2011年01月07日(金)
とよぞのおっさん・続き [家族]
胸のあたりに花を置き、豊三叔父さんの顔をのぞきこんだ瞬間涙がこみ上げてきた。
「あかん、あかん、ちがう、ちがう。」
叔父さんの奥さんと4人の子どもたち(娘3人、息子1人)がまだこらえているのに、甥である私ごときが先に泣いてどうする。そうは思ったが、もう耐え切れなかった。一歩二歩後ずさりして、人の影に入って泣かせてもらった。(ハンカチを持ってきていてよかった。)
20年前私の母が亡くなったとき、もっともっと話をしておけばよかったと後悔した。今度またまったく同じ後悔を・・・。
上品で物知りで、それでいていつも謙虚だった「とよぞのおっさん」。きっと、私のような者でも話を聞きに行けば喜んでくださっただろうに・・・。
◇ ◇ ◇
今日もまた、雪。いなかから出てきたうちの本家のおじさんは、「一晩で40cm積もった」と言ってはった。
うちのあたりも2、3cmの積雪。しかし、葬儀場のある円町あたりはまったく積もっていなかった。
私は、昨日に引き続き立礼役。
昨日は、100円ショップの数珠とただ黒いだけの690円のドタ靴がばれないかとハラハラしていた。まあそれも2日目となるとちょっと余裕。
滞りなく式は進行し、あとは出棺を残すのみとなった。私はお山(火葬場)には行かないので、今日のお役目はこれにておしまいという感じだった。
◇ ◇ ◇
昨日は、いろいろなことを考えた。
家から円町まで一人で運転してきたのだが、その間ずっと豊三叔父さんの上品な語り口を思い出していた。自分が話されるだけでなく、人の話を聞くのもすごくうまい。人に自分の考えを押し付けたり、怒鳴ったり怒ったりしているのも見たことがない。
それは、退職されるまで長年ハイヤーやタクシーの仕事をされていたのと関係あるのかもしれない。いや逆か。そういう性格だったからこそ、その仕事が長く続けられたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
豊三叔父さんに関する間接的なエピソード。
今から32年前、私の教師1年目のこと。そのとき担任していたクラスは、子ども一人だけ。学芸会の劇を一人ではやりようがないので、私もかつらをかぶり武士の役で出演した。
その学校はうちのいなかの隣りだったので、私の両親も見にきていた。そして、私の武士の姿を見た母がびっくりぎょうてん。「とよぞのおっさんに、そっくり!」本当に目を丸くして言っていた。
私は自分ではそんなに似ているという意識はなかったのだが、かっこいいと思っていた「とよぞのおっさん」にそっくりと言われていい気分だった。
この話、「とよぞのおっさん」本人にはしてへんかったなあ。残念!
◇ ◇ ◇
私の兄は、中学校の3年間、豊三叔父さんの家にお世話になりその地域の中学校に通わせてもらった。(いわゆる里親里子の関係です。)どういういきさつでそうなったのかは知らないが、当時はそういうこともめずらしくはなかったようだ。
兄は「とよぞのおっさん」のことをどう思っていたのだろう。自分の甥を預かった豊三叔父さんは、私の兄のことをどう思っていたのだろう。私には想像もつかない。
◇ ◇ ◇
昨日お通夜が終わったあと、食事の準備ができるまで少し間があった。
そのとき、私は飾られている叔父さんの写真を一人で見続けていた。遺影が何かを語りかけてくるということはない。こちらが一方的に話しかけるだけだ。
しかし、ずっと見続けていると写真の表情が変る錯覚に陥る。まわりを飾る花やろうそくも動き出すような・・・。
「とよぞのおっさん」は私のことを「こうじ」と呼んではったっけ?
