2017年02月22日(水)
忘れられた島 [沖縄]
◎朝日新聞2月19日朝刊・戦後の原点
忘れられた島 沖縄「基地」渦 目背ける本土
地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に影を落とす。文書と証言から基地問題の源流をたどった。
■冷戦、消えた返還論
米軍による占領から2年あまりがログイン前の続き過ぎた1947年10月14日。沖縄の帰属をめぐる分岐点となった、ある文書が米国務省で作成された。
〈沖縄に軍事施設を求める前提で講和交渉を行うべきである〉
国務長官らに宛てた報告書だった。まとめたのは、戦後に新設された政策企画部。部長は、対ソ封じ込め政策を主導したジョージ・ケナンだった。
半年ほど前、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサーが憲法制定や戦後改革が順調に進んだことを踏まえ、日本と早期講和を結ぶ用意があると表明していた。
沖縄については、戦略的重要性から米国による保有を主張する米軍部に対し、国務省は日本に返還すべきだとの立場をとってきた。〈琉球列島の取得は、自国にも他国にも認めなかった領土不拡大の原則に反する〉(46年6月24日付米公文書)と考えていた。
だが、時代は大国間の協調から冷戦へと移ろうとしていた。米ソの緊張が急速に高まり、中国でも共産党が勢力を伸ばしていた。米国は共産主義の「封じ込め」にかじを切った。
48年3月、ケナンはマッカーサーを東京に訪ね、対日政策の方向性を確認した。マッカーサーは、西太平洋の安全保障には沖縄に空軍力を配備することが死活的に重要だとしたうえで、こう語ったという。
〈沖縄に十分な兵力を置けるなら、アジア大陸からの防衛のための兵力を日本本土には求めない〉(48年3月5日、ケナンによるマッカーサーとの会談記録)
■経済再興、依存生む
米軍政府の高官は住民たちにクギを刺した。〈軍政府は猫で沖縄はネズミである。猫の許す範囲しかネズミは遊べない〉(46年4月18日、軍民協議会議事録)
占領とは、住民に服従を迫ることだ。本土も、沖縄もその点は同じだった。ただ、激しい地上戦があった沖縄では、通貨制度すら失われていた。
45年6月、軍政府は沖縄県の慶良間諸島で経済実験をした。人口400人の島に貨幣を流通させ、結果をもとに、給与や物価を決めた。翌46年、米軍は沖縄本島で通貨を復活させたが、激しいインフレが続いた。
復興へ本腰を入れたのは、沖縄の重要性が再認識された後だ。49年10月に着任したシーツ軍政長官は「沖縄を再興する」と宣言し、経済援助を進めた。住民からは「シーツの善政」と歓迎されたが、大規模な基地建設も同時に始めた。
米国は日本本土を「反共の防壁」とするため、沖縄を利用した。沖縄でしか使えない通貨として軍政府が発行した「B円」に、日本円の3倍の価値を持たせた。基地建設でB円を稼いだ沖縄には、本土から大量の物資が輸入された。B円から両替されたドルが流れ込んだ本土は潤った。
「米軍の経済政策は民心の安定とともに、基地を安く維持することが一貫した目的だった。基地と輸入に依存した、かつての沖縄経済の原点がここにある」と川平成雄・琉球大元教授は指摘する。観光業が育ち、県の基地関連収入は復帰前の65年の推計約30%から約5%(2013年)に減ったが、「沖縄では製造業が育たなかった。影響はいまも続いている」と言う。
■切り離しに冷淡世論
本土では、47年5月3日、新憲法が施行された。各地で祝賀会が開かれ、国民が手にした「自由、平等、平和」を喜んだ。
その約1カ月後、外国人記者団と会見した外相・芦田均は、沖縄の帰属問題に言及した。
〈沖縄は日本経済にとって大して重要ではないが、日本人は感情からいって、この島の返還を希望しているのである〉(47年6月7日付朝日新聞)
だが、日本側の本音は違うとマッカーサーは考えていた。
〈沖縄人は日本人ではない。日本は米国の沖縄占領に反対しないだろう〉(47年6月27日、米国人記者団との会見)
芦田発言の3カ月後、昭和天皇は側近を通じ、米側に自らの考えを伝えた。
〈天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなる〉(47年9月19日、昭和天皇実録)
沖縄は日本が52年に独立を回復した後も、米国の支配の下に引き続き置かれることになった。
51年9月に朝日新聞が実施した世論調査では、講和条約の不満な点を沖縄や小笠原など「南方諸島の(米国による)信託統治」と答えた人はわずか6%だった。
