2011年06月26日(日)
第6回佐久島年代別マラソン [ランニング]
真樹の5kmのゴール。
暑さのため予想以上に時間がかかってしまったが、しっかり走りました。
朝7時、おいしい貝のみそ汁つきの朝ごはん。
私はふだんはお茶漬けしか食べられないのだが、お泊りにくると何でも食べられる。
朝一番の船は、半分くらいが釣り人のようだった。しかし、その次の臨時便はランナーらしき人がぎっしり。
港では、大会側が配置したと思われるガードマンさんが道案内をしていた。
宿が港のすぐ前なので、ずっと外を見ていてもあきない。
ごはんのあと時間があったので、ちょっと散歩。
別の民宿さんの前にかわいいネコちゃん。ここのネコちゃんはどれも逃げない。
民宿の前に張り出した囲炉裏で魚を焼き、朝からお酒を飲んでおられたのは、昨日西港で降りてしまわれたオッちゃんたちだった。
道端にはきれいな花。
アジサイに似ているけどちょっとちがうような・・・。
立派な佐久島小中学校。
右から入ると小学校、左から入ると中学校。最近は子どもが減ってしまって、小学校は複式らしい。
朝から薄曇の空。
このまま行ってくれたら走りやすいのだが、予報では昼ごろからカンカン照りに。
ハガキの案内では受付が8時半からだったが、9時からに変更。それに伴って、3km5kmは10時半スタート、10kmは11時20分、ハーフは11時半のスタートになった。
「あー、最初の予定では5kmと10kmの間が1時間あったのにー、50分に縮まってしもたー。これは真樹に気張ってもらわんと、スタートぎりぎりになってしまうー。」
もともと申し込んだのは、私が単独で3km、そのあと真樹とふたりで5kmを走るつもりだった。10時スタート予定だった3kmでぶっ飛ばして優勝、そして10時半から真樹としゃべりながら5kmを楽しく走るという計画だった。
ところが6月21日に届いた「参加通知書」に、「今回3kと5kのスタート時間を同時にさせて頂きました。3kの参加を出来れば10k、ハーフのどちらかへの変更へお願いできませんでしょうか?」
もう長い距離を走る気はなかったのだが、しかたない。5kmを真樹とゆっくり走った直後に、10kmをぶっ飛ばす? きっつー!
5kmと10kmのコースを見ると、共通の部分が多い。5kmは途中から近道をして帰って来る感覚かな。
「あっ、あんもちゃん!」
あんもに似た黒猫発見。ころころやったね。
9時、大浦海水浴場前の観光会館で受付開始。
大会の役員さんのほとんどは、今日の朝の船で来られたようだ。若い人が多かった。
いったん宿に戻り、荷物の整理をし、その荷物を帰りの船の時間まで置かせてもらうことした。
10時前、真樹といっしょに会場へ。
佐久島の旅館・民宿のほとんどは、東港と大浦海水浴場との間にあるのですごく便利。会場まで、歩いて5分以内。余裕のある人には前泊がお勧め。豪華な食事のわりには格安です。
スタート10分ほど前、受付からちょっとだけ港側に戻ったところのスタート地点へ誘導。
川崎大会会長さんからごあいさつ。
3km5km10kmハーフの4種目に、総勢350人ほど。
宿の女将さんにお聞きすると、現在の島の人口が300人くらいなので、今日は2倍になった勘定。
4月の「伊江島マラソン」は真樹を見捨てて一人先を走ったので、ふたりいっしょに走るのは去年12月の「龍神温泉マラソン」以来、半年振り。
私は右アキレス腱を痛めているので、ちゃんと走れるか心配だった。スタート前に1kmほどウォーミングアップをしたのだが、そのときは違和感はあったが痛みは出なかった。
真樹の走っている写真はめったに撮れないので、常に5mほど前を走り写真を撮っていた。
西港にもガードマンさんが・・・。
西港からあとは、海岸沿いのコンクリートの道路を走る。
この灯台で2kmくらいでしょうか。
「2kmちゃんと走ったし、ちょっと歩くわ。伊江島は1kmまでしか走れへんかったし・・・」とのこと。
これは、たぶん「学生プロジェクト」のアート作品。
やっと、3kmと5kmの分岐点。
若いおにいさんが元気な声をかけてくれる。
しかし、まだまだ続く海岸通り。
ハーフはここを2往復なので、ちょっとあきるかも・・・。
給水所のスタッフは、「佐久島館」で同宿だったおじさん。
「朝早くからバタバタして悪かったね。」
「いえ、涼しくてよく寝られました。」
「彼女も走ってるんだ・・・。」
「はい、娘ですねん。まだ16の高2です。」
「あら、娘さんだったの・・・。」
世間では「父親と高校生の娘とのふたり旅」というのがピンとこないらしく、よくこんなことを言われる。でも、「娘とちごたら誰やねん!」て話ですけどね。
やっとかんかん照りの海岸通りを右折。森の中へ。
この時点で30分超え。地図上ではどう見ても残り1.5kmくらいあったし・・・、えらいこっちゃ、10kmのスタート時刻が迫って来ている。
景色が変わって、真樹復活!
