2008年07月11日(金)
矢野絢子(じゅんこ) [私の好きな人]
◎京都新聞7月10日夕刊 「歌が生まれる」シリーズより
激しくかき鳴らされるギターと優雅なバイオリンの音色がステージ上で絡み合う。高知市の中心街から少し離れた住宅地に立つ「劇場 歌小屋の2階」は、その夜もライブの熱気に包まれていた。三十人も入れば満員の客席。いつものようにステージを見詰める矢野絢子(28)の姿があった。
ピアノの弾き語りで2004年にメジャーデビュー。翌年には日本ゴールドディスク大賞で新人部門の賞も受けたが、一貫して高知を離れず、この歌小屋で歌い続けてきた。「どこにいっても、ここ以上に面白いライブはない。私の音楽の基準は全部、歌小屋にある」
高校生だった1997年に音楽活動を始めた。拠点のライブハウスが約一年後に閉店。ミュージシャンや役者八人が集まってカンパを募り、生活費もつぎ込んで、出演者が自ら運営する歌小屋を立ち上げた。
音響を良くするために紙の卵パックを天井に張るなどして、二階建ての事務所を手作りライブハウスに。自宅のピアノを持ち込み、二十歳のころは二階の控室に住んだ。受付も照明もすべて自分たちでやる。毎日のように仲間のライブを全身で浴び、影響を与え合いながら、強烈な個性を放つ歌を生んでいった。
「知らない所に行きたいな」「嘘だよ本当はね ここに居たい」と、歌小屋への思いをつづったデビュー曲「てろてろ」。いすの“一生”を描いた12分の 大作「ニーナ」・・・。デビューの歳、矢野がレコード会社側に提示した条件は、高知在住と、「歌小屋で発表するために曲を書く」矢野には当然の選択だった。
2006年に現地に移転した後も、全国からファンが歌小屋を訪ねる。矢野が師と仰ぐミュージシャンの池マサト(44)は「一番気持ち良く歌える空間と、それを喜んでくれるお客さんがいる。スタイルはずっと変わらん」。
今夏発売の二枚組みアルバム「サマーバケイション」には、「歌小屋」という新曲が収録されている。「矢野絢子という、歌小屋の文化の中から生まれた歌うたい」が、そこに立っている。
◎今回は、私のブログでは異色。すきな歌について。
去年の4月ここ市原に引っ越してきて、きくの散歩は長代側沿いの道になった。まだ家が建て込んでいない長代側沿いには、大きな大きなニレの木があった。
夏の暑い日、きくと私は、いつもその木の木陰でいっぷくしていた。周りに何もなくその木が枝を広げているだけなのに、なぜかひんやりとしていた。きくはその場所が気にいっていたのか、いつもその木の下でウンコをしていた。そして、その後動こうとしない。
その大木が、去年の12月、道路拡張のため切り倒されてしまった。最後の日、たまたま通りかかったきくと私は、その大木の最後の抵抗を見せてもらった。ブルドーザーに何回も揺さぶられていたのに、「そう簡単に、倒されてたまるか!」という感じがした。
その時思い出したのが、矢野絢子さんの「ニーナ」である。
♪その椅子は木で出来た丈夫な椅子
こげ茶色のクッション木彫り花模様肘掛
背もたれの両端には小さな赤い石
それはそれは美しい木の椅子だった
その椅子を作ったのは椅子職人の爺さん
曲がった腰慣れた手つき鋭い目
出来上がった椅子があんまり美しかったので
死んだ妻の名前をこっそり入れたのさ
店先に置いた椅子はすぐに客の目に留まり
やって来る客についつい爺さん「売り物じゃない」という
何人めかの客が来てしばらく話し
爺さんはついに言った「売りましょう」と
(中略)
何度も壊れ直された足はちび肘掛は擦り切れたが
小さな赤い石はきちんと二つ光ってる
今ではもう五歳になった娘はやんちゃな悪戯っ子
椅子の下海底ごっこ思わず目を輝かす
「何か彫ってあるよ母さん
ねぇ、素敵だわ
きっとこの椅子の名前だわ
ニーナ! ニーナ!
