2011年04月20日(水)
すべての武器を被災地に [時事]
今日、いいニュースがあった。
今まで誰も言わなかったことだが、多くの人が心の中で思っていたことが実現した。
◎毎日新聞4月19日
「東日本大震災:復旧優先、地デジ完全移行延期へ 被災自治体は歓迎 /宮城」
◇受信施設遅れ
東日本大震災の被害が甚大だった岩手、宮城、福島の3県について、総務省が7月24日の地上デジタル放送(地デジ)への完全移行を延期する方向で調整に入ったが、移行への準備不足を懸念していた被災地の自治体などからは歓迎の声が上がった。テレビは地震や津波の貴重な情報源の一つだが、ライフラインの復旧が優先され、工事が間に合わず「地デジ難民」が多数生じる恐れがあるからだ。
震災で住宅3軒が半壊、住民3人が仕事先などで被災し死亡したという石巻市小船越山畑。三浦正一郎・前自治会長(71)によると、この地区では山陰による難視聴のため住民約30世帯が組合を作り、昨年11月から共同受信施設の建設準備を開始。今年6月末の完成予定だった。
しかし、工事を受注した仙台市内の通信設備会社が震災後、有線をひくため大手通信会社に既存の電柱の利用を申請したところ、「電力の復旧に忙しい」と断られたという。今後いつ工事を始められるか未定だ。通信設備会社幹部は「住民向けに共同受信施設の工事説明会をしようとしていたところに津波で壊滅し、連絡がとれない被災地もある」と話す。
三浦さんは「もっと厳しい状況の被災者のことを思えば、地デジが間に合わなくてもラジオで我慢すればいい」と50年以上使うラジオをいとおしそうに見つめた。
地デジ難民を出さないよう、市民に繰り返しPRしてきた石巻市の鈴木瑞彦・情報政策課長は「アンテナ工事を進めようにも、ライフラインの復旧が最優先でそれどころではない状態。7月に間に合わせるのは難しい。延期なら歓迎だ」と話す。
放送する側にも震災のダメージがのしかかる。東北放送(仙台市)では南三陸町で地デジの中継局1局が津波で流失した。同社技術管理部は「被災地の状況を考え、震災直後から、7月25日以降の地デジとアナログ放送の同時送信を検討していた。国にはアナログ放送にかかる経費や被災地での新たな地デジ対策費を支援してほしい」と話す。
放送ジャーナリストの坂本衛さんは「元々準備が遅れている東北でのアナログ放送停止の延期は当たり前だ」と指摘している。
総務省などによると、全国の地デジ対応受信機の世帯普及率は10年12月現在、94・9%だが、県内は90・7%にとどまっている。【土本匡孝】
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震災後に一番に思ったこと。
いなかでのお年寄りの一番楽しみはテレビを見ること。震災直後は関連のニュース番組ばっかりで見たくもなかったやろうけど、落ち着いてきたらテレビが見られんかったらつらいやろうなあ。ほんまにささやかな楽しみやのになあ。
それが、7月24日ですべてのテレビが見られなくなるなんて。
「地デジ化」を急ぐ意味がいまだによう分からん。今まで普通に見られていた何千万台ものテレビがすべてゴミになるなんて。史上最大の反エコ政策としか思えんのですけど。
そんなことを平気で決定するような人たちは、都会といなかの人口だけを単純に比較し「一票の格差」をなんかの一つ覚えのように唱えている人にちがいない。
「一票の格差」がうらやましい人は、どうぞいなかに移住してください。そして、テレビを見るのを唯一の娯楽としているようないなかの暮らしを体験してください。そしたら、「一票の格差」もそうそう強行主張しにくくなるし、「地デジ化」も・・・。
とにかく、被災地3県だけでも延期が決まってよかった。いっそ、全国一斉延期にしても何の問題もないのでは。もし問題があるとしたら、どっかとどっかの癒着としか考えられません。どうですか。
さて、本題。(長い前ふりじゃー。)
「地デジ化」の延期については、震災後に思っていたのだがブログに書く機会がなかった。思ったことはすぐ書いとかななあ。
これ。
「今日本の軍隊(自衛隊)が史上最高に手薄になっている時なのに、どうして仮想敵国とやらは攻めてこないんですか。」
どなたか、これをきちっと説明してください。
日本を攻めるなら今しかないでしょう。「9.11」のような方法で原発施設に突っ込まれたら、日本はもう終わりでしょう。自衛隊が持っている武器なんて、何の役にも立ちません。それから米軍に援護を頼んでも後の祭り。と言うか、このたびの対応を見ても米軍は放射能の漏れている地域には入ってこないでしょう。
この際、何の役にも立たない(役に立っても困るけど)武器の購入はやめましょう。その予算を、全額震災復興に使うというのはどうでしょう。そうすれば、今ドサクサまぎれに消費税増税が画策されているが、それを阻止できるかも。「財源を示せ」とよく言われるけど、これで立派な財源になる。
この非常時に、殺人兵器の使用訓練なんかしている場合ですか。不謹慎な。自粛、自粛。(「不謹慎」、「自粛」という言葉ははこういうふうに使いましょう。)
そんな訓練せんでも、自衛隊の皆さんには当分の間災害復旧という大事な仕事が待っている。人を殺すのではなく、人を救うというやりがいのある仕事が。どうか、それに専念してください。
「すべての武器購入予算を被災地に!」
これが、私の真意です。
ついでやし、もう一つ言っとこ。(これは以前から言ってます。)
「一票の格差」を言う人は、「一原発の危険の格差」も「一米軍基地の危険の格差」もいっしょに論じること!
