2011年01月16日(日)
京都走ろう会例会〜吹雪〜 [ランニング]
「えー、なんでこんなとこ走っとんねー!」
私の10kmコースの9kmあたり。
前に見えるはヨメさんのピンクジャンバー。
ここらで44分。なんぼ吹雪で走りにくかったとは言え、5kmコースの4km地点でこんなにかからんやろう。
「誰もついてくれはらへんかったん。」
「うん。コースまちがえてしもたー。」
「えー。」
「高野川走ってしもたー。」
あとでよく聞くと、葵橋を渡るところをスルーし、次の出町橋もスルー、加茂大橋を渡って高野川を北上したらしい。おかしいと気がついて戻ったらしいが、合計7km以上になったらしい。
私は10km49分22秒くらい。くしくも前回のタイムといっしよ。ヨメさんは迷走した結果、その3分後くらいにゴール。ほんまに「おつかれさん」どした。
今日は吹雪。
廉をバイト先まで送って出雲路橋へ。ヨメさんを降ろして、コインパークまで車を置きに。そこから出雲路橋まで走っていくと、もう、みなさんスタート地点に向かっていた。
「すんませーん。まだ走る用意ができてへんし、ちょっと待ってください。」
私がスタート地点に走っていくと、「藤井さん、はよう写真撮らなー。」
「ほんまや、ほんまや。」
でも、写真を撮るまもなくスタートのピストル。あわただしかったが、何とかみなさんについていった。
丸太町橋で、11分04秒。
雪道の割にはしっかり走れている。
葵橋のたもとでかわいいワンちゃん発見。
ボーダーコリーのオスとメス。4歳だそうだ。名前は聞かなかった。ちょっと覚えられそうになかったので。
吉田出さんは、3.1kmコースを走り終えられてクーリングダウン。毎回必ずウォーミングアップもされているし、それがランニングを長く続けられる秘訣なんでしょうね。
雪のため、今日の計時は出雲路橋の下。担当幹事さん、ありがとうございます。
ここで、23分31秒(12分27秒)。
今日は5kmの人が少ないようだ。
阿加井さんにお会いしたあと、さっぱり誰にも会わない。
いつもなら、北大路橋と北山大橋の中間あたりでヨメさんに会うのに、まったく人影なし。時間がかかっているのかと対岸を探したが、走る人自体が見当たらない。どうしたんやろ。
御薗橋、36分53秒(13分22秒)。
同じ鴨川河川敷でも、北に行くほど雪が深くなる。かなり走りにくい。
加茂川パートナーズの東さんに追いついたので、写真を撮らせてもらった。よかったら、この写真、また使ってくださいね。
北山大橋を過ぎたところで、10km最後尾についておられた堂本さんが「追いつくでー」。それを聞いても何のことか分からなかった。
しばらく走ると、前にピンクジャンバーが・・・。「追いつくでー」はこのことやったんか。
「なんでこんなとこ走っとんねー!」
たぶん、はなたれてますね。
吹雪の中の迷走は、きつかったやろね。
「八甲田山かーい!」
ヨメさんを追いぬいで、私は先にゴール。
49分22秒(12分29秒)。
雪道は心配だったが、意外と走れた。シューズとソックスもほとんどぬれなかった。
ただし、走り終わったら、足がドーンと重い。走っている最中は、そんなに感じなかったのに・・・。これはクロカンと似ている。まあ、いい練習になったでしょう。
柴田さんは、すれちがうごとに声をかけてくださった。
ゴール前100m。
残り30m。
「足元気つけてー、ゆっくり、ゆっくり・・・」と平田邦子さん。
こけずに無事ゴール。
平田さんがもうちょっと早く来て下さっていたら、ヨメさんの迷走もなかったんですが・・・。平田さんはいつもはバイクですが、雪のためバスで来られたそうです。
こんな足元の悪い中、酉脇節子さんも顔を出してくださっています。
また、北大路橋東詰めのコインパークまで写真を撮りながら。
最後尾の二人(岩井さんと堂本さん)は、「写真撮るよー」とも言ってないのに、だいぶ向こうからポーズをとってはった。
おもろすぎるちゅうねん。楽しみすぎやちゅうねん。
でも、その笑顔、ランナーのかがみです。
