パオパオだより

2008年07月13日(日)

第24回北軽井沢マラソン [ランニング]

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給水係として働いておられた石田春美さん

 

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石田観光農園に着いたのは夜8時半

 今回も、トップの写真で迷った。
 「石田観光農園の春美さん」、「多歩(たぼ)ちゃん」、「ベギーバギーランナー」、「和田峠力餅のご主人」、 どなたもヴィジュアル系(?)・・・。
 迷いに迷ったあげく、やはり長い長いお付き合いの「石田観光農園の春美さん」に決定!
 前日に急に電話して、無理に泊めてもらったこと。初めて話らしい話をさせてもらったこともうれしかった。  

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多くのランニングショップが出店

 北軽井沢マラソンは、7月のマラソン大会が珍しかった頃、やっと見つけ、許可をもらって売らせてもらった大会だ。今から15年以上前。もちろん、「京都キャロット」の独占販売だった。
 しかし、この大会にも別の業者が次々と参入し、結局、うちが弾き飛ばされた形になってしまった。
 去年から撤退したのだが、マラソン大会にだけは参加している。それにはそれなりのわけがある。

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スタートゴールゲート

 大きな理由は、3つかな。
 ?「石田観光農園」さんの、新鮮な野菜。(宿泊させていただくようになってから、もう何年たつのだろう。野菜のおいしさには、びっくり。)
 ?変化に富んだマラソンコース。(坂あり、長い直線あり、大平原あり、木立あり、土の道あり、・・・)
 ?「和田峠の力餅」と感じのいいご主人。(忘れられない味、忘れられない人。)

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多歩(たぼ)ちゃん、メス、17歳

 会場に受付に行く前、まず「お米のつちや」さんに寄った。去年多歩ちゃんに会えなくて心配だったが、店の横に・・・、いました! 歳はとっているけど、まだまだ元気そう。何と言っても、このおだやかな表情。大好き!

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浅間山をバックに

 今日は、「スカイセンサーブリーズ」を再度試す日。
 先週の「フワフワ感」が、シューズから来るものなのか、ソックスからなのか。今日は、ソックスは普通に戻してシューズの感覚をしっかり感じ取る。

 目標タイムは、去年並みの1時間52分前後で。
 気温は、たぶん今までの最高。日陰に入るとすずしいが、ひなたはとんでもない暑さ。無理せず、ゆっくり行こう。

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 ハーフだけで1900人ということだったので、前に並べるか心配だったがすんなりと行けた。
 スタート直後は、快調。最初の1kmは、5分を切っていた。
 4kmすぎから、ここ北軽井沢らしい広葉樹林の木立の中を走る。気持ちいーい。
 適度なアップダウンもあり、真夏の大会にありがちなしんどさがましなような気がする。

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 7km付近は、真っすぐな道が続く。太陽をさえぎる街路樹もない。このあたり、太陽ガンガン照り。
 「普通倒れるよなー」と思いながらまわりをキョロキョロ見回すと、トウモロコシ畑、キャベツ畑、それに牛さん。けっこう、あきません。
 確か去年は、ランスカのかっこいい女性ランナーがたくさんいたよなー。でも、今年はランナーが混みごみでようわからん。

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 帰りにもう一度、広葉樹林の木立の中へ。
 走っている途中、急に目の前が薄暗く・・・。いかん! これは貧血? と思ったら、太陽が雲に隠れただけでした。 そんなに飛ばしてもいないし、貧血で倒れるわけないか。
 そういえば、3800人も走っているのに、救急車の出動がない。めずらし。変化に富んだコースがいいのかねえ。

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ナンバーカード「7」、山本光亮さん(埼玉県)

 後1kmちょっとかなという所で、ベビーバギーを押して走るランナーに追いつく。
 「すいませーん。もし追い抜けたら、写真撮らしてもらっていいですか。」
 「はい、どうぞ。」
 「去年もバギー押して走っておられましたよね。」
 「はい、途中からですけど。」
 「お子さんがアイスキャンデーにぎってたの、よくおぼえてます。」
 「そうですか。」
 「ブログに載せて、いいですか。」
 「はい。」
 「京都キャロットで検索していただいたら、すぐ出てきますし。」

 この後、ゴールまでの1kmの気持ちよかったこと。何でか分からんけど、すごくすがすがしい気分でゴールできた。
 ゴールタイムは、1時間58分40秒くらい。去年よりだいぶ遅いけど、まあええやん。
 さあ、ベビーバギーランナーのゴール写真撮ろうと振り返ると、もうゴールしてはるやん。途中全然気つかんかったけど、私の真後ろにビタッとついてはったん? 恐るべし!

