2014年05月27日(火)
「一人沖縄平和ラン・2014」計画 [ランニング]
今年も6月23日「沖縄慰霊の日」に、那覇から名護までの約70kmを「平和・憲法九条」ののぼりを背負って走ります。
去年は暑さよりも海風にやられたという感じで、半分も行かない30kmあたりでコブラがえり。そこからほとんど歩きになってしまい、55km地点の「みゆきビーチ」で撤収。ああ、情けなや。
今年は根性入れ替えて、「最低でも完走」をめざします。
去年の6月23日はうまい具合に日曜だったが、今年は月曜。それも日程変更第1回目となる「兵庫神鍋高原マラソン」の翌日。マラソンが終わったら急いで片付け、京都まで戻って荷物を持って関空へ。関空発沖縄行き最終便で那覇へ。那覇のホテルに泊まって、翌朝名護に向けて出発。
かなり強硬日程ですが、まあこれも遊びですから贅沢は言うまい。
那覇を8時に出て、名護市役所に7時に着きたい。去年は宜野湾市の嘉数高台と読谷村の米軍上陸の地に寄る予定で出発したが、今年は欲張らずまっすぐ名護をめざす。
先日の「香住ジオパークフルマラソン」でのぼりを背負って海沿いの42kmを走り通せたので、去年みたいなふがいないことにはならないでしょう。
もう残り1ヶ月を切ったので、これからは無理をせず、体調を整え、故障だけはしないように気をつけること。
月曜7時は、真樹はバイトかなあ。自動車教習所かなあ。部活かなあ。去年は名護市役所のゴール地点で迎えてもらう予定だったが、今年はお迎えには来てもらえそうにない。しゃーないなあ。
でも、翌日午後から真樹といっしよに西表島に行く予定。4年前とほとんどいっしょで、6月25日は星砂の浜で泳ぎ、よんなあよんなあさんの犬めぐりツアーの一日。
こっちが楽しみなんですわ。
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2014年05月26日(月)
「だれにもまもっていらん!」 [時事]
◎朝日新聞5月20日朝刊・社説余滴
1分半に1度かけられる命 高橋 純子
計21回。1分35秒に1回。
安倍首相が集団的自衛権の行使に向け一歩を踏み出した15日の会見で、国民の「命」を「守る」と言った回数だ。
首相の「命を守る」の裏側には、自分ではない誰かの「命をかける」が張り付いている。1分35秒に1回、その誰かと死の距離は近づいている。問われているのは、憲法9条の歯止めを外して、日本を「戦争をする国」にするのか。しかもその歯止めを、閣議決定による政府の憲法解釈変更で外していいのかだ。
ところが首相はこの問いに正面から答えようとしない。「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたちを助けられない。それでいいのか」といった類いの弁を繰り返すばかりだ。
レトリックというよりはトリック。覚悟も熱意も感じられない。これが、日本の平和国家としての歩みを根本から変えようとしている最高権力者の会見か。国民にわかってもらうことを重視したという。だとすると政権が想定する国民像は、論理的な説明よりも、お涙ちょうだいが効く人たちだということなのか。
首相は「敵」を批判したり、嘲笑したりするのは得意だが、他者に何かを伝えるのは下手だ。反対する人を説得しようという気がそもそもないからだろう。「身内」に「いいね!」と言ってもらい、最後は数の力で押し切る。会見には、首相のそのような政治観がにじんでいた。
「命を守る」。首相がそう連呼していた時、首相官邸の外では、集まった約2千人が「憲法守れ」と抗議の声をあげていた。首相が言うところの、おじいさんもおばあさんも、お父さんもお母さんもいる。赤ちゃんを乗せた赤いベビーカーの上には、「解釈改憲断固反対」のプラカードが置かれていた。
これまで何度となく聞いてきた「憲法守れ」「戦争反対」は、どこか内実を伴わないスローガンとして響いていたと、私は思う。しかしこの日の官邸前は、少なくとも首相会見よりは現実と取り結び、重みを持っていた。それだけ、日本の「現在地」が動いてしまったということなのだろう。
会見場に置かれた首相肝いりのパネルには、赤ちゃんを抱く母親に不安げな表情で寄り添う子どものイラストが描かれていた。
だが不安な表情で見つめられているのは誰か。首相、あなた自身なのではないか。
(たかはしじゅんこ 政治社説担当)
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「だれにもまもっていらん!」
これは愛すべきうちのヨメさんの名言。
「守る守るって、あんたらみたいなきっしょくわるい人ら、そばにもよってほしないわー。」