沖縄ではほどなく、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による大規模な土地の強制接収が始まった。(岡田玄)
■強制移住で2年転々
沖縄を車で走ると、カーナビの画面が灰色に変わる。米軍基地だ。県の面積に占める割合はおよそ1割。その成り立ちは72年前の沖縄戦にさかのぼる。
1945年4月、米軍は日本本土を攻撃する基地をつくるため、沖縄本島に侵攻した。住民は戦闘などに巻き込まれ、4人に1人が命を落としたと言われる。
本島北部から西へ9キロの離島・伊江島。島に残った住民約3600人の4割が、「沖縄戦の縮図」と言われる激しい地上戦の犠牲になった。住民同士が殺し合う「集団自決」や、赤ちゃんを背負った女性による突撃もあったという。
当時9歳だった島袋満英さん(81)は、祖父と兄を失った。上陸した米軍に捕まり、生き残った家族とともにテントが並ぶ島内の収容所に入れられた。
その後、約70キロ離れた渡嘉敷(とかしき)島に連れて行かれた。身を寄せた集落は米兵に見張られ、周りは地雷で囲まれていた。配給はやがて途絶え、自給自足の生活が始まった。
1年後、一家はさらに本島北部に移住させられた。伊江島に戻る許可が下りたのは47年春。2年ぶりに目に映る故郷は「米軍の島」になっていた。ソテツ林には弾薬が山積みだった。
沖縄では米軍に捕まった住民たちが収容所に住まわされ、わずかな配給食で命をつないだ。その数、約30万人。強制移住は47年まで続いたところもあり、この間に米軍は基地をつくった。
嘉手納飛行場や普天間飛行場といった主要基地の原型ができたのも、このころだ。50年代には「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強引な土地接収で基地はさらに広げられた。伊江島では民家が焼き払われた。
島袋さんは80年代、村の助役として新たな米軍施設の建設を認めた。どこかが受け皿になる必要があるし、見返りの補助金で立ち遅れた教育環境を充実させたいとも考えた。
それでも、オスプレイが飛びかう空に割り切れない思いがある。「島から米軍が去る日はこないかもしれない」。島の面積の約35%はいまも補助飛行場などの米軍施設が占めている。
■政治活動を通報、仲間が失業
戦争を生き延びた住民のなかには敗戦後まもなく、米軍に職を求める人もいた。雇用が失われた沖縄にとって、基地が貴重な働き口になった。
那覇軍港には「港湾作業隊」がつくられ、約2千人が物資の荷揚げなどにあたった。証言記録によると、月給は数百B円と教師よりも高給だったが、見張りのフィリピン人に撃たれる被害もあった。
作業隊の沖縄側トップは国場(こくば)幸太郎。沖縄で初めて米軍工事を受注し、地場最大手の建設会社に飛躍を遂げた「国場組」創業者だ。
那覇市の小那覇全人(おなはぜんじん)さん(91)は国場のもとで約4年、作業内容の報告書を英訳する仕事をした。米軍が敵視する政治活動をした作業員の名を伝えることもあった。名指しした人は解雇され、住まいも追われた。
米軍が自由までも管理している――。進学した東京の大学で学生運動の輪に加わり、沖縄と本土の違いに気づいた。その後、沖縄に戻って、放送局でラジオの「方言ニュース」を30年間担当した。普天間飛行場の辺野古移設など、基地問題を伝える原稿も読んだ。
辺野古では今月、埋め立てに向けた本格的な工事が始まり、日米両首脳は改めて辺野古移設を「唯一の解決策」と確認した。
「なぜ沖縄に基地があるのか。本土の理解が薄れていっているように感じる」。小那覇さんは70年前、仲間の政治活動を米軍に伝えた9枚の文書をいまも捨てられないでいる。(岩崎生之助)
■占領政策の枠組み、今も政府利用 沖縄大名誉教授・新崎盛暉さん
日本にとって沖縄とは何なのか――。在日米軍専用施設の7割が集中する沖縄の現状を見ると、この問いに向き合わざるを得ない。
戦後、日本は平和憲法の理念を大切にする一方、米軍による沖縄支配や基地建設に目をつぶった。日米両政府は日米関係を安定させるため、日本人の対米感情を悪化させないよう基地を本土から移転させた。
沖縄が日本から切り離された1952年におよそ1対9だった沖縄と本土の米軍基地の面積比率は、60年代に1対1になり、本土復帰後の70年代半ばには3対1に逆転した。その結果、米軍と同居することで日米安保が成り立っているという当たり前の現実が、本土では見えにくくなった。
本土では沖縄への基地の一極集中が消極的に支持されるようになった。それどころか、「沖縄は基地で潤っている」といった、事実に反する言説まで広まっている。