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ゴール手前雑貨屋さんの手彫り人形

 ゴール後、多歩ちゃんのご主人が走路員をされていた地点へ。そこは「お米のつちや」さんのすぐ前だが、ぐるっと回るコースのかげんで、まだ残り5kmもある。
 立っておられた役員さんにお聞きすると、土屋さんは帰られたらしい。でも、その代り、その方と少しお話することができた。
 今年はだいぶ人数が多かったという話をふると、「もう、限界を超えている」とのこと。 

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 募集定員3200人に対し、それをはるかに上回る応募があり3800人までは受け入れたが、後の方の500人ほどはお断りした。
 このマラソンは、長野原町の北軽井沢地区だけで運営しているので、これ以上増やすといろんなところに支障が出てくる。駐車場、トイレ、給水所要員、走路員、などなど。役員さんも、連日の動員でたいへんだったようだ。

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 「お米のつちや」さんに行くと、ご主人がお店におられた。
 「来年もまた、多歩ちゃんに会いにきます。」と言ったら、すごく喜んでくださった。
 スタート前、奥様ともお話させてもらった。「5年前に小学生だった娘と来て、多歩ちゃん見せてもらいました。」と言うと、おぼえておられた。

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 「うちの前飼ってた犬も16歳で死んじゃったしね・・・、15,16くらいが危ないのによく長生きしてますよね。」
 「ええ、人間で言ったら90歳以上でしょう。もう私が呼んでる声も、あまり聞こえてないみたい。でも、ゆっくりしか歩けないけど、散歩は今も大好きですよ。」
 初めて多歩ちゃんのお名前を聞いた時、「いつまでもたくさんたくさん歩けるように」という願いを込めてこう名付けたとおっしゃっていた。

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 多歩ちゃん、ちゃんと期待にこたえてるね。
 とても90歳のおばあちゃんには見えない。けっこう、ころころしてるし。
 「多歩見てたらね、誰かの生まれ変わりかなって思うことあるんですよ。目で、何かを訴えているような気がしてね。」奥様が、しみじみとそう言われた。
 きっと多歩ちゃんは、土屋さんご夫婦の守り神やね。まだまだ、長生きしてもらわなくては。

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ウェーブちゃん、メス、3歳(甲斐犬)

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 駐車場に戻る時、すごい「はーはー」犬に出会った。
 こげこげー、足短かー。
 さわらせてもらったけど、すごく愛想もよかった。
 てっきり男の子やと思ってたら、年頃の女の子でした。ごめんね。
 また来年、会えたらいいね。

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 さて、これから京都ヘ一直線。
 来るのに6時間かかったから、帰りは昼ごはんの時間も考えて7時間か。
 京都ランナーズのビァパーティが、夕方6時から。去年も同じパターンやったけど、7時過ぎてしもたもんな。なんせ、500km近くの距離運転して帰るんやから。無理せず、安全運転、安全運転。きれいな景色でも見ながら、ねっ。

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中山道・和田峠「力餅」屋さん

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 やっと着きました。和田峠の餅屋さん。
 「北軽井沢マラソン」には直接関係はないが、これが一番の楽しみだ。
 店に入ると、いきなり、「珍しい京都ナンバーが来たね。」と言われた。毎年必ず寄っているので、よくおぼえてもらっている。今年は珍しく、奥様も手伝いに来ておられた。けっこういそがしいのかな。

