パオパオだより

2011年01月08日(土)

学校が大好き [学校]

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昨日すねていたきく

◎毎日新聞1月8日朝刊 「新教育の森」欄より

 「不適切な授業 なぜ多発」に全国からお便り

 ◇先生取り巻く問題、指摘と提案の数々
 昨年11月に、このページで「不適切な授業」をしてしまう先生の実態と背景を取り上げ、ご意見を募集したところ、全国からお便りをいただいた。先生の資質や家庭教育の重要さ、多忙な教員の現状など、体験を交えて指摘された方もいた。一部を紹介する。【まとめ・澤圭一郎】

 ◇先生への敬意を家庭で教えなければ
 不適切な授業をしてしまう先生が、その理由を問われると「子供たちの関心を引きたかった」と説明するケースが多い。親しみを持たれたいと考える先生が、行き過ぎた指導や授業をしてしまうのかもしれない。しかし、「教師と生徒の立ち位置は違う」と指摘する投書もあった。

 大阪府高槻市の主婦、森佳奈子さん(41)は、幼稚園や小学校で読み聞かせをしている。その中で「おふざけが過ぎて羽目を外す子供もいますが、そういう時は大人として毅然(きぜん)とした態度で接します」という。「それで子供たちが私に対して距離を置くかというとまったく逆。一種の畏れを抱きつつも慕ってくれる。信頼を得ていると感じます。家庭で先生に対しての敬意を教えることが必要」という結論だ。

 ◇資質審査できないものか
 資質や経験を問題視する意見もあった。東京都品川区のピアノ奏者、本田成子さん(59)は、自身の子供がかかわった教員の問題を書き、「国が何らかの方法で、適性のような基準を設けたらどうか」と、教員の資質審査ができないものかと問いかける。

 愛知県豊田市の主婦(40)は「先生になる前に多様な子供とかかわるべきだ」とした上で、「人の話に注意を向けたり、聞き続けることが難しい子や席に座り続けることができない子、発達障害の症状がある子供たちを理解できずに、行き過ぎた発言や授業をしているケースもあるのでは」という見方だ。

 先生の多忙さや環境に遠因を求める意見も多かった。

 横浜市に住む国際救急法研究所理事長の宇田川規夫さん(64)は「戦後の教育行政は、教育にはなじまない目標管理体制がとられ、それが給与にも及ぶ仕組みになっている。報告書作りに追われ、管理だけを考える校長、安易に文句を言う親などとのあつれきが教員を襲い、学校がバラバラにされている」と書く。さらに「相談するゆとりもない中で、若い教員が試行錯誤することも許されず、孤立し、過労にさいなまれている実態」に原因があると見る。

 ◇書類作りに追われ孤立、過労にさいなまれている
 東京都杉並区の元教員の女性(79)も「子供に向き合う時間もないほど、形ばかりの会議が多く、誰のために書くのかわからない書類の多さ、追いまくられる学校にしてしまったのは教育行政のせいではないか」と憤る。

 ◇保護者も教師と共に育つつもりで
 大阪市の助産師、涌嶋嘉子さん(36)は、専門学校で教員をしていた経験から「教員は本当に多忙で、家に帰っても夜中まで授業の準備に追われていた」と振り返り、「小学校の先生は保護者の対応もある。保護者が学校に多くのことを求め過ぎている。しつけや道徳教育まで押しつけて、先生の目についたことに文句をつけるのでは、教師がつぶれてしまいます」という。報道されたケースは不適切だとした上で「保護者も教師を育て、共に育つつもりでつきあわないといけないと思います」という感想だ。

 ◇校長のリーダーシップで成果は上がる
 不適切な授業が公立校で多発する現状に対し、埼玉県所沢市の元日本教育大学院大教授、井口哲夫さん(57)は「教育公務員である公立教員は、サラリーマン化してしまいプロ教師としての研さんを放棄しているところに問題がある」と指摘。「公立校でも、校長が、教育理念を実現しようとする意志の強さを持ち、教員集団をまとめ上げるリーダーシップがあれば、目に見える成果が上がる」という。

 現役の先生からもメールをいただいた。埼玉県に住む高校の女性教諭(52)は、授業をバラエティー番組のように“面白く”することを難じつつ、「勉強が楽しくなる前には、単調な作業を我慢し集中力を身につけさせなくてはならない。それを乗り越えさせず、レベルの低い『おかしさ』だけで終わらせては生徒に申し訳ない」という。