この「きっしょくわるい人」とは、安倍さん、石原さん、橋下さん・・・などなどでしょうか。「守る」なんて1回も言ったことないけど、パオパオも入っているんでしょうね。
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2014年05月25日(日)
第37回小豆島オリーブマラソン [ランニング・出張販売]
「あー、うちのきくのそっくりさん。お名前なんでしたっけ?」
「サランです。」
「そうそう。溝にはまってたのを助けはったんですよね。」
「よく覚えてられますね。」
2年ぶりにあったサランちゃんは前よりたくましくなっていた。でも、こわがりなところは前のまま。
今年も、スタートから1.5kmあたりのホテル前で応援。私がレースに出ていたら、ここで立ち止まって写真を撮っていたでしょうね。参加申し込みが遅れてしまって走れなかったけれど、サランちゃんの飼い主さんといっぱいしゃべれたから満足。
当日受付は7時から。
6時ころから開店準備。
前日に一回全部出しているので、二回目は楽。
ここ何年かは当日はさっぱりだったが、今年は見やすく並べられたせいかお客様が多かった。
10時スタートのハーフは、行きはうちの店の前は通らない。しかし、10時7分スタートの5kmと14分スタートの10kmはうちの前を通る。
10kmには知り合いがたくさん出ているので、しっかり応援しなくては。
昨日いっぱいしゃべらせてもらった高知の細川さん。積極的に前の位置をキープ。
同い年最強ランナー・北出さん。なんと、北出さんはちょうど30年ぶりの「小豆島オリーブマラソン」だそうだ。
毎年お世話になっている「料理旅館・千鳥」さんのご親戚の中西さん。きれいでかっこいい女性ランナーです。
さて、今度は10km復路の応援。
その前に、お楽しみの「小豆島ワールドサファリ(?)」へ立ち寄り。ここは、「かまれるかかまれるか」とひやひやしながら走れるのが最高。
今日は暑すぎるせいか、みなさんお留守。いつもの見張り役だけが仁王立ち。
見張り役のほえ声を聞いたのか、いっちゃん小さいのが2ひき、ちょろちょろと出てきた。あーかわいい。あー満足。
ピンクレンジャーさんのハイタッチ。
しっかりした体型の女性で、ハイタッチをしながらずっと声をかけ続けられていた。ご苦労さまです。
和太鼓での応援。
ここを過ぎるとゴールまであと約1km。最後の踏ん張りどころです。
でも私が一番うれしいのはワンちゃんの応援。
こんなん道端でわろとったら、爆発的な力がわいてきますがな。
つま先着地が特徴的な北出さん。そのフォームで、遠くからでも見つけられる。
ゴール後つかまえて聞いてみると、40分をちょっと超えて2位とのこと。1位は兵庫の有名なランナーなので2位は納得だが、40分は切りたかったとくやしがっておられた。
元気いっぱい、細川さん。
きれいなフォームでガンガンという感じ。
どこかで対決したいですね。
「なかにしさーん!」と声をかけると、笑顔で反応。
「フラフラになるかも」とおっしゃっていたが、しっかり走られていましたよ。
思わずシャッターを押した「お遍路さん」。
これくらいの大きさののぼりなら楽かなあ。
大きな樽の前を通過すると、残りは2kmたらず。
とにかく気温がぐんぐん上がり、みなさん汗だく。
給水所では十分水やスポンジが用意されていたようだ。
北出さん・細川さん・中西さんのお目当ての3人の写真がしっかり撮れたのでUターン。
お楽しみのサランちゃんの写真をいっぱい撮って・・・。
来年はレースに出て、サランちゃんの写真も撮ろうっと。
「静かな海と深い緑」、それが小豆島オリーブマラソンのコースのいいところ。
「にぎり寿司・鯛安」さんの前を通り「京都キャロット」出店テント前を通ると、あと500m。
今年は前年比売り上げ2割減という大会がほとんどだったが、この大会は去年よりちょっとだけ持ち直した。去年が悪すぎただけかもしれないけれど・・・。
早く片付け終わり、土庄のエンジェルロード前のラーメン屋さんへ。
魚だしのラーメンの汁は変わっていておいしかった。
せっかくなんで記念撮影。
私は脳天ザビエル状態がきついので、上からではなく前からの1枚。
マルナカさんでお買い物をして、大部港へ。
帰りはいつもどおり宝塚トンネル前で渋滞。まあそれは思っていたよりはましだったが、なんの花粉か鼻水ズルズル目がカユカユ。これがしんどかった。
でも家に帰れば、こんなハチマキ娘がお出迎え。
9時過ぎにはなったけど、きくちゃんのおかげで疲れが吹っ飛びます。
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2014年05月24日(土)
第37回小豆島オリーブマラソン・前日受付 [ランニング・出張販売]
前日受付のハイライト。