原発は過疎地に、米軍基地は沖縄に押し付けるな!
受益者負担の原則から言えば、人口の多い関東圏関西圏は原発・米軍基地を積極的に受け入れるべき。
「東京湾大阪湾に、原発・米軍基地を!」
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2011年04月19日(火)
「野球バカ」はどこ行った? [時事]
◎asahi.com 4月17日より
「新潟アルビ引き分け、高津投手も登板 BCリーグ開幕 」
プロ野球独立リーグ・BCリーグが16日、開幕した。新潟アルビレックスBCは、長岡市悠久山野球場で群馬ダイヤモンドペガサスと対戦、投手戦の末0―0で引き分けた。高津臣吾投手が9回に登板し、球場に訪れた1081人のファンを湧かせた。震災の影響で1週間開幕が遅れたが、選手らは「被災者に元気と希望を」と、無失策の全力プレーを見せた。
9回、高津の名前が呼ばれると、この日一番の歓声が上がった。群馬の小林恭兵に二塁打を浴びたが動じず、後続を抑えた。高津は試合後、「こんなに大きな震災の後に、たくさんの人が球場に足を運んでくれ、感謝している。登板して、今年も野球ができたという実感がわいた。仕事ができた」と話した。
観戦した新潟市の大野彦栄さん(63)は「高津も見られたし、ぴりっとした試合で、最高にいい開幕戦だった」と話した。
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東日本大震災後、私が一番残念だったのはプロ野球の開幕が遅れたことである。
被災地仙台を本拠地とする「東北楽天」が所属するパリーグは、早々に開幕延期を決定。しかし、セリーグは経営者側は当初の予定通りの開幕、選手会側がパリーグとの同時開幕を主張していた。紆余曲折があったが、最終的に選手会側の主張通り、4月12日・セパ同時開幕となった。
震災の数日後、ツィッターにこんなつぶやきがあった。
普段は「スポーツは人に夢と希望を与える」と言いながら、一番それらが必要な時には不謹慎ということで自粛される。さすがに矛盾を感じる。
【スポーツ協会へ】不謹慎という言葉を恐れてイベントを止めないでください。
私も同じことを思った。
まず、「東北楽天 」。
新監督は、原発のCM(いわゆる広告塔)を長年されていた星野氏。あの人は、震災後いったい何をされていたんでしょう。自分のまったく専門外の分野のCMを引き受け、「絶対に安全です」みたいなことを言っておられた。あなたの専門分野は、「野球」。もし心に引っ掛かるところがあるなら、一日も早く「野球」で償うべきでしょう。
「東北楽天」と名乗っているのなら、仙台の球場にこだわらなくても東北にはいい球場がいっぱいあると思いますけど・・・。収益は度外視して、東北全体をワクワクさせるような試合を早く開催するのはでけんかったんかねえ。
それから、選手会。
選手会も、震災後何をしていたんでしょうね。私には、ただ開幕を遅らせることだけ主張しているように見えた。その代わりに何をされたんでしょう。避難所で退屈している子どもらとキャッチボールをしたりとか、被災地の高校生と交流戦をしたりとか、私の知る限りではほとんどなかったような・・・。もししていたとしたら、アピール不足ですね。
人それぞれでいろいろな考えがあるとは思いますが、私がプロ野球が好きなわけは、「野球バカ」の集まりだと思っているからです。「他のことはなーんにもでけへんけど、野球やらせたら目が飛び出るほどうまい」人の集まりだと思っているからです。
ほんまかウソかよう分からんけど、清原は野球ばっかりやってたから電車の乗り方も分からへんかったとかゆううわさ。ふつうそんな大人がいたらエライこっちゃけど、プロ野球の一流選手ならどうってこともない。ほほえましいくらい。
大の大人があんなちっちゃいボールを必死で投げて、必死で打って、必死で追いかけるからおもしろい。「あの人ら、あれでけんようになったら(人生)しまいやで」と思うから、こっちも必死で見てしまう。
ちゃいまっかー、選手会さん。
「野球バカ」が野球やらんで、どーする!
