2012年02月09日(木)
「いちご白書」 [映画]
◎goo映画より
60年代末から70年代初期にかけて、平和と自由を求めて起きた学生運動。その時代を描いた作品はいくつかあるが、本作はまさにリアルタイムで作られ、その時代の雰囲気をタイムカプセルに詰め込んだような作品だ。1968年にコロンビア大学で起きた学生ストライキに参加した学生の手記を映画化し、1970年には公開しているのだ。そして本作を飾るロックの名曲の数々が素晴らしい。若い頃のイノセンスの喪失を歌うパフィー・セント=メリー(原曲はジョニ・ミッチェル)の「サークル・ゲーム」は名曲中の名曲。クライマックスで学生たちが歌う「平和を我等に」(もちろんジョン・レノン)は、製作当時は新曲だった。ニール・ヤングやCS&Nの挿入曲も時代を表している。
■解説
アメリカの学園紛争の中に描かれたある青春。製作は「汚れた7人」のアーウィン・ウィンクラー、とロバート・チャートフのコンビ。監督はテレビ出身の新人スチュアート・ハグマン。ジェームズ・クーネンの原作を新進劇作家イスラエル・ホロヴィッツが脚色。撮影はマイク・マークィリーズ、音楽はジョニー・ミッチェルほか、美術はジョージ・W・デイヴィス、プレストン・エイムズ、編集はマージョリー・ファウラー、フレドリック・スタインカンプ、ロジャー・J・ロスがそれぞれ担当。出演は「去年の夏」のブルース・デイヴィソン、「勇気ある追跡」のキム・ダービー、ほかにバッド・コート、マーレイ・マクロード、ボブ・バラバン、ダニー・ゴールドマン、エドラ・ゲール、それに原作者のジェームズ・クーネン、脚色のイスラエル・ホロヴィッツなど。1970年(第23回)カンヌ映画祭で審査員賞を受賞。メトロカラー、メトロスコープ。1970年作品。
■あらすじ
サイモン(ブルース・デイヴィソン)の大学は、目下ストライキ中だ。学校当局が、近所の貧しい子供たちの遊び場になっている土地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとしたのが、そもそもの始まりだった。これに社会不安、政治状況がからみあって、騒ぎは深刻の度を加えていった。サイモンはボート部員で、学校友だちのチャーリー(ダニー・ゴールドマン)と同居していたが、ある日、見物がてら警備線の張りめぐらされた、構内に入って行った。チェックを受けて本館に入ると、内は占拠学生で賑わっていた。総長室で用を足すカップル、天井から入り込むベントン博士(イスラエル・ホロヴィッツ)、オルガナイザーのエリオット(ボブ・バラバン)、議長役の学生(ジェームズ・クーネン)、など、サイモンの好奇心を刺激してやまなかった。そこで、偶然、校門のところで魅かれた女の子に出会った。彼女はリンダ(キム・ダービー)といい、女性解放委員をしていた。リンダと知り合ってから、サイモンは積極的に闘争に参加するようになり、舵手のエリオット(バッド・コート)を、篭城組にひき入れてしまった。しかし、リンダには、闘争に対するサイモンの態度が気に入らず、またボーイフレンドのいる身で、いつもサイモンと一緒にいることにもたえられず、彼から去って行ってしまった。リンダのいなくなった篭城生活は、サイモンにとって、バラ色の光を失ってしまったが、反対にゲバルト闘争に対する本質的な眼が開きはじめた。そして、右翼のボート部員ジョージ(マーレイ・マークロード)に殴られたことから、急速に、運動の渦中へ入っていった。その彼の意識の高揚を待ち受けていたかのように、リンダが彼のところへ戻って来た。彼女と同じ目的のため、手をたずさえて行動することに、彼ははじめて、すがすがしい生き甲斐のようなものを感じた。時が経つにつれて、当局の腐敗が暴露され、学生の怒りは、奔流となってあふれ出した。ついに、当局は実力行使を決定。武装警官隊は州兵の応援を得て、バリケードを破り、屋内に突入して来た。講堂に数百名の学生たちが集結していた。侵入者たちは、大義名分を盾に、暴力をふるい、襲いかかった。学生たちは、学内いっぱいに波紋のような輪をつくり、怒りをころして抗議をつづけていた。しかし、棍棒はようしゃなく振りおろされ、輪はたちまち寸断されてしまった。学生たちは、次々に排除され、サイモンとリンダもその中にいた。2人は、たがいにかばい合い、権力の暴力に抵抗した。棍棒がリンダの顔を鮮血で染めた。サイモンは純粋な怒りをもって、警官に躍りかかっていった。だがやがて、学生の反抗は、圧倒的な武力の前に鎮圧されてしまった。しかし、いま、沈黙をよぎなくされた、これら若き怒りたちは、明日の反乱の日を求めるかのように、学内を彷徨い続けていた。
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なにをかくそう、私が生まれて初めてカラオケで歌った曲が、バンバンの「いちご白書をもう一度」である。それは、28歳くらいのこと。一度も映画「いちご白書」を見ていないのに・・・。
「いちご白書」は学生運動を描いた映画だと聞いていたので、ずっと昔の映画だと思っていた。ところが、1970年の作ということなので、大阪万博、私が中3の年だ。
当時私はいなかの中学生だったので、映画など見たこともない。「いちご白書をもう一度」は1975年。私が20歳のとき。このころは映画も見に行っていたが、「いちご白書」には出会えんかったね。
それから36年。やっと、この映画を見ることができた。
いっちゃんよかったのは、上の写真のシーン。
「ええわー。」
次によかったのは、リンダがエレベーターに乗って帰ってしまうシーン。
でも、「悲しい場面では 涙ぐんでたー」って、どこ?
