パオパオだより

2010年03月21日(日)

門さん激励ラン [平和]

※ 昨日のことを、もう少しくわしく・・・。

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 午後2時30分、「民主府政の会事務所」(堀川丸太町上る西側)に着くと、「ランナーズ9の会」の仲間が5名。
 9ちゃん、尼崎の酔うたろう君、サワーさんはお聞きしていたが、あとのお二人はうれしい誤算。兵庫のあんぱんまんバイキンマンさんは自主的に、京都の神ちゃんは1時間前に電話連絡したら出て来てくださったそうだ。

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 「ここから北大路ビブレ前まで3.3kmくらいなんです。
 すんませんけど、今私ぎっくり腰患ってまして速く走れませんので、ゆっくり行きましょう。」

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 時折強風が吹き、のぼりを持って走るしんどさが初めて分かった。

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 途中で、「民主府政の会」の街宣カーに追い抜かれる。

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 通行人に呼びかけながら走るのは苦手だ。
 しかし、「マラソンランナーの門さんをよろしくおねがいしまーす」という言葉は自然に出てきた。門さんは、私らランナーにはすごく応援しがいのある候補者である。

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 北大路ビブレ前に着いたのは、ちょうど3時。
 「民主府政の会北区連絡会・大街頭演説会」が、今まさに始まろうとしているところ。

 私が家を出発するちょっと前、うれしいメールが届いていた。
 「ブログ見ました。先生の応援演説聞きに行きますね〜!」
 私の最後の教え子の一人、ちいちゃんからだ。

 会場に着いた時、すぐにちいちゃんを探した。
 かなり前のほうに・・・いましたいました。
 「ちいちゃーん!」
 すぐ気づいてくれ、ニコッと笑顔。こんなうれしいことはない。
 これで、途中でつまったり泣き出したりすることはないだろう。

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 開会あいさつのあと、北区の保母さんたちからの応援演説。替え歌などが入った楽しい応援メッセージだった。

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 門さんが私たちを見つけて、ごあいさつに来られた。
 いっしょに記念撮影。

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 門さんは私と同い年。
 「丹後100kmウルトラマラソン」を完走されたのは、7年前の第3回大会らしい。

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 「パオパオさん、聞きに来たえー。」
 「いやー、うれし。」

 「かもなす」の由美さん。「ランナーズ9の会」の神ちゃんとは古くからのお知り合いらしい。

 「てー、ふるえてんのとちゃう?」
 「そら、緊張しますわ。」

 関西は、一文字の名詞はみんな伸ばす。
 「手」は「てー」。 
 「目」は「めー」。
 「歯」は「はー」。
 「木」は「きー」。
 「絵」は「えー」。

 そんなことを考えていると、だいぶ落ち着いた。

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 街宣カーに上るはしごは、踏む部分が小さく上りにくい。

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 門さんが上ってこられる前に、私の演説はスタート。「5分以内に」と何度も言われていたので・・・。

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 「ランナーズ9の会」の仲間にもいっしょに上ってほしかったのだが、上り下りにも時間がかかるので、街宣カーの前に並んでもらった。

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 ほんとにこんなこと(応援演説)をするのは初めてだったので、自分の声がみなさんに届いているかどうかだけが心配だった。

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 しっかりまちがわずに、感極まらないように読むことばかりに気をとられて、聴衆のみなさんを見る余裕はほとんどなかった。

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 「原稿が、風で飛んで行ってしもたらどうしょ」と心配だったが、何とかセーフ。
 まずまず落ち着いて読めた。私が一番言いたかった、国労の中野さんのくだりもしっかりはっきり言えたと思う。

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 応援演説が終わり車から下りたところで、○山さんの号泣。
 私も、もう言うことなしです。 

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演説中の写真撮影をお願いした恵藤さん(私の姉の夫・左端)

 写真を撮ってくださった恵藤さん、どうもありがとうございます。
 

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 この「大街頭演説会」のプログラムが決まったとき、「この2番目の『藤井廣司(ふじいこうじ)』って、誰?」と話題になったそうだ。
 教師を続けていたならまだしも、19年間も引きこもっていた(?)オッサンが突然出てきたら、みんなビックリ。