いやいや、「こうじ君」と君付けで呼んではったように思う。
最後に会ったのは2年前のお墓参り。若いときに毎日あの道を通って山仕事に行かれた話をしてくれはりましたよね。そのときは、「こうじ君」とは呼んでくれはらへんかったけど・・・。
◇ ◇ ◇
叔父さんにお花を捧げたあと、なかなか涙が止まらなかった。しかし、叔父さんにとってただ一人の孫・Sちゃんが横で大泣きしている姿に気づいてやっと我に返った。
私の母が亡くなったとき、お通夜でもお葬式でも泣かなかった。なぜかしら現実味がなかった。しかし、亡くなって1週間くらいたってからだろうか、運転中に急に涙があふれ出して運転できなくなってしまった。
たぶん、叔父さんの奥さんと4人の子どもたちもそれと似たような状態なのかもしれない。本当に悲しいのは、もうちょっとたってから・・・。
◇ ◇ ◇
父は、最後のお別れにと無理してお山までついて行った。
自分の弟が自分より先に死んでしまうなんて・・・。
何年か前から、父は「出かけるというと、葬式ばっかり」と嘆いていた。ましてや、自分に最も近い肉親を送り出さなくてはならないとは・・・。
出棺の前、父も何度も何度も涙をぬぐっていた。
もしかしたら、その輪の中で一番泣いていたのは私の父だったかもしれない。
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2011年01月06日(木)
とよぞのおっさん [家族]
今日は、豊三叔父さんのお通夜だった。
豊三叔父さんは私の父の弟。父の4歳下なので85歳だった。
昨日、いなかの倉庫の前の雪かきをしている時、兄から電話があった。
「とよぞのおっさんが、1月3日に亡くならはったんやわ。」
「えー!」
前から具合はよくないとは聞いていたが、まさか・・・。
小さいときから「豊三叔父さん」とは呼んだことはない。ずうっと、「とよぞのおっさん」。
私の父は、(息子の私が言うのも変かもしれないが)とても山奥の農家の長男とは思えない気品がある。そして、次男・豊三さんはそれにさらに輪をかけたような上品さがあった。そして、すごく物知りでもあった。(ついでに言うと、男前でかっこよかった。)父も叔父さんも高等小学校しか出ていないはずだが、人間の品格と学歴とは関係ないといういい見本だ。
豊三叔父さんについては、若いころ東京で働いていたこと、そこで知り合った人と結婚したことくらいしか知らなかった。お母さんが関東の人なので、4人の子どもはみんな京都弁と関東弁のチャンポンだ。
その叔父さんが、戦時中満蒙開拓団に入っており戦後シベリアに抑留されていたというのを知ったのは去年。もうそのときは、叔父さんとは話ができない状態になっていた。
「シベリア抑留」の補償が話題になっていた時、自分にはまったく関係のない話だと思っていた。こんな身近にその対象者がいたというのに・・・。
戦争体験の話は、やはり自分と少しでも関係のある人から聞いたほうが心に残る。その体験を話せる人がどんどん少なくなっている。
今日、父と豊三叔父さんのいとこ「ひろしのおっさん」とちょっと話ができた。ひろしのおっさんは豊三さんの1つ下の84歳。
「おっさんは戦争中どうしてはったんですか」と聞くと、「東京の海軍兵舎で働いとった」とのこと。そのあと時間がなくて話が広がらなかったが、まだまだ元気そうなのでまた話を聞きに行こう。
◇ ◇ ◇
今まで、お通夜といえばお焼香だけして帰るというものだった。でも、今日はちがう。喪主が豊三さんの息子で、男兄弟はなし。いとこで男は私と兄だけなので、兄が受付、私が立礼役をすることになった。
喪主の横に立って、お焼香に来ていただいた人に礼をする役目だった。初めてのことなので緊張したが、半分近くは知り合いだったので心配することもなかった。