それは、私と同い年のランナーとおしゃべりできたこと。
高知・土佐ACの細川さん。陸上競技暦なしで25歳くらいから走り始められ、もうすぐ35年。40歳くらいのころには、10km33分台で走られたらしい。
私も陸上競技暦なしで26歳から走り始め、30歳のころ10Km36分台。おっと、似ているようでだいぶレベルがちがいましたね。
今年も受付場所の横で出店。
ただし今年からゼッケン先送りのようで、受付と言っても参加賞やプログラムを取りに来られるだけ。そのため、前日に来られる方が少なくなったような気がした。
以下、出店準備前に視察してきた「小豆島ワールドサファリ(?)」の様子。
だいぶメンバーが入れ替わっていたようだが、かわいいワンちゃんがたくさんいた。
なんとか生きていけますように・・・。
フェリーが着くたびにお客さんが来られる。逆に言うと、フェリーとフェリーの間はほとんどお客様はなし。
「京都キャロットのお店のほうにいっぺん行ってみたいと思ってるんやけど・・・。高知からは遠いけど、息子が京都におるんで。」
「それはぜひ来てください。ただし、私は店にいませんけど。」
「前に温泉でお会いしましたね。」
「そうでしたっけ・・・。」
最近は急いで帰っているので、温泉に入って帰っていたのはだいぶ前のことになる。
「失礼ですけど、お歳は?」
「59です。」
「ほぼ同年代ですね。ボク58ですし。」
「私5月生まれで59になったとこやし、まるっきり同い年ちがいますか。」
「あらー、そうですわ。大会で、同い年の方とお話できるなんてめったにないことです。」
そのあとも話が弾んだ。
明日は10kmに出られるとのことだったので、応援させてもらう約束をした。
女性のお客様が連れておられたワンちゃん。パッと見が私の苦手な「上等犬」ふうだったので、見てみぬふりをしていた。ところがよーく見てみると、えらい愛嬌がある。
「上等犬」は知らんおっさんに腹は見せん。
「テリー・メス・8歳くらい」
由緒正しき雑種犬らしい。
「来年も来てやー。」
もう1ぴきは、地元小豆島代表。
「都会から、わざわざ小豆島に捨てに来たんだと思います。」
ご近所に住まわれている女性の飼い主さんがそうおっしゃった。
「パーズ・オス・6歳くらい」
いろんなワンちゃんの要素が混ざっている感じ。
「パーズも、また来てやー。」
話の順番めちゃくちゃですけど、お昼は恒例「鯛安」さんの上にぎり。
いつもは廉にとりに行ってもらっているのだが、廉はきくの世話のため居残りで、代わりにヨメさんが取りに行った。ヨメさんは「鯛安」の大将を見るのは20年ぶりくらいで、えらい感動していた。
「『私が苦手やったお寿司を食べられるようになったのは、鯛安さんのおいしいお寿司を食べてからです』って言わなあかんかったのに忘れてた。」
そら、絶対来年も取りに行ってそう言わなあかんな。
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2014年05月23日(金)
司法は生きていた [時事]
◎毎日新聞5月22日朝刊
福井・大飯原発:差し止め判決
「司法は生きていた」 原告ら200人歓声
関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町、運転停止中)の運転差し止めを命じた21日の福井地裁(樋口英明裁判長)判決は、東京電力福島第1原発事故の被害の大きさに触れ、「原発に求められる安全性、信頼性は極めて高度」とし、現在の安全対策は「楽観的な見通しの上で成り立つ脆弱(ぜいじゃく)なもの」と切り捨てた。【村山豪、山衛守剛、浜中慎哉、松野和生、近藤諭】
地裁にはこの日、原告や支援者ら約200人が集結。判決後、原告の男性が「司法は生きていた」と書かれた紙を地裁前で掲げると歓声が上がった。福井市のイラストレーターで原告の一人、村井みきさん(34)は「司法に良心が残っていたと感じさせてくれる判決だった。福島の事故を知っているのに、福井で原発が動いてしまっては福島の人に顔向けできないような気がしていた。何かが変わるきっかけになってほしい」と話した。40年以上前から脱原発運動に関わる大阪府高槻市の水戸喜世子さん(78)も原告で、「住民側の目線に立ったパーフェクトな判決。日本だけでなく世界中に誇れるもの」と涙を流した。「脱原発弁護団全国連絡会」共同代表の河合弘之弁護士も「(判決は)脱原発のバイブルになり得るもので、全国の裁判所や市民、政治家に広めたい」と手応えを語った。