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 でも、おなじみのメンバーがいつもと同じような話をするだけではダメでしょう。次から次と、新しい人がゾクゾクと出てくるような運動の広がりがないとね。

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 一番最後に、門さんの演説。
 毎日新聞と京都新聞に京都府知事選の争点の特集がしてあったが、どちらの記事もどう公平に見ても「府政転換」が必要という主張に思えた。新聞をしっかり読んでいる人は、門さんに投票しようと思う人がかなり多くなっているのではないだろうか。

 3時50分ごろ閉会。また、私らは「民主府政の会事務所」まで走って帰ることに。

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 事務所で、門さんが「ランナーズ9の会」入会手続き。

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 ○山さんから、「ランナーズ9の会」のユニフォームプレゼント。

 事務所では、「門さんといっしよに走ろう」という企画も計画されている。早く同じユニフォームでいっしよに走りたいです。

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2010年03月20日(土)

京都府知事候補・門さんへの応援演説 [平和]

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 「○山さん、泣いてはるよ。」

 私の応援演説が終わり街宣カーから降りてきた時、そう9ちゃんに言われた。その後ろには、目を真っ赤にはらした○山さんが立っておられた。

 よかった。この応援演説を引き受けてよかった。私のつたない演説で、こんなに号泣してくださる方がおられるなんて・・・。

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 「ランナーズ9の会」の掲示板管理人・○山さん(尼崎の酔うたろう君)を号泣させた応援演説は以下の通り。 

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 みなさーん、こんにちはー。
 「ランナーズ9の会」の藤井廣司です。

 えー、私はこんな場に出るのは初めてでして、途中でつまったり泣き出してしまったりするかもしれません。そんな時は、大きな声で「泣くなー!」とヤジってください。お願いします。

 今、「ランナーズ9の会です」と大きな顔をして出てきましたが、実は入会さてもらってまだ丸1年です。

 この「ランナーズ9の会」は、大江健三郎さんたちの「9条の会」のアピールに賛同し、2005年3月30日、ランニングを愛し、真に平和を希求する仲間によって設立されました。

 この会は、入会金・年会費もなく、会の規約もありませんが、ただ一つ「憲法9条を守ろう」という精神でみんながつながっています。
 現在、海外4ヶ国を含め、424名の仲間がいます。

 そんな私が、なぜ今ここにいるかと申しますと・・・。

 私は、今までずっと「民主府政の会」の候補に投票してきました。しかし、今日のように表だって応援活動をしたことはありません。そういう意味では、今日の応援メンバーの中では異色と言えるでしょう。

 私が、今回、ぜひとも門さんを応援したいと思ったのは、一番には平和憲法を守ってくださる方だったからです。

 門さんは、反核医師の会の世話人をつとめ、「九条の会アピールを支持する京都医療人の会」の世話人もしておられます。

 また、門さんのホームページのトップには、「ひと・いのちが大切にされる京都府政をつくりたい」と書いてあります。

 それは、どんなことがあろうと絶対に戦争をしない、平和を守るという憲法9条の精神そのものにもつながる考えであると思います。

 次に、門さんを応援したいと思った二番目の理由は、門さんが100kmウルトラマラソンを完走しておられるランナーであることです。

 100kmウルトラマラソンは、10時間以上かけてゴールをめざすレースです。
 その間には、いろいろな物を見ることができ、いろいろなことを考える時間もたっぷりあります。

 実は、門さんが完走された「丹後100kmウルトラマラソン」を、私は第1回から去年の第9回まで9年連続時間オーバーで完走できていません。
 しかし、トップランナーが見落としているいろいろなものを、私は私なりにしっかり見て走っているつもりです。

 人はそれぞれ走る速さがちがうように、それぞれ生きる速さがちがってもいい。
 速い者、強い者だけが賞賛され、ずるがしこく立ち回る者だけが生き残れる社会はまっぴらです。
 ゆっくり走る人、ゆっくり生きている人もみんなでいっしょに楽しめる社会こそ平和なよい世の中ではないでしょうか。