それよりビビったのは、お焼香。なんと、私は喪主の次。
「えっ、私はナンバー2あつかい?」
お焼香のあと、ご住職様から「通夜 お別れ説教」があった。戒名についての説明、叔父さんの経歴、残された者の心の持ち方などについて話してくださった。これは本当によかった。みなさんもそうおっしゃっていた。
「今のうちにボクが死んだ時の分の原稿書いとこう。ええことばっかり書いて、お坊さんにゆうてもらおう。」・・・ややヒンシュク。
◇ ◇ ◇
叔父さんの長女は私と同い年。
小さいときは同い年ということで、ちょっとライバル心もあった。私も当時はいなかでは「かしこ」でとおっていた。でも、豊三叔父さんの長女も「かしこ」という評判だった。そして対面して思った。都会のかしこはいなかのかしこの3倍くらい賢そう。
「負けましたー。」
私の祖母のお葬式に会って以来なので、たぶん43年ぶり。弟や妹たちはさっぱり見分けられなかったが、長女・Rちゃんの賢そうな風貌に変りはなかった。
「お久しぶり、元気にしてる?」
「うーん、元気というかなんというか・・・。こうちゃん、顔変ったね。」
「そうか? 若く見えるってことかな・・・。」
「お通夜の席で、遺族に何ゆうとんねん」って感じでした。(あとで思ったんやけど、「顔かわったね」はボクがアホっぽくなったっていう意味やったんかなあ。)
とよぞのおっさん、こんなお気楽な甥ですが、天国からあたたかく見守ってくださいね。
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2011年01月05日(水)
雪かき [雑用]
朝、藤井勘太君のお母さんに箱根駅伝の写真を持っていった。当日は線路をはさんだ向かい合わせのホームで出会っただけなので、あまりお話ができなかった。
一番お聞きしたかったのは、10月16日の箱根駅伝予選会にも出ていなかった勘太君が、2ヶ月ほどの間でどうして16人の登録メンバーに選ばれ、10人しか走れない本番も走ることができるまでになったのか。いろいろお聞きしたが、お母さんの結論は「私も不思議です」。
今度本人に会うことができたら、そのへんをくわしく聞いてみたいと思った。
藤井勘太君のプロフィールについては、テレビや新聞、雑誌などでもほとんど取り上げられていない。いわゆるノーマークの選手であったようだ。今までの箱根駅伝で脚光を浴びた選手とは、またひと味ちがう選手であるようにも思う。ぜひ、自分の歩んできた道を自分の言葉で語ってほしい。
そのあと、車検のため倉庫にいったん降ろした荷物を積み込むためにいなかへ。
暮れに降った雪は水分を多く含んでいたようで、たくさんの杉の木が倒されていた。
ただし、道路はきれいにブルドーザーでかいてあったので、チェーンを巻かずに帰ることができた。
雪は一番多いところで50cmくらいだろうか。
この雪の状態だと、道路から家に入るのが大変だ。
家の前の橋に積もっていた雪は、踏み固められていなかったので割と雪かきは楽だった。
でも、その近くの倉庫はブルドーザーで集められた雪が凍ててしまってカチカチだった。ここの雪かきがおよそ1時間。この雪をどけないことには荷物が出せないので仕方ない。久しぶりに力仕事をした。
そのあと、在庫表を作り直しながら荷物の積み込み。
11時前にはいなかに到着していたのに、すべての積み込みが終わったのは3時過ぎだった。
倉庫からいなかの我が家のほうを見ると、右手坂の上に藤井勘太君のお父さんの実家が見える。人の気配がなかったが、家に上る坂はきれいに雪かきがしてあった。
この春には、勘太君も京都に帰ってくるらしい。ぜひ、おじいちゃんおばあちゃんのいるいなかにも顔を出してほしいと思う。
「もし時間ができたら、いなかの雪かきもしてあげてね。」