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 「商売なしなのに、よく遠くまで来るね。どうして?」と聞かれた時、柏原芳恵の「春なのに」を思い出した。
 ♪ 「君の話は何だったの」と聞かれるまでは、言う気でした 「記念にください、ボタンをひとつ」 青い空に捨てます ♪
 私はそんなナイーブでもないので、「こちらのお餅を買って帰るのが楽しみで・・・」と言うと、「残ってたかなあ。」って、そりゃないぞ。

 なんとかかき集めてもらって、8個入り2箱は確保できた。でも、いつもは5箱くらい買って帰っているのに。
 この塩味のきいたお餅は、あんこが苦手な真樹も、おいしいと言って食べる。
 今まで使っていた箱屋さんがつぶれたらしく、ちょっと味気ないプラスチックの容器になってしまったが、味は健在。
 何年か前に脳溢血で倒れたご主人も、今は前と変わらないくらい元気。
 「来年は、5箱取っといてくださいって電話します。」
 大盛りのおそばをいただいて、お店を出た。

 「石田観光農園さん」、「多歩ちゃん」、「和田峠の力餅のご主人」、これで3つも約束したからね。来年も、来るぞー。

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 あっ、肝心なこと忘れてました。
 「スカイセンサーブリーズ」のはきごこち。
 やはり、かなりフワフワした感じ。これは、各自の好き嫌いで評価が分かれそう。私は好きです。
 とにかく軽い。これも評価が分かれそう。今日のハーフでは、全く問題なし。ただ、これがフル、ウルトラになるとどうか。これは、走ってみないと分かりません。

 7月26,27日に、京都ランナーズの合宿が滋賀県の希望ヶ丘である。市原の家から希望ヶ丘までが、ちょうどフルマラソンの距離くらい。荷物を誰かに預けさせてもらって、走っていこうと思っている。その時に、スカイセンサーブリーズを試してみよう。(また、ご報告します。) 

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2008年07月12日(土)

洛北中野球部、悲運のボールデッド [学校]

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 中学総体の夏季大会が始まった。
 私が見たかったのは、洛中野球部の試合。初戦は今日の9時プレイボール、場所も地元岩倉東グランド(洛中の南隣り)だった。
 直接は関係ないが、真樹の同級生は野球部の子が多い。それも、クラスの中心になれそうな子が多いようだ。(4月1日のブログに書いたN・K君もその一人である。)

 9時ちょっと前に会場に着いたが、ウロウロしているうちに試合は始まっていた。
 最初は落ち着いて見ていたが、見ているうち次第に胸がドキドキし出して来た。洛中の子がバッターボックスにいる時は、とにかくバットに当ててくれ、守備についている時は、後ろにだけはそらすなと祈る思いで見ていた。

 私の母校花背第一中学校は昨年閉校してしまったが、私たちの在校中はぎりぎり野球ができるだけの人数がいた。(もう、40年近くも前のことです。)
 当時のチームは、ピッチャーで4番の藤井富雄君のワンマンチームと言っても過言ではない。富雄君は、京都一、球の速いピッチャーだった。(太田幸司擁する青森・三沢高校みたいなチームでした。これ、分かる人には分かる。)
 そしてその富雄君をバックアップすべきナインは・・・。私は、9番目ぎりぎりのレギュラーだったが、大事なところでエラーをし、何度エースをがっかりさせたか分からない。打つ方は守備に比べるとましだったが、それでも何べんも三振してベンチに帰った思い出が多い。

 プロ野球や高校野球は冷静に見られるのに、中学野球は私の過去とオーバーラップして足元がフワフワする。「とにかくバットに当ててくれ」、「後ろにだけはそらすな」。一人落ち着いて見たかったので、あえて洛中ベンチとは反対側の一塁ベース後方から観戦した。

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 試合の結果は・・・。

桃山中 0・0・0・2・0・2・0  ?  
洛北中 1・1・1・0・0・0・0  ?

