2010年09月03日(金)
この夏の思い出と後悔 [雑感]
この夏の一番の思い出は、もちろん、娘との沖縄旅行である。2年前に同じように娘と沖縄旅行に行った時、「もうこれが最後やろなあ」と思っていた。ところが、策士・パオパオはあの手この手を使い、いろいろな理由をこじつけ、真樹とは5度目となる沖縄旅行に行かせてもらうことに成功した。(この時の様子は、このブログには書きかけで現在中断中。)
この夏二番目の思い出といえば・・・。
「反核平和の火リレー・徳島」への参加である。
8月4日に参加させていただき、全行程約22kmを走らせてもらった。その様子は、このブログの8月4日のところに写真のみアップさせてもらった。リレーが終わった後のことは、続編として8月5日、6日にくわしく書いた。しかし、肝心の当日のリレーの部分は写真のみを掲載したまま放置した状態になっている。それは、どうしても書きづらいところがあったからだ。
そもそも、この「反核平和の火リレー・徳島」の存在を知ったのは、「サロマ湖100kmウルトラ」で国労闘争団四国常駐の中野勇人さんがポロッと言われたのが始まりである。その当日8月4日が、京都キャロットの定休日である水曜日だったので参加したくなった。徳島の行事に京都から参加させていただいてもご迷惑でないか、中野さんに聞いてもらった。「問題なし」とのご返答をいただいたので、大喜びで参加させてもらうことになった。
アピール行動は、少人数より大人数のほうが効果はある。大したお役には立てないだろうが、アピール行動の「にぎやかし」くらいの役には立つだろう。そんな純粋な気持ちで参加させてもらうはずだった。
ところがそのころ、私が信頼する「ランナーズ9の会」の○山さんたちが、あるアピールランにおいて「9の会」ののぼりを持っての参加を拒否される事件が起こっていた。いろいろと行きちがい思いちがいがあったようで、ここにはくわしくは書かないが、のぼり拒否の一番の理由は「通行人に対する危険」ということであったらしい。
確かに平和の大切さをアピールする行動中に、けが人など出してしまったら本末転倒である。主催者の心配もわからないわけではない。
でも、待てよ。「ランナーズ9の会」の仲間でのぼりを持って走っている人とはよく話したりするのだが、人様に迷惑をかけてしまったという話は聞いたことがない。走られる方は細心の注意を払っておられるだろうし、のぼりは布、ポールはプラスチック。暴風でも吹かない限り、人にけがを負わせるようなことは考えにくい。
そうか、これは「とりこし苦労」というやつかもしれんね。「心配しー」のおじいちゃんが、孫がかわいいあまり何でも手を出してしまうような気持ちなんかなあ。
これは、のぼりを持って走っても「だいじょうぶ」ということを実践で見てもらうしかないね。
ここらあたりから、私の純粋な気持ちが不純な方向へと変わっていった。
「何が何でも、のぼりを背負って全コース制覇!」
徳島県三好市に着くと、何人かの方から「ブログ見させてもらってます」と声をかけられた。なんてありがたいこと。ブログを通じてではあるが、私があやしいものではないということは分かってもらっている。(いや、その反対かも・・・。)
「しんどくなったら後ろに車がついていますから、いつでも乗ってくださいね。」私の歳の半分くらいのきれいな女性が親切にそうおっしゃってくださった。
「絶対に乗りません!」
(何きばっとんねん、このおっさん)と思わはったやろね。すいません。スタート時点で、もう相当入れ込んでおりました。
本当に私の半分くらいの歳の男女が、次々と「反核平和の火」をリレーしていっている。ここでは、きっちりと若い人たちに「平和の尊さ」が受け継がれていっている。
それに引きかえこの私。背中にくくりつけた「ランナーズ9の会」ののぼりを、後生大事にしながら走り続けている。偶像崇拝でもあるまいに。「私憤を晴らすため?」 バカな!
時折強風が吹き、風が前後から吹くときはまったく影響なかったが、横から受けた時は若干危なかった。「ここでふんばらにゃー。」 って、何のために?