 ◇背景まで踏み込んだ報道を
 また、報道にも注文がついた。茨城県つくば市の会社員、秋元靖史さん(47)は、埼玉県で起きた「セクハラサイコロ」を作った教員について「この教師は父母に非常に評判が良く、復帰を願う署名運動まで起きていると報じている新聞もある」とし、「いたずらにセンセーショナルな面のみ針小棒大に報じ、熱意ある教育現場の努力を無にすることは慎まないといけない」と、問題の事象だけでなく、教師の背景まで踏み込んだ報道が必要と指摘した。
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 「学校と私」欄より

 学校と私:先生に集会打ち切られ憤った=シンガー・ソングライター、中川ひろたかさん

 ◇絵本作家、シンガー・ソングライター、中川ひろたかさん

 はた目には楽しい学校生活だったと思うよ。クラスの人気者で、学級委員をみんなで決めるとたいていぼくが選ばれた。勉強もそこそこできた。

 でも大学中退まで、学校には何も期待していなかったし、先生にはどこか冷めていたと思う。良くされたと感じたのは小学1年の秋、給食の時間にうんこを漏らし、後始末をしてもらった時ぐらいかな。生意気かもしれないけど、少しも影響を受けたとは思わない。

 どうしてだろう。印象に残るのは中学の時、学校集会が先生たちに一方的に打ち切られたこと。確か「校則」についてだったかな。世は学生運動華やかなりしころ。意識の高い子もいて、議論は盛り上がった。でもぼくたちは、説明もなく学校から帰されてしまった。

 後で知ったのはその日放課後、学校でテレビ番組の収録があったということ。人気バンド「ザ・テンプターズ」のメンバーが卒業生だったことから撮影があったらしい。学校側は混乱を嫌ったんだろうね。ぼくは大人の一方的な圧力に小さく憤ったよ。まあ、先頭に立ってガンガン怒ったり、学生運動に目覚めたりしたわけじゃなく、実に中途半端だったけれど。

 そういえば小学校の時、担任の先生に何か質問をしたら、「勉強のしすぎで頭がおかしくなったんじゃない」と言われたこともあったね。

 学校で教わることがすべてじゃない。学校は子どもが友だちに会いに行くための場所。子どもは自分で面白いことを探せばいい−−。保育園に勤務したこともあるからか、そう思う。学校はその支援をすればいい。

 こう言うと怒られるかもしれないけど、いい先生の条件って、子どもに害をなさないことじゃないかな。大人にはしないような失礼なことは、子どもにもしない。それでいて「学校に毎日行きたい」と思わせられればいい。授業なんて、子どもの目の色が少しでも変われば御の字だよ。

 そうそう、この場を借りて言いたいことがあったんだ。学校の教室ってどうして、声や音が響きすぎるんだろう。仕事でおじゃますると、実に落ち着かない。みんな、情緒不安定にならないのかな。【聞き手・遠藤拓】

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 ■人物略歴

 ◇なかがわ・ひろたか
 1954年埼玉県生まれ。87年にバンドデビュー。代表作は「世界中のこどもたちが」。95年からは絵本も手がける。「D1だじゃれグランプリ」「A1あそびうたグランプリ」主宰。

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「帰らん!」と言い張るので一時置き去りに・・・

 今日は、私の「勘ちがい」シリーズということで・・・。(うん? そんなシリーズあったっけ?)

 「何? 55のオッサンが『学校大好き』って・・・。どうゆうこと?」
 そう思われるのも無理もない。
 23歳から12年間小学校教師をしていたとは言え、退職してから早20年。その年に生まれた長男はもうすぐ成人。

 私が学校が大好きな理由の一番は、やっぱり給食。だから、学校と言えばそれはイコール小学校になってしまう。
 私の小学生の時、給食はすぐ近所の「おハナさん」が作ってくださっていた。料理の腕は超一流。でも私は、ネギとタマネギとニンジンが嫌いだった。今もニンジンは苦手なまま。ごはんも全部は食べられなくて、いつも富雄ちゃん(同級生)に食べてもらっていた。
 そんな私でしたが、給食はやっぱり大好きだった。

 理由の二番は、そりゃ夏休みでしょう。今も「夏休み」という言葉を聞いただけで心が熱くなる。
 何で大人には夏休みがないんかなあ。いっそ、7月中旬から8月中旬まで日本中休みにしたらどやねん。

 そして最後に、学校にはおもしろいことがいっぱいつまっていた。いやなこともちょっとはあったけど、そんなもんみんな忘れた。おもしろかったことは今も覚えている。
 いっちゃん覚えてるんは、授業中に前に出て一発芸をしてみんなを笑わせてすっと席に戻ったことかな。あれはそうとうやりかましたな。小4の時。担任の先生困っとったなあ。

