2009年04月07日(火)
ランナーズ9の会・その後 [平和]
「ランナーズ9の会」のユニフォームを申し込ませてもらったら、さっそく昨日の夜に届いた。
代金は「大会で会ったときでいい」と書かれていたが、早くお支払いしてしまわないとどうも落ち着かない。今週末にでも着て走りたいので、振込先を教えてもらって早く支払いを済ませてしまおう。
まるきり仕事の役に立たず走りほうけている私に、ヨメさんは怒り続けている。でもどうせ走るのなら、走ることでみんなを元気にしていきたい。
「ランナーズ9の会」のユニフォームを着て走れば、世界を平和側に0.1ミリでも引き寄せられるかもしれない。
これからは、そう思って走ろう。
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2009年03月31日(火)
ランナーズ9の会 [平和]
今日、「ランナーズ9の会」に入会した。
3月1日の篠山ABCマラソンのレース中、「ランナーズ9の会」の呼びかけ人である尾方さんたちに遭遇し、入会についてお聞きしていた。
それからおよそ1ヶ月、なんやかんやでけっきょく今日になってしまった。
「入会案内」は、以下のとおり。
【RUNNERS 9の会】への入会案内
2004年6月に作家の井上ひさし、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎さん等9名によって、「9条の会」が発足しました。
このアピールは戦争放棄と戦力を持たない事を誓った、素晴らしい日本国憲法の「改正」の動きが出てきたことを危惧し、日本と世界の平和な未来のために日本国憲法を守る一点で多くの国民が手をつなぎ、「改憲」を阻む努力をしようと強く訴えています。
一方、スポーツにとっても戦争のない平和な世界こそが、活動と交流の最大の保障であるだけに、私たちはこのアピールを真剣に受けとめたいと思います。
「戦争をしない国」の憲法9条を持つ国のスポーツを愛好する人々が、平和のために声をあげて行動する事は、大きな意味のある大切な事です。「9条の会」のアピールに賛同するスポーツマンによって、「スポーツ 9条の会」も既に発足しています。
以上のような呼応に対し、ランニングを愛し、真に平和を希求する仲間で【RUNNERS 9の会】なるものを発足させ、「戦争をしない国」のランナーとして、それらの運動に合流していきたいと思います。
また、この活動を草の根的に全国に広めていきたいとも考えていますので、多くのランニング仲間のご入会をお待ちしています。
2009年3月31日現在、ランニングと平和を愛する仲間はフランスの4名を含めて390名です。
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私が入会申込書に書いた一言は、以下のとおり。
「微力ではあるが無力ではない」
走ることで平和をアピールできるなら、こんなうれしいことはありません。「平和を守りたい」という力が大きく広がって行きますように。
ブログ「パオパオだより」も、どうかよろしく。
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「平和を守るために何かをしたい」と思っている人は多い。しかし、なんらかの団体に所属していない人は、そのすべが分からない。
今の私も同じ。
去年、福知山マラソンでごいっしょさせていただいた京都ランナーズの藤井眞さん。あざやかなブルーのランシャツに「9の会」の文字がはえていた。
私と同じ「藤井」さんなので、初対面だったが気楽にお話できた。そのときに「ランナーズ9の会」のことをくわしく聞いてみた。
「特別な規約はないんです。憲法9条を守りたいランナーの集まりです。」
藤井眞さんは私より20歳ほど年上。しかし、まったくそのお年を感じさせない元気な走り。「福知山」でも、私が彼に追いついたのは30km過ぎであったと思う。
「いくつになっても、藤井眞さんのような、平和を愛するかっこいいランナーでありたい」
去年の12月には、今住んでいる地元の「憲法9条・静市の会」に入らせてもらった。ただ、そのあとお知らせいただいた集会は、うちの出張販売と重なって参加できていない。
そして、篠山で「ランナーズ9の会」ののぼりを持って走っているランナーを発見。