こんなふうに、自問自答しながらのアピールランニングになってしまった。
この「反核平和の火リレー」の本来の参加者さんたちは、突然京都からやってきたこの私をあたたかかく迎えてくださり、リレー中も心配して何度も声をかけてくださった。この時は、本当に申し訳ない気持ちになった。
途中見た温度計は34℃。それでも暑さはあまり感じなかった。暑さにめっきり弱いと思い込んでいた私だが、知らず知らずのうちに暑さに耐えられるようになってきたようだ。
それよりもお腹。
高速道路が思いのほか混んでいて、中野さんとの約束の時間に遅れてしまった。そのため、ゆっくり食べようと思っていた昼ごはんは、運転しながらのおにぎりに代わってしまった。
暑さよりも空腹。
16kmすぎくらいの休けいの時、思わずこう言った。
「中野さん、何か食べるもんありません?」
「うーん、ちょっと待ってくださいよ。」
中野さんは、クーラーボックスに用意しておられた自分用のゼリーを手渡してくださった。
「ありがとうございます。」
一気に、ぐびぐびぐび・・・。
この後、私は急に元気になり、自分用のゼリーを取られてしまった中野さんは急に元気がなくなった。すんませーん。
そして、無事ゴールのJR阿波池田駅前へ。
ゴールした私の感想は、「みなさんにご迷惑をおかけし、自己満足のためだけに走り切ったアピール行動になってしまいました」という感じ。そういう意味で、本来の参加者のみなさんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
1ヶ月もこの記事について書けなかったのは、こういう理由です。
でも、性懲りもなく言わせていただくと、「よっぽどの強風が吹かない限り、のぼりを持ってのランニングは危険ではありません。」
だから、もう細かいことで意地を張り合うのはやめて、みんなで安全に気をつけて楽しいアピールランをやって行きましょうよ。
以上。
【追加】 「ハゲ仕掛けと人間の心がない・・・」
私とヨメさんの会話。(また怒られるかも・・・。)
「こないだの徳島の『反核平和の火リレー』でな、ボクのハゲネタで盛り上がってしもたわ。」
「なんで?」
「サロマの前夜交流会で撮ってもらった写真でな、ボクが下向いてるやつがあったんやけど、それが脳天ハゲハゲで・・・。
それでな、徳島走ったとき暑かったやん。そやし、しょっちゅう頭に水かぶってたんや。そしたら、中野さんが『藤井さん、そろそろ帽子をかぶったほうが・・・』とか、『だいぶ落ち武者度アップしてます』とか。中野さんが、あんなにハゲネタで楽しんでくれはるとは思わんかったわ。ほんま、喜んでもらえてよかったわ。ハゲてもみるもんやなあ。」
「わけ分からんわ!」
「それより、アンタ、中野さんの用意してたゼリー、取り上げてしもたんやて。」
「そうなんや。あれは気の毒やったわ。『何か食べるもんありません?』て聞いた時、ちょっと間があいたんや。あれは、中野さんの葛藤を表してたな。この大事な切り札を、他人に渡すべきか渡さざるべきか・・・。」
「なんで途中でなんか買わん?」
「そやねん。そのちょっと前にコンビニがあってな、立ち寄るみたいにゆうてた人もあってん。ところが素通りや。もうこれでガックリきてしもてなあ。」
「アンタのこっちゃし、中野さんに分けんと一人で全部食べたんやろ。」
「そのとーり。最後の一滴までしぼりきっていただきましたー。そのあと、中野さん、みるみる元気がなくなってなあ。顔がまっかっかになって、めちゃくちゃしんどそうやったわ。」
「なんちゅうやつや。人間の心を持ってへんやつって、アンタみたいな人のことをゆうんやわ。」
「まあ、サルに近いかも・・・。」
「それは、サルに失礼やで。」
この「ゼリー横取り事件」も、「反核平和の火リレー・徳島」でのもうひとつの大きな後悔でした。
(せめて、中野さんと半分こしといたらよかった・・・。)
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2010年09月02日(木)
「攻められたら死ぬ」 [平和]
◎毎日新聞8月30日夕刊より
今、平和を語る:作家・日本ペンクラブ会長、阿刀田高さん
◇「攻められたら死ぬ」が9条精神−−阿刀田高さん(75)
社団法人・日本ペンクラブは今秋、創立75年を迎える。平和を希求し、表現の自由に対するあらゆる弾圧に反対してきた。阿刀田高会長(75)は「ゆるやかな反体制派」を自任し、平和と表現の自由を守るには覚悟がいると語る。26年ぶり3度目の国際ペン東京大会を前に、阿刀田会長に聞いた。<聞き手・広岩近広>
◇平和と表現の自由、覚悟して守れ