一方で、福井県おおい町の住民は複雑な表情をみせた。「信じられない判決。会社の将来が全く見えなくなってしまった」。関西電力から大飯原発の仕事を請け負う町内の設備関連会社の社長は感想を漏らした。「関電には控訴してほしいが、裁判が長引くのではないかと心配だ。先行きが見えなくなり、地元業者の仕事も減っていく。従業員の生活がかかっており、何としても再稼働してほしい」と訴えた。町内で民宿を営む50代男性は「政府が原発再稼働を進める方針を示す中で踏み込んだ判決。(原発の危険性を)裁判所が考えるようになったという印象で、地元にとってはショックだ」と話した。
再稼働に反対する同町の住職、宮崎慈空さん(70)は「画期的な判決で大変喜ばしい。裁判の経過を見ても関電の反論は誠実でない。原発の危険性を客観的に認識してもらえた」と歓迎した。
おおい町の中塚寛町長は「司法の判断は粛々と受け止めざるを得ない」と話した上で「規制基準に基づく審査を注視するとともに、(関電側の)控訴も予測されるので、見守りたい」。西川一誠・福井県知事は「行政の立場から言うことはない」とした上で「原子力は重要なエネルギー源」と訴えた。
判決を知らせるテレビのニュース速報が流れた直後、大阪市北区の関西電力本店の広報部では、十数人の社員が一斉に立ち上がり、テレビ画面にくぎ付けに。問い合わせの電話も相次ぎ、社員は携帯電話を片手に情報収集に追われた。
関電のある幹部は「差し止め判決は想定していなかった。ただでさえ規制委の安全審査が滞っているのに、再稼働への悪影響は避けられない」と険しい表情を浮かべた。
◇同種訴訟原告「私たちも」
全国で原発の運転差し止めや廃炉などを求めて係争中の原告団からは「追い風になる」と歓迎の声が上がった。
「国の裁量権に委ねず、司法自らが原発の危険性を判断したことに意味がある」。日本原子力発電東海第2原発(茨城県)の運転差し止め訴訟の原告共同代表を務める大石光伸・常総生協副理事長(56)は、こう強調する。四国電力伊方原発(愛媛県)の差し止め訴訟の原告共同代表で、福島県出身の須藤昭男さん(72)も「私たちも司法の独立に懸けて闘ってきた。何としても勝訴したい」と意気込んだ。
原発回帰の流れに一石を投じた結果を喜ぶ声も。青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場などの廃止を求める訴訟の原告団代表の浅石紘爾(こうじ)弁護士は「原子力規制委員会の判断を待たずに結論を出したのは驚きであり、画期的。他の裁判にも大きな影響を与えると思う」と述べ、「久々に留飲が下がった」と声を弾ませた。
判決は、大飯原発から250キロ圏内の居住者に危険があると認めた。
中部電力浜岡原発(静岡県)の運転差し止め訴訟3件に原告代理人として加わる北村栄弁護士は「浜岡原発から250キロ圏内には名古屋だけでなく東京も入る。多くの人に関係のある問題だと分かる」と指摘した。
再稼働1号となる可能性が高い九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)の運転差し止め仮処分を準備している「原発なくそう!九州川内訴訟」原告団の白鳥努・弁護団事務局長は、判決が「基準地震動を超える地震が大飯原発に到達しないという根拠はない」などと指摘したことに触れ「川内原発にも当てはまる。大いに勇気づけられた」と話した。【まとめ・狩野智彦】
◇福島の市民「希望の判決」
東京電力福島第1原発事故以降、放射性物質などに苦しめられてきた福島県民からはさまざまな反応が出た。
ラジオを通じて原発情報を発信し続けている「ラジオ福島」チーフアナウンサーの大和田新(あらた)さん(59)=福島市在住=は「原発事故から3年以上たってもいまだにコントロールできていない。ようやく事故を教訓とした判断を司法が示した」と評価する。大和田さんは原発事故後、一睡もせずにマイクに向かった経験がある。県民の現在進行形の苦しみを番組や講演会などで訴えてきたが、安倍政権は原発再稼働一辺倒。そこへ今回の判決がもたらされ「脱原発を求める多くの世論がこの判決をもたらした」と語った。
「判決はこの国の新たな指針になるのではないか」と話すのは福島県南相馬市で学習塾を経営する番場さち子さん(53)。原発事故後、100人以上いた塾生が避難してゼロとなり、経営が行き詰まって自己破産を勧められたこともある。「原発を他国に売ろうとしたり、再稼働を進めようとしたりする政府を理解できず、日本という国に不安を抱いている人にとって『希望の判決』だ」と話す。しかし、塾生の親に原発で生計を立てている人もおり、複雑な心境という。【坂根真理、横田香奈】
◇「理想的すぎる」「高評価できる」 識者賛否
「原子力防災」の著書がある松野元・元四国電力社員は「判決の結論は一理あるが、『250キロ圏内(の危険性指摘)』などあまりに理想的な内容で何の役にも立たない」と、今回の判決に厳しい。「原子力規制委の再稼働基準に対する反論などがあれば良かったが、具体性がなく、原発訴訟の歴史も踏まえていない」と指摘した。