見ちがえるようにスタスタと走り出した。
でも、ここらあたりは一見ジャングルですね。
畑があるところに出ると、もう海が見えた。
大通りを横断したら、あとはゴールまで500mほど。
あっ、ここにもガードマンさんが。
木の橋を走って渡ると、ガタガタと音がした。
私は真樹のゴール写真を撮るため、少し先にゴール。
最後の直線で、真樹のラストスパート。
ずっと前を走ってられたランスカコンビも追い抜き・・・。
ゴールは40分以上。
少し歩いただけでほとんど走ったのだから、これは距離が長かったものと思われる。5kmは往復コースではなくて、ループ状にまわってくるので正確な距離は取れないはず。まあ、真樹がタイムをあまり気にしていなかったのでよかったけど・・・。
急いでスタート地点に行くと、「10kmスタート、7分前です」。
でも、7分あれば十分です。
前もってナンバーカードは二重にしてつけてあったので、上のを取るだけ。帽子を真樹に預け、水道で顔を洗って準備万端。
11時20分、10kmのスタート。
大会プログラムや名簿がないので、50代が何名出ているか分からず。
「どれくらいがんばったら入賞できるんかなあ・・・。」
ところが、やっぱり右アキレス腱がしみしみと痛み出してきた。
「真樹と走ってたら、痛くなかったのに・・・。」
海岸通りの折り返し点で、スタッさんにお願いしてパチり!
もうこのころは太陽が完全に顔を出し、ガンガン照りで気温急上昇。
ここで25分30秒くらい。暑さと足の痛みで、とんでもないタイムになっている。私の目標は、「真夏でも10km45分」なんですけど・・・。
残り1km地点あたり。
わざとぼかして撮ったわけではないけれど、ほんとうに頭の中がこの写真のような状態だった。
ゴールのちょっと手前で、ハーフのトップに抜かれる。
10分後スタートだから、11km40分ですか。この方がダントツでした。
私のゴールは51分ちょっと。痛む右足を引きずるような走りになってしまったが、後半もようがんばりました。
記録証をもらうと、50代の3位。でも、出てたのが3人かもしれん・・・。
大会側から、海の家3軒どこでも使える食券250円分をいただいた。私は2種目エントリーなので真樹の分とあわせ750円分。なにを食べようかと迷っていたら、下から「ニャー」。
うちで前に飼っていたキャロちゃんに似たネコちゃんが2ひき。「なんかもらえませんか」とかしこく待っていた。
けっきょく、焼きそば(500円)を2つとエビからあげ(500円)を1つ、それとほかのお客さんの注文まちがいの大アサリ焼きもいただいた。けっこうおいしくておなかもふくれた。
真樹も、少しは歩いたが景色のいいところを走りきったという達成感があったのか、パクパクとおいしそうに食べていた。なにより、なにより。
貝の端っこをやろうとネコちゃんに持っていたら、「シャー」やて。おまえは、あんもか。これからあげるってゆってるのに、何で威嚇してネコパンチまで出すかなあ。
「佐久島館」に戻り、シャワーを使わせてもらった。そこから出てくると、真樹が「1時40分に船出るんやてー」。
「えー、あと5分。乗れるやん。急げー。」
港まで1分。船はまだ出ていなかったが、係員さんから「もういっぱいで乗れません。次の2時の臨時を待ってください」。
ちゃんと次のが2時前に到着。私たちは一番乗りで、一番前の席に座ることが出来た。
臨時便は西港には寄らない直行なので、15分くらいで一色港に着いた。
あとはカーナビどおりに運転するだけ。
けっきょく、2時ちょうどに佐久島を出て、家に着いたのは5時5分。3時間で帰れた。
「ちかっ!」
この近さなら、また佐久島に行ってみたいなあ。
真樹は車に乗るとすぐ寝てしまった。
「ジャズドリーム長島」で買った服、みんなにかわいいって言ってもらえたらいいのにね。
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2011年06月25日(土)