普天間飛行場の移設を理由とした辺野古への新基地建設に沖縄が反対する根底には、米軍の占領政策によってつくられた日米関係の枠組みを、日本政府がいまなお積極的に利用していることがある。
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今日は寮1(二条)17時間。
家を出た6時の気温は−2度。車のフロントガラスの凍てついたのを取るのに時間がかかった。「沖縄と京都の気温差は10度くらいです」と言っていたが、15度くらいと言ってもいいですね。
今日も寮の朝日新聞をチェック。
一面特集だったので長い引用になったが、この記事は読む価値あり。
「領土不拡大の原則に反する」
「慶良間諸島で経済実験」
「沖縄人は日本人ではない」
「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望され」
「沖縄が本土から切り離された1952年におよそ1対9だった沖縄と本土の米軍基地の面積比率は、60年代に1対1になり、本土復帰後の70年代半ばには3対1に逆転した。」
すごく分かりやすく解説されているので、沖縄県以外の人にせめてこれくらいは読んでもらいたいと思う。
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2017年02月21日(火)
「また来るんでしょ」 [沖縄]
名護の定番の締めくくりは、玉城さんのお勤め先のネコちゃん。
名護市役所前9時のやんばる急行バスに乗るため、真樹の所を8時半に出発。玉城さんのお勤め先には8時45分くらいに到着。
「まだ来られてないかもな」と玄関に近寄ると、ネコちゃんが朝食タイム。「あー、来てはる来てはる。」
へんなオッサンには、やっぱり警戒してましたね。
なかなかいい写真が撮れなかった。
でも、ネコちゃんも玉城さんも元気そうだったので何より。
玉城さんとは、息子さんが北山高駅伝部OBだったことから知り合った。私が北山高校を応援しているので。
お勤め先までお聞きする気はまったくなかったのだが、たまたま撮ったネコちゃんの写真をブログに載せたところ、玉城さんが「私の勤め先です」と気付かれた。これも「猫力」のなせるワザでしょうか。
ウチナンチュは、私のことを「〇じぃさん」と呼ぶ。「ふ」はほとんど聞こえず、「じぃ」が強調される。京都は逆。「ふ」が大きく、「じぃ」は小さい。
おとといは何人もの人に言われた。
「〇じぃさん、また来るんでしょ。」
「はい、次は4月の伊江島マラソンで3・5・10の3種目連続です。」
「あれ? なごうら(100km)はこないの?」
「3月第1日曜になってからは、仕事(篠山)と重なって来られないんです。」
「なーんだ、残念!」
こんなふうに言ってもらえるだけで、泣けてくるくらいうれしい。
真樹がいい大学を見つけてくれてよかった。名護が好きになってくれてよかった。
「真樹はこれからもずっと名護に住みたいゆってますわ」と言うと、名護の皆さんはすごく喜んでくださる。
大学があり、若者がたくさんいる名護は活気があり、私も大好き。第二の故郷みたいな感じもする。許田の高速入り口から名護を振り返るとき、いつも「また帰ってきます」という気分になる。
やんばる急行バスは本数が少ないが、他のバス会社より590円も安い(空港まで1600円)。こうなると、時間が余ろうがこっちを選択しなければ。
空港近くにはゴーカート集団が。みなさん外国人のようだった。
それにしても、こんなんで公道走っていいんやったっけ。
空港に着いたのが10時50分ころ。ピーチ出発が13時30分。まあ‐、時間余り過ぎ。
空港内の書店で立ち読みしたが、狭いお店なのでそんなに長くはいづらい。1冊買って出てきた。
お昼を食べようと全部の店を回ったが、混んでいるわ高いわ。
一番端の「A&W」でハンバーガー(540円)とコーラ(220円)。
これも高かったけど、場所が場所だけにギリギリセーフってとこかな。
LCCターミナルのトイレで、大阪のtenさんにばったり。どこかでお会いできるとは思っていたが、まさかトイレとは。
私より少し年上のtenさんは、私と同じく「沖縄のマラソンフリーク」のようなので、これからもまた何度もお会いすることになるんでしょうね。
写真の飛行機は成田行きバニラエア。この黄色にもいっぺん乗りたいなあ。
ピーチにしてはめずらしく、そんなに遅れず関空に着いた。
荷物をトラックに積み込む様子を見ていると、その仕事をされているのは女性だった。
「力強い!」
8時半に名護の真樹のところを出て、空港で2時間ほど時間があったとはいえ、自宅到着は6時40分。今回は10時間10分。やっぱり帰るのに一日仕事です。
それでもまた行きたい、沖縄!