−−まず、「ゆるやかな反体制」とは。
阿刀田 現在、日本ペンクラブには約2000人の会員がいますが、皆が同じ方向を向いているわけではありません。いろいろな考え方を持っていて当然ですし、国際的な活動も反体制ばかりではやっていけない。しかし、いまの世の中を考えると、そうそう体制にべったりというわけにもまいりません。日本ペンクラブは良心と良識にかけて「ゆるやかな反体制」を維持しますが、時と場合によっては「厳しい反体制」の旗を掲げます。
−−厳しい事例は。
阿刀田 一例をあげると、03年に当時の小泉純一郎首相が自衛隊をイラクに派遣したときです。自衛隊についての考え方は、会員のなかで種々の意見があると思います。ですが、自衛隊をイラク駐留の多国籍軍に参加させるとなると多くの会員が許し難く思い、ひとつのコンセンサスが得られると考えました。そこで日本ペンクラブとして、憲法の不戦原則に背くので断固として反対する、との声明を出したのです。
国家にとって重要な問題が持ち上がったとき、文学者は意見の対立を乗り越えて、つまり小異を捨て大同につくと申しますか、そういう行動をとるのがこの団体だと思っています。
−−このとき日本ペンクラブが45人の会員に呼びかけて緊急出版した「それでも私は戦争に反対します」(平凡社)に、阿刀田さんは短編「神々は笑う」を寄せられました。自衛隊が軍隊になり、ついには徴兵制度が始まったという近未来はリアルでした。
阿刀田 軍隊は戦争する組織ですから、戦場で死ぬこともあります。そうなったら日本では志願兵なんて出てきませんよ。おのずと徴兵制が敷かれます。徴兵制になったら、貧しい人や恵まれない人たちが兵隊にとられる。いつの時代でも変わりません。
私は10歳のときに長岡大空襲に遭い、強いと教えられた日本の軍隊が国を守ってくれないことを思い知らされました。広島、長崎の惨禍も防ぐことができなかった。だから軍隊を持てば国を守れると言われても、どこまで信頼したらいいのかと思ってしまう。
−−一方で、軍備を持つ国から攻め込まれたらどうするのか、と必ず問われます。
阿刀田 私の答えは決まっています。そのときは死ぬんです、とはっきり申し上げております。
実は私たちの世代は戦時下の子ども時代、国家のために死ぬんだと教えられました。だから、やれ本土決戦だと竹やりを持つようになると、敵国が攻めてきたら死ぬ覚悟でした。しかし戦争が終わって日本国憲法が施行されたとき、戦争の放棄をうたい軍隊を持たないというのだから、なんと素晴らしい決心だろうと感動した覚えがあります。
私は、人を殺すくらいならば、自分が死ぬ道を選びたい。特別な倫理ではなく、同じ倫理観の持ち主はきっといるはずです。だから私は命がけで平和を守り、それでも攻撃を受けたら、丸腰で死ぬんだと覚悟を決めています。攻められたら死ぬんです、という覚悟が憲法9条の精神だと思います。私たちはこうした憲法を保持し、培ってきた。だから、この65年間戦争しないでやってきたのです。
といっても誰しも死にたくはありません。将来のある若者を死なせたくはない。だから、そういうことにならないように、外交努力はもちろん、ありとあらゆる努力をする、やり尽くすのです。平和を守るには並々ならぬ覚悟がいります。命がけでなくてはならない。それを実行するのが政治です。
−−昨今の政治は力がなくなったようです。
阿刀田 政治家の言葉が貧しくなっていますね。言葉の後ろに覚悟や信念がない。言葉は覚悟を伴わなければ、いい言葉になりません。消費税の問題にしても、いまちゃんとやらねば国家存亡の問題になると、本当に信じて、本当に考えて発言したなら、国民は聞き耳を立てるはずです。腰が引けた調子でやっているもんだから、ダメなんですよ。言葉は熟慮したうえで、覚悟をもって発してほしい。要は覚悟の問題なのです。
−−ところで阿刀田さんはわが国の表現の自由度は5段階で3と指摘しています。
阿刀田 最近の例でいえば、ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の上映自粛です。内容に賛否両論のある映画とはいえ、一部の団体の抗議を受けて上映中止に至ったのは残念です。過去にも同様の抗議行動により、映画の上映や講演会が開けなかったケースがあります。自分の考えと異なる意見にも耳を傾け、発言する機会を保障できる社会でなくてはいけません。
表現の自由に対する覚悟が薄い、民度がゆるいからだと思います。表現の自由がいかに大切であるかわかっていないのではないでしょうか。弊害的なことには、すぐ目がいくのですがね。表現の自由を、民衆がいかに大切にしているか、その意識の甘さにおいて日本は世界からあまり評価されていません。