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2011年01月15日(土)
ひとりもみすてない・おっはー [雑用]
また、行ってきましたでー。おっはー候補の応援に。
京都府南部N市のイズミヤ前。
私が到着したのは予定の3時の10分前くらい。
そのとき見つけたのは3人だけ。
それでも時間がたつにつれチョビチョビ人が集まり、最終30人くらいに。
「ひとりもみすてない○○女性の会」とおっしゃっていたのかな。だから、集まってこられたのはほとんど女性。男性は私を入れても4名だけ。
最後尾のメガホン役の女性の声は、すごくよく通っていた。
私らはその声についていくだけ。
「ひとりもみすてない」という言葉は力強く、心にしみる。
なかなか言えないことだが、よく考えれば政治に携わる者なら基本中の基本。それが当たり前の世界になってほしい。
そのパレードは3時過ぎにスタートし、3時半過ぎには終了した。
「ああ、食い足らん!」
くたくたになるまで市内を練り歩きたかったなあ。
今日は初めて「ランナーズ9の会」と「平和・憲法九条」ののぼり2本立て。
せっかくなんで写真を撮ってもらったが、風がきつくてのぼりがうまく写らなかった。
パレードの間中ずっと掲げていたが、少しはアピールになったかな。
お別れの時に、残っておられた方にごあいさつをした。
そのとき、「どちらから? ○○○ですか? ○○?」と聞かれた。
「いやー、私、今無職ですねん。Oさんのお父さんの友だちの友だちで・・・。にぎやかしに寄せてもろたらええかな、と思って来させてもらいました。」
車をイズミヤ駐車場に入れていたので、中でいちご大福を買った。真樹が食べたがってたんもんで・・・。(と言いつつ、私が6個中3個食べてしまいました。)
「ひとりもみすてない」と堂々といえる人が、みんなをまとめる立場になっていただければ本当にうれしいです。
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2011年01月14日(金)
「ロンちゃん」〜シリーズご近所犬14〜 [わんこ・にゃんこ]
今朝の記事「緊急! ロンちゃんを探しています」をあらためて書き直し。
(ロンちゃんは、午後1時過ぎ無事に見つかりました。)
今日10時過ぎ、郵便受けを見てみると一枚のビラ。
「ロンちゃん・・・、ロンちゃんてすぐそこの・・・。えー、おらんようになったん?」
ロンちゃんは、本来ならずっと前にこのブログに登場してもらうべきワンちゃんだった。なんたって近所も近所、うちから20mほど離れたおうち。
でも、うちのきくと同じでほとんど家の中。写真を撮るチャンスがなかった。
昨日の朝9時頃失踪って・・・。そういえば昨日の朝何回も発砲音見みたいなんが響いていたな。雷とかへっちゃらなうちのきくも腰抜けてたもんな。しし追いか猿追いか知らんけど、あれは何とかしてもらわなどもならんな。
そんなこと言っててもしようがない。なにか自分もできることをせんと・・・。
飼い主さんのおうちを訪ねると、玄関は開けっ放し。ロンちゃんがいつ帰ってきても大丈夫なように。
チャイムを鳴らそうと玄関をのぞき込むと、飼い主さんが玄関の板間にへたりこんでおられた。
「すいませーん、そこの藤井です。ロンちゃん、まだ見つかってませんよね。
ボク、ブログ書いてるんですけど、このチラシをそのままブログに載せさせてもらっていいですか。ロンちゃん見つかったらすぐ消しますし。」
「お願いします。」
そのあと、きくを連れて「ロンちゃん捜索隊」。
前に家出したきくを探した経験から、私の予想は近所のおうちの庭があやしいと思った。特に、空き家や一人暮らしのひっそりしたおうち。
東映団地、二軒茶屋団地、洛北台とまわったが見つけられず。きくは一見シェパードだが、鼻がまったくきかない。初めて通るところも多かったので、しっぽたれたれ。
仕方なくいったん家に戻る。これは大量のポスターを貼る作戦に出たほうがいいかも。うちにはいいカラーコピー機があるし、こんな時に役立てねば。