 惜しくも洛北中は初戦敗退。
 しかし、この試合にもいくつかのドラマがあった。

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 洛中の先発は背番号「1」のI・Y君(真樹のクラスメイト)ではなく、3年生のようだった。3年生にとっては、これが最後の大事な大会。
 その背番号「7」君は、球を低めに集め冷静な投球だった。打線の方もコツコツと、1点ずつではあるが着実に点差を広げていった。
 しかし4回の表、桃山中の攻撃。ヒットやフォアボールで満塁。

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 そこから、内野手のハンブルと押し出しのフォアボールで2点献上。(選手の名誉のための注意書き→内野手はきっちりボールを胸に当て前にはじき、ピッチャーは低めに球を集めることを徹底していた。)
 なお続く満塁のピンチ。ここでエラーか連続押し出しで点を取られ、同点に追いつかれたら、そのままずるずると・・・。しかし、ここは見事にふんばった。ベンチからの声援もすごかった。見ごたえのある場面だった。

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 そして、運命の4回裏、洛中の攻撃。 
 先頭打者が1塁に出、次の左バッターのきれいに振りぬいた打球は、桃山中ライトの頭上をはるかに越え点々と・・・。バッターランナーも悠々とホームに戻ってきた。歓喜の洛中ベンチ。「これで、勝った!」とだれもが思ったはず。
 しかし、ライトオーバーの打球は勢いがあり、はるかかなたのフェンス前のサッカーゴールにまで到達。 

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 ボールはサッカーゴールの枠にはさまり、「ボールデッド」。ランナーは規則どおり、2塁3塁に戻された。

 悲運。
 喜び過ぎただけに、そのギャップも大きすぎた。
 「この回、もし1点も取れへんかったら、洛中は危ない。」私は心の中でそう思った。
 
 ホームランが取り消しになったとはいえ、ノーアウト2,3塁。最も点が取りやすい場面ではある。
 しかし、やはり中学生。ついさっきのギャップをはね返すことができず、三振、浅いライトフライ、キャッチャーフライでチェンジ。
 これで流れが変わってしまった。

 6回表の桃山中の攻撃も見事だった。
 しかし、この試合のポイントは、残念ながら4回裏の「ボールデッド」だった。3年生最後の試合としては、非常に酷な結末だった。ただただ、「悲運」としか言いようがない。

 洛中野球部は、本当にいいチームだ。初めから終わりまで、途切れることなく元気な声が出ていた。みんなの心が一つになっているように感じられた。みんな楽しそうないい顔してた。
 (相手チームのベンチのネット裏あたりにいたのたが、1年生らしき野球部員が先生らしき人に怒られていた。「おまえら、応援する気あるんかー」やって。ついこないだまでかわいらしい小学生やったのに、そんな無茶言ったらダメ! 具体的に「こんな時は、こう声をかけよう」と言ったらな。ちょっとかわいそうやった。)

 負けてはしまったが、こんないい試合を見せてくれた洛中ナインに感謝したい。(もちろん、桃山中ナインにも。)
 「みんな、かっこよかったぞ!」


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(注)必ずしも文と写真が一致していません。写真説明も、あえてしませんでした。ただ、N・K君、I・Y君はどこかに写っています。

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2008年07月11日(金)

矢野絢子(じゅんこ) [私の好きな人]