娘は椅子をそう呼んだ♪
(後略)
その木が切り倒された後、その木の横を通る時、いつもこの歌を歌いながら通った。私にとっては、「ニーナ」はこの木への鎮魂歌だった。(もちろん、その木を「ニーナ」と呼んでいた。)
人間の都合だけで、長い間この土地を見守ってくれていた大木をあっさり切ってしまった。「ごめんな」と言って、木をなぜても・・・。
道路の拡張工事が、だんだんこの切り倒された大木の近くに迫ってきた。もうすぐ、この大木もどこかに運ばれ処分されるのかもしれない。
切り倒されているのに、春には新しい芽が出てきた。「ああ、生きてんにゃ・・・。」と喜んでいたのに。
だまされたと思って、一度「ニーナ」を聞いてみてください。心にしみる、すごくいい歌です。
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2008年07月10日(木)
「きく・きく・きく」、フィーバー [ブログ]
最近、まじめな記事が多いせいか、アクセス数が落ち込んでいる。
ここらで一発、おもろいことを・・・。
私のブログの右横に、過去の記事で使った写真が3枚出るのにお気づきでしょうか。アットランダムに出ているようですが、この3枚の写真でけっこう遊べます。
前にヨメさんが見た時、3枚の写真が全部自分の写真の時があったらしい。
「これは、引くなあ。なんちゅうナルシストやねん、と思われるやろなあ。」とヨメさんの感想。
私は、この状態を「毒・毒・毒」のどつぼフィーバーと呼びたい。
逆に、「きく・きく・きく」とそろうこともある。これこそ、ほんとのフィーバー。この3枚をそろえたあなた、めっちゃラッキーなことが起こります。まちがいない!
ところで、「ぱおぱお・ぱおぱお・ぱおぱお」の3枚そろえてしまった奇特な人、あなたはいったい・・・?)
(新しい携帯で撮った写真は、どうでしょう?)
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2008年07月09日(水)
「ナヌムの家」 [映画]
◎映画のチラシより。
女流監督ビョン・ヨンジュが27歳の時に、つらい過去を持つ元従軍慰安婦の心のつぶやきに耳を傾けたドキュメンタリー。ソウル市内の“ナヌムの家”(分かち合いの家という意味)で仏教団体の支援を受けながら共同生活を送る6人のハルモ二(老婆)の日常を綴る。映画は日本政府の正式謝罪と補償を求めて毎週水曜日に日本大使館の前で行うデモから始まり、炊事や洗濯、おしゃべりの合間に彼女たちが戦後受けた差別や苦しみをつぶやくように語る姿を温かいまなざしで捉えていく・・・。16ミリのドキュメンタリー映画で、翌年、同じ監督で新たな日々に入ったハルモニたちのその後を描いた続編が制作されている。1995年山形国際ドキュメンタリー映画祭小川紳介賞受賞作品。
◎私は、お年寄りの話を聞くのが大好きだ。
この映画では、強制的に日本軍の従軍慰安婦にされた韓国の女性が、過去を振り返り淡々と話されていた。私は韓国語がまったく分からないので、映像を目で追いながら下に出でいる白い文字(翻訳文)を必死で読んだ。ああ、言葉が分かったらなあ。
過去を振り返る映画を見る時、「あの人は身近な人で言うと誰に近いのか」と考えながら見る。
この映画に出できた女性たちは、私の亡き母と同世代だ。私の母は、終戦の年に20歳。日本がどこかの国に侵略され、従軍慰安婦として連行されておれば、この女性たちと同じ運命をたどったはずだ。
この映画に出てくる女性たちと同じ慰安所にいた女性の中には、病気になっても治療してもらえずそのままなくなった人もいる。たとえ生き延びても、子どもが産めない体になった人も多い。
「もし私の母が・・・」と思ったとき、この問題は私の存在自体を揺るがすものと感じた。
