2017年02月14日(火)
バレンタインデーにセカンドオピニオン [病院]
「ボクにはチョコないん?」
「・・・。」
「チョコないんやったら、チューでもええで。」
「あーきっしょくわる。頼むし、私にかまわんといて。」
「ますみちゃんしかかまう相手おらへんし・・・。」
そのしばらくあと、「はい」と言ってキットカット5個をもらう。
・いつも通り! 自分のペースで! (できとるできとる。)
・全力投球 ファイト!! (何に全力投球したらいいんでしょう。)
・さあ、大きく深呼吸しよう! (いっつもしとるちゅうねん。)
・Good Luck! (なんか他人事ぽい。)
・夢に向かってGO! (この歳から「夢」と言われてもねえ。余命が・・・。)
こうして、今年のバレンタインデーもわびしく過ぎていくのであった。
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京都バス 地球研前(7:01)〜国際会館駅(7:11) 160円
市地下鉄 国際会館(7:16)〜四条(7:32) 290円
阪急電車 烏丸(7:40)〜十三乗り継ぎ〜花隈(8:57) 750円
自宅から約2時間、1200円。
隈病院は街はずれと聞いていたのだが、三宮の次の「花熊駅」からすぐのところにあった。「これなら京都からでも来れるなあ。」
神戸は海岸に山が迫っている。だから、駅を出て右折すると坂を上っていくことになる。「花隈駅から徒歩3分」と書いてあったが、本当にそうだった。
「ホテルか」と思うような立派できれいな病院。
9時すぎに受付に入ると閑散としていた。
「甲状腺専門病院と言っても、そんなに患者さんは来られへんのかなあ」と思った。しかし、これは私の早飲み込みであったことがあとで分かった。
診察の流れを説明され、ナビットというものを持たされた。
「これ、食堂の『できましたー』ちゅうやつやん。」
3階が診察室。
エレベーターを出て、一瞬息を飲んだ。「ゲゲ、なんじゃーこの人の多さは!」
待合には多くのベンチが用意されていたが、座るところを探さなくてはならないほど混雑していた。まだ9時を少し過ぎたところだというのに、朝早くからいきこんで(?)こんなに・・・。
「この全員が甲状腺の病気なん? 専門病院て、こういうことなんやなあ。」
まずは予診票に記入。
「コンブ、ワカメなどをたくさん食べていますか」という質問項目があった。さすがに甲状腺専門病院。これらの食品には「ヨード」が多く含まれているので、検査結果に影響が出るらしい。(このあたりよく理解できていない。)
予診室が満員で、私は診察室に通されて予診。話を聞いてくださったのは女性の方(看護師さん?)だった。
予診の時、身内に癌になったものがいなかったかをくわしく聞かれた。しかし、その点についてはあまりこたえられなかった。。もうちょっと身内のことを調べておけばよかった。とりあえず、甲状腺癌というのは原因不明らしいので。
今までの経過を話し、「今後の治療について決めかねているので、こちらの専門病院のお話を聞いてみたくて来させてもらった」と説明した。
そのあとしばらく待機して、いよいよ診察。またさっきと同じようなことのくり返し。
ベテランぽい男性医師は、「低分化癌と判定されましたか・・・。それはたいへんですね」とおっしゃた。「今日持ってきていただいた資料をしっかりみせてもらって、こちらで受けていただく検査の結果も出てからお話しすることにしましょう。いいかげんなことは言えませんから。検査結果が出た後にもう一度来てください。」
あー、またモラトリアムかい!