世の中の多くの人と同じように「にわか善人」になっても、誰も喜ばんと思いますけど。
そんなもん、似合わんちゅうねん!
野球で一流のプレー見してくれちゅうねん!
私が日本一の野球バカだと思っている「高津選手」は、今回の選手会の動きをどう見てはったやろうね。聞いてみたい。
最後に、私の大好きな高津の言葉。
「野球が大好きなので、お金を出してでも野球をやりたい。
死ぬまで野球をやり続けたい、もちろんプロの現役選手として。」
あー、ちょっとすっきりした。
(新潟まで、高津見に行きたいなあ。)
全然関係ないけど、もうひと言。
「47歳の『野球バカ』工藤にも野球やらしたってくれー!」 (現在、浪人中。)
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2011年03月08日(火)
八百長 [時事]
◎京都新聞3月8日朝刊
「TM抽選違法確定 最高裁が上告棄却 京都市側に賠償命令」
京都市で開かれた政府主催のタウンミーティング(TM)の抽選で意図的に落とされたとして、応募者が国と市に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は7日までに、応募者側、市側の上告をいずれも退ける決定をした。原告4人のうち3人に対し計15万円を支払うよう命じた二審判決が確定した。4日付。国は上告していなかった。
一、二審判決によると、TMは2005年11月に開催。共催の京都市教育委員会は原告2人が過去の行事で進行妨害をしたとして、内閣府に抽選で落とすよう要請。内閣府は2人の受付末尾番号を落選予定数字に入れ、意図的に落選させた。
09年9月の二審大阪高裁判決は「抽選すると公表した上で作為的な選別をするのは公務員の職務義務に反し、違法だ」と判断。
他の原告1人については、末尾番号一致のため不当に落とされたとして損害を認定し、08年12月の一審京都地裁判決を変更、原告4人のうち3人に5万円ずつ慰謝料を支払うよう命じた。
一審判決は「公務の信頼を傷付けたのは否定できないが、混乱を避けるためで、不合理とは言えない」として違法性を認めず、請求を棄却した。
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最近(と言ってももう5年以上前のことだが)、もっとも腹が立ち、かつ恐ろしくなったニュース。
「京都市タウンミーティングいかさま抽選事件」。
首謀者は京都市教育委員会。直接いかさま抽選の手を下したのは政府(内閣府)。地方公共団体内の一組織と国がぐるになっていかさまを策略するなんて・・・。どうして一地方の小さなニュース扱いなんでしょう。大相撲の八百長より、こっちの八百長のほうがずっとずっと恐ろしいことなのに。
国や地方公共団体が一般市民にでっち上げのレッテルをはり陥れるなんて、これって戦時中の特高警察の発想と同じでは。
このいかさま抽選事件の一番の責任者は、当時の京都市教育委員会の教育長だと思いますが、まちがっていますか。
新聞社も、なぜ当時の教育長さんのコメントを取りに行かないのだろう。すぐ近くにおられるのに・・・。また、「知りません」「記憶にございません」「全部担当者に任せておりました」とか言って逃げられてしまうのがオチだからかな。
「しっかりせい! 新聞社!」
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【何を今さら5km20分切りメモ】
さすがに昨日(月)、今日(火)と完全休養。
篠山マラソンでは元気よくゴールしたものの、レース中からまったくかがめないくらい腰が痛い。じっと立っている分にはどうってことないのだが、かがむ姿勢がねえ・・・。
明日は9日。「9の日平和ラン」で、ランニング復帰します。
あっ、それから明日9日は「ねっとわーく京都」の発売日です。今回の私の連載のテーマは、「うちの娘と沖縄」。今回はちょっとブログの焼き直しぽいですが、ぜひ読んでください。500円です。
(なお、来月発売号は特集号のため、すべての連載がお休みだそうです。原稿料あてにしてたのに・・・、トホホー。)
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2010年11月30日(火)
海老蔵顔面崩壊 [時事]
◎サンケイスポーツ11月30日
「にらみ」復活まで全治6週間…海老蔵、2時間半に及ぶ手術内容は
都内の飲食店で殴られ重傷を負った歌舞伎俳優の市川海老蔵(32)は29日、東京・港区の総合病院で顔面整復手術を受けた。(サンケイスポーツ)
関係者の話を総合すると、手術は午後5時ごろから2時間半ほど。左目の下の陥没骨折部分の修復と、殴られて顔の空洞部分にたまった血液などをメスで取り除くもので、耳鼻科部長が執刀した。術後は顔が腫れるため10日間の入院が必要で、その後は自宅療養しなければならず、完治には6週間かかるという。