 学校大好き少年の念願かなって小学校教師になってはみたものの、どうしたらええか分からんことばっかり。そんな時の決まり文句は、「班で相談しなさい」。もちろんほったらかしではなく、ちゃんと話し合いは見守ってはいたけれど・・・。
 確かに経験の少ない若年教師一人の考えより、6人の少学生の話し合いのほうが明らかに上。これでなんぼ助けてもうたか分からん。

 学級崩壊が話題になっているけれど、私はそれ以前の「人間崩壊」。先生が人間崩壊していたら、クラスはまとまるぞー。
 小学生であってもしっかりとした考えを持った子が何人もいて、先生に頼れないと判断すると自分たちの力を最大限に発揮しようとする。みんな学校に楽しみに来ているのに、それをジャマすることだけはしたらアカン。それだけはいつも胆に命じていた。
 6人の班のメンバーは抽選で決めていたので崩壊する班が出てくるかもと思ったが、奇蹟的にそれもなかった。運がよかっただけなんかなあ。
 自分一人がよかったらいいという考えの子がいなかったのが、今思ったら不思議でたまらん。なんで、みんないっしょにと思ってたんやろう。前の担任がよっぽどよかったんかな。

 教師を辞めて20年になるのに、今も学校や教育についての新聞記事は気になる。今日の毎日新聞の「新教育の森」はおもしろかった。教育に関しても人の考えは様々。一番大事なのは、様々な意見があるというところからスタートすること。そこからアウフヘーベン(止揚)すること。(へへへー、哲学用語つこたったー。)

 「学校と私」の中川ひろたかさんの記事の後半部分にびっくり。常々私が思っていたこととあまりにも似ていて・・・。

 「学校で教わることがすべてじゃない。学校は子どもが友だちに会いに行くための場所。子どもは自分で面白いことを探せばいい−−。」

 「こう言うと怒られるかもしれないけど、いい先生の条件って、子どもに害をなさないことじゃないかな。大人にはしないような失礼なことは、子どもにもしない。それでいて「学校に毎日行きたい」と思わせられればいい。授業なんて、子どもの目の色が少しでも変われば御の字だよ。」

 ほんまにそう思います。

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夜にはきげんはなおっていた

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2011年01月07日(金)

とよぞのおっさん・続き [家族]

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今朝の二軒茶屋公園前

 胸のあたりに花を置き、豊三叔父さんの顔をのぞきこんだ瞬間涙がこみ上げてきた。
 「あかん、あかん、ちがう、ちがう。」
 叔父さんの奥さんと4人の子どもたち(娘3人、息子1人)がまだこらえているのに、甥である私ごときが先に泣いてどうする。そうは思ったが、もう耐え切れなかった。一歩二歩後ずさりして、人の影に入って泣かせてもらった。(ハンカチを持ってきていてよかった。)

 20年前私の母が亡くなったとき、もっともっと話をしておけばよかったと後悔した。今度またまったく同じ後悔を・・・。
 上品で物知りで、それでいていつも謙虚だった「とよぞのおっさん」。きっと、私のような者でも話を聞きに行けば喜んでくださっただろうに・・・。

 ◇ ◇ ◇

 今日もまた、雪。いなかから出てきたうちの本家のおじさんは、「一晩で40cm積もった」と言ってはった。
 うちのあたりも2、3cmの積雪。しかし、葬儀場のある円町あたりはまったく積もっていなかった。

 私は、昨日に引き続き立礼役。
 昨日は、100円ショップの数珠とただ黒いだけの690円のドタ靴がばれないかとハラハラしていた。まあそれも2日目となるとちょっと余裕。
 滞りなく式は進行し、あとは出棺を残すのみとなった。私はお山(火葬場)には行かないので、今日のお役目はこれにておしまいという感じだった。

 ◇ ◇ ◇

 昨日は、いろいろなことを考えた。
 家から円町まで一人で運転してきたのだが、その間ずっと豊三叔父さんの上品な語り口を思い出していた。自分が話されるだけでなく、人の話を聞くのもすごくうまい。人に自分の考えを押し付けたり、怒鳴ったり怒ったりしているのも見たことがない。
 それは、退職されるまで長年ハイヤーやタクシーの仕事をされていたのと関係あるのかもしれない。いや逆か。そういう性格だったからこそ、その仕事が長く続けられたのかもしれない。

 ◇ ◇ ◇

 豊三叔父さんに関する間接的なエピソード。

 今から32年前、私の教師1年目のこと。そのとき担任していたクラスは、子ども一人だけ。学芸会の劇を一人ではやりようがないので、私もかつらをかぶり武士の役で出演した。
 その学校はうちのいなかの隣りだったので、私の両親も見にきていた。そして、私の武士の姿を見た母がびっくりぎょうてん。「とよぞのおっさんに、そっくり!」本当に目を丸くして言っていた。
 私は自分ではそんなに似ているという意識はなかったのだが、かっこいいと思っていた「とよぞのおっさん」にそっくりと言われていい気分だった。
 
 この話、「とよぞのおっさん」本人にはしてへんかったなあ。残念!