「また来るんでしょ」って、誘ってくださいね。
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【今日のきく】
家に着き、「京都キャロット」の閉店時間になったので店へ。
「きくちゃん、きくちゃん」と呼んだら、しっぽをふって近づいてきた。
ところが、私を見るなりすごすごと引っ込んでしまった。
「きくちゃん、知らんオッサンや。あーこわ」とか、ヨメさんもけしかける。
きくちゃんは、私の車に乗ったら落ち着くみたい。
夜のお散歩の時間になったら、やっと私のことを思い出してくれたかなー。
きくちゃんの眼からビーム。
「きくちゃんは宇宙人(宇宙犬)かー。」
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2017年02月20日(月)
名護のカタブイ [沖縄]
方言を教えてもらったらすぐ使いたくなる。そんな知ったかぶりは地元の人には好かれないのに。
よんなーよんなー(ゆっくりゆっくり)、すーみー(チラ見)、カタブイ(片降り→局地的な雨)もそう。私が知っている沖縄方言はこの三つくらい。「よんなーよんなー」は、私のブログの手本にさせてもらった「クーの毎日」のよんなーよんなーさんから、「すーみー」は以前よくコメントを入れてくれていた沖縄の大学生(当時)の智君から、「カタブイ」は名護のお友だち・玉城さんから教えてもらった。
今日はおきなわに来てからの3日分の洗濯。よく晴れていたので、3日間使ったおふとんも干した。
今日も真樹は早朝バイト。
お昼も、もうすぐお別れとなる同ゼミの友だちとランチ。
仕方ないので、ブラタモリならぬブラパオパオ。
家を出てすぐ、かわいいお上品なネコちゃんに遭遇。今日もいい感じ。
歩いて行けるごはん屋さんと言えば、やっぱり安定の我部祖河食堂になるわけですね。
私の定番・中味汁定食はおととい食べたので、ゴーヤーチャンプル定食を注文。しかし、「今日はできないんです」とのこと。「中味イリチーなんかどうですか」と勧められたのでそれにした。
この「中味イリチー定食(700円)」がまたおいしかったんですわ。食べ終わってお支払いに行くとき、「すごくおいしかったです」と言っておいた。
食堂の駐車場に、前のカイカイのネコちゃんがいないかと探してみた。そのネコちゃんはいなかったがちがうネコちゃんがいた。
おっ、向こうに見えるは前に撮ったネコちゃんかな。
近くまで来ても逃げへんから、ちがうネコちゃんかなあ。
私のほうを警戒しながら見てましたね。
やっぱり前のネコちゃんかな。
真樹が旅行用のカバンがないというので、サンエーとイオンまで歩いて探しに。
その行き道にかわいい花があったので撮っておいた。
サンエーでカバンを見、イオンでもカバンを見て、本屋さんで立ち読み。そこから外に出てビックリ。水たまりだらけですやん。
「来たかー、カタブイ!」
あーあ、せっかく干したおふとんが・・・。
急いで家に帰ったが、その途中でも雨がパラパラと。
ベランダに干してあったおふとんは、心配するほどではなかった。横風が吹いてなかったからセーフだったんですね。ほんま、あせったわ。
夜には真樹が帰ってきてくれたので、私の名護の定番「きっと屋キッチン」さんへ。
ベトナム帰りの店長・テンコさんは、新メニューで勝負。
ベトナム風揚げ春巻とカインチュア(きっと屋キッチンさんはいつも850円)。
私にはちょっとからかったが、おいしかった。どちらかというと、ビールのおつまみ? と言っても、きっと屋キッチンさんにはビールがないからねえ。
プラス200円で、ベトナムコーヒー・練乳ヨーグルト入り。
ここでしか飲めないと聞いて、注文させてもらいましたがな。ゆっくり味わって飲ませてもらいました。思っていたよりあっさりしていておいしかった。
京都からのおみやげを持って行ったので、お返しとしてベトナムのコーヒーをいただいた。ありがとうございます。ベトナムコーヒーは、濃いけれどカフェインは少ないんですってね。
真樹を誘ってサンエーへ。
いいバッグがありました。今回はおこづかいを上げられる余裕がないので、代わりにこのバッグを買ってあげた。
下から撮ろうとすると、「太って見えるからダメ!」
指図通り上から撮ったら、「足ないがな」。
真樹は明日も早朝バイトということで友だちの家へ。