佐久島へ [ランニング]
明日、愛知県の三河湾の佐久島で行われるマラソンに参加します。
真樹といっしょに出かけます。
今日は「ジャズドリーム長島」によってお買い物をする予定。
きくのお散歩をいつもより長めにして、10時過ぎ京都出発。
伊勢湾岸道・湾岸長島ICからすぐ、「ジャズドリーム長島」へ。
駐車料金1000円。これは、1店舗で3000円以上の買い物をしたら戻ってくるらしい。
この駐車場から入り口まで、高速道路の高架下をかなり歩いた。
三井アウトレットパーク「ジャズドリーム長島」は、木製ジェットコースターで有名な「長島スパーランド」に隣接。
ちょうど昼時。まずは腹ごしらえ。
5つの店がかたまってあって、自分で注文し、自分で運ぶ。そのわりにはちょっと高い。
いっそここで3000円分にしようかとも思ったが、お昼に一人1500円は使いすぎ。やめといた。
けっきょく、天ぷらせいろ(1190円)を注文。
おいしかったけど、やっぱりちょっと高い。
さて、お買い物に・・・。
まずは「京都キャロット」最大の取引先に敬意を表し、「アシックス」さんへ。
「お客さん、すくなー。」
ゆうて悪いけど、こらもたんかもしれん。
とりあえず、一通りぐるっとまわって・・・。
アシックスに比べると、ナイキは盛況。
帽子を持ってくるのを忘れたので、ランニングキャップ購入(950円)。
ステージでは、小さな子どもたちがかわいいダンスを披露していた。
真樹もなかなか気に入ったものがなかったので、駐車料金1000円戻らんでもええかということになった。
でも、最後の最後に入ったお店にけっこうかわいいのがあった。
「これいいやん」とか言っていると、横から女の人がさっととっていかれた。でも、同じものの少し小さいサイズがまだ残っていたのでそれを買うことに。あぶないとこだった。
真樹によく似合いそうなかわいいのが見つかって、ほんとによかった。
そこから、佐久島行きの船が出ている一色渡船場へ。
午後3時50分発に余裕たっぷりでつくはずだったのに、ぎりぎり15分前に到着。
船に乗り込むと、「マラソンに行かれる方ありますかー。」
「はーい」と元気よく手を上げた。「なんか特典があるなのかな?」
「会長さんが忘れ物をされて・・・。持って行ってもらえますか。」
「(おー、なんてこったい!)」
渡されたのは大きな取っ手の着いた熊手。たぶん、散らかった給水用の紙コップをかき集めるのに使うんでしょうね。
佐久島は三河湾内にあるので波静か。
15分ほどで佐久西港着。
ここでハプニング。
5人ほど降ろして東港向けて出発。ところがしばらく進んでバック。まちがって下りてしまった人を拾いに。
「すんません、すんません」と何度もあやまっておられた。それよりすごい、気がついて戻ってくれる船。
ハプニングがあったものの、それでも東港には27分くらいで着いた。
泊まる予定の「佐久島館」さん。
「港のすぐ前です」とは聞いていたが、ほんとに目のまん前。
館内に入ってビックリ。大会会長の川崎さんが明日の準備をしておられた。
「一色の港から熊手預かってきました。会長さんが忘れられたって・・・。」
「あー、それはそれはすいませんでした。」
会長さんはお仲間お二人とともに前日から佐久島に入り、いろいろと準備をしておられるようだった。それにしても、会長さんと同じ宿だったとは・・・。
ネコちゃんが多い島らしいので楽しみ。
近くによって行っても逃げない。これは、ネコちゃんが大事されている証拠。
地図を見ると、この島はクロワッサン形ですね。
天気予報ははずれ、30℃を超す暑さ。
でも、佐久島館に入ると、南からいい風が吹いて涼しい。
東港の湾から出て行く連絡船。
明日の会場となる大浦海水浴場まで、真樹とお散歩。
波がまったくなく、まるで池のよう。
いい海水浴場です。
ここはかの有名な「かもめの駐車場」(実は風見鶏)。
かもめさんのモニュメントといっしょにパチリ!