 ◇ ◇ ◇

 私の兄は、中学校の3年間、豊三叔父さんの家にお世話になりその地域の中学校に通わせてもらった。(いわゆる里親里子の関係です。)どういういきさつでそうなったのかは知らないが、当時はそういうこともめずらしくはなかったようだ。
 兄は「とよぞのおっさん」のことをどう思っていたのだろう。自分の甥を預かった豊三叔父さんは、私の兄のことをどう思っていたのだろう。私には想像もつかない。

 ◇ ◇ ◇

 昨日お通夜が終わったあと、食事の準備ができるまで少し間があった。
 そのとき、私は飾られている叔父さんの写真を一人で見続けていた。遺影が何かを語りかけてくるということはない。こちらが一方的に話しかけるだけだ。

 しかし、ずっと見続けていると写真の表情が変る錯覚に陥る。まわりを飾る花やろうそくも動き出すような・・・。

 「とよぞのおっさん」は私のことを「こうじ」と呼んではったっけ? 
 いやいや、「こうじ君」と君付けで呼んではったように思う。
 最後に会ったのは2年前のお墓参り。若いときに毎日あの道を通って山仕事に行かれた話をしてくれはりましたよね。そのときは、「こうじ君」とは呼んでくれはらへんかったけど・・・。

 ◇ ◇ ◇

 叔父さんにお花を捧げたあと、なかなか涙が止まらなかった。しかし、叔父さんにとってただ一人の孫・Sちゃんが横で大泣きしている姿に気づいてやっと我に返った。

 私の母が亡くなったとき、お通夜でもお葬式でも泣かなかった。なぜかしら現実味がなかった。しかし、亡くなって1週間くらいたってからだろうか、運転中に急に涙があふれ出して運転できなくなってしまった。
 たぶん、叔父さんの奥さんと4人の子どもたちもそれと似たような状態なのかもしれない。本当に悲しいのは、もうちょっとたってから・・・。

 ◇ ◇ ◇

 父は、最後のお別れにと無理してお山までついて行った。
 自分の弟が自分より先に死んでしまうなんて・・・。

 何年か前から、父は「出かけるというと、葬式ばっかり」と嘆いていた。ましてや、自分に最も近い肉親を送り出さなくてはならないとは・・・。

 出棺の前、父も何度も何度も涙をぬぐっていた。
 もしかしたら、その輪の中で一番泣いていたのは私の父だったかもしれない。

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2011年01月06日(木)

とよぞのおっさん [家族]

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うちの家紋「角立て井筒に剣かたばみ」

 今日は、豊三叔父さんのお通夜だった。
 豊三叔父さんは私の父の弟。父の4歳下なので85歳だった。

 昨日、いなかの倉庫の前の雪かきをしている時、兄から電話があった。
 「とよぞのおっさんが、1月3日に亡くならはったんやわ。」
 「えー!」
 前から具合はよくないとは聞いていたが、まさか・・・。

 小さいときから「豊三叔父さん」とは呼んだことはない。ずうっと、「とよぞのおっさん」。
 私の父は、(息子の私が言うのも変かもしれないが)とても山奥の農家の長男とは思えない気品がある。そして、次男・豊三さんはそれにさらに輪をかけたような上品さがあった。そして、すごく物知りでもあった。(ついでに言うと、男前でかっこよかった。)父も叔父さんも高等小学校しか出ていないはずだが、人間の品格と学歴とは関係ないといういい見本だ。

 豊三叔父さんについては、若いころ東京で働いていたこと、そこで知り合った人と結婚したことくらいしか知らなかった。お母さんが関東の人なので、4人の子どもはみんな京都弁と関東弁のチャンポンだ。

 その叔父さんが、戦時中満蒙開拓団に入っており戦後シベリアに抑留されていたというのを知ったのは去年。もうそのときは、叔父さんとは話ができない状態になっていた。
 「シベリア抑留」の補償が話題になっていた時、自分にはまったく関係のない話だと思っていた。こんな身近にその対象者がいたというのに・・・。
 戦争体験の話は、やはり自分と少しでも関係のある人から聞いたほうが心に残る。その体験を話せる人がどんどん少なくなっている。
 今日、父と豊三叔父さんのいとこ「ひろしのおっさん」とちょっと話ができた。ひろしのおっさんは豊三さんの1つ下の84歳。
 「おっさんは戦争中どうしてはったんですか」と聞くと、「東京の海軍兵舎で働いとった」とのこと。そのあと時間がなくて話が広がらなかったが、まだまだ元気そうなのでまた話を聞きに行こう。