そう思っていると、私のケイタイに着信。
「藤井さんのケイタイですね。ロン、見つかりました。」
「いやー、よかったですね。私もだいぶ探してみたんですけど・・・。」
「ありがとうございます。グリーンハイツのほうで見つかったんです。」
グリーンハイツといえば、「京都キャロット・産大前店」のすぐ横。そやそや、きくも一回だけ向こうへ逃げて、お店のバイトさんに確保してもらったことがある。うーん、でもここは思いつかんかったなあ。
きくのときもそうやったけど、あこに行くにはバス通りを横断せんならん。よう車にひかれへんかったなあ。
それに、一晩どこで過ごしてたんやろう。不安やったやろなあ。
とにかく早く見つかってよかった。
ロンちゃん、どんなことがあってももう逃げ出したらあかんよ。
これから先も、きくといっしょにこの町を守ろうぜ!
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2011年01月13日(木)
「春との旅」 [映画]
◎日経トレンディネットより
名優・仲代達矢が「自分の長い役者人生のなかでも、この脚本の出来映えは150本中、5本の指に入る」と絶賛するほどに脚本に惚れ込み、9年ぶりに主演した映画が『春との旅』だ。74歳の老人と19歳の孫娘が、親類を訪ねて旅をする物語のなかに、仲代は何を見たのだろうか?
物語は北海道・増毛の寂れた海辺から始まる。忠男(仲代達矢)はここでニシン漁を生業にしてきたが、そのニシン漁も今は廃れ、かつての面影もない。忠男自身、足が不自由となり、5年前に娘を亡くしてからは、孫娘の春(徳永えり)に頼って暮らす日々。だが、地元小学校の廃校に伴い、春が給食係の仕事を失ったことからドラマが幕を開ける。
春は「東京に出て仕事を探す」と言い出し、その一言に、春がいないと暮らせない忠男は激怒。引き留める春を振り切り、家を出てしまうのだ。行く先は、今は疎遠となっている姉兄弟の家。頼れる家があれば、そのまま居候させてもらう魂胆だ。だが春は、足の不自由な忠男を1人で行かせるわけにもいかず、慌てて祖父を追いかけることに。かくして、忠男と春との2人旅が始まっていく。
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仲代達矢が好き。仲代達矢が主演、それだけで見に行きたいと思った映画。(私は目に狂気を漂わせている俳優さんが好き。)
ただ封切りの時には見逃していた。京都には「2番館」はもうほとんどない。唯一残っている2番館と言っていい祇園会館。そこでグッドタイミングで上映されていた。
昨日は午前中運転免許更新、昼過ぎおっはー候補激励、そのあと時間があったので見に行くことにした。
本来2本立てで1600円なのだが、京都新聞トマトクラブカード提示で800円になる。これはお得。この料金だと、1本だけ見て帰ってももったいないという感じがしない。
3時35分からの上映。少し早く着いたので館内に入ると、もう1本の「フラワーズ」の上映中で、そろそろ終わりというところだった。祇園会館の割にはたくさんのお客さんだった。しかし、それが終わるとどどどっと出て行ってしまわれた。私の感覚では3分の1くらいに減ってしまった感じ。
「なんで、『春との旅』のほうがおもしろそうやのに・・・。」
仲代達矢は、アップに耐えられる俳優。あらためてそう思った。映画の内容がどうであれ、顔の表情変化を見ているだけでも値打ちがある。さすが。
仲代達矢さんに関しては、私がどうのこうのと言えるレベルの俳優さんではない。日本の最高峰と言っても過言ではないでしよう。
まったく期待もしていなくて、見たら意外によかったのが孫娘役・徳永えり。初めて見た女優さんだが、こちらも十分アップに耐えられる。
一番印象的だったのは、がに股ペンギン歩き。私的には、そのシーンがこの映画のキーになっているような・・・。(そんな評価をする人はいないでしょうね。)