3月8日の「能登和倉万葉の里マラソン」でも、2人「9の会」のランナーにすれちがった。2人目の女性ランナーとはハイタッチもさせていただいた。
早く入会申込みをと思いながら、ずるずると月末まできてしまった。「3月中には」と思っていたので、今日FAXできてなんとかセーフ。
「9の会」の文字の入ったランシャツも注文させていただいた。これを着て走るのが楽しみ。
FAXして10分後くらいに、尾方さんご本人からお電話があった。私のことはよくおぼえてくださっていたようだ。入会をとてもよろこんでくださった。私のブログの篠山の記事も読んでくださったとのこと。ユニフォーム代のお支払いについてお聞きしていたから、ご連絡いただいたのだと思う。
「ランニング用品店をやってらっしゃるのに、こちらで買っていただいてよろしいんですか。」と気づかってくださっていた。
「いいんですよー。あれを着てレースに出るのを楽しみにしています。」
いつ、「9の会」ユニフォームデビューできるのかな。待ち遠しい。
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2008年12月12日(金)
憲法九条・静市の会 [平和]
今日、「憲法九条・静市の会」に入会した。
あさっての私の誕生日までに入りたいと思っていたので、間に合ってよかった。
福知山マラソンで、京都ランナーズの藤井眞さんが「9条の会」のユニフォームで走ってられるのを見て、「負けへんでー」と思った。そのあと、藤井眞さんに「私も、『9条の会』に入ります」と宣言した。その約束が早くはたせてよかった。
私が住む静市に「九条の会」があるのに、入らなかったらもったいない。
以前から会の通信を入れてもらっていたので、それを見ては気にはしていた。ただ、きっかけがなかった。そういう意味で、藤井眞さんのユニフォームは私の背中を押してくれた。
私は何の主義主張もない人間ですが、戦争だけは絶対にイヤ。全世界が絶対に戦争をしないと約束してくれるなら、消費税100%(物の値段が全部2倍)になってもしんぼうします。
戦争につながりそうなことは、どんな小さなことでもたいそうにたいそうに言います。絶対にイヤなんです、自分勝手な主張で人殺し(または、殺される)をするのは。
最初インターネットで「憲法九条・静市の会」の連絡先を調べてみたが見つけられなかった。そこで、「京都民報」に電話。(私は困ったことがあると、よくここに電話します。)
すぐに教えていただいた。
電話してみると、予想通り、私よりだいぶ年配であると思われる方(伊藤さん)が電話に出られた。私は話べたなのでうまく伝えられたかは分からないが、「お仲間に入れてください」と言うと とても喜んでくださった。
そして今日、伊藤さんの奥さんがいろいろな書類を家まで持ってきてくださった。
その中で、「あんなぁへぇ 沢田研二さんのこと」という資料を見てびっくりした。
最近、沢田研二さんが作詞された歌「我が窮状」。
♪麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
忌まわしい時代に 遡るのは賢明じゃない
英霊の涙に変えて 授かった宝だ
この窮状 救うために 声なき声よ集え
我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ
麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ
諦めは取り返せない 過ちを招くだけ
この窮状 救いたいよ 声を集め歌おう
我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない
この窮状 救えるのは静かに通る言葉
我が窮状 守りきりたい 許し合い信じよう♪
あの沢田研二さんが、こんな詩人であったとは・・・。今、60歳だそうです。いろいろなことに気づくまでには、かなりの時間がかかります。
私も、あさってで53歳。平和を守ってきていただいた諸先輩に負けないよう、自分のできることを見つけ努力していこう。沢田研二さんのような、品のある活動をしてみたいな。
自分の誕生日に入会をねらっていたのだが、「じゃあ、今日入会ということにしておきます」と言われた。まあいいか。