−−「環境と文学」を主題にした国際ペン東京大会が9月23日から早稲田大・大隈講堂などで開かれます。日本ペンクラブは「日本の環境文学100選」に原爆文学の井伏鱒二「黒い雨」を選びました。
阿刀田 私たちは、表現の自由、平和の維持、環境の改善、文芸の発展の4本柱を目標に掲げて活動しています。東京大会では自然環境をとりあげますが、原爆は顕著な自然破壊です。「黒い雨」は市民の生活を描きながら原爆の被害を訴えています。井上ひさしさんの戯曲「父と暮らせば」もそうですが、原爆を日常の感情で描いた文学作品は味わいが深いですね。
−−最後に、この国を担う世代にメッセージを。
阿刀田 もともと貧乏な国でしたから、日本人は資源を使わずに、どうしたら心が豊かになるかを考えるくせをもっています。俳句や茶道にみられるように日本文化はシンプルなのです。今一度、おカネをむやみやたらと使わずに、抑制のきいた生活に戻るべきでしょう。人間は理性を持たないとダメです。(専門編集委員)
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■人物略歴
◇あとうだ・たかし
1935年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館勤務を経て作家に。79年に「来訪者」で日本推理作家協会賞、「ナポレオン狂」で直木賞を、95年に「新トロイア物語」で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。03年に紫綬褒章を受章、09年に旭日中綬章を受勲。07年から日本ペンクラブ会長を務める。近著の「闇彦」(新潮社)は国際ペン東京大会の記念として特別書き下ろし。
どえらい記事を見つけてしまった。
なんて、分かりやすい!
聞き手ーー軍備を持つ国から攻め込まれたらどうするのか、と必ず問われます。
阿刀田ーー私の答えは決まっています。そのときは死ぬんです、とはっきり申し上げております。
私は、人を殺すくらいならば、自分が死ぬ道を選びたい。特別な倫理ではなく、同じ倫理観の持ち主はきっといるはずです。だから私は命がけで平和を守り、それでも攻撃を受けたら、丸腰で死ぬんだと覚悟を決めています。攻められたら死ぬんです、という覚悟が憲法9条の精神だと思います。私たちはこうした憲法を保持し、培ってきた。だから、この65年間戦争しないでやってきたのです。
そうか、日本はどんなことがあろうと絶対に戦争しない国なんです。戦争をしないためにありとあやゆる手を尽くす国なんです。そして、万策尽き、攻められた時はみんな死ぬ国なんです。
いざとなったらこわくてこわくて、そんな覚悟は決められないだろうが、そういう国であるということは世界中に広めて行きたい。
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2010年09月01日(水)
「きな子〜見習い警察犬の物語〜」 [映画]
今日は、月に一度の映画サービスディ。ほとんどの映画館が1000円均一になる。この制度ができてだいぶなると思うが、私が利用したのは今日が初めて。今までタイミングがうまく合わなかった。
新聞広告が出ているときからずっと見に行きたく思っていた映画「きな子」。今月はサービスディとうまくタイミングが合った。御池地下駐車場に車を止め、「MOVIX京都」へ。
「きな子」の話は有名なので、ストーリーの説明などはいりませんね。警察犬試験に何回受けても合格できないラプラドールのお話です。
映画が始まり、犬が元気に走っているシーンで、いきなり涙がポロポロポロ・・・。「ここは泣く場面じゃないんですけど・・・」と、誰かにつっこみを入れられそうだった。
映画の内容って、ほとんどどうでもいいんです。ワンちゃんたちが一生懸命演技をしているところを見ているだけで泣けて泣けて。
一番印象的だった場面は、においかぎ分け試験の時、きな子が迷って訓練士・杏子のほうを振り返るところ。あれをされると、飼い主はなんとも言えん気持ちになるんですよねえ。かわいくてかわいくて・・・。
それに比べると、出演者の香川弁がいまいちだったように思う。徹底して方言を覚え込むか、さもなくばいっそ普通にしゃべらしたほうがよかったかも。中途半端なイントネーションは、聞いていてイライラしてしまう。
それにしても、やっぱりうちのきくはシェパードにそっくり。本家シェパードがなんとなく情けない表情をするところなんか、もうきくと見まちがえそう。
この映画、 犬好き見るべし!