韓国の「ナヌムの家」で暮らす女性たちの話が中心だったが、中国に侵略していた日本軍のため連行され、終戦後そのまま中国に置き去りにされた女性たちの話は悲惨だった。自分の意志で異国に来たわけでもないのに置き去りにされ、帰りたくても帰れない女性たち。
私は、こんな人たちの存在をまったく知らなかった。日本の学校教育はおかしい。すぐお隣りの国にこんな仕打ちをしておいて、学校でこの事実はまったく教えられていない。
「ナヌムの家」に住む女性が語っていた。
「日本政府は、私たちが皆死んでしまうのを待っている。」
あれっ? この言葉、映画「ヒロシマ・ナガサキ」で被爆者の方がおっしゃっていたことといっしょ。
また、別の女性が語っていた。
「お金も食べ物もいらない。死ぬまでに一度でいいからいい着物を着てみたい。」
この言葉は、胸にジーンときた。
早く、早く。この女性の夢をかなえてあげて。それほどのことに、莫大な費用がいるわけでもなし。
この映画は、10年以上も前のもの。淡々と話してくれた女性たちは、今も健在なのだろうか。
時折でてきた歌を歌う場面、踊りを踊る場面が、唯一ほっとする場面だった。せめて、残り少ない余生を歌って踊れる毎日にしてあげたい。
今日も、「京都シネマ」の客席にはわずか12名。一日一回、一週間の上映期間なので、全部で100人足らずの観客か。ああ、もったいない。中学校や高校で上映できないものだろうか。
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2008年07月08日(火)
「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」 [平和]
◎東京新聞、2008年6月26日 朝刊より
“虜囚の恥”が招いた悲劇 戦時中の『カウラ事件』描く
第二次世界大戦中の一九四四年八月、オーストラリアの捕虜収容所で起きた日本人捕虜の大脱走事件。歴史の闇に封印されたこの事件を題材にしたドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった−カウラ捕虜収容所からの大脱走−」が七月八日午後九時から日本テレビで放送される。生き残った元捕虜の男性を親族に持つ脚本家の中園ミホさんが長年温めてきた題材。生か死か、小さな紙切れに重い決意を込めた捕虜たちの運命に胸が詰まる。 (安食美智子)
ドラマは、ニューギニア東部で連合国側の捕虜となり、シドニーの西方三百三十キロにあるカウラ捕虜収容所に収容された憲一(小泉孝太郎)と二郎(大泉洋)を中心に、収容所生活の中、望郷の思いと戦陣訓とのはざまで揺れた末、脱走を選択せざるを得なかった捕虜たちの姿を描く。日テレの次屋尚プロデューサーは「戦争物というよりも人間ドラマを前面に出したかった」と語る。
憲一のモデルとなったのが、今回脚本を手がけた中園ミホさんの伯父・佐藤憲司さん(87)。中園さんは二十八年前、佐藤さんのオーストラリア旅行に通訳を兼ねて同行し、佐藤さんが捕虜だった事実を知った。収容所跡地で慟哭(どうこく)する佐藤さんの姿に、中園さんは「いつか自分の手で書かなければ」と決意したという。
中園さんは佐藤さんが昨年脳こうそくで倒れ、「元気なうちに書かなければ」と昨年末から本格的に取り組み、十時間に及ぶ佐藤さんへの取材と、佐藤さんが書いていたノート二冊分の手記を基に物語を構成。憲一は佐藤さんの実体験をほぼ忠実に再現。二郎役は佐藤さんの戦友のエピソードを集約した。制作上最大の配慮は「実際に約八百人が復員し、今も収容所生活を隠して生きる人々がいる。地上波放送でその人々を傷つけてはいけない」(次屋さん)ことだった。
◇