 門さんは医療のスペシャリストですが、それだけでなく、マラソンを通じて、きっとさまざまな人のさまざまな走り方、生き方も理解してくださっている方であると思います。


 私事ではありますが・・・。

 私は、今から24年前、京都市の小中学校への「日の丸・君が代」の強制にいや気がさして、その5年後に小学校教師をやめました。

 当時の校長先生方は、「教え子を再び戦場に送らない」という意気込みで教師になられたはずなのに、その時はだれ一人、自分の信念を貫きとおした方はおられませんでした。
 私は、信頼していた校長先生方がロボット化してしまったその恐怖から逃げ出してしまいました。

 今日は、私の最後の教え子の一人もここに聞きに来てくれています。

 私はそれから19年間、ほとんど何も考えず、ほとんど何もせず生きてきたと言ってもいい人間です。

 しかし、去年の12月、ある人と出会い自分の考えを変えました。
 それは、23年前の国鉄民営化の時に、わけも分からぬまま不当にクビにされた国労の中野勇人さんという方です。

 彼は、もう世間から忘れ去られようとしている問題を何とか切り開こうと、自分の得意なマラソンを通してアピールしようと考えました。
 そして、去年の11月から12月にかけて、「国会前54日間連続フルマラソン」を決行され、見事完走されました。

 私は、そのうちの1日だけいっしょに走らせてもらったのですが、終盤、私が疲れて笑顔がなくなりそうになった時、
 「藤井さん、なんとか手と足を動かしていれば、少しずつでも前に進むし、ゴールにもたどりつけますよ」
 と励ましてくださいました。

 その時思ったのは、「何もしないより、少しずつでも手と足を動かそう。自分は走ることならできる。走ることによって、誰かを励ましたり力付けたりできたら、こんなうれしいことはない。あきらめずに、自分の信念を貫こう。そうすれば、道も開けるかもしれない」ということです。
 そんな気持ちで、今日もこうしてこの場に駆けつけました。


 門さん。

 憲法9条を守り、平和を守り、ひと・いのちが大切にされる世の中にするために、どうか私たちといっしょに走り続けてください。

 最後まで絶対にあきらめないで、なんとか手と足を動かしましょう。そうすれば少しずつでも前に進むし、笑顔のゴールにもたどりつけますよ。

 私たちの「ランナーズ9の会」にも、ぜひ入会してください。今日は、入会申込書も持って来ました。

 このあとも、私たちの仲間が必ず応援に駆けつけます。

 みんなといっしよに、笑顔で走りましょう!

 以上です。
 どうもありがとうございました。

(注)もうちょっと書きたいことがあるんですが、もう眠たくてしょうがない。また、書き足します。

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2010年03月18日(木)

京都府知事選候補・門ゆうすけ氏応援演説決定! [平和]

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 今日、「府民本位の新しい民主府政をつくる会」から連絡があった。
 「3月20日の街頭活動での応援弁士をお願いしたい。」

 事の発端は、「ランナーズ9の会」のかわせみさんからの提案。
 「京都府知事選に出られる予定の門さんは、憲法9条を守ってくれはる方やし、なおかつウルトラマラソンを完走されているランナーでもあるし。ぜひとも、『ランナーズ9の会』のユニフォームを着て『激励ラン』しましょう。」

 大賛成!
 「憲法9条」+「ランニング」といえば、今の私の人間形成要因の8割方を占めると言っても過言ではない。

 そこで、「民主府政の会」に連絡。
 こちらの会の趣旨などを説明させていただくと、「それならぜひ応援弁士に」ということになった。

 門さんのポスターには私の姪・中村悦子が弁士として紹介されていたので、あの子が弁士として立つことはあっても、まさかこの私が・・・。
 言いだしっぺのかわせみさんも、3月20日は都合が悪く来れないらしい。(後日、あらためて「激励ラン」を実行する予定です。)

 私が常々思っていること・・・。
 どんな運動も、うちわだけで盛り上がっていてもダメ。今まで無関心だった人や反対の立場であった人まで声かけをひろげなくては。
 それともうひとつ、自分より若い世代への引継ぎ。平和運動に携わる人々の年齢層が高いのを見るたびに、「子や孫への引きつぎは?」と思ってしまう。

 正直に言って私は今まで何もしてこなかった人間ですが、そんな人間の代表として(それでよければということで)申し入れを引き受けました。

 どこかの市長さんやどこかの校長先生のように、「もう何回も聞いた」ような話にならないようにだけは気をつけます。
 少なくとも、自分の体験から感じたことを自分の言葉で話せるようにだけはしたい。

 さあ、これから原稿を考えよう! 