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2010年08月31日(火)
興南高校島袋投手と慶田城外野手 [沖縄]
◎しんぶん赤旗・日曜版 8月29日号より
■第92回全国高校野球選手権大会
興南 甲子園春夏連覇 豪腕投手と積極打線
この瞬間を、島んちゅ(沖縄の人)たちは待っていました。21日に閉幕した第92回全国高校野球選手権大会で、興南高校が沖縄県勢として夏の甲子園初優勝。史上6校目の春夏連覇を達成し、深紅の優勝旗を地元に持ち帰りました。復帰前に沖縄の球児がパスポートを携えて甲子園に乗り込んで以来、52年目の快挙でした。
「平和への思い持ち続け 普天間基地と島袋投手・慶田城外野手」
興南のエース島袋投手と慶田城(けだしろ)外野手。幼なじみの2人は、少年時代に平和への思いを強く抱く体験をしています。
2人は、今焦点の米軍普天間基地を抱える宜野湾市の少年野球チームで、バッテリーを組んでいた仲です。
志真志(しまし)小学校6年生だった2004年8月13日、同市の沖縄国際大学に米軍ヘリコプターが墜落しました。ヘリの破片は、2人が住んでいたマンションの前まで飛んできました。
当時、同小児童会長だった島袋君は、慶田城君とともに抗議の市民集会に参加。約3万人を前に、壇上から訴えました。
「もう二度と事故を起こしてほしくない。戦争と平和について考えれば考えるほど、人と人が信頼し助け合うことが大切だと思いました」
続けて島袋君は、慶田城君ら同学年のみんなとつくりあげた「平和宣言」を朗読しました。
「フェンスの向こうには どんな未来があるのか 私たちの未来
(中略)
世界中の人が互いに理解し合い 争いのない平和な世界を」
当時の志真志小学校長、久銘次(くめじ)利男さんは述懐します。
「『平和宣言』は先生が助言しただけで、子どもたちがつくったものでした。なんてしっかりした考えを持っているんだろうと感心しました。彼らは甲子園で県民や子どもたちに勇気を与えてくれました。元校長として誇らしいです」
決勝の余韻さめやらぬなか、慶田城選手はこんな夢を口にしました。
「基地問題がまだ続いているので、基地問題の解決に役立つ仕事がしたいです」
泥まみれのユニフォームの下は、平和への純粋な心でいっぱいでした。
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こんな身近なところに、沖縄の米軍基地問題が。他の新聞、テレビなどでは取り上げていなかったように思う。
米軍ヘリ墜落事故といえば・・・。
4年前、鳩間小中学校のK校長先生とお話する機会があった。当時私は別所小・花一中PTAの広報部長をしていたので、「PTAだより」を持って行き、K校長先生にも見ていただいた。K校長先生は、私の父の戦争体験の記事をすごくほめてくださった。
「実際に起こったことは、事実を曲げないように伝えていかなければいけません。そういう意味で、藤井さんのお父さんの話をPTAだよりに載せられたのはいいことですね。
先の『沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落』も、日本政府はまるでなかったかのような扱いにしようとしています。これは絶対に許してはならない。」
この発言を聞いて本当に勇気付けられた。こんなふうに自分の考えをしっかりと話せる校長先生が、まだおられたんだ。どこぞのへなちょこ校長にくらべて・・・。(「どこぞ」の代わりに「京都」と入れてもらってもけっこうです。)
上の興南高校の2選手の記事を見られて、沖縄の米軍基地の問題に関心を持つ人が増えてくれればうれしいです。
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2010年08月30日(月)