真樹は、アート作品にすわって・・・。
「あー、くーちゃんそっくり。」(くーちゃんはヨメさんの親友のちょっとぽっちゃりさん。)
宿への帰りに、ネコちゃん2ひき発見。
まー、きれいなネコちゃんなこと。
夕食は魚介類づくし。
もう終わりと思ったら、そこからエビが出てきた。これがまたおいしいのなんのって・・・。
真樹が撮ってくれた、宿の窓からの夜景。
「あー、気もちいい。涼しいだけでも来てよかったわ」やて。
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2011年06月24日(金)
サロマへの暴走 [家族]
「このまま男と逃げて、帰ってこーへんかもしれんし・・・」と言い残し、毒嫁は旅立って行った。
お昼過ぎ、きくを引きつれ京都駅までお見送り。
今日、北見市のホテル入り。
明日からはレンタカーを使って、一人で行動するらしい。
「さあ、毒嫁の暴走が始まる」と言いたいところだが、この先はどうなるか不明。
ウルトラ15回連続関門収容の私には、ゴール写真がない。
「めざせ、ゴール写真!」
「オバサンの留守中、かしこうしとこな」ときくと誓う。
かしこうしとったら、ちゃんと帰って来てくれるかな・・・。
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2011年06月23日(木)
沖縄をおもう日 [沖縄]
◎毎日新聞6月23日夕刊
沖縄:「忘れない限り平和は続く」 13歳が詩朗読
23日の沖縄全戦没者追悼式で、沖縄県浦添市の仲西中2年の嘉味田朝香(かみだ・ともか)さん(13)が、自作の詩「幸せの一枚」を朗読した。沖縄戦を風化させず、悲劇を繰り返させないとの思いを込めた。
「私の祖母が持つ一枚の写真 何年も経(た)つけれど 忘れられない笑顔 忘れられない言葉」
小学3年の時に学校の宿題で、祖母(85)に沖縄戦の体験を尋ねた。祖母は何も言わず、1枚の写真を嘉味田さんに見せた。
「古びた写真に写る 子どもたち 満面の笑顔の男の子 勝気そうな女の子」
祖母は小学校の元教員。写真の二十数人の子どもたちは、祖母の教え子たちだった。
「みんなどうなったの?」
嘉味田さんの問いに、祖母は長い沈黙の後で答えた。
「どうして戦争なんかするのかねー 戦争さえなかったら みんな幸せだったのに……」
つらそうな祖母の言葉と表情に触れ、嘉味田さんは、一見幸せそうにみえる写真に、祖母の悲しみが込められているのを知った。
「大人になるその日を夢みていたはずだ その笑顔を 幸せを 奪った戦争を 私は許さない 絶対に許せない」
戦後66年がたった今も、沖縄には多くの米軍基地がある。「戦争が終わったのに、なぜこんな広い基地が残っているのか」という疑問がある。しかし、一方で米軍普天間飛行場に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが新たに配備されるとのニュースも報じられる。日本は平和に見えても、世界のどこかで「戦争が続いている」との思いも募っていく。
「私たちが忘れない限り 平和は続くだろう だからこそ 忘れてはいけない この地には たくさんの笑顔が たくさんの夢が 眠っていることを」
世界から戦争がなくなった時に、子どもたちが笑う祖母の写真が、本当の意味で「幸せの一枚」になると信じている。【井本義親】
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「幸せの一枚」全文
沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」で、浦添市仲西中学2年の嘉味田朝香さん(13)が朗読した詩「幸せの一枚」の全文は以下の通り。
私の祖母が持つ一枚の写真
何年も経つけれど
忘れられない笑顔
忘れられない言葉
小学生の頃
先生がだした宿題
家族から戦争の話を聞いてくること
急いででかけた
祖母の家
祖母は何も言わず
棚の奥から
一枚の写真を
取り出した
古びた写真に写る
子どもたち
満面の笑顔の男の子
勝気そうな女の子
おとなしそうにはにかむ笑顔
豪快に口をあけた笑顔
たくさんの笑顔
一人一人の目は
未来を見つめ
キラキラ輝いている
「この人だぁれ?」
真ん中に写る女性を指さし
祖母に尋ねる
祖母は寂しそうに笑い
「わたし」
一言だけ答えた
一人一人の顔を
愛おしそうに
懐かしそうに
指でなぞるように
眺めながら
時が止まる
「この子たちは?」
ふたたび祖母に尋ねる私
「おばあちゃんの生徒たち」
「大切な大切な生徒達」
「みんなどうなったの?」
祖母は答えなかった
ずっと黙ったままだった
幼い私にも
祖母の深い悲しみが
深い苦しみが
痛いほど伝わった
長い沈黙のあと
祖母は
「どうして戦争なんかするのかねー
戦争さえなかったら
みんな幸せだったのに…」
私はもう一度写真を見た
みんな笑っている
幸せそうに笑っている
愛する家族がいたはずだ
たくさんの夢があったはずだ
大人になるその日を夢みていたはずだ
その笑顔を 幸せを
奪った戦争を
私は許さない
絶対に許せない
祖母は多くを語らない
私はあれ以来
あの写真を見てはいない
祖母の家に眠る一枚の写真
それにこめられた祖母の思い
もう何年も経つけれど
忘れない
私はずっと忘れない
私たちが忘れない限り
平和は続くだろう
だからこそ
忘れてはいけない
この地には
たくさんの笑顔が
たくさんの夢が
眠っていることを
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昨日の夜、久しぶりに沖縄の智さんから電話があった。
「明日のことを思い出してもらおうと思って・・・。」
「ああー、23日。沖縄慰霊の日ですね。」
確かに、忘れてはいないが特別覚えていたわけでもない。
5年前、初めてお話させてもらった滋賀沖縄県人会の高間悦子さんから「沖縄差別」という言葉を聞いたときはショックだった。日本の米軍基地の75%を沖縄に押し付けておいて、それをなんとも思わず放置しているだけでも沖縄を差別していると言っていい。
1945年の6月23日は、激しい地上戦となった沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結したといわれる日。沖縄では、この日を「慰霊の日」として休日にしている。
沖縄だけじゃなく、日本全体の休日にしたらどうでしょう。「沖縄をおもう日」でいいと思います。沖縄が抱えている問題をみんなで真剣に考えたら、今の日本の抱えている問題が次々と浮かび上って来るでしょう。沖縄から学べることは山ほどあります。
休日が多すぎるというなら、「昭和の日」はもういいです。「沖縄」の中に「昭和」も十分含まれていますよね。
6月23日を日本全体の休日とし、せめて一年に一度だけでも沖縄のことを真剣におもう・・・ということがあっていいと思います。
今日、真樹の高校で演劇鑑賞があった。
その題は「修学旅行」。
俺は何のために沖縄に来たんだぁっ!