これ、ひとごとやったらええおちょくり材料になるんやけど。自分のことだけに、おちょくりきれん。どこまで行っても宙ぶらりん。私の大好きなカフカの「城」の世界や。
それにしても、この癌は緊急性ちゅうのがないのかな。ゆっくりゆっくり進行していくんか知らん。「鞍馬口」のI医師も、「隈」のI医師(こちらも「い」から始まるお名前でした)もなんかのんびりしておられるように感じる。それはそれでええんか。そのついでに、次来たときに「癌細胞なくなってますよ!」てなことにならんかな。ならんわな。
このあと、採血と超音波(エコー)検査。もう「鞍馬口」でやったんですけど・・・。
お支払いをすましても、まだ11時前。これなら家に1時ごろには帰れる。ヨメさんに、「病院が早く終わったんで、今日は店番できるし」とメール。急いで家路へ。
来るときは急いでいたのでゆっくり見ることができなかった「花隈駅」界隈を観察しながら。
病院のすぐ南はおふろやさん。病院のあと、ゆっくりお風呂につかって帰るちゅうのもええかも。420円です。
その南には「本願寺神戸別院」。
立派な建物です。
駅へと曲がるかどっこのええ場所に鍼灸院。
ここははやっているかな。
駅の向かいの歩道沿いに、楽しそうな往来の絵。
三宮の次の駅だが、三宮とちがってずいぶん落ち着いた町のように感じた。
次来るときは、せっかくやし「花隈」探検でもしようかな。
それにしても「花隈駅から徒歩3分の隈病院」は分かりやすい。初代院長が隈さんで、現理事長も隈さんらしい。でも、花隈町と隈病院は特別つながりはないようだ。
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■花隈町(ウィキより)
【地理】 中央区の南西部、旧生田区域中央部に位置し、東・北・西は下山手通、東〜南は北長狭通に接する。中央区西部の市街地中寄り、花隈城のあった辺り。神戸港の発展に伴い高級料亭が立ち並び花街として有名になった。 飲食店・集合住宅が立ち並ぶ商業地域。
【地名の由来】 花熊・鼻熊・華熊とも書き、「往昔は土東崕を噛み」といわれ、海に面した小高い丘であった。台地の端(ハナ)の一段と高いところ(クマ)からついたという説がある一方、神をクマというところから神内(くまうち)に対し神社領のはずれという意味だという説もある(西摂大観)。花熊の地名は南北朝時代から見え、貞和2年(1346年)4月日付佐藤性妙軍忠書によれば足利方に属していた陸奥国出身の佐藤性妙子息行清らが建武3年(1336年)湊川の戦いの折「摂州天王寺・阿倍野・湊河・花熊・生田森・摩耶山」で奮戦したとある(佐藤文書/大日本史料6-9)
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店番に間に合うように急いで帰るつもり。そのため、地下鉄四条駅構内で志津屋のパンを買った。
私が20歳過ぎのころ、府立病院の地下売店のバイトをしていた。その時、志津屋さんからパンをおろしてもらって販売していた。ああなつかしい味。
その頃が私の唯一のモテ期。みんな病院関係の人だったのだが、あの人たちもみな60歳前後になっている。今、どこでどうしているのやら。かわいいオバサンになっているのかなあ・・・。
去年10月の「もうすぐ死ぬかもしれんシリーズ」が続いていたら、きっと「昔惚れてくれたやつに会いに行く」と血迷ったことを言っていたでしょうね。そういう意味でも、その時点で転移してへんでよかったわ。醜態さらすとこやった。我ながら、この「自分勝手なオッサン」には手を焼きまっさー。
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【RUN】
今日は店番する気満々やったのに、「バイトさん頼みました」とヨメさんからメール。私は店番はできるけど、通販の発送業務ができないのでダメとのこと。またまた「役に立たんやつ」の烙印押されました。まあそれでも、発送する商品をそろえるのだけは手伝いましたけど・・・。
夕方時間があったので、昨日と全く同じ「ゆば泉往復6kmコース」。