詳細については不明だが、世田谷井上病院の井上毅一理事長は「海老蔵さんが受けた手術は、上顎洞(じょうがくどう=眼球の下にある空洞)の根治手術が中心と思われます。頭蓋骨(とうがいこつ)を軽くする機能を持つ顔の空洞部分に、殴られて血液がたまってしまったのでしょう。そのまま放置すると化膿(かのう)してしまうので、それを取り除く手術です」と説明。「形成外科医や眼科医が立ち会った可能性もあります」と語る。
気になるのは、市川家伝統の「にらみ」ができるようになるまでに、どれくらいの期間を要するかだが…。井上理事長は「私も歌舞伎をよく見に行くのですが、『にらみ』は両目を内側に寄せたり、斜めに動かしたり、かなり目の筋肉を使う。今回の手術と目の部分も殴られたことを考えれば、少なくとも1カ月半から2カ月はかかるでしょう」と指摘する。
この日午後4時前には父の市川團十郎(64)、母の希実子さんが病院に到着。付きっきりで看病にあたる妻の麻央(28)と手術を見守ったものとみられる。
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「顔面崩壊整復手術経験者・パオパオがお答えします。」
私の場合は相手がこぶしではなく氷の板でしたが、ほぼ海老蔵さんと同じ症状。
私の手術後7年目の経験から言うと、海老蔵さんは「にらみ」はできるようになったとしても「せりふ」がはっきり言えるかどうかねえという感じです。
私は手術後約7年たった今も、「満面の笑み」もできないし、「早口言葉」もできません。右上唇のしびれがなくなっていないから、自分の思い通りには動かせないのです。
2004年2月9日、家族4人そろって「醍醐スケートリンク」へ。
当時NHKの朝ドラで「てるてる家族」をやっていて、その中に何度もスケートのシーンが出ていました。これは一回スケートに行かんならんわい、ということで小6の廉、小3の真樹をつれて醍醐まで。
だいぶ慣れてきたので、2人組で駅伝をやろうということになりました。第1走者は廉対パオパオ。廉は母ちゃんに、私は真樹にタッチすべく猛然とスタート。そのあとの記憶なし。(氷に引っかかったようで、バタッと倒れたらしいです。)
気がついた時は、六地蔵病院の診察室から出てきた場面。待合室で廉と真樹が笑っていました。絶対にいてくれたはずのヨメさんの記憶が、なぜかまったくありません。これ、不思議。
翌日精密検査をするということで入院。
ここでは生まれて初めて車イスにも乗せてもらったし、生まれて初めての点滴も経験しました。口が痛くて全然動かせず、なにも食べられなかったからです。
検査の結果、右側の頬骨が砕けているとのこと。手術が必要。ただし、入院など長くかかるので少しでも家に近い病院に転院をすすめられました。結局、京都府立病院に行くことに。
府立病院は、私の大学時代3年間アルバイトをしたところ(地下の売店)。まさか、こんな姿で凱旋(?)するとは・・・。
口が動かせないので何も食べられません。でも水分は補給することができます。その時気がついたのですが、ペットボトルを口につけても感覚がないのです。神経がやられてしまっているらしい。
担当のお医者さんの説明では、それは手術してもたいていはよくならない。突然感覚が戻ることもないとは言えないが、死ぬまでそのままの人も多いそうです。(今の感じでは、私は後者のようです。)
一旦退院し、その間に静岡に出張販売にも行きました(2月22日)。左目のまわりが紫で、ほとんどしゃべれず物も食べられない状態で。
2月の終わりに再入院。そして、いよいよ手術。
右の上の歯茎と唇の間を切り、そこから器具を入れて砕けた頬骨を修復する手術だったらしい。
ヨメさんは仕事で抜けることができなかったので、家族への説明は姉夫婦に来てもらいました。いつまで姉に世話かけるんじゃーって話です。(当時、私は48歳。)
私にも手術の説明があったのですが、いっちゃんビビったのは「髪の毛が手術のジャマになるかもしれないから切ってほしい」と言われたこと。
「えー、ちっちゃい子どものときでも、丸坊主にしたことないのにー・・・。」
でもそんなことゆうてられません。病院の地下の理髪店でバッサリと。やってみたら、そんなにへんでもなかったです。
手術は午後5時から。
手術の前は絶食。「痛いですよー」と脅されながら、ふっとい筋肉注射もされました。こんなんもすべて初体験。
手術室に運ばれると、「いち、にの、さん!」で手術台へ。そして点滴による全身麻酔。意識があったのは5秒くらいでしょうか。
「藤井さーん! 藤井さーん! 終わりましたよー」という声で起こされる。
その時私が最初に発した言葉・・・。
「今何時ですか?」
「はい、今9時半です。」
そうか、4時間半も手術台の上にいたのか・・・。大手術やったんやね。