臓器移植とあんもちゃん [雑感]
※今日は、カテゴリー「屁理屈のサーカス」の部類に入る記事です。(そんなカテゴリーありませんが・・・。)マジメな方は気がおかしくなる可能性がありますので、読まないでください。
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今日、いつものように京都キャロット通販事務所の2階にあんものえさやりに行った。ちょっと前まで、階段の下まで降りてきて「はよくれーニャー」と鳴いていたのに。このごろ弱っているのか夏バテしているのか、私が上に上がるまで動かない。
今日はビビッた。私が完全に上ってしまっても、あんもは動かない。「まさか!」
その一瞬の後、あんもの体かピクッと動いた。そして、やにわに立ち上がった。「あー、よかった。」
あんもはもう21歳。いつお迎えが来てもおかしくない。でも、できることならもっともっと長生きしてほしい。
昨日、神鍋マラソンからの帰り道の夫婦の会話。
「ついに、本人の意思表示がなくても臓器移植できるようになったな」とヨメさん。
「そやな。これで、日本も臓器売買の道が開けてきたんかな」と私。
「それはないやろ。それにしても脳死の人って多いんやな。」
「というより、ほとんどが脳死で即死の人が少ないんとちゃう。」
「そうか。そう思うと恐ろしいなあ。まあ、アンタが死んだら臓器どころか何もかも使ってもらうし・・・。」
「うーん。前までな、タダで臓器提供なんて絶対いややと思ってたんや。そやけどな、もし臓器提供した人に自分の遺書読んでもらえるんやったら、提供してもええかなと思うようになった。『ありがたいと思うんやったら、野良犬や野良猫を助ける運動をしてはるとこに寄付してください』てな。
どこの誰かわからん人の命を助けたいとは全然思わんけど、どこの誰かわからん犬や猫の命は助けたいわ。」
「ほんまやほんまや。でも、お金をもらうことは禁止されてるはずやし、それはでけへんのんちゃう。」
「まあ厳密にはそうやろけど、その人の良心に訴えるちゅうのはええんちゃうん。」
「それができるんやったら、私も臓器提供する。」
さあ、これでうちの夫婦の臓器提供に関する意思表示はできた。
「野良犬野良猫を救う目的に合致する場合のみ、臓器提供に合意。」
実は、こわくてこわくて臓器提供に関する新聞記事が読めていない。たぶんヨメさんもそうだと思う。そんな無知識夫婦が出した結論がこれ。
あんもちゃんを見ていると、21年前にヨメさんが拾ってきたころを思い出す。猫の21歳は人間でいうと100歳くらいのはずだが、今もあのころと同じかわいらしさ。
ヨメさんは、もし地獄に落ちたとしても、「あんもの糸(?)」に救われるやろう。私は確実地獄落ちだが、今のとこ誰にも救ってもらえるあてはない。それなら犬猫のために誰かに臓器提供して、その人の寄付で救われた犬猫のうちの誰かに救ってもらおうっと・・・。甘いかな?
※あんもの写真ばっかりやったら、きくがひがむし。1枚だけ、琉球ミニシェパード・きくの写真を。
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2010年08月29日(日)
第31回兵庫神鍋高原マラソン [ランニング・出張販売]
8時30分のハーフスタートちょっと前、並ぼうとして歩いているとスタート側から着ぐるみ二人。一人はすぐ「はばたん」と分かったが、もう一人は? とりあえず写真を撮っておこうと思いカメラを向けると、一緒に歩いておられた役員さんが気づかれ二人を止めてくださった。
「(パチリ!) ありがとうございます。こちらのグレーのほうは何のキャラクターなんですか。」
「はい、玄さんです。玄武洞の玄さんです。」
ほー、知らんかったなー。はばたんには負けるけど、口の周りが黒くてけっこうかわいい。これからがんばってね。(って、なにを?)