5分26、5分14、5分36、5分20、5分14、5分07で31分59秒。
キロ5分20秒ペースで気持ちよく走れた。
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【今日のきく】
こんなじゃじゃ馬系のきくだが、ここに引っ越してきたころはボーイフレンドか2ひきいた。
1ぴきはゴールデンのゴンちゃん。でも、すぐに死んでしまった。
もう1ぴきは大型雑種のタロちゃん。こちらはすぐに引っ越して行ってしまった。でもなぜか、タロちゃんの飼い主さんのおねえさんとは年賀状のやり取りは続いていた。今年の年賀状には悲しいお知らせ。「タロはついに亡くなってしまいました」。
ああ1回でも会いに行っとけばよかった。あの飼い主さんなら絶対に嫌がられなかっただろうに。
「きくちゃん、もうチョコあげる相手おらんようになってしもたねえ。」
もうタロちゃんの匂いもするはずもないが、今日はバレンタインデーなのでタロちゃんをしのんできた。
タロちゃんが引っ越した後に入られたご家族もまた引っ越され、今は空き家。どなたかまた、犬連れの人が引っ越してきてくれはったらいいのになあ。
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2017年02月13日(月)
準備万端 [病院]
今日は鞍馬口医療センターへ、紹介状をいただきに。
10時に行ったのだが、今日はものすごい混雑。12時を過ぎたころから、「こら、やばいかも」と思えてきた。
今日はまたヨメさんが勉強したいというので、1時半から店番をするつもりだった。ところが12時を過ぎてもまだまだ待っておられる方が多かった。けっきょく、私が呼ばれたのは12時45分ころ。「1時半なんか絶対無理やん。」
でもそのあとは意外な展開。
「腫瘍のプレパラートというのを持っていけば、セカンドオピニオンもスムーズに行くと聞いたんですが、貸し出しは可能ですか。」
「だいじょうぶですよ。」
「貸し出ししていただくのに何日もかかると聞いたんですが・・・。」
「いえ、今、病理の者がいますので、少し待ってもらったらお渡しできると思いますよ。」
あらあら、こんなにすぐにいろいろなものがそろうとは思ってもみなかった。これで準備万端。これは、セカンドオピニオンにはよ行けちゅうことですね。
駐車場を出たのは2時少し前。病院に来た人は1時間100円なのだが、もうちょっとで500円になるところだった。
神戸の甲状腺専門病院「隈病院」、明日行ってこー。
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【RUN】
今日は軽く6km。
「ゆば泉」往復。
5分58、5分47、6分00、5分59、5分51、5分45秒で35分21秒。
相変わらず腰が痛いが、それ以外はだいじょうぶ。
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【今日のきく】
「きくちゃん、きくちゃん、お迎えに来たでー。」
「はよはよ、はよ車に乗せてー」と言っているきくちゃんでした。
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2017年02月12日(日)
第351回武庫川ロード記録会 [ランニング]
10月の「ユリカモメマラソン」の出店のお願いを兼ねて、武庫川ロード記録会に参加。去年2月に「第340回」とお聞きしたので、それに11足して(1月はない)、351回でまちがいないでしょう。
ハーフを走らせてもらったのだが、その時端っこの方を黙々と走っておられた女性が気になった。「あのひとににてるなあ・・・。」
私がゴールした時、その女性もちょうど一息ついて休んでおられた。
「すいません、小林玲子さんですよね。」
「はい。」
「後ろ姿を写真に撮らせてもらったんですけど、ブログに載せてもいいですか。」
「はい。」
「あっ、私、姫路のストーカーの友だちです。」
「松本さんですよね。」