「脚本を初めて読んだ時から泣いてしまった。すごい脚本に出会えた」。主演の小泉は制作発表でこう振り返った。俳優、スタッフらは二月下旬から三月半ばまで富士山麓(さんろく)の収容所のオープンセットで合宿撮影。撮影中にセットを訪れた佐藤さんは周りを見回し、毛布、灰皿など一つ一つ手に取りながらうなずき、涙にむせんだ。「身の引き締まる思いがした」と大泉。小泉が佐藤さんに「楽しいことは何だったのか」と尋ねると、「仲間と野球ができたこと」。「思い出したくないつらいことは」の問いには「友達が銃弾に倒れ、六発も撃たれた自分が生きてしまったこと」と答えたという。
小泉は「オフの時も一九四四年にいるようだった。今でも満月の夜になると、思い出してしまう」。大泉も「(トイレットペーパーに脱走の賛否を示す)○×を書くシーンは、朝から夜まで泣き続けた。その時代に生きた人々の力を借りていたようで、忘れられない。五年、十年たっても自分の心から離れない作品」と沈痛な表情を浮かべた。
中園さんも「(俳優たちは)何かが憑(つ)いたようだった。不思議と温かいものが伝わるドラマになったのは、脚本を書いた自分でも意外。脚本をはるかに超えるドラマになった」と感慨深げに語った。
凶悪事件が多発し、命が軽んじられる現代。次屋さんは「自分がすれ違う人すべてに歴史や思いがある。それを感じることが、人の命の重さを受け止めることなのだと伝えたい」と語る。中園さんも「ある流れに流されていくことは今も起こり得る。たくさんの若い人々に見てもらいたい」とメッセージを送る。
◎先日、毎日新聞(7月3日夕刊)でもこのドラマが紹介されていた。それは「週刊テレビ評」の欄で、このドラマの脚本家・中園ミホさん本人が書かれていた。
■捕虜収容所での脱走事件 命粗末する前に見てほしい
今日はドラマの宣伝をさせていただきたい。(略)
「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走ー」。なぜこのような不謹慎とも取られるタイトルをつけたのかは、見ていただければわかると思う。
1944年8月5日、満月の夜、オーストラリアの収容所で1104名の日本人捕虜が脱走事件を起こした。いつかこの話を書かなければいけないと思っていた。私の伯父がいたのだ。暴動の夜、伯父は食事用のナイフを手に機銃掃射の中を飛び出したという。
先週、ドラマの完成披露試写会が開かれた。(略)
捕虜たちが死を目的とした脱走に賛成か反対か、全員の投票で決めるシーンで、そこからラストまで客席はすすり泣きに包まれた。
たくさん泣ければ良いドラマとは思わない。けれど、これは私の脚本をはるかに越えた、何かとてつもないエネルギーのあるドラマだと、改めて感じた。立派な軍人でも英雄でもなく、捕虜となってしまった青年の生き方に、スタッフ全員が共感し、伯父の体験に魂を吹き込んでくれたのだと思う。
何より主演の小泉孝太郎さん、大泉洋さんお二人の熱演がすばらしい。(略)
ドンパチの戦闘シーンはほとんどない。その代わりに収容所で捕虜たちが心を通い合わせるシーンが私はとても好きだ。
戦争モノは苦手だという若い人たちにもぜひ見てほしい。そして、もし今、生きている意味がわからなくなってしまった人がいたら、見てほしい。命を粗末にする前に。
◎私の父は、1921年生まれの86歳。戦争で中国に行き、終戦の翌年に日本に帰ってきた。多くの仲間が自分の目の前で死んだ、という話を聞いた事がある。
脚本家の中園ミホさんは、私の4歳下。このあたりの年代が、戦争体験を引き継げる境目なのかもしれない。父や伯父が戦地体験のある世代。ここより下(例えば、うちのヨメさん)の世代は親が戦時中10代で、戦地に向かった人間に比べると悲惨さがかなりちがうと思う。
中園ミホさんは、「生きている意味」とか「命を粗末にする前に」というところを強調しておられた。しかし、私はこのドラマの最重要部分はそこではないと思う。
脱走(実質・自決)の賛否を問う「○×」を投票する時、それまで反対していたはずのほぼ全員が○をつけてしまう。こわいのは、ここです。自分の考えは、どこへ行ってしまったの?