その日の夜はほとんど眠れませんでした。夜中に口から血を吐いて、「ナースコール」ちゅうやつもさせてもらいました。ほんまにお世話になりました。
次の日の朝、「朝ごはんを食べていい」と言われてビックリ。口の中の切ったとこにご飯つぶとかはさまらへんのかいなと心配。でも1日半ほど何も食べてへんかったので、出てきた食事は全部たいらげました。今までの人生で、あの時の食事が一番うまかったかもしれません。
そのころ(2月29日)、ヨメさんが子ども2人を連れて淡路島に出張販売に行ったらしい。結果は惨敗だったらしい。でも、その時ヨメさんが子どもらに言った言葉が泣かせます。 「パオパオがおらんようになっても、かあちゃんがちゃんと食べさしていったる!」
「わしゃー、顔面骨折くらいで死んでしまうんかい!」と突っ込みたかったけど・・・、ねえ。
手術の後1週間ほどで退院。
退院前に手術の写真も見せてもらいました。上唇をビローンとめくり、洗濯バサミみたいなものではさんで引っぱっている写真。そんなん見せてもらっても・・・、という感じでしたけど。
3月7日の篠山マラソンから出張販売復活。次の週(3月14日)のなかじま万葉マラソンでは親子レースにも出場。
そうして順調に回復していくのですが、やっぱり右上唇のシビレはずっと残ったまま。それは7年近くたった今も同じ。
いや同じでないこともありました。
丸坊主にした頭。
こちらも順調に回復・・・と思ったら、それから脳天の毛が薄くなってきたようで。そんなもん関連性はないとよく言われますが、私はこの事件以来髪の毛が薄くなってきたと信じています。
(注)私の丸坊主時代の写真が手元にありません。代わりに2005年の年賀状を見てください。
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2010年11月19日(金)
裁判傍聴初体験・総括 [時事]
しつこいようだが、11月11日の裁判傍聴のまとめを。
とにかく初体験だったので、分からないことばかり。
京都地方裁判所に着いて、まず受付へ。そこには私と同じ歳くらいの堅物ぽい男性が座っておられた。
「裁判の傍聴に来たんですが・・・。」
「何か、お目当ての裁判があるのですか。」
「はい。門川市長の証人尋問がありますよね。」
「それなら、101法廷です。並んでください。」
「えっ、勝手に行っていいんですか。」
「いや、入り口前に順番に並んでもらっています。」
101法廷の傍聴席入り口に向かうと、すでに30人ほどの人が並んでおられた。私が並んだあとも、後ろに次々と並ばれる人があった。その様子を見ていると、私のように一人で来た者はまれで、ほとんどが何人か連れでこられているようだった。そして、そのクループ同士も顔見知りである方が多いような感じだった。
定刻になり、ドアが開かれ傍聴席に入った。私は、てっきり手荷物検査のようなことがあると思っていたがまったくなし。カメラの持ち込みは禁止らしいが、あれではしようと思えば簡単に隠し撮りができる。声の録音だけなら、まったく気づかれずにできたであろう。
傍聴席入り口は、正面から向かって左側。だいたい先頭から奥に詰めていかれたので、正面から右側の被告席側からうまっていく感じだった。
私は前から3列目の中央に座ることができた。
その時、たまたま私の隣りの席だったのが一人で来られていた女性。年のころは、私の一回り上くらい。
証人尋問が始まるまでまだ少し時間があった。すると、お隣りの女性はカバンから雑誌を取り出して読み始められた。私もヒマだったのでチラチラと見てみると、なんとその雑誌は「ねっとわーく京都」の最新号(11月9日発売の12月号)。その時よっぽど、「私、そこに連載してますねん」と言いたかったが、いきなりは・・・ね。
そこに、被告人側の出入り口から門川市長が入ってきた。もう一人入ってこられたので、そこでお隣りの女性に聞いてみた。「市長といっしょに入ってきやはった人はどなたですか?」
「ああ、あの方ね。弁護士さんですよ。京都市が訴えられた時は、たいていあの弁護士さんが出てこられますね。」
「ほー、そうなんですか。」
「(原告側を見て)あの方、ご存知ですか。」
「いえ、知らないです。」
「○○○さんといって、京都で住民運動といえば必ずあの方が関わっておられるといってもいいような方なんですよ。」
「へー、そうなんですか。」
そのほかにも、その女性からいろいろなことを教えていただいた。だいぶお話させていただいたのでもうそろそろいいかなと思い、「私、その雑誌に連載してますねん」と告げた。すると、すぐにその箇所を読んでくださった。今回は主に「四万十ウルトラ」のことを書いたので、年配の女性にはちょっと理解してもらえないのではと心配だった。しかし、読み終えられて最初に言われたのは、「『憲法グッズ』で検索したら、こうやってすぐ出てきますか」という言葉。「四万十ウルトラ」で何かアピールしながら走りたいと思い、ミニのぼりや憲法9条シールを通販で購入し身に付けて走った箇所に食いついてくださったのだ。