 ◇ ◇ ◇

 今まで、お通夜といえばお焼香だけして帰るというものだった。でも、今日はちがう。喪主が豊三さんの息子で、男兄弟はなし。いとこで男は私と兄だけなので、兄が受付、私が立礼役をすることになった。
 喪主の横に立って、お焼香に来ていただいた人に礼をする役目だった。初めてのことなので緊張したが、半分近くは知り合いだったので心配することもなかった。
 それよりビビったのは、お焼香。なんと、私は喪主の次。
 「えっ、私はナンバー2あつかい?」

 お焼香のあと、ご住職様から「通夜 お別れ説教」があった。戒名についての説明、叔父さんの経歴、残された者の心の持ち方などについて話してくださった。これは本当によかった。みなさんもそうおっしゃっていた。
 「今のうちにボクが死んだ時の分の原稿書いとこう。ええことばっかり書いて、お坊さんにゆうてもらおう。」・・・ややヒンシュク。

 ◇ ◇ ◇

 叔父さんの長女は私と同い年。
 小さいときは同い年ということで、ちょっとライバル心もあった。私も当時はいなかでは「かしこ」でとおっていた。でも、豊三叔父さんの長女も「かしこ」という評判だった。そして対面して思った。都会のかしこはいなかのかしこの3倍くらい賢そう。
 「負けましたー。」

 私の祖母のお葬式に会って以来なので、たぶん43年ぶり。弟や妹たちはさっぱり見分けられなかったが、長女・Rちゃんの賢そうな風貌に変りはなかった。
 「お久しぶり、元気にしてる?」
 「うーん、元気というかなんというか・・・。こうちゃん、顔変ったね。」
 「そうか? 若く見えるってことかな・・・。」

 「お通夜の席で、遺族に何ゆうとんねん」って感じでした。(あとで思ったんやけど、「顔かわったね」はボクがアホっぽくなったっていう意味やったんかなあ。)

 とよぞのおっさん、こんなお気楽な甥ですが、天国からあたたかく見守ってくださいね。

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2011年01月05日(水)

雪かき [雑用]

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 朝、藤井勘太君のお母さんに箱根駅伝の写真を持っていった。当日は線路をはさんだ向かい合わせのホームで出会っただけなので、あまりお話ができなかった。
 一番お聞きしたかったのは、10月16日の箱根駅伝予選会にも出ていなかった勘太君が、2ヶ月ほどの間でどうして16人の登録メンバーに選ばれ、10人しか走れない本番も走ることができるまでになったのか。いろいろお聞きしたが、お母さんの結論は「私も不思議です」。
 今度本人に会うことができたら、そのへんをくわしく聞いてみたいと思った。

 藤井勘太君のプロフィールについては、テレビや新聞、雑誌などでもほとんど取り上げられていない。いわゆるノーマークの選手であったようだ。今までの箱根駅伝で脚光を浴びた選手とは、またひと味ちがう選手であるようにも思う。ぜひ、自分の歩んできた道を自分の言葉で語ってほしい。

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 そのあと、車検のため倉庫にいったん降ろした荷物を積み込むためにいなかへ。
 暮れに降った雪は水分を多く含んでいたようで、たくさんの杉の木が倒されていた。

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 ただし、道路はきれいにブルドーザーでかいてあったので、チェーンを巻かずに帰ることができた。

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 雪は一番多いところで50cmくらいだろうか。

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 この雪の状態だと、道路から家に入るのが大変だ。

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 家の前の橋に積もっていた雪は、踏み固められていなかったので割と雪かきは楽だった。
 でも、その近くの倉庫はブルドーザーで集められた雪が凍ててしまってカチカチだった。ここの雪かきがおよそ1時間。この雪をどけないことには荷物が出せないので仕方ない。久しぶりに力仕事をした。

 そのあと、在庫表を作り直しながら荷物の積み込み。
 11時前にはいなかに到着していたのに、すべての積み込みが終わったのは3時過ぎだった。

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 倉庫からいなかの我が家のほうを見ると、右手坂の上に藤井勘太君のお父さんの実家が見える。人の気配がなかったが、家に上る坂はきれいに雪かきがしてあった。

 この春には、勘太君も京都に帰ってくるらしい。ぜひ、おじいちゃんおばあちゃんのいるいなかにも顔を出してほしいと思う。
 「もし時間ができたら、いなかの雪かきもしてあげてね。」

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 今日は久しぶりに仕事らしい仕事をしたので、今年初めての外食でもまあまあ大きな顔して食べることができた。
 「ろくに仕事もせんとメシばっかりバクバク食べて・・・」とは言われなかった。
 「ほっ!」