「あの時代」の記憶と、「この時代」の現実が重なり合う島・沖縄で、ちっちゃな(しかし当人たちには重大な)バトルが繰り広げられる!?
あなたと私が分かり合うことと、世界平和はカンケーない!・・・か?
今日のこの日に、「沖縄をおもう」演劇鑑賞を設定してくださった高校の先生方には心から感謝します。子どもたちの心の片隅に、何か引っかかってくれたらうれしいですね。
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2011年06月22日(水)
第18回勝手に国労応援ラン [ランニング]
◎中野勇人さんのツイッター(@hashiluotoko 四国 徳島県)より
1987年にJRを不採用になり、今日まで24年「解雇撤回・JR復帰」を闘っている。現在は、北海道から四国常駐オルグとして赴任し7年目。マラソン、自転車等で様々なキャラバンを取り組み奮闘中。
▽ ▽ ▽
国鉄闘争、雇用問題。6月10日、民主、社民、国民新党からJR側に雇用問題の働きかけを要請された政府は13日、津川国土交通政務官がJR側に要請書を手渡した。JR側はその場で要請を拒否し、大畠国交大臣あてに、JR7社社長連名の雇用拒否文章も渡した。
6月15日
JRへの雇用問題続き。今日の北海道新聞では、枝野官房長官は14日の記者会見で「国として強制できる話でない」と積極的な働きかけはしない考えを示し、国土交通省も「今後も、党からの要請があれば『真摯に受け止めてほしい』とJR側に取り次ぐことしかできない」と消極姿勢と報道されている。
6月15日
当事者の反応…「党とJRとの間を取り次ぐだけで努力と言えるのか。政府は雇用確保を強力に働きかけてほしい」(佐久間原告団中央事務局長)「1年以上、雇用問題を放置した政府の対応は誠実と言えない」(仲尾闘争団道連絡会議)「政府の雇用要請をその場で拒否するJRに憤り」(音威子府闘争団)
6月15日
JRへの雇用問題は、政党でなく、政府に努力義務があります。民主党、社民党、国民新党、公明党の4幹事長、前原国交大臣、菅財務大臣、平野官房長官の署名もあります。政務官が文書で要請するようなお茶を濁したようなやり方では納得できません。政府が約束を果たすまで闘いは続きます。
6月15日
「勝手に国労応援ラン」も、もうそろそろ終わりの時かと思っていたが、中野さんのツイッターを見る限りではまだまだ続けなくてはいけないようだ。
でも、右足のアキレス腱がねえ・・・。
今日は、本当は日根野から和歌山港までの30数キロを走るつもりだった。
でも、この足ではムリ!
とりあえず、大阪と和歌山の県境をめざそう。
また、京都駅近くのコインパークに車を入れJR日根野駅へ。
昼時になったので駅近くの店で食べようと思ったが、入りやすい店はなし。けっきょく、ちょっとはなれたイオンの中のお店で食べた。
近くのアパート前で、ネコちゃんが「このくそ暑いのに、走るなんてアホやねー」というような顔をして見ていた。
午後2時40分、あらためて日根野駅をスタート。
かなりゆっくりペースで走り出したのだが、やっぱり右アキレス腱がしみしみと痛い。
阪和道(高速)の下ではゲートボール。
ここだけは涼しそう。
ここは、JRの車庫でしょうね。
日根野の次の駅、「長滝」。
樫井川の兎田橋を渡る。
暑くて暑くて、早くも汗ボタボタ。
ぞうきんかと思いましたわー。
かわいくて、堂々としたネコちゃんでした。
踏み切りを渡ったので、北に向かって1枚パチリ!