※ 街頭活動予定

 3月20日(土) 午後3時〜
 北大路ビブレ南側 (地下鉄・北大路駅前)

 (私の出番は、3時8分ごろから5分間だそうです。)

◎ 日が迫っているので無理なお願いかも知れませんが、当日「民主府政の会事務所」(堀川丸太町上る)から北大路駅前までアピールランをしようと思っています。いっしょに走っていただける方がありましたら、事務所前に2時半くらいに来てください。もちろん、「ランナーズ9の会」以外の方も大歓迎です。

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2009年12月15日(火)

今日本で一番すごい人 [平和]

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 国労北見闘争団・中野勇人さん。

 今、「国会前54日間連続フルマラソンアピール行動」実行中。
 これは、1987年、国鉄民営化の時に不当に解雇された「国労」の仲間の「解雇撤回・JR復帰」をアピールする行動である。
 11月1日から12月24までの54日間連続のフルマラソン。なぜ54日間かというと、ギネスの記録が51日間だったことからこの行動を考え付かれたのと、闘い半ばで亡くなられた方が54名だったから。(記録が目的ではないのでギネス登録はしていない。また、このアピール行動中にも4名の仲間がお亡くなりになり58名にまで増えている。)

 この「アピール行動」も、残すところあとわずか。
 どうしてもいっしょに走りたいので、今日の夜行バスで東京に行きます。

 夜行バスは、今まで一度だけ乗ったことがある(正確には、東京往復なので2回)。
 私と廉とで東京に行った。今日廉に聞くと、「たぶん、小3のとき」と言っていたので、9年前。
 主な目的は、年に一度の「レゴ」のセール。ついでに東京ディズニーランドにも行ってきた。バスは「東京ディズニーランド行き」だったので、そこから「レゴ」の会場へ。お昼過ぎに「東京ディズニーランド」にとんぼがえり。夜のパレードを見て、また夜行バスで京都へ。めっちゃしんどかった。
 一番の思い出は、帰りのバスの中で家とまちがって「プー」をしてしまったこと。ねぼけてました。
 今日はそんなことにならないように・・・。
 明日はさすがに疲れていると思うので、帰りは新幹線にしました。

 最近だんだん「ただ走る」のがつらくなってきた。なにか「走る理由」がないと・・・。゜
 明日は、45日間ずっと走っておられる中野さんをちょっとでも応援したい。
 「こちらが元気をもらいました」とは絶対に言いません。

 「ちょっとでも、中野さんを元気にするぞー!」
 
 

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2009年12月07日(月)

「憲法と人権を考える集い」 [平和]

◎京都新聞12月7日朝刊

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平戦争体験を通じて和の尊さを語る益川教授  (6日、京都市左京区・国立京都国際会館)

戦争体験通じて平和へ思い語る
左京で集い 益川さん講演

 ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英京都産業大教授が6日、戦争体験と平和をテーマに京都市左京区の国立京都国際会館で講演した。来場した市民約1100人を前に、戦争のない世界の尊さと平和憲法の堅持を訴えた。

 京都弁護士会主催の「憲法と人権を考える集い」で講演した益川教授は、名古屋市の空襲で焼夷(しょうい)弾が家の屋根を突き破って床に転がった幼時体験を語り、「不発弾だった。爆発していたら大やけどをするか、死んでいた」と振り返った。

 学生時代に平和運動にかかわった経験にふれつつ、「今の憲法9条を改正して手に入れようとしているのは交戦権しかない。改憲論者が憲法改正の提起をする前に、『このまま行ったらおれたちは負けるぞ』と思わせて断念させるぐらいまで、日本の津々浦々にまで反対の声が響き渡るように運動していきたい」と力説した。