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2011年01月04日(火)

箱根駅伝応援から帰って [マラソン評論]

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総合4位でフィニッシュする東海大のアンカー・藤井=東京・大手町

◎カナロコ(神奈川新聞コミュニティーサイト) 1月3日より

 「箱根駅伝:東海大が意地の4位、4年ぶりシード権獲得」

 東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)最終日は3日、箱根町から東京・大手町までの復路5区間、109・9キロに関東の19校と関東学連選抜の計20チームが参加して争われ、早大が10時間59分51秒の大会新記録で18年ぶり13度目の総合優勝を果たした。

 昨年10月の出雲全日本選抜と同11月の全日本を制した早大は、1990〜91年の大東大、2000〜01年の順大に続く3校目の大学駅伝3冠に輝いた。優勝13度は中大の14度に次いで単独2位。3連覇を目指した東洋大は21秒差で2位となり、駒大が3位。10位の国学院大までが来年のシード権を獲得し、12位の山梨学院大や最下位の日大などは予選会に回る。

 往路2位の早大は先頭から27秒遅れで出た高野寛基が東洋大を抜いてトップに立つと7区の三田裕介らが堅実につなぎ、最後はアンカーの中島賢士が追い上げる東洋大を振り切った。早大は5時間29分34秒で18年ぶりの復路優勝となった。

 最優秀選手は2区で17人抜きの快走で区間賞を獲得した東海大の村澤明伸が初めて選ばれた。

◆◇◆

 復路を最上級生で固めた東海大が「4位の座」を死守した。後輩に3強への挑戦権を―。脇役に徹した先輩たちが、最後に意地をみせた。

 「ああ、これで最後だ」。遠くで手を挙げるアンカー藤井の姿をとらえると、主将の9区・金子は激しく首を振りながら直線を疾走した。9キロ付近から5位明治と抜きつ抜かれつ。「少しでも前で渡した方が気持ちがつながる」と、そこから4秒差をつけた。

 藤井も明大とデッドヒートを繰り広げ、ラスト500メートルでスパート。一踏ん張りを生んだのは「後輩を、3強(早稲田、東洋、駒沢)を崩す来年の第1候補にしてあげたい」という一念だった。

 チームの中心は、往路で活躍した2年生の村澤と早川。4年生は「いつも、足を引っ張ってばかりだった」(金子)という。だがそれは、新居利広監督(58)に言わせれば、「潜在能力がありながら、これまで力を出し切れなかった」から。

 だから、「監督が復路を全員4年生で組んでくれてうれしかった」(6区河野)。4年生だけで話し合い、「最後に意地を見せよう」と誓って臨んだラストレースだった。

 鬼気迫る2人のスパートに「あれが4年生の意地。やってくれると思っていた」と早川。「次は自分たちが3強を崩して総合優勝したい」。4年ぶりに獲得したシード権とともに、思いは確かに伝わった。
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 昨日は、東海大アンカーの藤井勘太選手のゴール前写真を撮ろうと思っていた。しかし、無計画なまま家を出てしまったのでゴールには間にあわなかった。鶴見中継所を少し行ったところで写真を撮ることには撮ったのだが、かなりピンボケ。肝心な時に大失敗。
 ゴール写真ならすぐネットで見つかるだろうと思っていたが、意外と見つからず。さっき、やっと見つかりました。(神奈川新聞さん、引用させていただきました。)

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 昨日は、上武大学の走路員の子たちとしゃべったあとすぐに京都に帰ってきた。
 駅弁を買って食べた。夕刊フジ特選「おつまみ弁当」(1000円)とスーパードライ(310円)。ホームのベンチでちょっと食べていたら、向かいのホームに新大阪行きのひかりが入ってきた。あわてて弁当をしまい、階段を走って向かいのホームへ。一番すいている自由席車両・3号車に飛び乗った。

 「オー、ノー!」

 すいているはず。車内は煙モクモク。まだ、タバコが吸える車両なんて残ってたんですね。
 ゆったり座れてよかったけど、京都までの2時間半で体中タバコくさくなってしまった。

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 新幹線の窓から夕焼けが見えた。
 「あっ、あやみちゃんが言ってたざりがに雲見っけ・・・。」

 走友でありブログ友だちでもあるみったんさんの娘さん・あやみちゃん。「ざりがに雲」って言ってたなあ。そんなことを思い出しながら、京都の我が家へ。

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東京駅で買った「禅ドーナツ」

 いつも淡々としている廉が、「箱根駅伝はやっぱりすごいな」と何回も言っていた。それぞれの選手の速さだけでなく、そのフォームにも注目していたのがうれしい。
 廉は陸上競技を初めてまだ9ヶ月ほどだが、まだまだ上に何段階もあるレベルをめざして走り続けてほしい。テレビ観戦だったが、いい刺激になったようだ。