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ユニバーサルミュージック公式サイトより

◎京都新聞7月10日夕刊 「歌が生まれる」シリーズより

 激しくかき鳴らされるギターと優雅なバイオリンの音色がステージ上で絡み合う。高知市の中心街から少し離れた住宅地に立つ「劇場 歌小屋の2階」は、その夜もライブの熱気に包まれていた。三十人も入れば満員の客席。いつものようにステージを見詰める矢野絢子(28)の姿があった。
 ピアノの弾き語りで2004年にメジャーデビュー。翌年には日本ゴールドディスク大賞で新人部門の賞も受けたが、一貫して高知を離れず、この歌小屋で歌い続けてきた。「どこにいっても、ここ以上に面白いライブはない。私の音楽の基準は全部、歌小屋にある」
 高校生だった1997年に音楽活動を始めた。拠点のライブハウスが約一年後に閉店。ミュージシャンや役者八人が集まってカンパを募り、生活費もつぎ込んで、出演者が自ら運営する歌小屋を立ち上げた。
 音響を良くするために紙の卵パックを天井に張るなどして、二階建ての事務所を手作りライブハウスに。自宅のピアノを持ち込み、二十歳のころは二階の控室に住んだ。受付も照明もすべて自分たちでやる。毎日のように仲間のライブを全身で浴び、影響を与え合いながら、強烈な個性を放つ歌を生んでいった。
 「知らない所に行きたいな」「嘘だよ本当はね ここに居たい」と、歌小屋への思いをつづったデビュー曲「てろてろ」。いすの“一生”を描いた12分の 大作「ニーナ」・・・。デビューの歳、矢野がレコード会社側に提示した条件は、高知在住と、「歌小屋で発表するために曲を書く」矢野には当然の選択だった。
 2006年に現地に移転した後も、全国からファンが歌小屋を訪ねる。矢野が師と仰ぐミュージシャンの池マサト(44)は「一番気持ち良く歌える空間と、それを喜んでくれるお客さんがいる。スタイルはずっと変わらん」。
 今夏発売の二枚組みアルバム「サマーバケイション」には、「歌小屋」という新曲が収録されている。「矢野絢子という、歌小屋の文化の中から生まれた歌うたい」が、そこに立っている。

◎今回は、私のブログでは異色。すきな歌について。
 
 去年の4月ここ市原に引っ越してきて、きくの散歩は長代側沿いの道になった。まだ家が建て込んでいない長代側沿いには、大きな大きなニレの木があった。
 夏の暑い日、きくと私は、いつもその木の木陰でいっぷくしていた。周りに何もなくその木が枝を広げているだけなのに、なぜかひんやりとしていた。きくはその場所が気にいっていたのか、いつもその木の下でウンコをしていた。そして、その後動こうとしない。
 その大木が、去年の12月、道路拡張のため切り倒されてしまった。最後の日、たまたま通りかかったきくと私は、その大木の最後の抵抗を見せてもらった。ブルドーザーに何回も揺さぶられていたのに、「そう簡単に、倒されてたまるか!」という感じがした。

 その時思い出したのが、矢野絢子さんの「ニーナ」である。

♪その椅子は木で出来た丈夫な椅子
 こげ茶色のクッション木彫り花模様肘掛
 背もたれの両端には小さな赤い石
 それはそれは美しい木の椅子だった

 その椅子を作ったのは椅子職人の爺さん
 曲がった腰慣れた手つき鋭い目
 出来上がった椅子があんまり美しかったので
 死んだ妻の名前をこっそり入れたのさ

 店先に置いた椅子はすぐに客の目に留まり
 やって来る客についつい爺さん「売り物じゃない」という
 何人めかの客が来てしばらく話し
 爺さんはついに言った「売りましょう」と

 (中略)

 何度も壊れ直された足はちび肘掛は擦り切れたが
 小さな赤い石はきちんと二つ光ってる
 今ではもう五歳になった娘はやんちゃな悪戯っ子
 椅子の下海底ごっこ思わず目を輝かす

 「何か彫ってあるよ母さん
 ねぇ、素敵だわ
 きっとこの椅子の名前だわ
 ニーナ! ニーナ!
 娘は椅子をそう呼んだ♪ 

 (後略)

 その木が切り倒された後、その木の横を通る時、いつもこの歌を歌いながら通った。私にとっては、「ニーナ」はこの木への鎮魂歌だった。(もちろん、その木を「ニーナ」と呼んでいた。)
 人間の都合だけで、長い間この土地を見守ってくれていた大木をあっさり切ってしまった。「ごめんな」と言って、木をなぜても・・・。

 道路の拡張工事が、だんだんこの切り倒された大木の近くに迫ってきた。もうすぐ、この大木もどこかに運ばれ処分されるのかもしれない。
 切り倒されているのに、春には新しい芽が出てきた。「ああ、生きてんにゃ・・・。」と喜んでいたのに。

 だまされたと思って、一度「ニーナ」を聞いてみてください。心にしみる、すごくいい歌です。 

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切り倒されたニレの大木「ニーナ」

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2008年07月10日(木)