大阪吹田の出身だそうだ。もう、それだけで応援したくなる。彼女の出る次回作も見てみたい。
映画の中味はくらーい話が延々と続き・・・、私はこんなん好きです。ただ最後がねえ・・・。ありえへんねえ。「リヤ王かい!」とつっこみたくなった。
そういやあ、「リヤ王」の時代劇リメイク版ともいえる「乱」の主役は仲代達矢やったなあ・・・。
あっ、そうか。これを一般人におきかえたらあかんにゃ。じいさんが仲代達矢やったらと思って見んとあかんにゃ。ふむふむ。それやったら納得です。
私の言ってること、意味不明でしょうね。まあ、見て損をしたとは思えない映画ではあると思います。自分自身の行く末も含め、いろいろなことを考える時間がたっぷりととってある映画でした。ぜひ。
※ 「仲代達矢」で検索してびっくり。1932年12月13日生まれ。私の誕生日と1日ちがい。
ねっ、私の「12月生まれはかしこそう」って、あってると思いません?
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2011年01月12日(水)
おっはー [雑用]
行ってきましたでー。
ただ、このことをどう書くかがちょっと問題。
いろいろな制約があるらしいが、私が覚えている限りの会話をそのままここに書くというのはどうでしょう。(もしご迷惑をおかけする箇所がありましたらご指摘お願いします。即座に訂正または削除します。)
「すいませーん、突然おじゃまします。」
「どうぞとうぞ、お入りください。」
「あのー、いきなりですけど激励に来ました。」
「ありがとうございます。まずは・・・」と言われ、両手を出されかたい握手。
「えー、どういうつながりで来させてもらったかと言いますと・・・。お父さん、じょんのび村の。」
「あっ、父ですか。」
「私、お父さんの友だちの友だちです。その友だちは京都ランナーズというランニングクラブの・・・。」
「あっ、京都ランナーズ・・・・。」
(知ってくれてはるんや。)
「私、『平和・憲法九条』と書いてあるのぼり持って走ってるんですよ。門さんが知事選に出られたときも応援に行って、いっしょに走らせてもらいました。生まれて初めて選挙カーに上らせてもらって、応援演説もさせてもらいました。
実はね、今日免許の更新に来たついでにちょっとのぞかせてもらおうかなと思って寄ってみたんです。」
「そうだったんですか。ありがとうございます。」
「私の義理の兄が、何回か前の市長選に立候補した中村です。」(あとで思い出したのだが、16年前と12年前。)
「えっ、中村さん。ついさっきも来ておられたんですよ。」
「そうですか。ボク来たゆうといてください。」
「はい。・・・と言うことは、お姉さんはタヅコさん。長岡市役所にはきちんとした労働組合がなかったんですよ。それをね、お姉さんたちが中心になって作っていかれたんですよ。」
「そうなんですか。私も20年前までは組合の活動してたんですけど、仕事も辞めて、今はヨメさんに食わしてもらってる身ですから・・・。今はそのへんのことさっぱり分かりませんねん。
あっ、そうそう、その姉が暮れのもちつきでおうた時ゆうてましたわ。O君はほんまによう勉強してる。候補者同士の討論会のときも、具体的な数字をどんどん出して反論してた。抽象的な政策じゃなく具体的な話をしてもらえると説得力あるなー、って。」
「そう言っていただけるとうれしいです。」
「あのー、せっかく寄せてもらってこんなこと言うのもなんなんですけど、ここに来たことをブログに書いたりできないんですよね。まだ全面解禁じゃないですもんね。」
「いや、候補者本人やその選挙関係者についてはちょっと厳しいですけど、一般の人が選挙事務所に行ってきましたというのをブログに書く程度ならまったく問題ありませんよ。」
「そうなんですか。・・・そうですよね。」
「投票依頼さえ書かなければ大丈夫です。」
(選挙のプロが言っておられるのだからまちがいないでしょう。)
「投票日っていつでしたっけ?」
「今度の日曜です。」