今日は久しぶりに仕事らしい仕事をしたので、今年初めての外食でもまあまあ大きな顔して食べることができた。
「ろくに仕事もせんとメシばっかりバクバク食べて・・・」とは言われなかった。
「ほっ!」
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2011年01月04日(火)
箱根駅伝応援から帰って [マラソン評論]
◎カナロコ(神奈川新聞コミュニティーサイト) 1月3日より
「箱根駅伝:東海大が意地の4位、4年ぶりシード権獲得」
東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)最終日は3日、箱根町から東京・大手町までの復路5区間、109・9キロに関東の19校と関東学連選抜の計20チームが参加して争われ、早大が10時間59分51秒の大会新記録で18年ぶり13度目の総合優勝を果たした。
昨年10月の出雲全日本選抜と同11月の全日本を制した早大は、1990〜91年の大東大、2000〜01年の順大に続く3校目の大学駅伝3冠に輝いた。優勝13度は中大の14度に次いで単独2位。3連覇を目指した東洋大は21秒差で2位となり、駒大が3位。10位の国学院大までが来年のシード権を獲得し、12位の山梨学院大や最下位の日大などは予選会に回る。
往路2位の早大は先頭から27秒遅れで出た高野寛基が東洋大を抜いてトップに立つと7区の三田裕介らが堅実につなぎ、最後はアンカーの中島賢士が追い上げる東洋大を振り切った。早大は5時間29分34秒で18年ぶりの復路優勝となった。
最優秀選手は2区で17人抜きの快走で区間賞を獲得した東海大の村澤明伸が初めて選ばれた。
◆◇◆
復路を最上級生で固めた東海大が「4位の座」を死守した。後輩に3強への挑戦権を―。脇役に徹した先輩たちが、最後に意地をみせた。
「ああ、これで最後だ」。遠くで手を挙げるアンカー藤井の姿をとらえると、主将の9区・金子は激しく首を振りながら直線を疾走した。9キロ付近から5位明治と抜きつ抜かれつ。「少しでも前で渡した方が気持ちがつながる」と、そこから4秒差をつけた。
藤井も明大とデッドヒートを繰り広げ、ラスト500メートルでスパート。一踏ん張りを生んだのは「後輩を、3強(早稲田、東洋、駒沢)を崩す来年の第1候補にしてあげたい」という一念だった。
チームの中心は、往路で活躍した2年生の村澤と早川。4年生は「いつも、足を引っ張ってばかりだった」(金子)という。だがそれは、新居利広監督(58)に言わせれば、「潜在能力がありながら、これまで力を出し切れなかった」から。
だから、「監督が復路を全員4年生で組んでくれてうれしかった」(6区河野)。4年生だけで話し合い、「最後に意地を見せよう」と誓って臨んだラストレースだった。
鬼気迫る2人のスパートに「あれが4年生の意地。やってくれると思っていた」と早川。「次は自分たちが3強を崩して総合優勝したい」。4年ぶりに獲得したシード権とともに、思いは確かに伝わった。
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昨日は、東海大アンカーの藤井勘太選手のゴール前写真を撮ろうと思っていた。しかし、無計画なまま家を出てしまったのでゴールには間にあわなかった。鶴見中継所を少し行ったところで写真を撮ることには撮ったのだが、かなりピンボケ。肝心な時に大失敗。
ゴール写真ならすぐネットで見つかるだろうと思っていたが、意外と見つからず。さっき、やっと見つかりました。(神奈川新聞さん、引用させていただきました。)
昨日は、上武大学の走路員の子たちとしゃべったあとすぐに京都に帰ってきた。