「きく・きく・きく」、フィーバー [ブログ]

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かむんか、ねぶるんか、ようわからん   (左私の手、右ヨメさんの手)

 最近、まじめな記事が多いせいか、アクセス数が落ち込んでいる。
 ここらで一発、おもろいことを・・・。

 私のブログの右横に、過去の記事で使った写真が3枚出るのにお気づきでしょうか。アットランダムに出ているようですが、この3枚の写真でけっこう遊べます。 

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きくには花がよく似合う

 前にヨメさんが見た時、3枚の写真が全部自分の写真の時があったらしい。
 「これは、引くなあ。なんちゅうナルシストやねん、と思われるやろなあ。」とヨメさんの感想。
 私は、この状態を「毒・毒・毒」のどつぼフィーバーと呼びたい。

 

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「ふぇー」、フィーバーしてね

 逆に、「きく・きく・きく」とそろうこともある。これこそ、ほんとのフィーバー。この3枚をそろえたあなた、めっちゃラッキーなことが起こります。まちがいない!

 ところで、「ぱおぱお・ぱおぱお・ぱおぱお」の3枚そろえてしまった奇特な人、あなたはいったい・・・?)

 (新しい携帯で撮った写真は、どうでしょう?)

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2008年07月09日(水)

「ナヌムの家」 [映画]

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◎映画のチラシより。

 女流監督ビョン・ヨンジュが27歳の時に、つらい過去を持つ元従軍慰安婦の心のつぶやきに耳を傾けたドキュメンタリー。ソウル市内の“ナヌムの家”(分かち合いの家という意味)で仏教団体の支援を受けながら共同生活を送る6人のハルモ二(老婆)の日常を綴る。映画は日本政府の正式謝罪と補償を求めて毎週水曜日に日本大使館の前で行うデモから始まり、炊事や洗濯、おしゃべりの合間に彼女たちが戦後受けた差別や苦しみをつぶやくように語る姿を温かいまなざしで捉えていく・・・。16ミリのドキュメンタリー映画で、翌年、同じ監督で新たな日々に入ったハルモニたちのその後を描いた続編が制作されている。1995年山形国際ドキュメンタリー映画祭小川紳介賞受賞作品。

◎私は、お年寄りの話を聞くのが大好きだ。

 この映画では、強制的に日本軍の従軍慰安婦にされた韓国の女性が、過去を振り返り淡々と話されていた。私は韓国語がまったく分からないので、映像を目で追いながら下に出でいる白い文字(翻訳文)を必死で読んだ。ああ、言葉が分かったらなあ。

 過去を振り返る映画を見る時、「あの人は身近な人で言うと誰に近いのか」と考えながら見る。
 この映画に出できた女性たちは、私の亡き母と同世代だ。私の母は、終戦の年に20歳。日本がどこかの国に侵略され、従軍慰安婦として連行されておれば、この女性たちと同じ運命をたどったはずだ。
 この映画に出てくる女性たちと同じ慰安所にいた女性の中には、病気になっても治療してもらえずそのままなくなった人もいる。たとえ生き延びても、子どもが産めない体になった人も多い。
 「もし私の母が・・・」と思ったとき、この問題は私の存在自体を揺るがすものと感じた。

 韓国の「ナヌムの家」で暮らす女性たちの話が中心だったが、中国に侵略していた日本軍のため連行され、終戦後そのまま中国に置き去りにされた女性たちの話は悲惨だった。自分の意志で異国に来たわけでもないのに置き去りにされ、帰りたくても帰れない女性たち。
 私は、こんな人たちの存在をまったく知らなかった。日本の学校教育はおかしい。すぐお隣りの国にこんな仕打ちをしておいて、学校でこの事実はまったく教えられていない。

 「ナヌムの家」に住む女性が語っていた。
 「日本政府は、私たちが皆死んでしまうのを待っている。」
 あれっ? この言葉、映画「ヒロシマ・ナガサキ」で被爆者の方がおっしゃっていたことといっしょ。
 