ここで毎年お会いする久保井洋次さん(みかた残酷マラソン実行委員長)。今年は胃の調子もいいらしい。また、「四万十川ウルトラ」で対決(?)しましょう。
神鍋にしては暑い。風もまったくなく、ちょっと前途多難というスタートになった。
全体の真ん中くらいからのスタートになったが、スタートラインを越えたのは45秒後。これなら、まずまずです。
スタートしてすぐ右折、そこから約1km続く上り坂。
走り出してすぐ左足ふくらはぎが痛みだした。これは、たぶん、昨日の前日受付出店で7時間立ちっぱなしだった影響だろう。私はどうでもいいのだが、「可能性あらば入賞を」とこちらが勝手に期待していた廉の足が心配で・・・。
峠手前の1kmの看板のところで7分15秒。スタートラインからちょうど6分半。上り坂なので仕方ないが、キロ5分分40秒ペースで走らないとハーフ2時間は切れない。
下りになったら、貯金をかせごうっと。
5km地点30分32秒だったので、目標のペースにだいぶ近くはなっている。だだし、5kmすぎから第2の上り坂。
上り切ったら、今度は急な下り坂。ここの走り方も人それぞれで、観察していると興味深い。小柄な人のほうが、下りの走り方はうまそうに見える。。
7km付近の短いトンネル。ここを越えると、またちょっとした上り坂。
但馬ドームが見えると、ゴールまであと1km足らず。ただし、それは10kmの部の話。私らハーフは、同じコースをもう1周。
2周目に入る手前でタスキをもらう。中学生らしき男女がてんてこ舞いになって渡してくれていた。これ、なくてもいいような気がするんですが・・・。
ハーフ中間点(約10.55km)で、1時間01分50秒。
ということは、残り半分を58分で走らないと2時間は切れない。
「きっつー!」
2周目に入ると、少しだけ風が出てきたような気がした。自分では1周目よりペースアップしているつもりだったが、ほとんど変わらない。
15km地点、1時間27分42秒。残り6.1kmを32分か。無理!
そもそもここは、1kmごとの表示がない。10kmの表示も見つけられなかった。なかったのかも・・・。これだと本当にペースがつかみにくい。まあ、最後は下りなので気持ちよく走れるように心がけよう。
但馬ドームの入口に、先にゴールされていた久保井洋次さんが立っておられた。
「久保井さん、はようゴールしやはったんですね。」
「おー、藤井さん。早くゴールして商売せにゃー。」
「そうですねん。」
ゴール近くなってからはほとんど腕時計を見ていなかったので、ゴール予定タイムがまったく予想できなかった。ゴール前で立ち止まって写真を撮って初めて気づく。
「2時間1分台かー。2周目は、けっこうがんばったんや。」
2周目はそこそこやったので、1周目をもうちょっとしっかり走るべきでした。反省!
記録証発行所のきれいでさわやかなおねえさんを、パチリ!
こんな一瞬でも、私はできるだけ「いい場所」を選んで並びます。
正式ゴールタイムは、2時間1分57秒。
部門順位 117位/298人中。
種目順位 631位/1620人中。
「あっ、藤井さん。」
「えっ?」
「久保井の息子です。」
「おー、走ってたんや。先にゴールしたなー。タイムは?」
「2時間は切りたかったんですけど、ちょっとだけ超えてしまいました。」
「ほんまや、もうちょっとやったのに・・・。ということは、ボクのちょっと前走ってたんや。」
「少しだけある折り返しのところで、藤井さんが走ってられるのを気づいてました。」
「いやー、そうかー、久保井さんの息子に負けてもたかー。ほんなら、また。」という言葉の続きは、(今度は負けへんでー)です。
ゴールして、京都キャロットのブースに戻り、一番に聞いたのが廉の5kmの結果。残念ながら、入賞ならず。タイムも2年前の高2の時のタイムとあまり変わらなかった。
でも、これもレースに慣れる練習やと思ったら意義がある。次のレースに向かって、何か一つでも生かしていってほしい。
うれしいこともあった。
「ランナーズ9の会」のがんちゃんファミリーが家族全員レースに参加。がんちゃんと長女さんがハーフ、奥さんと次女さんが5km。後片付けをしている時、ご家族そろって顔をだしてくださった。高2の長女さんは、女子29歳以下の部で見事優勝。1時間31分台だそうです。
お父さんは2時間20分ほどかかったと言っておられたし、お母さんは何度しつこく聞いても5kmのタイムを教えてくださらなかったし・・・。そう思うと、まあ長女さんは、「努力次第で花は開く」といういいお手本を見せてくれたのかな。
がんちゃんファミリーとは、またどこかの陸上競技大会で顔を合わせそうですね。がんちゃん、おたがいに陸上部員の父親としての応援をがんばっていきましょう。
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