一人心細く参加した裁判傍聴で、「ねっとわーく京都」の愛読者にお会いできるとは夢にも思わなかった。
1時半ちょうど、予定通りに証人尋問が始まった。
ここらあたりのことはもうすでに書いたので、省略。
とにかくびっくりしたのは、何もかも急に始まって急に終わるという感じ。そんなやり方になれていない私は、「えっ、今の続きはないん?」と何度もずっこけた。もっともっと相手を追い詰めていくものだと思っていた。そういう意味では、ちょっともの足らんかったかな。
門川氏が教育長から京都市長選に立候補する前に、自分の宣伝本ともいえる本「教育再生への挑戦」を市教委が1400冊購入、配布した件については、門川氏の証言では「一切関知していない」。そのほかの尋問についても、ほとんどは「記憶にございません」、「知りません」と小さな声で答えるだけ。ああ、これが140万都市京都市の長のとる態度だろうか。
これでは、今話題の法務大臣の「この2つの言葉をおぼえておけば何とか乗り切れます」と同じ。これも、あの人の大好きな「大作戦」の一つだったんでしょうか。もし私が何かの裁判の証人に呼ばれたら、「記憶にございません」「知りません」を連発しようっと。
二番目に証人として出てこられたのが、当時その本の発行元の社長であった江口氏。現在はみんなの党所属の参議院議員さんだそうだ。
この人がしゃべるしゃべる。何度も裁判長から、「証人は聞かれたことだけ答えてください」と注意されていた。
この方の主張は、「その本を選挙のために発行した覚えはない。たまたま時期が重なっただけのこと。社長は、発行時期などのこまかいところまで指示したりしない」というもの。
そういったことを、おもしろおかしく話そうとされていたふしが見られた。また、想定問答のシュミレーションをかなりこなしてきておられるふしも見られた。裁判長から何度も「座ってください」と言われていたが、「座るともっと話が長くなるので」と言ってずっと立ったままで証言されていた。さすが参議院議員に当選されただけのことはあるなあ、話がうまいと思った瞬間・・・。
「君は、なんだ。君も弁護士か。」
「はい、そうです。」
「さっきからあなた、あなたって、誰に向かって言ってるんだ!それは私に向かってか!」
「はい、そうです。」
「君にあなたと呼ばれる覚えはない!」と激高。
「そこは、あなたでいいんですよ」と裁判長から諭される始末。
それまで愛嬌のある紳士であるという印象だったのが一変。へー、相手を見て自分から見下すような存在だと思ったら一挙にこんな態度になるのか。そんな人が国会議員?みんなの党って今までどんな党かよう分からんかったけど、わけもなく人を見下すような党なんか。この人のこんな態度を見ていると、そう思われても仕方ないですね。
以上、証人尋問自体は不愉快な答えが多かった。しかし、それだけで終わったわけではない。
休けい時間に、お隣りの女性ともう少しお話することができた。私がどうしてもお聞きしたかったこと。「この裁判の傍聴にお一人で来られた理由は?」
「私はただの一主婦なんです。ここに来たのは野次馬根性だけで・・・」
まあ、なんてすばらしい。そんなふうに言い切れる人は、この傍聴席75人の中でもまれだろう。もう少しお話させてもらうと、それだけが理由でないことも分かった。ご自身が取り組まざるを得なくなった住民運動から、京都市政に対しても関心が高まってこられたようだ。裁判中も、こまかくメモをとられていた。京都市政の監視という立場で作られている「ねっとわーく京都」を熱心に読まれていたのも、そのあたりが関係していると思う。
帰る前に私の名刺をお渡しすると、その場で手書きの名刺を作ってくださり私に渡してくださった。「名刺も持ってなくて、失礼なんですけど・・・」と。(その方は、右京区のYさんという方だった。)
ああ、かっこよすぎる。
私もいずれはこんな人になりたいと思った。いいお手本にできる方と知り合えた。これが、私の裁判傍聴初体験の一番の収穫だったかもしれない。
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2010年11月12日(金)
門川市長証人尋問・続き [時事]
◎京都新聞11月12日朝刊
「京都市長『不適切でない』 選挙前本配布で証言」
京都市教育委員会が2008年2月の市長選前、門川大作市長の教育長時代のインタビュー記事などが載った市販本を購入して学校関係者らに配ったことをめぐる公費返還住民訴訟で、門川市長の証人尋問が11日、京都地裁(瀧華聡之裁判長)であった。市長は選挙前の購入や配布の経緯について「一切知らない」とした上で「市教委が政策を多くの人に理解してもらうためにしたもので不適切とは思わない」と述べた。