 また、別の女性が語っていた。
 「お金も食べ物もいらない。死ぬまでに一度でいいからいい着物を着てみたい。」
 この言葉は、胸にジーンときた。
 早く、早く。この女性の夢をかなえてあげて。それほどのことに、莫大な費用がいるわけでもなし。
 
 この映画は、10年以上も前のもの。淡々と話してくれた女性たちは、今も健在なのだろうか。
 時折でてきた歌を歌う場面、踊りを踊る場面が、唯一ほっとする場面だった。せめて、残り少ない余生を歌って踊れる毎日にしてあげたい。

 今日も、「京都シネマ」の客席にはわずか12名。一日一回、一週間の上映期間なので、全部で100人足らずの観客か。ああ、もったいない。中学校や高校で上映できないものだろうか。

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2008年07月08日(火)

「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」 [平和]

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◎東京新聞、2008年6月26日 朝刊より

“虜囚の恥”が招いた悲劇 戦時中の『カウラ事件』描く

 第二次世界大戦中の一九四四年八月、オーストラリアの捕虜収容所で起きた日本人捕虜の大脱走事件。歴史の闇に封印されたこの事件を題材にしたドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった−カウラ捕虜収容所からの大脱走−」が七月八日午後九時から日本テレビで放送される。生き残った元捕虜の男性を親族に持つ脚本家の中園ミホさんが長年温めてきた題材。生か死か、小さな紙切れに重い決意を込めた捕虜たちの運命に胸が詰まる。 (安食美智子)

 ドラマは、ニューギニア東部で連合国側の捕虜となり、シドニーの西方三百三十キロにあるカウラ捕虜収容所に収容された憲一(小泉孝太郎)と二郎(大泉洋)を中心に、収容所生活の中、望郷の思いと戦陣訓とのはざまで揺れた末、脱走を選択せざるを得なかった捕虜たちの姿を描く。日テレの次屋尚プロデューサーは「戦争物というよりも人間ドラマを前面に出したかった」と語る。

 憲一のモデルとなったのが、今回脚本を手がけた中園ミホさんの伯父・佐藤憲司さん(87)。中園さんは二十八年前、佐藤さんのオーストラリア旅行に通訳を兼ねて同行し、佐藤さんが捕虜だった事実を知った。収容所跡地で慟哭(どうこく)する佐藤さんの姿に、中園さんは「いつか自分の手で書かなければ」と決意したという。

 中園さんは佐藤さんが昨年脳こうそくで倒れ、「元気なうちに書かなければ」と昨年末から本格的に取り組み、十時間に及ぶ佐藤さんへの取材と、佐藤さんが書いていたノート二冊分の手記を基に物語を構成。憲一は佐藤さんの実体験をほぼ忠実に再現。二郎役は佐藤さんの戦友のエピソードを集約した。制作上最大の配慮は「実際に約八百人が復員し、今も収容所生活を隠して生きる人々がいる。地上波放送でその人々を傷つけてはいけない」(次屋さん)ことだった。

    ◇

 「脚本を初めて読んだ時から泣いてしまった。すごい脚本に出会えた」。主演の小泉は制作発表でこう振り返った。俳優、スタッフらは二月下旬から三月半ばまで富士山麓(さんろく)の収容所のオープンセットで合宿撮影。撮影中にセットを訪れた佐藤さんは周りを見回し、毛布、灰皿など一つ一つ手に取りながらうなずき、涙にむせんだ。「身の引き締まる思いがした」と大泉。小泉が佐藤さんに「楽しいことは何だったのか」と尋ねると、「仲間と野球ができたこと」。「思い出したくないつらいことは」の問いには「友達が銃弾に倒れ、六発も撃たれた自分が生きてしまったこと」と答えたという。

 小泉は「オフの時も一九四四年にいるようだった。今でも満月の夜になると、思い出してしまう」。大泉も「(トイレットペーパーに脱走の賛否を示す)○×を書くシーンは、朝から夜まで泣き続けた。その時代に生きた人々の力を借りていたようで、忘れられない。五年、十年たっても自分の心から離れない作品」と沈痛な表情を浮かべた。