また学校の「日の丸・君が代」問題を出して恐縮ですが、京都の小中学校にそれが導入された時(23年前)、京都中の校長先生がそれと似た状態でした。ある時期を境に、一斉に全校長先生がロボットのように同じ言葉を繰り返されるようになったのです。「これは、職務命令です。」とか。 この時の体験が、私の今までの人生で一番の恐怖体験です。
それまであれほど話し合いを大事にされていた校長先生方、ご自分の考えはどこへ行ってしまったのですか?
最後に二郎役の大泉洋が、憲一役の小泉孝太郎に言った言葉。
「まわりに流されず、自分の気持ちにまっすぐに」
清廉潔白の「廉」と、真っすぐな樹の「真樹」には、心の中にとどめておいてもらいたい言葉です。
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2008年07月07日(月)
新しい携帯・SO905 i CS [雑用]
3年半ぶりに新しい携帯に買い替えた。
今まで使っていた携帯はムーバだったので、メールが250字しか送受信できない。それに、海外で使えないのも不便だ。
私にメールを送ってくれる人はほとんど私と同世代で、とにかく長文。かくいう私も、ひとにメールを送るときは長文になってしまう。今まで3回尻切れトンボで、パソコンに送りなおしてもらったことがある。
それから、今度の北京オリンピックでは、石井慧選手後援会のツアーに便乗させてもらうことになった。海外旅行は31年ぶりなので、絶対に皆さんにご迷惑かけてしまいそう。せめて、携帯で必ず連絡を取れるようにだけはしておかなくては。
後は、写真を撮るのが好きなので、携帯にカメラ付きではなく、カメラに携帯が付いているこの機種にした。ドコモのサイバーショット携帯は去年の暮発売で、もうどこにもないと思っていたら、「ドコモショップ高野店」に最後の一台がありました。
ほんとは小栗旬がCMしているauのサイバーショット携帯の方が、最新型でワンセグもついていてよかったのだが、ふるさと別所で使えない。今年の夏は何回もいなかの家に寝に帰るつもり。それで、こっちにしました。
ドコモショップのお姉さんはすごく親切な人で、何回も「この説明で、お分かりになられましたか?」と聞いてくださった。
私はそのたびに、「分からんとこは、うちの子に聞きます。」と答えていた。集中力に乏しいので、一回の説明ではどうも・・・。
そうや、うちの子ら、私が聞くことに何でもちゃんと分かりやすく答えてくれとるやん。ヨメさんみたいに、いらーときてプチ切れることもなく。ありがたいことや。子どもらに頼ることができるおかげで、私のようなものでもなんとか人間のはしくれとして生きていけてんのかも。子どもらに見捨てられたら、どうしよ。
とか思う、今日この頃です。(携帯の話が変な方向に・・・。)
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2008年07月06日(日)
第21回北栄町すいか・ながいも健康マラソン [ランニング・出張販売]
このマラソンの特徴は、?すいか食べほうだい、?たまらん暑さ、?参加賞がコナンのTシャツ、?参加者が多く(今年は、4478人)、入賞タイムもレベルが高い。
10kmのスタート地点に立った時、「キャロットさん」と声をかけてくださる方があった。「24時間リレーマラソン・イン・日吉津」の時、いつもうちの店をのぞいてくださる瀬尾さんだった。それにしても、この頃女性によく声をかけられる。
「今日は、お子さんたちは?」
「もう、クラブがいそがしーて、ついて来てくれまませんねん。」
「陸上部ですか?」
「それがね、上の子がサッカー部で、下の子がバスケ部で・・・。」
「そうなんですか!!」
このやりとりを、この一年で何回しただろうか。ほぼ全員、話しかけてきてくださる人は、うちの子が陸上競技をやっているものと思っておられる。
確かに、陸上部に入ってたら、まあそこそこ活躍できただろうに。でもうちの子たちは、そんな安易な道は選ばない。
「青年は荒野をめざす」ってとこですかね。