門川市長は終始、緊張した表情で証言した。原告代理人から「書籍は選挙のアピールか」と問われ「そのような認識はない」と答えた。1400冊の購入報告については「記憶にない」と述べた。インタビュー取材がなかったことを認めた上でインタビュー形式に構成した原稿を点検したことを明らかにした。
発行元のPHP研究所元社長の江口克彦参院議員(みんなの党)に対する証人尋問もあり、発刊を持ち掛けた理由について「市長選なんて頭にない。京都の教育改革を全国に知らしめたかった」と証言した。
発刊が遅れたのは著者予定だった門川市長が多忙で原稿が出てこなかったためと説明した。PHP社が市教委から資料提供を受けて制作する方針に変更したという。「PHP研究所編」としたことは「門川さんが書いていないから」と述べた。
この日の証人尋問でも執筆者は明らかにならなかった。原告弁護団の一人として市長選の候補で951票差で敗れた中村和雄弁護士が参加し、門川市長に「お久しぶりです」とあいさつして質問を始める場面があった。
◎毎日新聞11月12日朝刊
「売れ筋上位へ書店で定価購入 京都市教委・割引利用せず 現市長の業績紹介本」
京都市教委が08年2月の市長選直前、立候補表明していた当時教育長の門川大作市長の業績を紹介した本を大量に配布したことを巡る住民訴訟で、市教委が通常は出版社から2割引きで買える本を書店から定価で買っていたことが分かった。この訴訟の証人尋問が11日、京都地裁であり、元出版社社長の江口克彦・みんなの党参院議員が明らかにした。
訴状などによると、市教委は定価1365円の本を10店から1400冊購入した。江口議員は「京都府内の行政は関連書籍を自社から2割引きで買っていたが、市教委には売り上げランキングに載れば宣伝になるからと書店での購入を勧めた。よくあることだ」という趣旨の証言をした。市教委は定価購入で38万円余り多く支出していた。
住民らは訴訟で「税金を使った選挙応援だ」として門川市長ら市幹部4人に約210万円の損害賠償を請求するよう市に求めている。【古屋敷尚子】
◎毎日新聞11月12日朝刊・京都欄
「08年の京都市長選再び!? 現職と次点法廷で“対決”」
住民訴訟 攻める中村氏、かわす市長
08年2月の京都市長選直前、門川大作市長の教育長時代の業績を紹介した書籍を市教委が購入・配布した問題を巡る住民訴訟で、門川市長本人が11日、証人として京都地裁の法廷に立った。住民側代理人の一人はその市長選で門川市長に951票差まで迫った中村和雄弁護士。約15分間だったが、直接“旧敵"が相まみえた。
大きな争点は、書籍が選挙での宣伝目的か否かや、実際にはインタビューを受けていないとされる門川市長の記事を誰が執筆したのか。尋問の冒頭、中村弁護士は「お久しぶりです」とあいさつしたが、門川市長は無表情で応じた。
その後、「自身が編集したのでは」「載っている写真はいつ撮影したのか」といった追及に対し、門川市長はそれぞれ「そんなことない」「知らない」と答えた。他の弁護士の尋問には「本は市の教育を広報するためで、担当課に任せていたので詳細は知らない」と述べた。
門川市長は尋問後、「(中村弁護士は)元気そうでしたね。記憶をたどりながら誠実に真実をお話しした」と語った。【古屋敷尚子】
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今日(11/12)、昨日の証人尋問に関するブログの検索をしていると、「傍聴希望者が多くて法廷には入れなかった」という記事を見つけた。やっぱりそんな人もいたのだ。早めに裁判所に行き並んでよかった。
101法廷に入れた傍聴人は75人。それぞれどのような理由で来られたかは分からないが、この75人には75通りの理由があるはずである。
さてこの私は・・・。
先の市長選前の「談話本配布」については、実はあまり興味はなかった。立候補した候補者が、それまでの自分の立場を選挙に利用するのはよくあること。選挙違反スレスレの綱渡りのようなこともよく聞く。秘書や部下が勝手にやったことにして、自分だけはのうのうと生き延びるということも過去にはめずらしくなかった。最近は「連座制」とか言って厳しくなったそうだが、抜け道はたくさんありそうな気がする。
私が一番見たかったのは、門川大作氏の表情である。
140万人の京都市の長にまで上りつめた人が、損害賠償請求裁判の被告側証人として尋問されるとき、どう対処されるのか。それが見たかった。
私が門川氏に直接お会いしたのは、私が京都市のへき地の小学校教師をしていた30年前。その時、組合対策の先頭に立っていたのが門川氏であった。その堂々たる姿は、「ああいえばこういう」タイプの人間というのがぴったりの人だった。