「よかったよかった。『姫路のストーカー』って言ったら分かってもらえると思って・・・。(ランシャツを見せて)私、京都キャロットの名前で走ってるんです。」
「藤井さん?」
「あっ、知ってくれてはりましたか。」
もうちょっとお話ししたかったが、私はヨメさんのストーカーで他の女性にはあっさりしているのでこれでおしまい。でも、「早く故障を治して、ビュンビュン走ってくださいね」くらいは言っておけばよかった。でもこれで覚えていただいたと思うので、また今度。
さあ、まっちゃんの反応が楽しみやねえ。
「武庫川走りに行ってくるわ」と、朝ヨメさんに言った。
「何自分の好き勝手なことばかりしてんにゃな。ちょっとは店のことも考え」とヨメさん。
「今日はやめとくわ。店の仕事手伝うわ。」
しかし、怒り心頭に発しているヨメさんは「行ったらええやん」と。こわこわこわ。そのあとがどうなるかとビクビクしながら家を出てきた。
今日は10月の「ユリカモメマラソン」の出店の許可をもらうことと、対岸で練習会を行っている「ランナーズ9の会」に行ってTシャツの件を説明するという用事もあった。ただ走るだけとちゃうんやけど。分かってもらえへんのよねー。ふだんがふだんやから。
自宅出発が予定していた時刻より遅かったので、間に合うか心配だった。しかし、武庫川は近い。自宅を7時45分に出て、会場近くに着いたのはちょうど1時間後。駐車場を探すのに時間がかかってしまったが、ちょうど9時に受付ができた。
9時20分からの2kmにも参加。
ウォーミングアップにちょうどいいんですよねえ。
2km、14分12秒。ちょっとゆっくりしすぎたかな。
9時40分から準備運動。
みなさん、しっかりやっておられた。
10時、ハーフがスタート。
今日はできれば、キロ4分45秒くらいで行けるところまで行きたい。
私は走り出して少しすると、今日は調子がいいのか悪いのかが分かる。今日は残念ながら「悪い」ほう。
グローブをはめてスタートしたが、2kmくらいで暑くなって外した
ただし、走るには抜群のコンディション。
調子のいい方はけっこういいタイムが出たんじゃないでしょうか。
武庫川で風がまったくないというのはめずらしい。
あっ、あのひとは・・・。
1kmラップで目標の4分45秒を切ったのは一度だけ。
今日は体が重かった。
最後のほうは写真を撮る元気もなし。
武庫川の水面にはすごい数のユリカモメ。これも写真には撮れませんでしたけど。
あー、あと約1.1km。
目印のタスキをもらって、やっと気分が楽になった。
こけが最終の折り返し。
4分49、4分47、4分47、4分50、4分45で5km24分00秒。
4分54、4分45、4分48、4分49、4分43で10km48分01秒(24分01秒)。
5分00、4分52、4分47、4分48、4分49で15km1時間12分20秒(24分19秒)。
5分03、4分56、4分56、5分02、5分05で20km1時間37分25秒(25分05秒)。
5分02、0分35でゴール1時間43分03秒(5分37秒)。
15kmすぎからはほんとうにしんどかった。でもよく粘りました。このごろ、今までなかった粘りが出てくるようになったように思う。
ゴール後ダウンジョグをしていると、ハーフをゴールされたらしい男性とすれちがった。その方は私のほうを向きニッコリ、「お疲れ様でした。」
たぶん、私と同じくらいにゴールされた方だったのだろう。ほぼ同じペースで走っていると、ハーフでのべ9回対面することになる。走っているうちに、「赤の他人」が「同じレースで共にがんばった仲間」になる。これこそ走っているからこそ味わえる幸せ。こんなうれしいことがあるのでまた走りたくなる。
ダウンジョグがてら、対岸の「ランナーズ9の会」のテントへ。頼まれているTシャツのことなどを話に行かんなん。
しかし、すぐ近くまで来て足が止まった。
「テントの中で宴会をしている人たちの輪の中には入れんなあ。」
なぜか気おくれしてしまい、踵を返してしまった。
「またメールしたらええか。」
帰り、高速の中ですごい睡魔。