駅弁を買って食べた。夕刊フジ特選「おつまみ弁当」(1000円)とスーパードライ(310円)。ホームのベンチでちょっと食べていたら、向かいのホームに新大阪行きのひかりが入ってきた。あわてて弁当をしまい、階段を走って向かいのホームへ。一番すいている自由席車両・3号車に飛び乗った。
「オー、ノー!」
すいているはず。車内は煙モクモク。まだ、タバコが吸える車両なんて残ってたんですね。
ゆったり座れてよかったけど、京都までの2時間半で体中タバコくさくなってしまった。
新幹線の窓から夕焼けが見えた。
「あっ、あやみちゃんが言ってたざりがに雲見っけ・・・。」
走友でありブログ友だちでもあるみったんさんの娘さん・あやみちゃん。「ざりがに雲」って言ってたなあ。そんなことを思い出しながら、京都の我が家へ。
いつも淡々としている廉が、「箱根駅伝はやっぱりすごいな」と何回も言っていた。それぞれの選手の速さだけでなく、そのフォームにも注目していたのがうれしい。
廉は陸上競技を初めてまだ9ヶ月ほどだが、まだまだ上に何段階もあるレベルをめざして走り続けてほしい。テレビ観戦だったが、いい刺激になったようだ。
北京オリンピック柔道の石井慧選手応援の時もそうだったが、箱根駅伝も私ではなく廉が見に行くべきだった。そういうところに使うお金は惜しくない。来年は計画を立ててみるか。
ヨメさんとも話していたのだが、今年は藤井勘太君のように4回生にして箱根初出場という選手が何人もいた。その数は今までより多かったように感じた。
ここ数年は、大ブレーキやアクシデントが多くあり、少し本来の競技から外れたところがクローズアップされていた。今年も転倒やコースアウトなどがあったが、それほど目立つものではなかった。「落ち着いた箱根駅伝」だったと言ってもいいと思う。
その要因はいろいろあるのだろうが、目先の結果を追うのではなく、長い目で選手を育てられるチームが増えたからではないだろうか。(東海大学の復路は5区間全員が4回生。)
本来の学生駅伝のあるべき姿に戻ったようでうれしかった。(コツコツ努力を続けている選手が報われないでどうする!)
その学生たちが卒業して、またいつの日か指導者になる。長い目で育てられた選手は、指導者になっても同じような視点を持つことができるだろう。そういったプラスの連鎖が、今後も続いていってほしいと思う。
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2011年01月03日(月)
箱根駅伝・藤井勘太選手 [マラソン評論]
「かんたくーん、しっかり! かんたくーん! かんたくーん!」
鶴見中継所でたすきを受け取り、最終区10区を走り出した藤井勘太選手(東海大)。
目の前を通り過ぎる数秒のうちに、かけられた言葉はただこれだけ。しかし、私にしては注意されることも恐れず車道に一歩出て、大声を出すことができた。(少しは耳に届いたかな。)
藤井勘太君のお父さんと私は同郷。(私の姉と勘太君のお父さんは小中同級生。)心から応援できる選手が箱根駅伝に出るからには、応援に行かずにはおられない。
ただ、箱根駅伝は当日エントリー変更が認められている。もちろんその本人には前もって告げてあるとは思うのだが、私たち部外者には知るすべもない。
今朝は早く起きて、「箱根駅伝復路エントリー変更」で検索してみたがさっぱり分からず。藤井勘太選手がエントリーされていた10区は、6チームがエントリー変更をしたことだけは分かった。その6チームの中に東海大学が入っていませんように・・・。
結局ネットのほうでは「エントリー変更」が見つけられず。7時40分ごろ、やっとテレビで復路のメンバーが映し出された。
「東海大学 10区 藤井勘太」
よっしゃー。いざ、10区へ。
10区のコースもほとんど調べず、お金とカメラとケイタイだけ持って家を飛び出す。京都駅のJRの「みどりの窓口」で聞いて乗車券を買う。