ところがこの日の門川氏はまるで元気がなく、私が長年持ち続けていたイメージとはかけ離れていた。「記憶にございません」「知りません」の連発は、いつか見た国会証人喚問とそっくりだった。
新聞報道には詳くわしく書いてないので、証人の証言をまとめてみると・・・。
「京都の教育改革」をまとめた本を出版する話をPHP研究所から持ちかけられた。しかし、超多忙なためまったく手付かずだった。そこに、今までの自分の業績をまとめたものをインタビュー形式で掲載すると言われた。そのゲラには目を通した。ただ、そのあとその本が誰の手によってどのようにまとめられたかは知らない。市教委の1400冊定価購入、無償配布についても、当時は報告があったはずだが現時点では記憶がない。
その本については、平成19年の12月ころ、誰からか分からないが自宅に送られてきた。その時はほとんど目を通していない。市長選が終わり落ち着いた4月ころ、やっと目を通したという程度。初めから終わりまでくわしく読んだということはない。今回の証人尋問前も、超多忙なため、その本には目を通してきていない。
ここで法廷内の傍聴人から失笑のうず。お上品で控えめなヤジもとんだ。それに対して、裁判長から傍聴席に向かって注意があるかと思ったがまったくなかった。普通、裁判の被告側の証人として呼ばれていたら、その問題になっている本を見直してくるでしょう。弁護士さんとの打ち合わせもあるだろうし。これも「何もかも自分の知らないところでことは進んで行った」という証人の作戦だったんでしょうか。
傍聴席のどよめきに対して裁判長が注意しなかったことで、この裁判長には一般人の感覚があると思え、ちょっとほっとした。その時の裁判長さんの顔は、「ほんまに読んできてへんのかいなー」という表情にも見えた。
それともう一つ。
原告代理人(中村和雄弁護士)から、その本の証人のインタビュー形式の記事についての質問があった。
「その記事の最後に、平成19年10月29日の記載があり、教育長室で撮られた証人の写真も掲載されている。これを見た人は、この日に教育長室で実際にインタビューされたものと思い込まれないでしょうか。」
「知りません。」
「えっ?」
「知りません。」
これは答えとしてはおかしいと思う。答えは、「そう思います」か「そうは思いません」のどちらか。「知りません」って・・・。こんなにご自身が関与されていると思われても仕方ない記事も、ひと言「知りません」で済ませていいんかなあ。ここは他のときとちがって、間髪いれずの返答だったのでよけいにびっくりした。当時の教育長、現京都市長として、そんな無責任な発言はないでしょう。
「記憶にございません」「知りません」を押し通せば、何の証拠も出て来ないし、裁判自体の意味もなくなってしまうような気がした。。
ちょっと話がそれるかもしれないが・・・。
1986年1月、京都市中の小中学校の卒業式案に突然日の丸・君が代が入ってきた。確か当時京都市の小中学校は250校ほどだったと思うが、すべての校長さんが遠隔操作をされているロボットのように同じ言葉をしゃべり出したのだ。「私はずっと前から卒業式での日の丸・君が代は必要だと思っていました。市教委からの指導もありましたが、私自身の判断で卒業式に国旗・国歌(日の丸・君が代)を入れます」などなど。
これが私の人生における最大の謎。そして、私の人生における最大の恐怖。
校長さんにも一人一人個性があるはずなのに、ある日突然一斉にロボット化してしまっていた。こんな不思議でなおかつこわいことはない。結局、私はこの恐怖から逃れたくて(と言うより、自分の信念よりも自分の生活を守るほうを優先する「教師の成れの果て」のような姿を見てしまって)その数年後に教職を離れてしまった。そしてこのときの謎と恐怖は、25年近くたった今も残ったままである。
当時この問題で大活躍されていたのが高石文部次官。彼は学習指導要領に国旗国歌の指導項目を入れた実績を手土産に、自民党の衆議院選候補となるはずであった。しかし、リクルートから賄賂をもらったことが発覚、逮捕起訴され失脚。
その時私は、政治家をめざす者は何か目に見える実績を手土産に自分を売り込むものなのかと思った。
京都の教育「改革」を語るとき、ここ10年ほどの変化だけを見ていても分からない。私は、1986年に京都市中の小中学校の校長さんを震え上がらせ、卒業式での日の丸・君が代を強行させた人物が大きなキーワードになっていると思う。
それがいったい誰であるかは分からない。当時の校長さんたちがその間の事情を正直に話してくださるとも思えない。でも、私は・・・。(これ以上書くと、名誉毀損で訴えられる可能性があります。)
以上。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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