桂川PAで20分お昼寝。これで息を吹き返して、家には2時すぎに到着。このごろインスタントラーメンばかりなので、コンビニのパンを買って帰った。2個で230円ほどと安上がり。これならヨメさんに怒られることもないだろう。
パンを食べて、きくちゃんといっしょに店へ。
バイトさんといっしょに、今日発送する商品を準備した。ちょっとだけ働いたし、かんにんしてくれよー。
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2017年02月11日(土)
出雲代用ラン [ランニング]
ちょっと早いけど、バレンタインデーのチョコ・・・じゃないですね。ポップコーンとゆずジュース。「京都キャロット」のバイトさんからのプレゼントでした。ありがとうございました。
今日は本当なら「出雲くにびきマラソン」。
大雪警報のため中止になってしまった。それなら、レースのつもりで10kmを走らなくては。
今日は速く走りたかったので、カメラはなし。途中でかわいいワンちゃんに会ったらどうしようか知らんと心配だったがセーフ。
いつもの十王堂橋コースのアレンジ。十王堂橋からバス通りに行かず、そのまま岩倉川沿いの道を北上。
目なし地蔵からさらに北へ。細い通りなので一方通行。
途中お通夜のおうちが。そのおうちの前に立っていたのは、グリーンのガードマン制服。我が社のガードマンやないかーい。いつもは官制をしておられる〇〇さん。よっぽど人手不足なんですね。こんな元気に走っているのに、仕事に復帰できてなくて申し訳ない。
その先の団地で行き止まり。
家から4kmほどしかない。もうちょっとあると思っていたのに。
4分59、4分46、5分01、5分01、5分02で5km 24分52秒。
折り返すと南下になるので下り基調。
4分36、4分38、4分35、4分40、4分18で10km47分40秒(22分48秒)。一人で走るとこんなもん。やっぱりレースでないとね。でも気持ちよく走れたのでこれでよし。
ここから42分まで上げて行かないとね。
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【今日のきく】
今日もお散歩4段階。
早朝、昼、夕方、夜の4回。
夕方の散歩に行ったとき、きくが「うん?」というような顔をした。
川向のバス停にバスが長く停まっていた。
「オバサン帰ってきたんちゃう。」
「行けー!」
「あー、やっぱりオバサンやった。うれしーうれしー。
夜9時前、今日4回目のお散歩。
日なたの雪は消えたけど、日陰はまだまだありますなー。
さて、明日はどうなるでしょう。
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2017年02月10日(金)
丸もうけラン [ランニング]
「出雲くにびきマラソン」が中止になり、あてにしていた売り上げがゼロ。もともと高速代、ガソリン代、宿泊費、出店料などの諸経費を考えると、実質儲けにはなっていない。
しかしこの大会は、島根や鳥取の実力者が集結する大会であると言っていい。入賞者のタイムを見ると、かなりのハイレベルであることが分かる。
だから、「儲け」より「宣伝」。
「京都キャロット」の通販につながっていくようにとの思いで、無理してでも出張販売に行っているという面もあった。
その大会が中止ということで、痛いことは痛い。
しかし、Uターンして早く帰ってこれたので時間ができた。これは走りに行かなあかんやろう。
こないだ耳が切れるように冷たかったので、イヤーウォーマーをつけて。
今日は走る時間がないと思っていたので、ほんとうに「丸もうけラン」になった。
「丸もうけラン」なので、どこを走るか決めずにスタートした。とりあえず、家から北へ。さあ、この先どこを走りましょうかねえ。
雲ケ畑街道に出る十三石橋で約3.7km。
京産大グランド前で5kmにちょっとだけ足らん。
ここまで来て思いついた。
この先の庄田橋から京都学生駅伝の旧6区(最終区)コースになる。今日はこの先、廉も走ったこのコース走ることにしよう。
鴨川河川敷に入ると、きれいな夕焼け。
明日、雪とちゃうんかい!