新横浜駅へ向かう新幹線の中からヨメさんにメール。鶴見中継所への行き方を聞くと、「京急・鶴見市場駅」が一番近いとのこと。私はすべてJRの乗車券でそろえてしまったのでややこしいことになった。鶴見中継所→品川駅前→大手町ゴールという計画はむずかしそうだ。
しかし、新横浜駅から鶴見市場駅へはヨメさんから送ってもらったメールのおかげでまちがいなく行くことができた。
中継所は駅からすぐ。私が到着したのは先頭が来る30分ほど前だったので、まだそんなに人は多くなかった。でも時間がたつにつれ人が多くなり、先頭が来るかというころには歩道はすごい人の壁になっていた。
私が陣取ったのは、中継所から200mほど先のところ。
私の横には、4歳くらいの男の子と美人お母さん。ワンセグケイタイを見ておられたので、随時情報を教えてもらっていた。
「どちらかの大学を応援しておられるんですか。」
「いえ、最近この近くに引っ越してきたので、せっかくなんで見に来たんです。」
「だったら、ぜひ東海大学を応援してください。」
「東海大学は、水色でしたね。」
「そうそう。」
「どうして東海大学の応援を?」
「10区を走る子が、うちの近所の子なんですよ。元々は京都なんですけど・・・。」
「えっ、京都から応援に来られたんですか。」
「そうなんです。当日エントリー変更がないかを確かめて、朝新幹線に乗って・・・。」
「応援します、東海大学。お名前は?」
「藤井勘太です。」
「パンダ? パンダ?」と小さな男の子。
「○○君、そんなこと言っちゃダメ。ちゃんと、『かんたくん、がんばれ』って言おうね。」
「パンダ、パンダ、・・・」
(走ってたら、「パンダ」も「かんた」に聞こえるかも・・・。)
そんなことをしゃべっている間に先導するパトカーが見えてきた。そこに続く10区の選手。
先頭は、早稲田大学。
2位通過、東洋大学。
3位通過、駒澤大学。
来たー、4位通過、東海大学・藤井勘太選手。
「絶対に車道には出ないように」とそれまで何度も注意されていた。でも、自然に一歩前へ。
「かんたくーん、しっかり! かんたくーん! かんたくーん!」
応援できるのは、ほんの一瞬。でも、自分でもびっくりするくらいの大声が出せた。
さあ、次の応援場所へ。
鶴見市場駅に戻り、JR東神奈川駅に向かおうと駅のホームで待っていると「こうじ君、こうじ君」と呼ぶ声。向かいのホームに目をやると、なんと藤井勘太君のご両親。
「応援に来てくれたんやねえ。」
「はい。今日の朝出てきました。」
「ありがとう。このあとは?反対向きとちがうん?」
「JRの券こうてしもたし、こっち向きなんですわ。ゴールに行かはんのですよね。」
「そう。」
まさか、こんなたくさんの人ごみの中で藤井勘太君のご両親と出会い話ができるとは思ってもみなかった。よかった、よかった。
来た電車に乗ってから気づいたのだが、買ってしまったJRの券は無視して、そのまま京急で品川に向かったほうがよっぽど早かった。品川での応援は断念し、東京駅へ。
ゴール大手町は東京駅から歩いてすぐ。
しかし、ここまで来るのに手間取って、結局東海大学はすでにゴールしていた。近くの方にお聞きすると、東海大学は第4位でゴール。藤井勘太選手は、私が見た鶴見中継所から23kmほど、誰にも抜かれずにゴールまでがんばったのだ。
あとで聞いたのだが、10区区間4位の力走。4回生の最後の最後に花が開いたね。おめでとう。
藤井勘太君のおばあちゃん(うちの実家のお隣り)がいつも言っておられた。
「勘太はなあ、ほんまに走るのが大好きでなあ、ヒマさえあったら走っとるわ。ようあんだけ走れるもんやといっつも感心してんにゃ。」
私もそんな子にこそ箱根駅伝に出てもらいと思っていたが、最後に実現し、私も目の前で応援できたのでもう言うことなし。
