2008年07月22日(火)
村下孝蔵 [私の好きな人]
調子に乗って、7月11日に続き、私の好きな人(というより好きな歌)第2弾。
先日「ジョーシン」に行く用事があり、そこで村下孝蔵の「七夕夜想曲」(27曲入りCD)を買った。
やぶはら高原マラソンの帰りは、名神一宮IC付近で大事故があり、渋滞でイライラするところだった。しかし、前もって買っておいたこのCDが、心をほぐしてくれた。
村下孝蔵経歴(Wikipediaより)
生家が映画館を経営していたため、映画や外国のポピュラー音楽に親しむ。鎮西高等学校時代には水泳部で平泳ぎの選手として活躍。さらにベンチャーズや加山雄三のギターテクニックに憧れ、自作のギターを制作するなどしながら、音楽にも傾倒して行く。
高校卒業後、就職した広島ヤマハでピアノ調律師の傍ら音楽活動を開始し、自主製作アルバムを発表する。この頃、広島の音楽好きには知られた存在で、地元の中国放送でラジオ番組なども担当していた。この後も広島を拠点に音楽活動を続ける。
1979年、ソニーレコード(当時、CBSソニー)が主催した、第1回SDオーディションに合格。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃がいた。
1980年シングル「月あかり」でデビュー。
その後、地道なライブ活動でファンを獲得した事が実り、1981年「春雨」、1982年に「ゆうこ」が話題となる。1983年に発売したヒット曲「初恋」は、三田寛子と田尾安志がCMでカバーして話題となった(三田は単独でシングルとしても発売)。続いて発売した「踊り子」、「少女」、「夢のつづき」も好評であった。
これらのヒットにより、英語を使わずに日本語を用いた丁寧な情景描写による歌詞と、旧来の歌謡曲と洋楽や日本のグループサウンズのメロディーを融合させた様な、繊細かつ親しみやすい曲調を奏でるシンガーソングライターとして認知される。
「初恋」ヒット時、テレビ番組への出演は所属レコード会社の意向で一切無くて控えられていた(実は重度の肝臓病を患っていた)が、本人は至って前向きな姿勢で、後年機会があれば(完治してからは)出るようになった。とくに、1990年代半ば、憧れだった加山雄三とテレビ番組で共演してからはかなり積極的になり、さらに村下のファンであった山田邦子と意気投合し、彼女の出演している番組に度々呼ばれるようになった。
1999年6月20日、東京駒場のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れたが、診察で高血圧性脳内出血と判明した直後に昏睡状態に陥り、4日後の24日に死去した、46歳没。
曲風と本人の人柄のためか生前はやや地味な存在であった。しかし、作詞作曲能力・歌唱力・ギターテクニックはいずれも非凡であった。コンサートでは「ひとりベンチャーズ」なるギターソロを披露したこともある。あまりにも早い死を惜しむ声は今でも多い。
村下孝蔵は、一般には、「さみだれは みどりいろ ・・・」で始まる「初恋」のヒットでよく知られている。しかし、私が一番好きなのは「踊り子」。
♪答えを出さずにいつまでも暮らせない
バス通り裏の路地 行き止まりの恋だから
何処かに行きたい 林檎の花が咲いてる
暖かいところなら何処へでも行く
つまさきで立ったまま君を愛してきた
南向きの窓から見ていた空が
踊り出すくるくると軽いめまいの後
写真をばらまいたように心が乱れる♪
(後略)
このCDを聞きながら運転している時、ヨメさんが言った。
「ひとから、『この歌、いいで』ってすすめられても、『どこがええんやろ?』と思うものが多いなあ。感性は、ひとそれぞれやもんなあ。」
村下孝蔵を、私は大好き、ヨメさんも(ちょっと?)好き。少しでも話の合うことがあってよかった。よかった。
村下孝蔵が亡くなるちょっと前のことだったと思う。
テレビ番組で、長年憧れの人だった加山雄三と対面。その時、彼は本当にただの一ファンになっていた。恥ずかしがり、自分をどうしていいのか分からないような・・・。あの「初恋」の大ヒットを飛ばした歌手なのに。
それを見て以来、私は本当のファンになりました。
私より3歳上。なくなった時、46歳。(今から9年前)
惜しい人を亡くしました。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 1 )
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コメント
村下孝蔵、私も好きです。私もメジャーな初恋よりも「踊り子」がすきだったのでびっくりしました。私は特に「つま先でたったまま君を愛してきた」のメロディが好きです。お若くしてお亡くなりになって私もとても衝撃を受けていました。こうじさんのブログを読んでわたしももう一度CDをききたくなりました