上賀茂橋を通り過ぎたところから上の道へ。
暑がりの私は、5kmあたりでイヤーウォーマーを取り、7kmあたりでグローブも取った。
比叡山はきれいな雪化粧です。
東の突き当たりからきつね坂へ。
気温は2℃だった。
宝が池トンネルを通過。
トンネル内はぬくぬく、出ればブルブルとふるえる寒さなのでちょっと調子が狂う。
自宅到着、13.75km、1時間13分44秒。
思いがけずぎょうさん走れた。ああ、丸もうけ丸もうけ。
アップダウンのあるコースだったので、1kmごとのラップはバラバラ。
5分47、5分43、5分29、5分17、5分17で5km27分26秒。
5分07、4分55、4分58、5分17、5分15で10km53分01秒(25分35秒)。
5分46、5分21、5分24、4分10で13.75km1時間13分44秒(20分43秒)。
今日はほんまに楽しく走れた。
明日もしっかり走ろうっと。
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【今日のきく】
夜の散歩もありますよー。
今日は早朝にヨメさんが散歩。
朝8時半ころ私。
昼3時すぎにまたまた散歩。
そして夜も。
一日4回は多すぎるのかも。
朝積もっていた雪は一旦消えてしまったのに、また降ってきた。
明日の朝は大変そう。
きくのお散歩行けるかな。
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いきともない [ランニング・出張販売]
寮2(出町)、朝5時半起き。
起きてすぐ窓の外を見た。「雪、降ってへん。」ほっとした。
この時点で、もう何センチも積もっているものとばかり思っていた。
家に帰って朝ごはんを食べ、準備をしてから出雲へ出発。しかし、山陰は大雪のようだ。米子道は通行止め。鳥取道はチェーン規制。9号線の映像も見てみたが、こちらもチェーンがないと無理のよう。ああ大仕事。
「いきともない」けど、そんなことも言ってられん。
家に帰ると、きくちゃんがしっぽブンブンでお出迎えしてくれた。私が朝ごはんを食べている間、ずっと足元で「おもんな攻撃」。
散歩も「いきともない」けど、明日も何時に帰って来られるや分からんし、今行っといたろー。
長代川沿いの桜の木は、まるで花が咲いたかのよう。
河原の草の上はさすがに雪深い。
5センチはある。
「じょうずに顔に雪のせてー・・・。」
笑かしてくれんねー
広い空き地できくと鬼ごっこ。
「きくちゃん、オッサンは出雲までいきともないけど、きくちゃんのエサ稼ぎやとおもてがんばってくるわ。」
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【追加】
9時40分、自宅出発。
店によって、チェーンなどを積んで車を乗り換え。
高速に入ってもずっと「福崎より冬タイヤ規制」の表示。福崎に近づいても周りにはまったく雪がなかったので、「昼ごはん食べてるうちに解除になるんちゃうん」と思った。
11時45分、加西SA到着。
インホメーションを見ると、すでに冬タイヤ規制は津山からになっていた。ただし、鳥取道の規制と米子道の通行止めはそのまま。
マイパソコンを取り出して鳥取道の現在の画像を見ると、チェーンなしでも行けそう。しかし、その先の日本海沿いの9号線は雪でえらいことになっていた。
「まあ昼ごはんをゆっくり食べて」っと。
おでん定食(780円)+コーヒー(150円)。
途中経過をヨメさんにメールしておこうと思いケイタイを見ると、「出雲くにびきマラソン」の本部から着信記録アリ。こちらからかけなおすと、「雪のため中止が決定しました。」
ここでようケイタイ見たもんや。この先鳥取道で鳥取市まで行き、そこでチェーンをまいて9号線を西に行くつもりだった。たぶんその間はケイタイを見る余裕なし。「会場に到着して初めて中止を知る」ということになっていたかも。
まあ中止いうこともあるかもと思っていたので、驚きはしなかった。でも、せめて高速に入る前に連絡があればなあ・・・。
加西SAの記念写真撮って帰ろうと思ったら、カメラが風で倒れた。
この時はこんないい天気だったんですよ。
2回目は成功。
「さあ、帰ろう。」
12時半、加西SAを出発。
そのすぐ先の福崎ICで降りてUターン。片道3840円だったので、往復で7680円の出費か。痛いねー。
1時40分、京都南IC到着。
高速を走っているときはポカポカ日和だったのに、出た途端に大雪。京都でこれでは、山陰はすごいんでしょうね。
堀川通の二条城前が渋滞。