でもそのおかげで、「上の子も下の子も、補欠どころかケツから3番くらいです。」って私に言われるはめに。
瀬尾さんは、かっこいい黒の上下。めちゃくちゃ強そう。せっかくカメラを持ってきたので、記念にパチリ。こっちまでやる気がわいてくるさわやかな笑顔です。
前日のお泊まりは、いつもの「別館湯乃島」さん。
羽合温泉の中なので、会場から13kmとちょっと離れている。それでも行くにはわけがある。
お料理が超豪華。それに反して料金が超安価。
毎年必ず泊まっているから、サービスしてくれてはんにゃろね。
眞寿美さんはまた、「廉と真樹が来てたら喜ぶのになあ・・・(しみじみ)・・・」
スタート地点に向かっている時、反対側から「24時間・・・」の実行委員長・荻原さんが。
「あれ? 荻原さん、5kmですか?」
「ぼくら軟弱なランナーは、もう5kmで精一杯。」
「またまた・・・。」
「24時間・・・」の参加者の多くが、この大会にも出ているらしい。まっ、この時期ここに4500人ですから。
今日は、3年ぶり復活のアシックススカイセンサーと、ランナーズ・メルマガの波平さんお勧めのソックス(ディフィート・クラウド9)を試すのが仕事だ。
身じたくをしてスタート地点まで歩いた時、足元がフワフワした感じで、ものすごい違和感があった。「これは、ちょっと合わんかも…。」と思ったが、走りだすと「だいじょうぶ。」
でも、このフワフワ感が、シューズのせいなのかソックスのせいなのか分からない。試すのは、どっちか片一方にしときゃよかった。(次回への課題)
今年も蒸し暑かったが、さらぴんシューズとさらぴんソックスのおかげで気持ちよく走れた。一応、両方合格点です。
給水所、濡れタオルの用意も万全で、係の皆様には感謝感謝です。
しかし復路に、3人男性ランナーが倒れていた。そんななるまで走ったら、ダメ!
気持ちよく走れるように準備してくださった関係者の皆様に申し訳ない。暑くてたいへんなことは、走る前から十分に分かっていたはず。10kmやからと甘く見ていたのかな。
救急車で運ばれていったようだが、だいじょうぶだったのかな。みなさん、すべての給水所で水を取りましょう!
ゴールタイムは、48分39秒。
9km地点で43分ちょうどくらいだったので、48分は確実に切れると思っていたがこえてしまった。最後の1kmは、たぶん1.2kmほどある。
距離計測はしっかりしてほしい。こんなことだと、全体の10kmも疑わしくなってくる。1kmごとのラップをとっていたランナーは、皆そう思ったと思う。
超久しぶりのスカイセンサー。
とにかく軽かった。10kmレースだったので、足へのダメージはほとんど感じられない。ただ、これがフル以上の距離になるとどうだろうか。また、試してみよう。
前から気になっていたことだが、私の足は左が大きいようだ。今回も、右足のひもがだいぶ余ってしまった。それなのに走り出すと、右足だけシューズの中で動いているような感覚。どんだけちがうんやろ。こんな人は少ないのかなあ。
炎天下の中、汗だくになりながら店の後かたずけ。
その時、足元の草の上を歩くクワガタ発見! これ、まちがいなく天然もんです。後でお店で見たら、1500円とか。たかっ! (写真撮るのん忘れた。)
会場お向かいのお台場公園サービスエリアで昼食。1050円のバイキング。どちらかというと和食系のものが多く、うれしい。年々バージョンアップしているような気がする。(1500円のクワガタより、値打ちあり。)
会場から米子道(高速)に抜けるには、犬挟(いぬばさり)トンネルを通る。初めてこの大会に来た頃はまだこのトンネルができておらず、けわしい犬挟峠を通った。最初読み方がわからず、「犬はさみ峠やって、かわいそうに。」とうちのエリ(当時元気だった番犬)に言っていた。でも、字は犬を挟むやし、どんな意味があるの?
この道の駅でやさいやくだものをどっさり買って(と言っても、わずか2000円弱)、おなかを減らして待ってる子どもたちのもとへ帰りました。
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