 先の戦争について「僕は力で相手をねじ伏せるやり方が大嫌い。日本がアジアの人たちに与えた苦しみは非難され続けても何ともいいようがない出来事だ」と述べた。
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 12月5日、おじいさん(父)の誕生パーティー中、私の横に座っていた姉と、この「集い」の話題になった。
 「沖縄に視察に行った京都の中高生が、国際会館で報告会すんにゃってなあ。私、見に行こと思てんにゃけど・・・。」と姉。
 「ああ、それ、ボクも行こと思てんねん。」

 8歳上の姉と話が合ったのは久しぶり。でも、よーく考えてみると・・・。
 私が生まれて初めて「おきなわ」の存在を知ったのは、小学生の時。当時高校生だった姉から、「沖縄を返せ」という歌を教えてもらった。


  「沖縄を返せ」

       作曲:荒木 栄   作詞:全国法福岡高裁支部

   かたき土をやぶりて 

   民族の怒りに燃ゆる島 

   沖縄よ
  
   われらとわれらの祖先が血と汗をもて 

   守り育てた 沖縄よ

   われらはさけぶ 「沖縄は 

   われらのものだ 沖縄は!」

   沖縄を返せ

   沖縄を返せ

 
 当時小学生だった私は、「大きな輪を返せって何?」という感じだった。姉から、九州鹿児島のずっと南に「沖縄」というところがあり、そこは日本なのにドルを使って、車が右側通行、アメリカ軍の基地がそこらじゅうにあると教えてもらった時は目が飛び出た。

 そして高校生になった私は、生徒会執行部に入り、返還前の沖縄に京都の高校生を派遣する運動に力を尽くした。わが洛北高校から2名、京都全体で10名ほどの高校生を沖縄に送り込んだ。1週間ほどの視察旅行だったが、その費用を工面するために、暑い中あちこちカンパのお願いに走り回った。

 あの時のあの運動はどこが主体となってやっていたのか。今となっては思い出せない。
 でも、今回のこの企画を知ったとき、私らが一生懸命やったのと同じようなことを今もやっているんやとうれしくなった。

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 この「憲法と人権を考える集い」は、2部構成。
 第1部 講演「平和について理論物理学者は考える」
 ノーベル賞の益川敏英さんのお話とインタビュー。
 第2部「ぼくとわたしが見たオキナワ」
 京都の中高生が沖縄の戦跡を訪ね、沖縄南風原町の中高生と戦争について考えました。

 ということで、私はどちらかと言えば第2部重視。第1部はおまけのように考えていた。
 ところがどっこい、益川さんのお話を聞いてびっくり。
 実は廉から「益川さんの話はあんまりおもしろないらしいでー」と言われていたのだ。とんでもなかった。
 自分の体験をもとに、自分が感じたままのことを話されている。言葉一つ一つが平易。だれが聞いても理解できるように、聞く側を気づかった話し方をされていた。

 私はメモをとりながら話を聞くということができない。だから、お聞きしたお話の半分以上は忘れてしまった。印象に残っていることと言えば・・・。

 「改憲を狙っている勢力は全体から見ると多数ではない。しかし、なぜかこの勢力は改憲に自信を持っているように見える。その自信がどこから来るものなのか理解できないが、ありとあらゆる手を使うつもりだ。そういった勢力をあきらめさせる運動が大事だ。」

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 「伝えたい〜私の戦争体験と平和への思い」と題したインタビューは、さらによかった。

 「朝鮮で財産を築いた祖父母の自慢話は、聞いていて腹立たしかった。」
 「ノーベル賞受賞の対象となった論文は32歳のときに書いたものだが、それは人生で一番忙しい時だったかもしれない。労組の役員もしており2つも3つも仕事が重なったが、時間をものすごく大切に有効に使うようになった。」
 「家の仕事(砂糖屋)を手伝ってためたお金で、古本屋で念願の本を買った。現代数学全書33巻。初めて読んだ時は、そのほとんどが理解できなかった。でも、何回も読み返して徐々に理解できる部分が増えていった。」
 「モーツアルトファンには申し訳ないが、モーツアルトの曲は聴く気がしない。モーツアルトは、ひらめきで曲を作り、そのあと推敲した形跡がない。そういった曲はどうも・・・。」