2時40分、自宅到着。京都南ICから1時間もかかった。
「加西SAでおでん定食を食べる5時間の小旅行」になってしもた。
家に入ると、きくちゃんが不思議そうにしていた。
「デカい車(キャラバン)で出て行ったのに、なんでこんなに早う帰ってきたん。」
「中止や、中止。何にも売れへんかったら、今日から全員3日間おかゆだけー。」
「おかゆはかなん。うまいもん食べさせてー。」
「きくちゃん、しんぼうしてくれー」と説得するパオパオでした。
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「オッサン、ヒマにしてるんやったら散歩に行かんかーい!」てか。
しゃーないなあ、いこいこ。
長代川にいた鳥も寒そう。
メイちゃん、元気にほえまくってます。
ピース君は、前にきくにうなられて以来、呼んでも来てくれません。
こうしてきくのご近所パトロールが終了。
きくは、ここらでは一目置かれているんでしょうか。
それはないかなあ・・・。
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2017年02月09日(木)
家族ががんになったとき [病院]
◎毎日新聞2月9日朝刊・くらしナビ ライフスタイル
がんになり すれ違う夫婦
がん闘病には、家族をはじめ周囲の支えが大きな力となる。しかし、配偶者ががんになったことで、心のすれ違いが生じる場合もある。人生の大きな試練に共に立ち向かえない。そんな悩みを抱える人は少なくない。
●痛み分かち合えず
東京都在住の美樹さん(53)=仮名=は、がんをきっかけに夫との関係が壊れ、離婚に至った。「痛みを分かち合うことができなかった」と美樹さんは振り返る。
2002年5月、美樹さんに直腸がんが見つかった。放射線と抗がん剤を経て手術。人工肛門や尿管へのステント(管)も必要となった。術後の抗がん剤治療も無事終えたが、やがて体調が悪化。04年8月に放射線性直腸炎と診断され、40度の熱と腹痛が続いた。がんが分かって以来、何度も入退院を繰り返した。一時帰宅しても就寝中、おなかの痛みに襲われる。苦しむ美樹さんを見て、夫は「またか」と言い、枕を抱えて別の部屋に行った。救急車で運ばれても「大丈夫?」の一言もない。
「私の突然の病や入院に、気持ちが追いつかなかったのでしょう」。2人は同い年で高校時代に知り合い、25歳で結婚。3人の子どもに恵まれた。美樹さんのがんが分かった時、長女は中学2年、長男は小学6年、次女は小学1年。「もともと会話の多い夫婦ではなく、病気についてもほとんど話し合わなかった」。長女が家事を支えたが、父である夫は娘にいら立ちをぶつけた。長女は一時、精神的なバランスを崩す。「そんな時、妻であり母である私がクッションになっていたら。でも病気でその役目が果たせませんでした」
やがて家庭内別居。夫は美樹さんの義兄のもとで働いていたが、ある日帰宅して「もう疲れた。別れよう」と言った。「本心ではなかったと思う。私の身内が彼に責めるようなことを言ったのでしょう」。しかし美樹さんは、病で相手を思いやることができないことに負い目を感じ、05年12月に離婚。子どもは引き取った。「結局、私は逃げてしまったんです」
●支える側の悩み
「夫婦関係に悩む患者さんから相談を受けることがある」。腫瘍内科医で日本医科大武蔵小杉病院教授の勝俣範之さんは話す。「どちらかといえば『主人が全く頼りにならない』といった女性側の訴えが多い」。そんな時は夫にも来てもらい、理解を深めてもらうよう指導するという。
支える側の夫も悩みは大きい。フリーライターの桃山透さん(48)は11年5月、妻に乳がんが分かり、ほどなく円形脱毛症になった。「ダメな夫です。妻のほうが心の整理が早かった。一人娘がまだ6歳で、落ち込む暇なんてなかったでしょうから」。手術で胸を全摘出したが、術後の抗がん剤治療が終わったタイミングで肝臓への転移が分かった。医師からは「治ることはない」と言われ、死を意識する日々となった。
「ゴールのないマラソンを走っているような気分」と桃山さん。「ダメな自分」を突き詰めると苦しくなるので「『自分』というパロディーを生きてみよう。そう思って気持ちをコントロールしています」。
フリーランスで収入は不安定だ。お金があれば治療に加え、生活に潤いを与えることもできる。しかし「稼げないなら動くしかない」。妻は薬の副作用で手先に支障があるため、洗濯やゴミ出しは引き受け、食器洗いは11歳になった娘にも手伝わせる。桃山さんも家で仕事をするため、共にいる時間が長い。「仕事が忙しくて余裕がないと、妻とどう接していいか分からなくなる」。常に試行錯誤だ。「お互いに我慢している部分があるでしょう。でも僕もがんばっていることを、妻は評価してくれていると思う」