私が到着した時には、15位くらいのチームがゴールするところだった。ただ、人垣が何重にもなっていて前が見えない。上の写真はミニ脚立を持ってきておられた方にお借りして撮った一枚。
人垣の後ろにかわいいワンちゃんがいたので写真を撮らせてもらった。
「じん・オス・9歳・ゴールデン」
顔がラプラドールに見えたので、「ラプラドールですか」と聞いたら、「よく言われるんですけど、毛並みはゴールデンでしょ」とのこと。ほんとにそうでした。
後ろのほうにいるとまったく見えないのだが、時折「おー」という歓声が沸きあがるので選手が帰って来たのが分かる。この歓声を聞くだけでも、この場に来た値打ちがあると思った。
20チームすべてがゴールすると、人が引けてやっと前が見えた。
すぐ前にいた黄色のブレーカーを来た走路員が目にとまった。
「すいません、写真撮らせてもらっていいですか。」
「えっ、僕らですか。」
「はい。無償で交通費もなしで走路員しておられるんでしょう。それをみんなに知ってもらいたくて。撮りますよー。」
「ありがとうございます。」
「ブログにこの写真載せたいんですけど、いいですか。」
「はい、お願いします。」
「このブログですし・・・」と言って私の名刺を渡した。
「えっ、京都キャロットさん。いつも買わせてもらってました。」
「えっ、どこの大学ですか。」
「上武大学です。僕は武と言います。」
「わー、上武大学やったん。武君、ありがとうね。ブログに書いとくし・・・。そやけどみんなえらいなあ。」
こんなところで、うちのお客様にお会いできるなんて。
藤井勘太君の応援は一ヶ所でしかできなかったけど、いつも買っていただいている上武大学の子たちとも話せて本当によかった。私にとっては思い出に残る箱根駅伝の応援になった。
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◎あるツイッターより
【RT拡散希望】箱根駅伝をご覧になる皆さん。レースは「無償&交通費支給なし」で正月休みを返上している学生補助員、一般補助員によって支えられています。黄色のジャンパーを着た沿道の補助員にもささやかな声援をお願いしますm(_ _)m
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2011年01月02日(日)
京都走ろう会例会〜新ウェアデビュー〜 [ランニング]
今日は京都走ろう会の例会日。
新年の初走りなので、「京都キャロット」の新ウェアのデビューにピッタリ。私は長T、ヨメさんはジャージ。胸に小さく「京都キャロット」、背中に「にんじんを持ったうさぎ」という同じデザイン。
今朝は8時から「箱根駅伝」をテレビ観戦。
箱根駅伝フリークの真樹は、休みの日は10時過ぎまで寝ているのに今日は早起き。出かける用意をしているかあちゃんを見て・・・。
「かあちゃん、走りに行くん?」
「そうみたいやで。」
「どうしたんやろな。」
「ほんま、どうしたんやろな。」
今まで何回さそっても、いっしょに走りに来たりはしなかったのに・・・。
「箱根駅伝」の1区から2区への中継を見てから家を出る。応援している東海大学は、1区最下位。しかし、2区は村澤選手だから何とかしてくれるでしょう。
出雲路橋に着くと、松若さんがごあいさつに。
「年賀状、着きましたか。」
「あっ、ありがとうございます。ちゃんと昨日に届きました。ボクも出したんですけど、大晦日やったからまだ着いてませんね。」
津田会長さんの新年のごあいさつ。
三輪さんからのお知らせ。新年会や視覚障害マラソンの伴走について。
今日は走路が雪でグチャグチャなので、準備運動も念入りに。
上空には気球が。
吉田康彦さんにお願いして、新ウェアの記念写真を撮ってもらった。
ヨメさんは「もう写真はかなん」と言って後ろを向いたが、後姿のほうが若く見える?