また一人か。でも、昨日「21世紀の森ランクラブ」さんからいろいろいただいた。これで夜更かしするしかないか。
そうそう、昨日名護のクリステルさんからもらったカーサム―チも食べなくては。
初めて食べた時は「これはきつい」と思ったが、今は全然だいじょうぶ。ウチナンチュに少しは近づけたかな。
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2017年02月19日(日)
第25回おきなわマラソン [ランニング]
「生きろ、生きろ!」と背後から。
「ん? 進め進めとちゃうん?」
幻聴ではない。それは「私の中の私」の声。
いつもなら「もうええやん」となるところなのに、今日は何回もへたばりそうになった時、「生きろ、生きろ」と聞こえてきた。
ゴールは3時間42分50秒。
目標の4時間切りどころか、2年前の「篠山」の3時間48分38秒も大きく上回った。
ちょっとだけ、精神力が強くなったんかなあ。
朝5時起き。
コンビニでおにぎりとお茶を買って、、北部合同庁舎前へ。コンビニに寄っていたので20分ほどかかった。早めに出てよかった。
5時49分の77番・名護東線を待つ。
少し遅れて到着したバスに乗り込もうとすると、「どちらまで行かれます?」
「コザまで行って、そこから乗り換えるつもりなんですけど・・・。」
この乗り継ぎで行くと、大会会場である県総合運動公園には7時36分に着く。
「今日はコザは行きませんよ。マラソンの交通規制で、安慶名で折り返し運転になります。」
「えー! とりあえずその安慶名まで行って、その先は考えます。」
朝早起きして、余裕たっぷりの会場入りのはずだったのにえらいことになってしまった。
バスは辺野古回りで、宜野座、金武、うるまを通ってコザ経由で那覇に向かう路線。ところが午前中はすべて折り返し運転になっているそうだ。マラソンは9時スタートなんやから、早朝の便はそのままでよかったのに。
それでも、その運転手さんが親身になってくださって、なんとか行けないものかいろいろと考えてくださった。その結果、「栄野比」というとこで降りて、別のバス会社の90番に乗るとコザやライカムまで行けることが分かった。
バスにはもう一人、マラソンの応援に行く女子高校生が乗っていた。「栄野比」で降ろされた二人、17歳の女子高生と61のオジイは途方に暮れてしまった。二人とも「ここはどこ?」状態。
バスを待つ間、何にもないようなところで二人きり。
「マラソンに行かれるんですね」と女子高校生のほうから話しかけてきた。
「あなたもですか?」と聞き返すと、特別支援学校高等部に通っている同い年の子がマラソンに出るので応援に行くとのこと。コザまで知り合いが迎えに来てくれているので、なんとかそこまでは行かなくてはならないと言っていた。朝早起きして、名護の奥のほうから応援に出てきたんやからえらいもんやわ。
10分ほど待つと那覇行きのバスが来た。女子高生はコザで降り、私はシャトルバスが来るライカムまで行くことにした。
ライカムに着いたのは7時45分。
シャトルバスの最終は7時40分ということになっていたが、私が到着した時点でまだ100人以上がバスを待っていた。
待っても待ってもバスは来ない。しかし8時10分すぎ、バスが4台連なって到着した。これでギリギリ間に合う。
会場についたのは8時27分。整列制限まであと13分。
「21世紀の森ランクラブ」の比嘉三雄会長と奥様の増美さんにごあいさつ。私の到着が遅いので心配してくださっていた。(三雄さんは体調がすぐれず、今回はDNS。)
ここに荷物を置かせてもらい、急いで着替え、急いでトイレへ。もちろんアップする時間なし。
バスの中でランシャツにゼッケンを付けた時、ゲーターを落としてしまったようだ。超久しぶりのゲーターなしでのレース参加。こむら返り、だいじょうぶでしょうか。
私はBブロック。
周りがCブロックのゼッケンばかりなので、「なんでBに入ってくれとんねん」と思ったら、私がまちがってCブロックに入ってしまっていたのでした。
「おきなわマラソン」はゲート締め切りがスタート20分前だからまだいい。「NAHAマラソン」は40分前に閉まってしまうらしい。
スタートブロック整理要員の女子高生に写真を撮ってもらった。ゼッケンに「パオパオ」と入れてもらったんですが、分ります?