転移再発から5年近くたった。妻は治療を続けながらも週2回、楽しみ半分でパートに出る。病と生きる夫妻の日々を、桃山さんは著書「娘はまだ6歳、妻が乳がんになった」につづった。「日々、感謝の言葉を口にして、『気にかけている』ことを行動で示すようにしている。しんどいけど、妻のほうが大変には違いないですから」と桃山さん。「妻思いなわけでも何でもない。結婚も長いと残るのは家族愛です」。病気の妻から逃げる人もいると聞くが、桃山さんは逃げない。「近所に散歩に行くにも、やっぱり妻とでなきゃと思うから」
●精神的サポートは
国立がん研究センターの精神腫瘍医で、がん患者の心のケアが専門の内富庸介さんによれば、「一般的に、男性は車の送り迎えなど身体的なサポートは得意だが、女性が求めているのは精神的なサポートとされます。そこにずれが生じる可能性はある」。米国や韓国の研究では、男性より女性のがん患者のほうが、離婚率が高いとデータで示されている。離婚率自体は一般と変わらないため、男性がん患者の離婚率は低いと言える。「男性ががんになると、夫婦の絆が強まるのかもしれない」。がんに限らず、病がきっかけでカップルの関係性が変わることは少なくない。日本でも、これから研究が進む。
美樹さんは夫と別れた約半年後、今度は大動脈瘤(りゅう)破裂で入院した。その時、元夫が思いがけず病室に現れた。交流はその後も続き、別れる前より会話はずっと多くなったという。ところが元夫は今から2年前、突然の病で亡くなった。「その少し前、年を取ったら隣同士でいいから同じアパートに住もう、なんて言ってました」。美樹さんは穏やかに話す。「当時、諦めずにいろいろ話をすれば良かったのかもしれません。彼は本当はどんな気持ちだったのかな。今となっては聞けませんね」【三輪晴美】
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今日は寮2(出町)24時間。さすがに2日連続は眠とうてしゃーない。
また、新聞をしっかり読んだ。今日の秀逸は毎日新聞のこれかなあ。
「家族ががんになったとき」、みんなはどうしているのだろう。
私が35歳の時、母が胃がんで亡くなった(65歳)。母ががんであることを知ったのは、死の1年前くらいのことだったと思う。すべての責任を負ってくれていた兄から聞いた。
その時は、「がんとかゆうて、なんやかんやできっとまだまだ長生きするんやろう」とたかをくくっていた。母も「冬のさぶい間だけ入院させてもろて、ぬくなったら退院して、また冬になったら入院させてもろて、これからずっとそうやっていくわー」と明るく話していた。でも、そんなふうに話していた2週間後に死んでしまった。
「えー、まだまだ生きるゆうとったんちゃうん!」
すべて兄任せで、母に対して何もしてこなかったツケが回ってきた。私にとって、母の死は衝撃的な「突然の死」だった。
臨終の場にも入り込む余地はなかった。末っ子で一番かわいがってもらったはずなのに、母の意識の中に私はまったくなかった。なんでやろ。それがすごく不思議だった。
さて、私。
「甲状腺低分化癌」と診断されたとき、そう遠くない死というものを覚悟した。動けるうちに、今までお世話になった人にお礼を言っとかなくてはと思った。
家族に対しては、とにかく「煩わせないこと」重視。ヨメさんとは離婚して、子どもたちとは親子の縁を切って、だれにも看取られず一人で死んでいくのが私にふさわしいと思った。
私が癌と判明した時の家族の反応は、私が見た限りは以前通り。特別変わったことはなかった。「あー、またやらかしたか」系の私は、癌も「またやらかしたかー」と思われるだけの範疇だったのかもしれない。
私がどんな悲惨な状態のときもヘラヘラしているので、「またヘラヘラしながら死ぬに決まっとる」とでも思ったんかなー。それならそれでうれしい。その期待に応えたろうやないかい。
私は、この先もヘラヘラしながら生きていく。ヨメさんはそんな私がきっしょくわるーてしょうがないらしい。あきらめんかーい、今のところまだ家族なんやから。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 3 )
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