 若い人たちに向けてと司会者に促されると・・・。
 「今の受験制度はおかしいところがいっぱいある。あんな膨大なテストが本当に必要か。大学に入ってくる者は、受験に力を使い果たし『余力』というものが残っていない。気の毒だと思う。」
 「努力しなくても熱中できることを見つけてほしい。最初は人のまねでもいい。うまくいかなくてもいい。何もしないよりも何でもいいから何かを始めてほしい。」
 たぶん初めの「努力しなくても」という部分は、「無理をしなくても」というニュアンスだと思う。
 今年の春には、うちの廉は大学生、真樹は高校生。本当に、何でもいいから何かを始めてほしい。

 司会者の最後の質問。
 この質問のあと、益川さんが固まってしまった。それまでも言葉を選び選び話されている様子がよく分かったが、ここは本当に固まってしまわれた。
 私はその表情に目が釘付けになってしまい、肝心の質問内容を完全に忘れてしまった。どなたかしっかり聞いておられた方があれば、教えてください。(もちろん、戦争と平和に関する内容ではあったと思います。)
 しかし、このときの益川さんのしっかり考えておられる表情を見て、「この人は信用できる人だ」と確信した。

 いいお話を聞かせていただきました。

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 第2部 ぼくとわたしが見たオキナワ

 こちらは、どうしても38年前高1だった自分たちと比べてしまった。
 5人の京都の中高生は、みんなまじめないい子。沖縄南風原町から来てくれた3人の高校生と1人の大学生も、みんなまじめないい子。
 ただ、聞いているほうとしては、ちょっといい子ちゃん過ぎてしんどい部分もあった。もうちょっとくだけてもよかったんちゃうかなあ。
 聞いていて、笑ってもいい箇所はほとんどなかったような・・・。沖縄って、そんなとことちゃうような気がする。「てーげー」はどこいってもた?「なんくるないさー」は聞かんかった?

 38年前私たちが送り出した仲間は、沖縄を十分楽しんで帰ってきたぞ。そんな話を聞いて、「自分が行ったらよかった」と後悔したもんや。

 一つだけ感心したこと。
 福知山の高校生(男子)が言っていた。
 「嘉手納基地がある嘉手納町は、町全体の80%が基地である。私が住む福知山市の80%が米軍基地だとしたらどうだろうと思った。」
 それ。それが自分のこことして考える第一歩やね。そういうふうに考えられた君はえらい。

 私は以前から言っている。
 選挙で人口比による一票の格差を訴えている人たちは、米軍基地分布の格差も訴えてもらいたい。本当に米軍基地が今の日本に必要であるなら、受益者負担の原則から、人口の多い首都圏や関西圏に大きな米軍基地を誘致すべきである。東京湾や大阪湾には余った埋立地があるじゃないですか。
 それに伴い、米軍人やその家族が引き起こす犯罪も沖縄に集中することなく全国平均的に分布していくはず。

 とにかく、もうこれ以上沖縄の人たちを裏切ったりだましたりするのはやめましょう。
 京都に米軍基地を誘致すればいいと思った子はいなかったのかなあ。京都の中高生たちにも、そこまで踏み込んで考えてほしかったと思います。

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2009年10月28日(水)

「生きることは愛すること」 [平和]

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「生かそう憲法 守ろう9条 5.2憲法集会in京都」ポスターより

 今日も体調悪く、朝のきくの散歩に行っただけで家に閉じこもっていた。

 テレビを見ていると、「今日は何の日?」というコーナーで瀬戸内寂聴さんを取り上げていた。
 2001年10月28日は、9.11に対するアメリカのアフガニスタン報復攻撃停止を祈り、彼女が断食に入った日だそうだ。
 当時、彼女は79歳。まさに、命を懸けた行動であった。

 瀬戸内寂聴さんといえば、「憲法9条の会」の代表世話人。この会に彼女が名を連ねている意味は非常に大きい。
 「あの方のお話は、ごく普通に、私たちの心にしみこんできます」と言われる方が多い。
 「分かりやすく、ごく普通に」は、平和運動の基本中の基本。彼女をお手本にできるところも多いように思う。