そして、9時スタート。
スタートラインまで約1分。これくらいならしんぼうしときましょ。
最初の1kmが4分44秒。いい感じ。中間点まではキロ5分弱で押して行きたい。前半に貯金を作っておいて、後半粘って4時間切りを達成するという作戦。
黙々と走る予定だったが、どうしても話しかけたくなるランナーが出現。
「ふつうのぞうりで走ってはるやん!」
今まで何回もこれでフルを走られたらしい。それも3時間20分ですって。ああ、おそろしやおそろしや。
順調に5km、24分52秒。
スタートラインまでの1分を引くと23分52秒なので、私の想定よりかなり速い。でも気持ちよく走れているので、できるだけこのスピードをキープできるように。
私の前をきれいなフォームで走っておられた女性ランナー。いいペースだったので、10km近くまでついて行かせてもらった。
あとで調べて分かったのだが、高校生の時に「京都キャロット」の通販を利用してくださっていた仲井間ちひろさん。現場でそれが分かっていれば声をかけさせてもらったのに・・・。
8kmすぎに、ぞうりランナーに抜き返される。
10km、48分22秒(23分30秒)。
この先で15km、1時間13分40秒(25分18秒)。
きつい上り坂もあったので、この5kmはだいぶ時間がかかった。
ここは毎年、大規模な応援団を出してくださっている。
20km、1時間38分01秒(24分21秒)。
中間点、1時間43分48秒。
1時間50分で行ければ上出来と思っていたので、想定より6分も速い。これは後半がかなり楽に走れる。
毎年恒例、玉城デニー衆議院議員。
今年も写真を撮らせてもらった。
デニーさんはうるま市出身だそうだ。
中間点をいいタイムで通過できた安心感と、そこからアップダウンがきつくなるのとでペースダウン。
ちょっと集中力が切れかけてきたので、応援してくれるゆるキャラの写真撮り。
おっと、もっといいのん発見。
「かわいいワンちゃん、写真撮らせてください。」
でも、私をこわがって正面を向いてくれない。
「ウシ・たぶんオス・8歳」
元気盗んだったー。
25km、2時間05分10秒(27分09秒)。
かわいい子犬ちゃん。
さわりたかったなあ。
25〜29kmはほとんど上り。
ここをいかにうまく走るかが「おきなわマラソン」の壺となる。
4年前、真樹と初参加した時にストップした「嘉手納基地第2ゲート前」(29km地点)。道路脇には、たくさんの収容バスが待機していた。
ゲートを入ってビックリ。
基地の子どもたちによるエーサー。これはよかった。
30km、2時間34分35秒(29分25秒)。
ここで初めて自分のゴールタイムを予測した。
残り12.2kmをキロ6分で行くと、1時間13分ちょっとなのでゴールは3時間48分。
「おー、2年前の篠山並みのタイム出るやん。」
でもここで気を緩めると、ガクンとペースが落ちる可能性もある。小刻みに延々と続くアップダウンを「生きろ、生きろ」の意気込みで乗り越えよう。
2年前、真樹と参加した時にストップした「嘉手納基地第5ゲート前」(31.7km)。
「いもっち」て、紅芋のゆるきゃらかなあ。
このデカい表示はうれしい。
キロ6分ペースで、あと1時間ほど。あと1時間ならがんばれる。
逆光のライカム交差点を通過。
35km、3時間02分42秒(28分07秒)。
残り7.2kmをキロ6分ペースなら43分ちょっとで、ゴールは3時間45分台。
おー、これはねらいー!
きつい下りで、ゴール会場あたりが見える。
40kmの表示があったので時計を見たが、本当の40km地点はもうちょっと先だった。
40km、3時間31分14秒(28分32秒)。
残り2.2kmを13分で3時間44分台。12分なら43分台。
ちょっと前から足のあちこちがピクピク来ているので心配だったが、平坦な道ならスピードアップできる。
残り2.2kmで、たくさんのランナーを抜くことができた。
これは勝手にシャッターがおりていた写真。
ゴール前で見えた電光掲示板が「3時間42分40秒」。
おー、これは42分台も行ける。力をふりしぼれー。
時計をとめるのも忘れ、記念写真。
大会スタッフさんにお願いした。
ゴールタイムは3時間42分50秒(2.195km、11分36秒)。
前半が1時間43分48秒、後半1時間59分02秒。後半が15分以上落ち込んでいる。でもそういう作戦やったんやからこれでよし。
それよりも、1万人を超える大会で総合順位が462位というのがうれしい。
沿道から、「おとうさん、かっこいい!」と何度も言われた。かっこいいおとうさんにあこがれているので、こう言ってもらってうれしかった。
最近思い通りに走れたレースが少なかったので、「このまま腐っていくんか」と思ったこともあった。でも今回気持ちをしっかりさせて、想定以上の走りができた。「癌患者でも腐らない」を今後のモットーにしようと思う。
「21世紀の森ランクラブ」さん前で、四角い完走メダルをかけて記念撮影。