2番目の駅、「新家(しんげ)」。
ここらは、こじんまりした駅が続く。
3番目の駅「和泉砂川」は、府道から離れたところだったので立ち寄れず。
それよりも、丘の上に見えるバカでかい建物が気になった。
「ここらで有名なお寺て、あったっけ?」
丘を登りきっところでやっと分かった。
宗教団体「ほんみち」さん。
私のいなか・花脊別所から10数キロ北に行った「広河原」にも支部ができている。今やそこの子たちが、地元の小中学校の児童生徒の大半を占めている。
広河原の建物もいなかの中では周囲を圧倒するくらいの大きさだが、この泉南支部の敷地建物と言ったら・・・。ちょっとあいた口がふさがらんというような感じです。
ここに比べたら、広河原の建物はほんの山小屋程度。ということは、本部はどんなんなんでしょう。道の両側に延々と続く立派な塀を見ながら、ため息が出てきました。
そこからはずっと下り。
しばらくアキレス腱が痛くて歩き続けていたのだが、ゆっくりジョグのスピードで走れるようになった。
4番目の駅「和泉鳥取」には、下校中の生徒の姿がたくさん見えていた。
しかし、そのあとまた上り。
大阪と和歌山の県境は、かなりの標高があるようだ。
途中の資材置き場で「ウォウォウォーン!」
かわいいワンちゃんにほえられまくられ・・・。
こっち、ちょっとうちのきくに似てます。太いところも・・・。
ここらは以前は「山中村」と言ったらしい。
昔のエライさん「田中武八」氏をたたえる碑。
ここから熊野古道が始まるらしい。
来月は自動車道じゃなくて、こっち走れへんかなあ。ちゃんと和歌山市に着くんやろか。
さっきから、あちこちでビワが鈴なり。
5番目の駅「山中渓(やまなかだに)」は無人駅。
4時30分ころに到着。
ここから県境の山越えで、次の駅「紀伊」は13kmも先。ここで帰るのが賢明。
とりあえず、駅で記念写真を撮ってと・・・。
と、和歌山側から電車が。急いで反対側のホームに渡り、電車に飛び乗った。
「乗車券、こうてへんがなー。」
天王寺が終点かと思ったら、大阪環状線入り。大阪駅の2つか3つ手前あたりでやっと車掌さんがまわってこられた。
「山中渓→京都」1530円を発券。ということはやね、日根野から1時間50分も走って150円分ですか。電車では15分やったもんね。(走った距離は14kmくらいかな。)
来る時も思ったんやけど、「節電、節電」て言ってるわりに電車の冷房きき過ぎ。これはいかん。特に帰りは汗をかいていたので、体が冷えて冷えて。
「かぜひくちゅうねん!」
でも、この「一人駅伝」はけっこうおもしろい。よく考えると、今はやりの「四国八十八か所めぐり」にも似ている。今まで全然知らんかったところも走れるし・・・。これで、出会った人としゃべれたら最高なんやけど、ちょっとあやしい(?)アピールゼッケンつけてるもんで、そうやすやすとはいかんわね。
京都駅に帰ってきたのは6時半。
駅の東側に安いコインパークを見つけた。平日最大900円。先月とめた1000円のところよりも駅に近いし、いいところが見つかった。いろいろと節約しなければ。
今日予定していた和歌山港まで行けなかったので、8月に徳島県三好市に到着という目標があやしくなってきた。これは、来月に1泊2日くらいで「通し一人駅伝」やらなあかんかなあ・・・。
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2011年06月21日(火)
おかしくばり [雑用]
「おかしくばり」と言っても、2ヶ所だけ。小谷屋のおばさんとうちの父。
「SAIKOロードレース」の帰りに「田子の月」さんに寄り、銘菓「富士山頂」を買って帰るのがパターンになった。
「小谷屋のおばさん」は、私の同級生のお母さん。長い間、うちのいなか唯一の旅館の女将さんをされていた。以前、父に持って行くついでにちょっとだけおみやげを持っていった。そのときにすごく喜んでくださって、それ以来この「おかしくばり」を続けている。
花背峠を越える時、ふと下界を見たくなった。
私が中学くらいまでは花背峠の近くからも見えたのだが、杉が大きく育って今はもう見えない。これは赤い鉄塔の近くまで行くしかない。
「見えましたー。」
でも、この見えてるのはどこらへんなんやろう。
この赤い鉄塔の下は、私が百井分校に勤めていたとき毎年写生会に来ていたところ。
ここらからは、滋賀県のびわ湖も見える。
花背別所町のちょうど真ん中らへんに、小谷屋さんがある。
「おばさーん、また富士山のおみやげちょっとだけ持って来ました。」
「いや、こうじさん、いっつもすんません。」
「いやいや、そんなたいそうなもんちゃいます。ついでゆうたら悪いですけど、おじいさんに持ってくるついでですわ。」
よく見たら、おばさんの横によりちゃんが!?