 今日のそのコーナーの最後は、瀬戸内寂聴さんの次の言葉でしめくくられていた。

 「生きることは愛すること」

 これも、人間としての基本中の基本。短い言葉だが、奥の深い言葉です。

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◎京都新聞8月13日朝刊 「’09夏 わたしの原点」より

  「戦争のむなしさ 語り継ぐ義務」   瀬戸内寂聴

 作家の瀬戸内寂聴さん(87)は、1991年に湾岸戦争停戦を、2001年には米中枢同時多発テロへの報復停止をそれぞれ祈り、断食した。医薬品を渡すため戦禍のイラクを訪問したことも。瀬戸内さんを突き動かしてきた「反戦の原点」はどこにあるのだろう。
 物心着いた時は日中戦争の真っ最中。学校で「聖戦」と教え込まれ、信じて疑わなかった。その思いが変わったのは戦後、夫の留学先の北京から日本に戻った後だった。

 43年、北京に渡った時から、「何かおかしい」と感じ続けていた。中国人を虐げ、威張り散らす日本人。一方、知り合った中国人は、瀬戸内さんを人生の苦楽をともにする「朋友」として遇し、親切で優しかった。
 夫が召集され食べていけなくなり、やっと見つけた職場の初日。北京で終戦を告げる玉音放送を聞いた。「日本人はひどいことをしていたから、どんなことをされるか分からない」。家に残した娘が心配で、職場を飛び出した。帰宅した時、路地の壁に張られた短冊の言葉を読んで、腰が抜けそうになった。
 「『仇に報いるに恩を持ってす』。蒋介石が書かせた言葉です。こんな立派な考えを持つ国と日本は戦っていたんだ。負けて当然と思いました」
 家族で北京にとどまるつもりだったが、翌年に強制出国させられ帰国。故郷の徳島県で母と祖父は空襲にあい、防空壕で亡くなっていた。
 「母は日ごろ『徳島のような田舎にまで、爆弾が落とされるなら日本は負けだ』と言っていました。これが最後だと思ったんでしょう。逃げたら助かったのに、逃げようとしなかったと聞きました」。このように考え、なくなった市井の人々は数知れない、と今も思う。
 「戦争なんて無駄だ」。
 そして、こう思った。「教えられた通り(『聖戦』と)信じてきたが、それがいかにむなしいか。これからは自分の目で見て、自分で考え、自分が感じたことしか信じない』。反戦の原点だった。

 51歳で得度し、「殺すなかれ。殺させるなかれ」との仏教の教えを胸に深く刻む。「戦争は人殺し。僧りょは戦争反対のの立場にならねば」。宗教者としての強い使命感から湾岸戦争、米中枢同時多発テロなどの節目には、年を重ねていても停戦や報復停止を願って断食をした。今も写経で必ず「世界平和」と書き、祈る。
 戦争体験者が高齢化し、経験に基づいて悲惨さを伝えられる語り部が数少なくなった。しかし、イラク、アフガニスタン・・・。世界各地の戦乱は終わらず、日本近辺でも北朝鮮のミサイル発射で平和はさらに揺らぐ。「人々には、あの泥沼のような戦争を二度と起こしてはならないという気持ちがあるはず」という思いと、「人間は愚かさ同じ過ちを繰り返すかもしれない」との懸念が交錯する。
 「北京にいたから飢えたことはなく、空襲も受けていない。目の前で家が焼かれ、肉親が死んだ人と比べたら私の戦争体験は弱い。戦争を知らず、好きなものを食べ放題の若者に、果たして伝わるかどうか分からない。でも、戦争の記憶がある人は、戦争は本当にむなしいと、伝える義務があると思います。

※ せとうち・じゃくちょう  1922年徳島市生まれ。東京女子大卒。「夏の終り」で女流文学賞。73年中尊寺で得度し、翌年、京都・嵯峨野に「寂庵」を結ぶ。2006年文化勲章。近著に「寂聴 幸福の鍵」など。

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