一日中お日さんガンガンでよう焼けました。おでこだけ光ってますがな。
このあとこむら返りが起こらないように、慎重に慎重に着替え。
そして1kmほどのウォーキングを2回。これでやっとピクピクがおさまってきた。
バスの中に忘れてきたゲーターも、バス会社の方が届けてくださり無事戻ってきた。しかし、ゲーターなしでもなんとかなったということは、してもせんでもいっしょやったんかなあ。
今日は車じゃないので、ゆっくりとお疲れ様会に参加。
日陰は少し寒かったが、日なたはポカポカ。
日なたが移動するごとに、私たちも移動した。
あたたかい沖縄そば、おいしかったです。
増美さんたちが用意してくださったお料理も、ビールにピッタリ。私は、色もきれいな大根の酢漬けが一番のお気に入り。
4時半ごろお開きに。
みなさん手慣れたもので、あっという間に片付いた。
帰りは、クラブが用意してくださったマイクロバスで名護まで。
朝来るときはスタートエリア規制に間に合うかとハラハラドキドキだったが、帰りはゆったりと快適。
お世話してくださったクラブの皆さん、特に比嘉増美さんとようへいさん、ありがとうございました。来年もお世話になっていいでしょうか。
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2017年02月18日(土)
ネコちゃん受付 [ランニング]
今日は、おきなわマラソンの前日受付。当日受付がないので遠くから参加する人は大変。
昨日たまたまピーチとゆいレールでいっしょになった大阪のTさんは、「那覇のホテルに泊まってるのに、受付だけわざわざ沖縄市に行かんならんのはたまらん」とおっしゃっていた。去年は自転車を借りて前日受付に行かれたそうだ。「往復5時間かかってへとへと。大会本番はその疲れでメロメロでした」と。
ほんま、これはなんとかしてもらわんと。
私は午前中に、かわいいネコちゃんに見送られ「理容きゃん」さんへ。前回12月の「沖縄100キロ」の時に散髪してもらったので、ちょうどいいんです。(次は2か月後の「伊江島マラソン」。)
裏のおうちの庭では、小学校低学年のお兄ちゃんが4、5歳くらいの妹に野球を教えていた。今まで何回も来ているのだが、この兄妹を見るのは初めて。
すねてしまう妹をうまくなだめるお兄ちゃんの様子に見入ってしまった。末っ子の私には考えられないことだったから。
辺野古回りで沖縄市の県総合運動公園へ。
毎年こんなに時間がかかったという記憶はないのだが、名護から会場までちょうど2時間もかかった。
朝は前日に買っておいたパンを2個食べただけ。お昼は会場に行く途中、どこかで食べようと思っていた。ところが運転疲れで食べる気がなくなってしまった。昼飯抜き。
13000人という大規模大会だが、まだまだのんびりした雰囲気が残っているいい大会だ。受付も隙すき。
ここの受付の楽しみは、たくさんのネコちゃんたち。
さあ、ネコちゃんさがしジョグへ。
こんな注意書きも出てますけど・・・。
京都の2月にマムシは考えられんけど、沖縄の2月のハブはありですね。なんせ、最高気温24度ですから。
さっそく、おりましたー。
うちで飼っていたパティコに似てますにゃわ。
これはあんも・・・より男前です。
おお、沖縄のエンジェルロード!
いわゆる「ぞうきん柄」のかわい子ちゃん。
みんなよく肥えている。
ちょっとびっくり顔。
振り向けば、胸にかわいい点。
ネコ探しジョグは6km。レース前日練習としては、ちょっとゆるすぎたかな。
でもネコちゃんから元気を盗んできたから、これで明日バッチリがんばれる。
明日はバスで行くので、「21世紀の森ランクラブ」のお疲れ様会にも参加させてもらおう。目標達成できたら、ビールもらおっと。
本気のフルマラソンは、2015年3月の「篠山ABCマラソン」以来。その時は、3時間48分38秒。
そこまでは無理だとは思うが、ギリギリでも4時間を切りたい。癌発覚以来ガードマンのバイトを休んでいるので、練習量は逆に増えている。今自分が持っている力を、最大限に出し切れるようにがんばろう。
61歳でフルマラソン4時間を切ったら、真樹もほめてくれるでしょう。
来るときの運転で疲れたので、帰りは高速で。
今日も真樹は友だちの家にお泊り。仕方なく、今晩も一人。伊芸SAで沖縄そば定食(840円)。
昼抜きだったのでもうちょっとぜいたくしてもよかったのだが、そんなに食欲がなかった。カーボローディングできてません。
明日は、ここから1.5km先のバス停5時49分発のバスを乗り継ぎ会場へ。
「はよ、ねな!」
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2017年02月17日(金)
真樹とヤクルト [沖縄]
真樹と「ヤクルト対DeNA」の練習試合(浦添市民球場)へ。
ちょっとしか見られへんかったけど、おもしろかったね。
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「今日は晩ごはんいるん?」とヨメさん。