一方、奥平康弘・東京大名誉教授(憲法学)は「憲法上、危険をはらむ経済活動より国民の安全の方が重要という判断で、高く評価できる」と話す。
2006年に北陸電力志賀原発2号機の運転差し止めを命じた金沢地裁判決で裁判長を務めた井戸謙一弁護士も「福島の原発事故を機に、原子力の安全性に対する司法判断は大きく変わると思っていた。今回の判決はそれが形になった第一弾といえる」と話した。【山田奈緒】
◇すばらしい判決 菅元首相も傍聴
関西電力大飯原発訴訟の判決は、菅(かん)直人・元首相も傍聴に駆けつけた。原発事故時に首相を務め、現在は一衆院議員として脱原発を訴えている菅元首相は閉廷後、取材に応じ、「すばらしい判決。国会における(原発の)規制基準の議論にも大きな影響が出ると思う。全ての原発を順次廃炉にするという政策に変わるべきだ」と述べた。【山衛守剛】
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◇原発運転差し止めなどを求め係争中の主な訴訟
原発名 裁判所 提訴年月
泊 札幌地裁 11年11月
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大間 函館地裁 10年 7月
東京地裁 14年 4月
※原告は北海道函館市
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東海第2 水戸地裁 12年 7月
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柏崎刈羽 新潟地裁 12年 4月
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志賀 金沢地裁 12年 6月
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美浜・大飯・高浜 大津地裁 13年12月
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敦賀 大津地裁 11年11月
※仮処分申請
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大飯 大阪地裁 12年 6月
京都地裁 11月
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浜岡 静岡地裁浜松支部 11年 5月
静岡地裁 7月
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島根 松江地裁 13年 4月
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伊方 松山地裁 11年12月
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玄海 佐賀地裁 11年12月
佐賀地裁 12年 1月
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川内 鹿児島地裁 12年 5月
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「司法は生きていた」という垂れ幕にしびれてしまった。ええのん用意してましたねえ。かなり庶民感覚に近い判決が出たと思う。
これは言いかえれば、「憲法は生きていた」ということでもある。
この流れで、私は「憲法九条も生きていた」という世の中にしていきたいと思う。。
判決文の中でも、私は以下の二つの部分に注目した。
すごく分かりやすいので、ぜひ読んでください。
【求められる安全性】
原発の稼働は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権(13条、25条)の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ。自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広範に奪われる事態を招く可能性があるのは原発事故以外に想定しにくい。具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ。
【国富の損失】
被告は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない。原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の損失だ。