 中園さんも「(俳優たちは)何かが憑(つ)いたようだった。不思議と温かいものが伝わるドラマになったのは、脚本を書いた自分でも意外。脚本をはるかに超えるドラマになった」と感慨深げに語った。

 凶悪事件が多発し、命が軽んじられる現代。次屋さんは「自分がすれ違う人すべてに歴史や思いがある。それを感じることが、人の命の重さを受け止めることなのだと伝えたい」と語る。中園さんも「ある流れに流されていくことは今も起こり得る。たくさんの若い人々に見てもらいたい」とメッセージを送る。

◎先日、毎日新聞(7月3日夕刊)でもこのドラマが紹介されていた。それは「週刊テレビ評」の欄で、このドラマの脚本家・中園ミホさん本人が書かれていた。

 ■捕虜収容所での脱走事件   命粗末する前に見てほしい

 今日はドラマの宣伝をさせていただきたい。(略)
 「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走ー」。なぜこのような不謹慎とも取られるタイトルをつけたのかは、見ていただければわかると思う。
 1944年8月5日、満月の夜、オーストラリアの収容所で1104名の日本人捕虜が脱走事件を起こした。いつかこの話を書かなければいけないと思っていた。私の伯父がいたのだ。暴動の夜、伯父は食事用のナイフを手に機銃掃射の中を飛び出したという。
 先週、ドラマの完成披露試写会が開かれた。(略)
 捕虜たちが死を目的とした脱走に賛成か反対か、全員の投票で決めるシーンで、そこからラストまで客席はすすり泣きに包まれた。
 たくさん泣ければ良いドラマとは思わない。けれど、これは私の脚本をはるかに越えた、何かとてつもないエネルギーのあるドラマだと、改めて感じた。立派な軍人でも英雄でもなく、捕虜となってしまった青年の生き方に、スタッフ全員が共感し、伯父の体験に魂を吹き込んでくれたのだと思う。
 何より主演の小泉孝太郎さん、大泉洋さんお二人の熱演がすばらしい。(略)
 ドンパチの戦闘シーンはほとんどない。その代わりに収容所で捕虜たちが心を通い合わせるシーンが私はとても好きだ。
 戦争モノは苦手だという若い人たちにもぜひ見てほしい。そして、もし今、生きている意味がわからなくなってしまった人がいたら、見てほしい。命を粗末にする前に。

◎私の父は、1921年生まれの86歳。戦争で中国に行き、終戦の翌年に日本に帰ってきた。多くの仲間が自分の目の前で死んだ、という話を聞いた事がある。
 脚本家の中園ミホさんは、私の4歳下。このあたりの年代が、戦争体験を引き継げる境目なのかもしれない。父や伯父が戦地体験のある世代。ここより下(例えば、うちのヨメさん)の世代は親が戦時中10代で、戦地に向かった人間に比べると悲惨さがかなりちがうと思う。

 中園ミホさんは、「生きている意味」とか「命を粗末にする前に」というところを強調しておられた。しかし、私はこのドラマの最重要部分はそこではないと思う。
 脱走(実質・自決)の賛否を問う「○×」を投票する時、それまで反対していたはずのほぼ全員が○をつけてしまう。こわいのは、ここです。自分の考えは、どこへ行ってしまったの?
 また学校の「日の丸・君が代」問題を出して恐縮ですが、京都の小中学校にそれが導入された時(23年前)、京都中の校長先生がそれと似た状態でした。ある時期を境に、一斉に全校長先生がロボットのように同じ言葉を繰り返されるようになったのです。「これは、職務命令です。」とか。 この時の体験が、私の今までの人生で一番の恐怖体験です。
 それまであれほど話し合いを大事にされていた校長先生方、ご自分の考えはどこへ行ってしまったのですか?

 最後に二郎役の大泉洋が、憲一役の小泉孝太郎に言った言葉。
 「まわりに流されず、自分の気持ちにまっすぐに」
 清廉潔白の「廉」と、真っすぐな樹の「真樹」には、心の中にとどめておいてもらいたい言葉です。

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