 北京オリンピック柔道の石井慧選手応援の時もそうだったが、箱根駅伝も私ではなく廉が見に行くべきだった。そういうところに使うお金は惜しくない。来年は計画を立ててみるか。 

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竹炭黒豆ドーナツ

 ヨメさんとも話していたのだが、今年は藤井勘太君のように4回生にして箱根初出場という選手が何人もいた。その数は今までより多かったように感じた。
 ここ数年は、大ブレーキやアクシデントが多くあり、少し本来の競技から外れたところがクローズアップされていた。今年も転倒やコースアウトなどがあったが、それほど目立つものではなかった。「落ち着いた箱根駅伝」だったと言ってもいいと思う。
 その要因はいろいろあるのだろうが、目先の結果を追うのではなく、長い目で選手を育てられるチームが増えたからではないだろうか。(東海大学の復路は5区間全員が4回生。)
 本来の学生駅伝のあるべき姿に戻ったようでうれしかった。(コツコツ努力を続けている選手が報われないでどうする!)
 その学生たちが卒業して、またいつの日か指導者になる。長い目で育てられた選手は、指導者になっても同じような視点を持つことができるだろう。そういったプラスの連鎖が、今後も続いていってほしいと思う。

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2011年01月03日(月)

箱根駅伝・藤井勘太選手 [マラソン評論]

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 「かんたくーん、しっかり! かんたくーん! かんたくーん!」

 鶴見中継所でたすきを受け取り、最終区10区を走り出した藤井勘太選手(東海大)。
 目の前を通り過ぎる数秒のうちに、かけられた言葉はただこれだけ。しかし、私にしては注意されることも恐れず車道に一歩出て、大声を出すことができた。(少しは耳に届いたかな。)

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 藤井勘太君のお父さんと私は同郷。(私の姉と勘太君のお父さんは小中同級生。)心から応援できる選手が箱根駅伝に出るからには、応援に行かずにはおられない。
 ただ、箱根駅伝は当日エントリー変更が認められている。もちろんその本人には前もって告げてあるとは思うのだが、私たち部外者には知るすべもない。
 今朝は早く起きて、「箱根駅伝復路エントリー変更」で検索してみたがさっぱり分からず。藤井勘太選手がエントリーされていた10区は、6チームがエントリー変更をしたことだけは分かった。その6チームの中に東海大学が入っていませんように・・・。

 結局ネットのほうでは「エントリー変更」が見つけられず。7時40分ごろ、やっとテレビで復路のメンバーが映し出された。
 「東海大学 10区 藤井勘太」

 よっしゃー。いざ、10区へ。
 10区のコースもほとんど調べず、お金とカメラとケイタイだけ持って家を飛び出す。京都駅のJRの「みどりの窓口」で聞いて乗車券を買う。
 新横浜駅へ向かう新幹線の中からヨメさんにメール。鶴見中継所への行き方を聞くと、「京急・鶴見市場駅」が一番近いとのこと。私はすべてJRの乗車券でそろえてしまったのでややこしいことになった。鶴見中継所→品川駅前→大手町ゴールという計画はむずかしそうだ。

 しかし、新横浜駅から鶴見市場駅へはヨメさんから送ってもらったメールのおかげでまちがいなく行くことができた。
 中継所は駅からすぐ。私が到着したのは先頭が来る30分ほど前だったので、まだそんなに人は多くなかった。でも時間がたつにつれ人が多くなり、先頭が来るかというころには歩道はすごい人の壁になっていた。

 私が陣取ったのは、中継所から200mほど先のところ。
 私の横には、4歳くらいの男の子と美人お母さん。ワンセグケイタイを見ておられたので、随時情報を教えてもらっていた。
 「どちらかの大学を応援しておられるんですか。」
 「いえ、最近この近くに引っ越してきたので、せっかくなんで見に来たんです。」
 「だったら、ぜひ東海大学を応援してください。」
 「東海大学は、水色でしたね。」
 「そうそう。」
 「どうして東海大学の応援を?」
 「10区を走る子が、うちの近所の子なんですよ。元々は京都なんですけど・・・。」
 「えっ、京都から応援に来られたんですか。」
 「そうなんです。当日エントリー変更がないかを確かめて、朝新幹線に乗って・・・。」
 「応援します、東海大学。お名前は?」
 「藤井勘太です。」
 「パンダ? パンダ?」と小さな男の子。
 「○○君、そんなこと言っちゃダメ。ちゃんと、『かんたくん、がんばれ』って言おうね。」
 「パンダ、パンダ、・・・」
 (走ってたら、「パンダ」も「かんた」に聞こえるかも・・・。)