被告は、原発稼働がCO2(二酸化炭素)排出削減に資すると主張するが、福島原発事故はわが国始まって以来最大の環境汚染であり、原発の運転継続の根拠とすることは甚だしく筋違いだ。
※日本国憲法第13条ーーすべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
日本国憲法第25条ーーすべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
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2014年05月22日(木)
「夢は牛のお医者さん」 [映画]
◎シネマトゥデイより
■チェック:1987年、新潟県にある9人しか児童のいない小学校にやって来た3頭の子牛との出会いから、獣医になる夢を抱いた少女の26年間を追ったドキュメンタリー。病気の子牛を世話するうちに、牛のお医者さんになりたいと思い立った少女が初志貫徹し、大学受験・国家試験と目標へいちずに突き進む姿にカメラが寄り添う。獣医という夢に迷いなく向かう少女時代、結婚と出産を経て獣医として活躍する現在と、その厳しい道のりにもめげずに変わらぬ志を貫く彼女の生き方に感動を覚える。
■ストーリー:1987年、新潟県松代町(現・十日町市)の生徒数9人の小学校に3頭の子牛がやって来た。小学校3年生の少女は病気がちな子牛の面倒を見るうちに、医者になるという夢を抱くように。牛との別れを経験、高校へ通うために実家を離れた彼女は猛勉強し、大学の獣医学科へと進む。やがて獣医となり、母になりながら、常に命と向き合っている。
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昨日、「京都シネマ」で一人で見た。観客は、わずか11人。
小学校に牛がやって来てやがて別れの時が来る・・・、その場面が映画の半分以上をしめるものだと思っていた。でもちがった。牛が小学校にいたのはわずか8か月。牛たちが400kgになったらせりに出すという約束だったから。この映画の中でも、その場面は20分ほどで終わってしまった。
重点を置かれていたのは、知美さんの高校3年からあとの部分だった。「国立の獣医学科に一発勝負、滑り止めも無し、浪人も無し。一発勝負の結果がだめならあきらめる」と公言していたのはすごかった。どうしてそこまで思えるようになったのか。それは映像だけからは想像できなかった。
私の小さいときの夢は、学校の先生になること。でも大学生になって、ある教職科目の第1回目の授業でビックラがえった。大教室からあふれるくらいの学生が・・・。「こんなたくさんの人間が先生になれるはずがない」、そう思い第2回目の授業から行かなくなった。
大学卒業間近な時、「ふじいー、仏大の通信1年で小学校教員の免許取れんぞー」と教えてくれた友だちがいた。「1年で取れるってええやん」と思い、佛教大学通信教育学部へ。ほんまに1年で免許が取れた。
「あとは採用試験だけか・・・。」
当時の京都市小学校教員採用試験は5倍。もうその頃は自分がそんなに賢くないことが分かっていたのだが、なんか受かるようなお気楽な気分。しかし問題がさっぱり分からず、見事に奈落の底へ。
でも翌年に奇跡が。私の知ってる問題ばっかりが出た。自己採点すると、苦手なはずの音楽が満点など軒並み好成績。見事まぐれで採用試験合格。
ああ猛勉強の初志貫徹少女とえらいちがいじゃー。
まあまぐれでなったようなもんなんで、長続きはせんかったちゅうことですかねえ。でも干支が一周する間やったから、ええとしよう。
このブログに度々登場する小谷屋のおばさん(私の小中同級生のお母さん)の言葉。「こうじさん、あんたおかちゃんが死んださかい先生やめたんやろう。生きとったら、こわーてようやめんやろう。」そら、私が採用されて一番喜んどったんおかちゃんやから。若き日の数年小学校の先生をしていた母は、4人の子の一番下が後をついでくれたようでうれしかったんやろうなあ。
1991年1月に母が亡くなり、その3月に私は退職。へへへ・・・。
映画の中で一番心に残ったシーン。
獣医学科の知美さんが、黒い雑種犬のお腹をなでている。その犬は、本当に気持ちよさそうに寝そべっていた。それは、小学生の時に牛をなでていた時と同じように・・・。しかし、その犬は「実験動物」だった。
「一番かわいがっていた人の目の前で殺すのがつらい・・・」
この場面を見て、「泣いて終り」の映画ではないとあらためて思った。
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