今日は、12月12日。「イチ、ニッ、イチ、ニッ! 平和を守ろう!」 そうおぼえておこう。
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2008年07月08日(火)
「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」 [平和]
◎東京新聞、2008年6月26日 朝刊より
“虜囚の恥”が招いた悲劇 戦時中の『カウラ事件』描く
第二次世界大戦中の一九四四年八月、オーストラリアの捕虜収容所で起きた日本人捕虜の大脱走事件。歴史の闇に封印されたこの事件を題材にしたドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった−カウラ捕虜収容所からの大脱走−」が七月八日午後九時から日本テレビで放送される。生き残った元捕虜の男性を親族に持つ脚本家の中園ミホさんが長年温めてきた題材。生か死か、小さな紙切れに重い決意を込めた捕虜たちの運命に胸が詰まる。 (安食美智子)
ドラマは、ニューギニア東部で連合国側の捕虜となり、シドニーの西方三百三十キロにあるカウラ捕虜収容所に収容された憲一(小泉孝太郎)と二郎(大泉洋)を中心に、収容所生活の中、望郷の思いと戦陣訓とのはざまで揺れた末、脱走を選択せざるを得なかった捕虜たちの姿を描く。日テレの次屋尚プロデューサーは「戦争物というよりも人間ドラマを前面に出したかった」と語る。
憲一のモデルとなったのが、今回脚本を手がけた中園ミホさんの伯父・佐藤憲司さん(87)。中園さんは二十八年前、佐藤さんのオーストラリア旅行に通訳を兼ねて同行し、佐藤さんが捕虜だった事実を知った。収容所跡地で慟哭(どうこく)する佐藤さんの姿に、中園さんは「いつか自分の手で書かなければ」と決意したという。
中園さんは佐藤さんが昨年脳こうそくで倒れ、「元気なうちに書かなければ」と昨年末から本格的に取り組み、十時間に及ぶ佐藤さんへの取材と、佐藤さんが書いていたノート二冊分の手記を基に物語を構成。憲一は佐藤さんの実体験をほぼ忠実に再現。二郎役は佐藤さんの戦友のエピソードを集約した。制作上最大の配慮は「実際に約八百人が復員し、今も収容所生活を隠して生きる人々がいる。地上波放送でその人々を傷つけてはいけない」(次屋さん)ことだった。
◇
「脚本を初めて読んだ時から泣いてしまった。すごい脚本に出会えた」。主演の小泉は制作発表でこう振り返った。俳優、スタッフらは二月下旬から三月半ばまで富士山麓(さんろく)の収容所のオープンセットで合宿撮影。撮影中にセットを訪れた佐藤さんは周りを見回し、毛布、灰皿など一つ一つ手に取りながらうなずき、涙にむせんだ。「身の引き締まる思いがした」と大泉。小泉が佐藤さんに「楽しいことは何だったのか」と尋ねると、「仲間と野球ができたこと」。「思い出したくないつらいことは」の問いには「友達が銃弾に倒れ、六発も撃たれた自分が生きてしまったこと」と答えたという。
小泉は「オフの時も一九四四年にいるようだった。今でも満月の夜になると、思い出してしまう」。大泉も「(トイレットペーパーに脱走の賛否を示す)○×を書くシーンは、朝から夜まで泣き続けた。その時代に生きた人々の力を借りていたようで、忘れられない。五年、十年たっても自分の心から離れない作品」と沈痛な表情を浮かべた。
中園さんも「(俳優たちは)何かが憑(つ)いたようだった。不思議と温かいものが伝わるドラマになったのは、脚本を書いた自分でも意外。脚本をはるかに超えるドラマになった」と感慨深げに語った。
凶悪事件が多発し、命が軽んじられる現代。次屋さんは「自分がすれ違う人すべてに歴史や思いがある。それを感じることが、人の命の重さを受け止めることなのだと伝えたい」と語る。中園さんも「ある流れに流されていくことは今も起こり得る。たくさんの若い人々に見てもらいたい」とメッセージを送る。
◎先日、毎日新聞(7月3日夕刊)でもこのドラマが紹介されていた。それは「週刊テレビ評」の欄で、このドラマの脚本家・中園ミホさん本人が書かれていた。
■捕虜収容所での脱走事件 命粗末する前に見てほしい
今日はドラマの宣伝をさせていただきたい。(略)
「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走ー」。なぜこのような不謹慎とも取られるタイトルをつけたのかは、見ていただければわかると思う。