私が見ていて「悲しい場面」はなかったな。
この映画を見ていて、初めて見るのに初めてじゃないような場面がたくさんあった。たぶん、この映画をまねたドラマなどのシーンが多かったんでしょうね。
いっちゃんびっくりしたのは、ヒロイン役キム・ダービーが、撮影当時22歳で一児の母だったこと。今、64歳ですか・・・。その子は43歳?
学生運動の中心は団塊の世代。私の姉(8歳上)、兄(7歳上)、姉(4歳上)の世代である。1955年生まれの私は、完全に出遅れた世代と言える。私ら団塊の世代のあとの世代は、なんて言うんでしょうね。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 3 )
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コメント
この年でまだ 『いちご白書』をみたことがありません?
バンバンの 『いちご白書をもう一度』の中の、『いちご白書』を観て哀しさに泣いてる彼女とそれを優しく見守る彼の様子がほほえましくて、青春時代の素直な気持ちに改めて還らせてくれます('◇')ゞ?
しかし同時に、『猿の惑星』で、チャールトン・ヘストンが、自由の女神の残骸を見つけたきのような、哀しさ虚しさ…あるいは、若い頃のダスティンホフマンの演じたような、主人公に責任を丸投げして救われないラストシーンのような…感覚も同時に甦ってきました…
『いちご白書』や『いちご白書をもう一度』に感じる気持ちを大切にいきることは、人間の優しさの本質に触れることで感じる安堵感と、幼子が母の愛情から引き離された時のような不安感を同時に感じてしまいます('◇')ゞ?
人は大人になることで、少年少女の時代のような素直で純粋な気持ちも無くしてゆきます('◇')ゞ?それが『大人になるということ』????
これも、『人間』が何かを捨て、無くしながら生きていかなかればならない生き物であるという、宿命の持つ哀しみなのでしょうか('◇')ゞ?
少なくても、生きてるうちに、『いちご白書』は観ておきたい…観ておかなければならない…気がします('◇')ゞ?
何だこんなものか…と思うかもしれない。でもそれが経験です('◇')ゞ?そうしないと、人生のパズルが完成しない…気がしました('◇')ゞ?
ゼファー750さん、コメントありがとうございます。
「マルヴィナ・レイノルズおばさん」の記事も読ませていただきました。
同い年なのに、私は京都の山奥の中学でハナをたれていて、同じころゼファー750さんは都会でロードショーを見て、反戦デモにも参加していた・・・。ちがうにもほどがあるっちゅうもんですね。
たぶん、青春時代にこのの映画を見ていたとしても、やっぱり「背中からのキス」にドキドキしたと思います、私は。
最後のシーンも「悲しい場面」ではないですよね。私には、その先に希望が持てるシーンに見えました。
中野勇人さんの「国会前アピールラン」、ぜひ行ってください。きっと、大喜びされますよ。中野さんもかなりくたばっているはずなので、チョーゆっくりだと思います。何周も抜くのもおもしろいかも・・・。
わたしはロードショウで見ています。
多感な幼いころだったのでもの凄い影響を受け
ましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/yatuasagitarou/14517494.html
↑この下の方にもちょこっと「いちご白書」の
ことが・・・・
私が泣けたのは最後の講堂のシーン。
アレが泣けました。
そこまでは自分がまだ子供だったので正義の味方が
出てきて逆転するかと思っていたので・・・
あの最後のシーンで、おれはこっち側にいたいと
思いましたね。
1970年でしたか・・・・
生まれてはじめてデモ(べ平連の)に参加した年だなあ。
あした(11日)もデモに。
2.11さよなら原発1000万人アクションです。
12日は左足が言うこと効けば(聞く→×)
中野さんの応援ランに・・・・
まあゆっくりそうだから・・・