「あっ、言わへんかったかいな。今日から沖縄行かせてもらいます。おきなわマラソンがあるし。」
7時1分のバスに乗らんと間に合わないのに、6時半ごろこんな会話。私の予定は全部カレンダーに書き込んであるのだが、ヨメさんはそれを見てくれない。
私は前の晩遅かったので、20分ほどで沖縄行きの準備。準備と言っても、フルマラソンにいるものだけやし。シューズとランシャツランバン、ゲーターと5本指ソックス。それにカメラとウエストパッグ。これだけそろえればだいじょうぶ。あとはなくてもどうにかなる。
今日は、真樹とヤクルトの練習試合を見に行く約束。
午後1時始まりなのだが、ピーチが那覇空港に着いたのが1時10分ころ。ゆいレールで「おもろまち駅」に着いたのが2時10分ころ。待ち合わせのコンビニをまちがえて、真樹に会えたのが2時半。
そこから浦添はすぐだったのだが、市民球場は右折で入れず、だいぶ通り越して戻って3時10分。練習試合だというのにものすごい車で停めるところなし。(練習試合は無料なのでかえって観客が多かったのだろうか。)
3時20分、やっと車をとめることができ球場へ。
鳥を狙っているかわいいネコちゃんにかまっていると、球場からたくさんのお客さんが出てきた。
「ひょっとして、今まさに試合が終わったってことか。まあ、ここまで来たんやし行くだけ行ってみよ。」
「よかったー、まだやっとった。7回が終わって、これから8回の表、DeNAの攻撃や。あと2イニング見られるやん。よかったよかった。山田と筒香だけは見て帰らんとな。」
そう言っていると、筒香に回ってきた。いっぱい写真を撮ろうと思っていたのに、筒香は初球を強烈なサードライナー。
「もう終わってもたがな。」
夜のニュースで見たのだが、筒香はそれまでの3打席は連続空振りの三振だったそうだ。やってくれよんね。
筒香凡退のあとの5番打者がレフトオーバーホームラン。
「ヤクルトのピッチャー・菊沢って、だれやねん。」
こんなときはメンバー表。
「新人やわ。でも、1988年生まれって、28歳の新人?」
また調べなあかんね。
さあ次の回は山田と思っていたら、7回裏の攻撃終了後守備から交代していた。それまで4打数2安打やったのに・・・。もうちょい早く来ていたらタイムリーヒットも見られたのに・・・。残念!
その代わりというわけではないが、今売り出し中、山田のそっくりさんとも言われる広岡選手。
ええ構え、ええ振りやったけどヒットにはならず。
8回終了時点で、5対4とヤクルト1点リード。
9回表を抑えたらヤクルトの勝利。いくら練習試合とは言え、やっぱり勝ってほしい。
「9回のピッチャーは・・・、中尾・・・、ってだれやねん。・・・新人やわ。この選手は1994年生まれやて。」
「私と同い年やん。」
「そっかそっか。今年大学卒業やから、そうなるわな。応援せな。」
と意気込んだが、ここから急に雨がきつくなってきた。
「カタブイや。」
「なにそれ。」
「沖縄に住んどって知らんのかいな。映画の題にもなってんのに。」
「知らん。」
「かたよって降るし、『かたふり』でカタブイゆうみたいやで。ここは降ってても、ちょっと離れたところは全然降ってへんみたいな雨のこと。」
「ふーん、知らんかった。」
知ったかぶりの私も、数年前に玉城さんから教えてもらったんですけど・・・。
きつい雨は止まず、ついに8回裏コールドでゲームセット。
けっきょく見られたのは、8回表裏の1イニングのみ。でも、真樹と見られたしよかったわ。
球場を出たところに人だかりだったので、私たちも見に行った。すると9回のマウンドに上がるはずだった中尾投手がピッチング練習をしていた。
「うちのチーム(名桜大軟式野球部)に、そっくりな子いるわ」と真樹。
「たしかに、歳はいっしょや。」
通路を選手が通って行ったが、サインはみんな断っていた。何年か前に見に来た時もそうやった。真樹は、ヤクルトからDeNAに移籍した田中浩康のサインが欲しかったやろうに。姿すら見んかったな。
せっかく来たので、選手ののぼりと記念写真。
私はWBC日本代表の秋吉投手。
真樹は山田哲人選手。
肩の所にサインがしてあったが、本物でしょうか。
真樹が、さっちゃんと彩ちゃんの誕プレを買いに行きたいというので、サンエー那覇メインプレイスへ。
「ついでに晩ご飯も食べて帰るか。」
いろいろ見て回ったが、大阪王将へ。
私はぜいたくな「ステーキ炒飯(1280円)」。
真樹はつつましく「天津飯(430円)」。
二人で「焼餃子(240円)」。
全部で1950円。これくらいやったら、かあちゃんにおこられへんかな。
「今買ったとこやけど」と真樹からバレンタインデーのチョコ。
「もう、ホワイトデーコーナーやったけど・・・。」
愛嬌、愛嬌。
ありがとね。
夜はまた、真樹は友だちのところへ。
「今日も一人か・・・。」
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