走路がグチャグチャだったが、個々が気をつけていつもと同じコースを走るということになっていた。しかし、5kmコースの人たちが「とても走れない」ということで戻ってきた。
ここからみんなで協議。
川の東側は西日が長く当たっているせいか雪が解けている。北山大橋〜出町橋間が約2.5kmなので、5kmの人はこれを1周、10kmは2周するということでまとまった。
前から思っていたのだが、京都走ろう会は柔軟な考えの方が多い。一部の人がごり押しをするということがない。みんなで知恵を出し合って、そこそこのところでまとめる力がある。こういう運営ができるクラブはいつまでも繁栄していくと思う。
いつもならスタート地点が3ヶ所に分かれてしまうのだが、今回は特別な事情でみんな出雲路橋東詰になった。こんなことはめったにないので、みんなそろって写真を撮ることにした。私とヨメさんと交代して2枚。
これぞ、「禍転じて福とする」です。
一段高くなっている土手の道は雪が解けており、まずまず走れる状態だった。
いつもとコースが変っているので先頭を行く人は大変。
「古澤さん、よろしくお願いしまーす。」
北山大橋折り返しで、古澤さん松本さんが先頭。その後ろに私。
ここから、私の後ろを追ってくる人たちを写真に。
ただし、逆光のため顔がはっきりとは分からない。
ヨメさんだけはしっかり撮ってかなくては。
今日は「松山コーチ」についてもらっていた。
出雲路橋まで戻りそこから出町橋へ。
出町橋を折り返すと、順光になるのでいい写真が撮れる。
あー、ヨメさんが戻ってきた。
写真、写真。連写、連写。
前田さんにカメラを向けると、ポーズをとってくださった。
今日はいつものコースとはちがうので、ちょっとおもむきのちがう写真も撮ることができた。
今日の計時担当として井上孝夫さんが来てくださっていた。お久しぶりです。しばらくご病気で出てくることができなかったとのこと。みんなのために出て来てくださって、ありがとうございます。
伴走担当幹事さんも、ご苦労さまです。
黒猫ちゃん、発見!
これは素通りできない。
うちのあんもに似ています。
めっちゃかわいいワンちゃん発見!
ああ、こっちも素通りできない。
「ぷーたろう・オス・14歳」
もっともっと長生きしてやー。
2周目は、古澤松本コンビにかなり離されてしまった。ネコさんやワンちゃんの写真を撮っていたせいもあるけど・・・。
北山大橋折り返し担当は、いつもの塚本さん。
「あっ、いつものワンちゃんですよね。」
「はい!」
えーと、名前はオグリやったかいなあ、まるやったかいなあ、それとも・・・。なじみのワンちゃんがいっぱいいて、どれがどれか分からん。
出雲路橋に戻ると、ヨメさんと金辻さんがネコちゃんをかまっていた。金辻さんも、ネコ好きなんや。
出町橋まで行って帰ってやっとゴール。
49分22秒。
足元が悪かったとは言え、ちょっと時間かかりすぎ。距離が長かったかもという声も出ていたが、今日はまあいい練習ができたということで良しとしよう。
ヨメさんは、5km37分ちょっと。走りにくいところを走った割にはふだんとそう変らない。こんなコンディションの中を走りに来ただけでもえらいもんや。
せっかく新しい長Tを着てきたので、走っているところの写真をヨメさんに撮ってもらった。
ちょっと腹出過ぎかなあ。もうちょいへっこまさんとかっこ悪いな。
さっきのネコちゃんがまだ日向ぼっこをしてる。
スリスリスリ・・・。
着替えようとして出雲路橋を渡ると、向こうからワンちゃん猛ダッシュ。びっくらこいたー。
スタート前に見た気球が、まだ上空を旋回している。何の宣伝かはさっぱり分からない。
出雲路橋の上で松本さんとしゃべりながら、ゴールしてくる会員さんの写真を撮る。
一段上はかなり乾いているが、下はまだベチャベチャのところもある。ここらは走るのが大変だった。
最初は10kmを走る予定の人が少なかったのに、コースを変えたらだいぶ増えた。
これぞ、「臨機応変」。
みなさん走れるかどうかと心配されていたのに、まずまず走れて満足されていたようだ。
コインパークまで歩いて帰る途中、またまたかわいいワンちゃん発見!
遠くから見ていると、背中のガラがハスキー。ところが顔はお笑い系。
近くで見ると、目も金と銀。これはやっぱりハスキーと思って顔を見ると、やっぱりお笑い系。
「みゅう・メス・2歳」
れっきとした雑種だそうです。
最後の最後に、またまたかわいいネコちゃん。
今日は日差しがありあたたかかったせいか、たくさんのネコに会えた。
ランニング+ネコ+犬、3倍楽しめました。
家に帰ると、箱根駅伝の2区で村澤選手が17人抜き。そのあとも2位キープということが分かった。すごい!
5区で3位に落ちたが、それでも予想を覆す大健闘。明日の復路が楽しみ。
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