1944年8月5日、満月の夜、オーストラリアの収容所で1104名の日本人捕虜が脱走事件を起こした。いつかこの話を書かなければいけないと思っていた。私の伯父がいたのだ。暴動の夜、伯父は食事用のナイフを手に機銃掃射の中を飛び出したという。
先週、ドラマの完成披露試写会が開かれた。(略)
捕虜たちが死を目的とした脱走に賛成か反対か、全員の投票で決めるシーンで、そこからラストまで客席はすすり泣きに包まれた。
たくさん泣ければ良いドラマとは思わない。けれど、これは私の脚本をはるかに越えた、何かとてつもないエネルギーのあるドラマだと、改めて感じた。立派な軍人でも英雄でもなく、捕虜となってしまった青年の生き方に、スタッフ全員が共感し、伯父の体験に魂を吹き込んでくれたのだと思う。
何より主演の小泉孝太郎さん、大泉洋さんお二人の熱演がすばらしい。(略)
ドンパチの戦闘シーンはほとんどない。その代わりに収容所で捕虜たちが心を通い合わせるシーンが私はとても好きだ。
戦争モノは苦手だという若い人たちにもぜひ見てほしい。そして、もし今、生きている意味がわからなくなってしまった人がいたら、見てほしい。命を粗末にする前に。
◎私の父は、1921年生まれの86歳。戦争で中国に行き、終戦の翌年に日本に帰ってきた。多くの仲間が自分の目の前で死んだ、という話を聞いた事がある。
脚本家の中園ミホさんは、私の4歳下。このあたりの年代が、戦争体験を引き継げる境目なのかもしれない。父や伯父が戦地体験のある世代。ここより下(例えば、うちのヨメさん)の世代は親が戦時中10代で、戦地に向かった人間に比べると悲惨さがかなりちがうと思う。
中園ミホさんは、「生きている意味」とか「命を粗末にする前に」というところを強調しておられた。しかし、私はこのドラマの最重要部分はそこではないと思う。
脱走(実質・自決)の賛否を問う「○×」を投票する時、それまで反対していたはずのほぼ全員が○をつけてしまう。こわいのは、ここです。自分の考えは、どこへ行ってしまったの?
また学校の「日の丸・君が代」問題を出して恐縮ですが、京都の小中学校にそれが導入された時(23年前)、京都中の校長先生がそれと似た状態でした。ある時期を境に、一斉に全校長先生がロボットのように同じ言葉を繰り返されるようになったのです。「これは、職務命令です。」とか。 この時の体験が、私の今までの人生で一番の恐怖体験です。
それまであれほど話し合いを大事にされていた校長先生方、ご自分の考えはどこへ行ってしまったのですか?
最後に二郎役の大泉洋が、憲一役の小泉孝太郎に言った言葉。
「まわりに流されず、自分の気持ちにまっすぐに」
清廉潔白の「廉」と、真っすぐな樹の「真樹」には、心の中にとどめておいてもらいたい言葉です。
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2008年03月28日(金)
新学習指導要領「愛国心強調し修正」 [平和]
ガソリン税改正のニュース、刃物殺傷事件、ホーム突き落とし事件のニュース、などが連日大きく取り上げられている。そんな中、今日、日本の将来を左右しそうな大きなニュースがあった。毎日新聞では小さな扱いだったが、京都新聞では比較的ていねいに取り上げられていた。
☆3月28日、京都新聞朝刊1面より
「愛国心強調し修正」 国と郷土を愛し/君が代歌えるよう指導 -手続き不透明 批判も-
渡海紀三朗文部科学相は28日付で、新しい小中学校の学習指導要領を告示した。2月15日公表の改定案の「総則」に道徳教育の目標として「我が国と郷土を愛し」との文言を加え、小学校音楽で君が代を「歌えるよう指導する」と特記するなど愛国心教育をより強調する修正を加えた。
文科省は「パブリックコメント(意見公募)のほか改正教育基本法の趣旨や国会審議、与党とのやりとりを踏まえた修正。特に重要な修正部分はない」と説明。しかし、長期にわたる中教審の公開審議を踏まえた改定案公表の後になって、国民の間で賛否が分かれる愛国心教育に関する修正を多く加えた不透明な手続きは批判を呼びそうだ。
(略)
小学校音楽での君が代の取り扱いも、改定案は現行指導要領を踏襲し「いずれの学年においても指導」としていたが、新指導要領は「いずれの学年においても歌えるよう指導」と修正した。事実上、子どもたちに「歌わせる」ことに力点を置いた。