「あー、それやったらもう日がありませんねえ。にぎやかしになんかさせてもらおうかなあと思ってたんですけど・・・。」
「それなら、土曜の3時から、イズミヤ前からパレードをするんです。よろしかったらそれに来ていただけませんか。」
「分かりました。できるだけ来れるようにします。」
「ありがとうございます。」
最後に、同席されていた選挙本部長さん(?)にお願いしてOさんとの2ショット。どうもありがとうございました。
(なお、上の会話はOさんだけでなく写真を撮ってくださった方の話も混ぜてあります。)
今日の記事の題「おっはー」は、Oさんの愛称。
京都府南部N市の、33歳の市長候補。
ご本人のホームページ、「おっはー!」にリンクさせてもらおうと思いましたがうまくいきませんでした。まあ、それはそれで変なところからいちゃもんをつけられんでよかったかも・・・。
興味のある方は、「おっはー!」で検索を。
(注) 昨日(1/12)、○○天神の写真をまちがって載せていました。昨日の写真は、祇園会館の近くの八坂神社でした。かっこわるー。
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2011年01月11日(火)
おかちゃんの思い出 [家族]
後列右から3人目が母、その隣りが父。
前列右端が姉(長女)みき江、その隣りが私、一人飛ばして兄優三、姉(次女)多鶴子。
私が2歳だとすると、父36歳、母32歳、みき江姉10歳、兄9歳、多鶴子姉6歳。
うちの家だけなのかうちのいなか全体がそうなのかわからないが、母親のことを「おかちゃん」と呼ぶ。(ここは「か」にアクセントをつける。サッカー監督の<お>かちゃんではない。)
うちのおかちゃんが死んで、今日でちょうど20年。命日は1月11日という1が3つ並ぶ日で覚えやすい。
私の母・俊子は、1925年(大正14年)北区小野郷生まれ。18歳で小学校教師になり、左京区久多小学校に赴任。そのあと、左京区別所小学校に転任。
そこで中国から帰国した藤井善一(私の父)と知り合い結婚、退職(22歳)。その後は、畑仕事山仕事をしながら4人の子を育て上げる。
母が亡くなったのは、1991年1月11日の早朝。そのとき65歳。胃がんだった。
おかちゃんの一番の思い出と言えば、「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」やね。この「バシン!」はほっぺたをしばかれる音。あのこわさは、今も忘れられん。ほっぺた、痛かったなあ。
でも、おとちゃん(父)のことを聞かれても、やっぱり怒られてこわかったことになるのでいっしょか。要するに、私は末っ子やから甘やかされてゆうこと聞かん子やっただけのことか。
「マザコン」という言葉がある。私はまぎれもなくマザコンですなあ。ただし、「コンプレックス」本来の意味「複雑なもの」という意味で。「マザコン」というのは母に対する劣等感ではなく、母に対する複雑な感情というのが本来の意味のはず。
単純より複雑のほうが、なんか賢そうでいいですやん。ああ、「マザー」なんてとんでもないから「おかコン(おかちゃんコンプレックス)」と言ったほうがいいかも。
母が亡くなったのが、1991年1月。小学校教師の退職願いを出したのがその少しあと。辞めようと思った理由はしっかりとあったのだが、辞めたら一番怒るであろう母が亡くなったのも大きかった。
当時私は35歳だったのだが、そんな歳にもなって母の落胆を恐れていたのだから、やっぱりマザコン。
ただ、私が教員採用試験に合格した時一番喜んでくれたのも母だった。母は、少しの間でも小学校教師をしていた自分のあと継ぎのように思ってくれていたんでしょう。
もし、母が天国から今の私を見ることができたらきっとこうです。
「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」
ウェーン・・・。
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