性教諭(52)は、授業をバラエティー番組のように“面白く”することを難じつつ、「勉強が楽しくなる前には、単調な作業を我慢し集中力を身につけさせなくてはならない。それを乗り越えさせず、レベルの低い『おかしさ』だけで終わらせては生徒に申し訳ない」という。
◇背景まで踏み込んだ報道を
また、報道にも注文がついた。茨城県つくば市の会社員、秋元靖史さん(47)は、埼玉県で起きた「セクハラサイコロ」を作った教員について「この教師は父母に非常に評判が良く、復帰を願う署名運動まで起きていると報じている新聞もある」とし、「いたずらにセンセーショナルな面のみ針小棒大に報じ、熱意ある教育現場の努力を無にすることは慎まないといけない」と、問題の事象だけでなく、教師の背景まで踏み込んだ報道が必要と指摘した。
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「学校と私」欄より
学校と私:先生に集会打ち切られ憤った=シンガー・ソングライター、中川ひろたかさん
◇絵本作家、シンガー・ソングライター、中川ひろたかさん
はた目には楽しい学校生活だったと思うよ。クラスの人気者で、学級委員をみんなで決めるとたいていぼくが選ばれた。勉強もそこそこできた。
でも大学中退まで、学校には何も期待していなかったし、先生にはどこか冷めていたと思う。良くされたと感じたのは小学1年の秋、給食の時間にうんこを漏らし、後始末をしてもらった時ぐらいかな。生意気かもしれないけど、少しも影響を受けたとは思わない。
どうしてだろう。印象に残るのは中学の時、学校集会が先生たちに一方的に打ち切られたこと。確か「校則」についてだったかな。世は学生運動華やかなりしころ。意識の高い子もいて、議論は盛り上がった。でもぼくたちは、説明もなく学校から帰されてしまった。
後で知ったのはその日放課後、学校でテレビ番組の収録があったということ。人気バンド「ザ・テンプターズ」のメンバーが卒業生だったことから撮影があったらしい。学校側は混乱を嫌ったんだろうね。ぼくは大人の一方的な圧力に小さく憤ったよ。まあ、先頭に立ってガンガン怒ったり、学生運動に目覚めたりしたわけじゃなく、実に中途半端だったけれど。
そういえば小学校の時、担任の先生に何か質問をしたら、「勉強のしすぎで頭がおかしくなったんじゃない」と言われたこともあったね。
学校で教わることがすべてじゃない。学校は子どもが友だちに会いに行くための場所。子どもは自分で面白いことを探せばいい−−。保育園に勤務したこともあるからか、そう思う。学校はその支援をすればいい。
こう言うと怒られるかもしれないけど、いい先生の条件って、子どもに害をなさないことじゃないかな。大人にはしないような失礼なことは、子どもにもしない。それでいて「学校に毎日行きたい」と思わせられればいい。授業なんて、子どもの目の色が少しでも変われば御の字だよ。
そうそう、この場を借りて言いたいことがあったんだ。学校の教室ってどうして、声や音が響きすぎるんだろう。仕事でおじゃますると、実に落ち着かない。みんな、情緒不安定にならないのかな。【聞き手・遠藤拓】
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■人物略歴
◇なかがわ・ひろたか
1954年埼玉県生まれ。87年にバンドデビュー。代表作は「世界中のこどもたちが」。95年からは絵本も手がける。「D1だじゃれグランプリ」「A1あそびうたグランプリ」主宰。
今日は、私の「勘ちがい」シリーズということで・・・。(うん? そんなシリーズあったっけ?)
「何? 55のオッサンが『学校大好き』って・・・。どうゆうこと?」
そう思われるのも無理もない。
23歳から12年間小学校教師をしていたとは言え、退職してから早20年。その年に生まれた長男はもうすぐ成人。
私が学校が大好きな理由の一番は、やっぱり給食。だから、学校と言えばそれはイコール小学校になってしまう。
私の小学生の時、給食はすぐ近所の「おハナさん」が作ってくださっていた。料理の腕は超一流。でも私は、ネギとタマネギとニンジンが嫌いだった。今もニンジンは苦手なまま。ごはんも全部は食べられなくて、いつも富雄ちゃん(同級生)に食べてもらっていた。
そんな私でしたが、給食はやっぱり大好きだった。
理由の二番は、そりゃ夏休みでしょう。今も「夏休み」という言葉を聞いただけで心が熱くなる。
何で大人には夏休みがないんかなあ。いっそ、7月中旬から8月中旬まで日本中休みにしたらどやねん。
そして最後に、学校にはおもしろいことがいっぱいつまっていた。いやなこともちょっとはあったけど、そんなもんみんな忘れた。おもしろかったことは今も覚えている。
いっちゃん覚えてるんは、授業中に前に出て一発芸をしてみんなを笑わせてすっと席に戻ったことかな。あれはそうとうやりかましたな。小4の時。担任の先生困っとったなあ。
学校大好き少年の念願かなって小学校教師になってはみたものの、どうしたらええか分からんことばっかり。そんな時の決まり文句は、「班で相談しなさい」。もちろんほったらかしではなく、ちゃんと話し合いは見守ってはいたけれど・・・。
確かに経験の少ない若年教師一人の考えより、6人の少学生の話し合いのほうが明らかに上。これでなんぼ助けてもうたか分からん。
学級崩壊が話題になっているけれど、私はそれ以前の「人間崩壊」。先生が人間崩壊していたら、クラスはまとまるぞー。
小学生であってもしっかりとした考えを持った子が何人もいて、先生に頼れないと判断すると自分たちの力を最大限に発揮しようとする。みんな学校に楽しみに来ているのに、それをジャマすることだけはしたらアカン。それだけはいつも胆に命じていた。
6人の班のメンバーは抽選で決めていたので崩壊する班が出てくるかもと思ったが、奇蹟的にそれもなかった。運がよかっただけなんかなあ。
自分一人がよかったらいいという考えの子がいなかったのが、今思ったら不思議でたまらん。なんで、みんないっしょにと思ってたんやろう。前の担任がよっぽどよかったんかな。
教師を辞めて20年になるのに、今も学校や教育についての新聞記事は気になる。今日の毎日新聞の「新教育の森」はおもしろかった。教育に関しても人の考えは様々。一番大事なのは、様々な意見があるというところからスタートすること。そこからアウフヘーベン(止揚)すること。(へへへー、哲学用語つこたったー。)
「学校と私」の中川ひろたかさんの記事の後半部分にびっくり。常々私が思っていたこととあまりにも似ていて・・・。
「学校で教わることがすべてじゃない。学校は子どもが友だちに会いに行くための場所。子どもは自分で面白いことを探せばいい−−。」
「こう言うと怒られるかもしれないけど、いい先生の条件って、子どもに害をなさないことじゃないかな。大人にはしないような失礼なことは、子どもにもしない。それでいて「学校に毎日行きたい」と思わせられればいい。授業なんて、子どもの目の色が少しでも変われば御の字だよ。」
ほんまにそう思います。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 2 )
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