「いやー、久しぶり。帰ってんにゃ。」
「うん。」
まあ、ここはあまり深追いせず・・・。
「おばさん、大そうじですか。」
「いやな、アニキが帰って来てくれたし、戸を夏用に変えてんにゃー。」
「そうですか・・・。僕らのクラス会も小谷屋さんでできたら一番よかったんですけどねえ。」
「こうじさん、そんなもん、もう家の中もむちゃくちゃやし。」
「今年も雪でだいぶやられましたか。」
「そや。雪下ろししてくれるのはええんやけど、おっきい男が古い屋根の上で動くさかい、雨漏りがえらいことやね。」
「そらえらいことですねえ。」
「こうじさん、あんたとこのおじいさんは優三さんもいるし、多鶴子さんも別所に家建てるらしい、こうじさんもいるし、ゆうことなしやで。」
「ほんまにねえ。これでおかちゃんがもう10年ほど長生きしとったらねえ・・・。」
「そうや、それだけがなあ。こうじさん、あんた、お母さんが死なはったら、すぐ先生やめてしもて・・・。」
「いや、よう知ってはりますやん。おかちゃんが1月に死んで、その2ヵ月後にやめましてん。」
「こわいもんがおらんようになって、自分したいようにしたんやろう。おばさんは何でも知ってるでー。」
「まいりました。そやそや、ちょうど1年前に撮らしてもろたおばさんの写真、持って来ました。べっぴんさんに撮れてまっせー。」
「いやー、ほんまにきれいなこと。」
こんな話を、横でよりちゃんはニコニコしながら聞いていた。
来年の夏に、またクラス会をやる予定。今度は来てやー。
うちの家によると、草がだいぶボーボーになっていた。
また、草刈りせんなんなあ。
次に、おじいさん(私の父)の家へ。
「お菓子、おばあさんにお供えしょうかなあとおもたけど、賞味期限がもうすぐやしやめとくわ。」
「すぐ下げるさけ、どうもない。供えとき。」
「はい。」
「こうじ、こないだ、かんすけのさだひろが来たど。こうじさんがどうのこうのゆうさけ、なんで知っとんねーて聞いたら、お前の書いとるもん読んどるらしいなあ。」
「ああ、そうやねん。」
「まあ、さだひろにはびっくりしたわ。一番太い時は110kgあったんやてえ。」
「えー、そうか。小学校の低学年のときからおうてへんし、今おうても分からへんやろなあ。」
「そうや。うちに半日ほどおったなあ。昔の話ばっかりぎょうさん聞いて帰ったわ。」
「別所のこと、いろいろ調べとるみたいやで。そら、そうゆうもんもおらんと。おじいさんの知っとること、全部教えたりいな。」
「おお。」
「ボクはな、さだひろ君に、別所は藤井と物部ばっかりやのに、なんで山本と辻が1軒ずつあんのか調べてくれゆうといてん。」
「ほー。うちの藤井は分かっとるで。明治の日清戦争の時に、長男は戦争に行かんでよかったさけ、みんな藤井にして分からんようにしたらしい。うちは当時のお金で60円出して、藤井の名字をこうたんやで。おじいさんのおじいさんのその前までは、荻原ゆう名字やったんや。」
はー、そしたら、私のほんまの名前は「荻原廣司」ですか。年寄りとしゃべったらいろんなことが分かっておもしろい。
さだひろ君、またうちのおじいさんの話し相手になったってや。
小谷屋のおばさん81歳、私の父89歳。
来年の「おかしくばり」の時にも、いろいろとお話しましょうね。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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