 そんなことをしゃべっている間に先導するパトカーが見えてきた。そこに続く10区の選手。

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 先頭は、早稲田大学。

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 2位通過、東洋大学。

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 3位通過、駒澤大学。

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 来たー、4位通過、東海大学・藤井勘太選手。

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 「絶対に車道には出ないように」とそれまで何度も注意されていた。でも、自然に一歩前へ。

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 「かんたくーん、しっかり! かんたくーん! かんたくーん!」

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 応援できるのは、ほんの一瞬。でも、自分でもびっくりするくらいの大声が出せた。

 さあ、次の応援場所へ。
 鶴見市場駅に戻り、JR東神奈川駅に向かおうと駅のホームで待っていると「こうじ君、こうじ君」と呼ぶ声。向かいのホームに目をやると、なんと藤井勘太君のご両親。
 「応援に来てくれたんやねえ。」
 「はい。今日の朝出てきました。」
 「ありがとう。このあとは?反対向きとちがうん?」
 「JRの券こうてしもたし、こっち向きなんですわ。ゴールに行かはんのですよね。」
 「そう。」

 まさか、こんなたくさんの人ごみの中で藤井勘太君のご両親と出会い話ができるとは思ってもみなかった。よかった、よかった。

 来た電車に乗ってから気づいたのだが、買ってしまったJRの券は無視して、そのまま京急で品川に向かったほうがよっぽど早かった。品川での応援は断念し、東京駅へ。

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 ゴール大手町は東京駅から歩いてすぐ。
 しかし、ここまで来るのに手間取って、結局東海大学はすでにゴールしていた。近くの方にお聞きすると、東海大学は第4位でゴール。藤井勘太選手は、私が見た鶴見中継所から23kmほど、誰にも抜かれずにゴールまでがんばったのだ。
 あとで聞いたのだが、10区区間4位の力走。4回生の最後の最後に花が開いたね。おめでとう。

 藤井勘太君のおばあちゃん(うちの実家のお隣り)がいつも言っておられた。
 「勘太はなあ、ほんまに走るのが大好きでなあ、ヒマさえあったら走っとるわ。ようあんだけ走れるもんやといっつも感心してんにゃ。」
 私もそんな子にこそ箱根駅伝に出てもらいと思っていたが、最後に実現し、私も目の前で応援できたのでもう言うことなし。

 私が到着した時には、15位くらいのチームがゴールするところだった。ただ、人垣が何重にもなっていて前が見えない。上の写真はミニ脚立を持ってきておられた方にお借りして撮った一枚。

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 人垣の後ろにかわいいワンちゃんがいたので写真を撮らせてもらった。
 「じん・オス・9歳・ゴールデン」
 顔がラプラドールに見えたので、「ラプラドールですか」と聞いたら、「よく言われるんですけど、毛並みはゴールデンでしょ」とのこと。ほんとにそうでした。

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 後ろのほうにいるとまったく見えないのだが、時折「おー」という歓声が沸きあがるので選手が帰って来たのが分かる。この歓声を聞くだけでも、この場に来た値打ちがあると思った。

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 20チームすべてがゴールすると、人が引けてやっと前が見えた。
 すぐ前にいた黄色のブレーカーを来た走路員が目にとまった。
 「すいません、写真撮らせてもらっていいですか。」
 「えっ、僕らですか。」
 「はい。無償で交通費もなしで走路員しておられるんでしょう。それをみんなに知ってもらいたくて。撮りますよー。」
 「ありがとうございます。」
 「ブログにこの写真載せたいんですけど、いいですか。」
 「はい、お願いします。」
 「このブログですし・・・」と言って私の名刺を渡した。
 「えっ、京都キャロットさん。いつも買わせてもらってました。」
 「えっ、どこの大学ですか。」
 「上武大学です。僕は武と言います。」
 「わー、上武大学やったん。武君、ありがとうね。ブログに書いとくし・・・。そやけどみんなえらいなあ。」

 こんなところで、うちのお客様にお会いできるなんて。
 藤井勘太君の応援は一ヶ所でしかできなかったけど、いつも買っていただいている上武大学の子たちとも話せて本当によかった。私にとっては思い出に残る箱根駅伝の応援になった。
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◎あるツイッターより

【RT拡散希望】箱根駅伝をご覧になる皆さん。レースは「無償&交通費支給なし」で正月休みを返上している学生補助員、一般補助員によって支えられています。黄色のジャンパーを着た沿道の補助員にもささやかな声援をお願いしますm(_ _)m

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