文科省は「現行指導要領の解説書の記述に合わせた。実質的な変更はなく、強制の意図もない」としているが、法的拘束力を持つとされる指導要領の本文に記載されたことで、学校現場への影響は大きいとみられる。
(略)
※関連記事(6面)
「土壇場 政治の圧力」
改定案公表からわずか一ヶ月余り。君が代を「歌えるよう」にと具体的に規定するなど、論議を呼びそうな修正が土壇場で次々に加えられたが、文科省は「ほとんどが細かい字句上の修正。あとは改正教育基本法の趣旨をより明確にしただけ」とあくまでも“微調整”であることを強調した。
だが、関係者によると、一部の自民党国会議員らが文科省に対し、主に道徳教育についての改定案の書き換えを強く要求、見送った教科化も事実上盛り込むことまで求めてきたという。
(略)
今回の告示について国際基督教大の藤田典教教授(教育社会学)は、「愛国心重視の文言を最後の修正で加える手法はけしからん」と強く非難した。「改正教育基本法は強行採決で成立した。パブコメも国民投票とは違い民意を代表していない。こんな形で国が心を支配する方向に踏み出すのは間違っている」
◎1986年の2月。突然、日の丸・君が代が降って来た。じょうだんではなく、本当にそんな感覚だった。
当時、私は北区の上賀茂小学校の6年担任だった。
その2年前にも同じ学校で6年を担任し、40名以上の子を卒業させていた。
「さあ、また卒業式や。しっかりせんとな。こんな仲のよかったクラスやから、きっといっぱいの子が泣くんやろな。」そう思っていた。
京都は革新府政、革新市政が長く続いていたせいもあるのか、卒業式・入学式での日の丸・君が代実施率が全国最低ランクだった。だからといって、決してつまらない式を行っていたわけではない。各校で工夫をこらしたすばらしい式が、京都の自慢でもあった。
しかし、わずか一か月ほどの間に、それらはすべて解体された。どこの学校も、おごそかな(?)金太郎飴みたいなワンパターンの式になってしまった。
それよりも当時私が一番恐怖を感じたのが、校長先生の豹変ぶりである。
「教え子を再び戦場に送らない」を旗印に、全国に誇れる京都の平和教育を何十年とになってこられた校長先生が、みんな同じ言葉をしゃべりだしたのである。私たちの疑問に対する応対まで、京都市立小中200人近い校長先生がみな同じになってしまった。(なにかにとりつかれている。)
洗脳? ロボット化?
学校とは、失敗してもみんなが補い合い、ともに成長していける職場だと思っていた。私の数少ない職場体験のなかでも、それは感じられた。自分自身も、子どもに対してもいつもそういう姿勢でいようとこころがけていた。
しかし、日の丸・君が代の強制が導入されて以来、職場のふんいきも(悪い方に)変わってしまった。なかでも、校長先生を信頼できなくなってしまったことは大きな変化だった。
そしていつの間にか、職員会議は、楽しい学校を作っていくための話し合いの場ではなく、上意下達の場に変貌してしまった。
その時、校長先生方に何があったのか、いまだ明らかにされていない。(きっと、人に言えないような恐ろしいことがあったに違いない。墓場まで持っていかれるのかな。)
しかし、その年の卒業式から、ほとんどの小中学校で日の丸・君が代入りのワンパターンの式が定着した。
私はそれまで5・6・5・6年と担任を持っていたが、翌年は3年担任を希望した。
そして、その2年後、異動。また、5年の担任。次の年は、当然6年に。
どうなるのかと思っていたが、「ざわわ」のうたが大好きな校長先生に助けていただき、自分なりに納得のいく卒業式ができた。
その翌年も2年連続で、卒業生の担任。この時の卒業式もよかった。このあたりが自分の限界かなと悟り、そこで教師を辞める決心をした。
8月に生まれる初めてのわが子のために、中途半端な生き方はやめよう。この決心で、ちょっとは胸が張れるかな。そう思った。
17年も前の話ですが、こんなふうに悩みに悩み結局辞めてしまった小学校の先生もいたのです。どう、思われます?
☆2日前には、こんな悲しいニュースが・・・(3月26日、京都新聞夕刊10面より)
「卒業式でミス『死んでおわび』 小6、飛び降り死亡」
東京都板橋区の区立小六年の男児(12)が25日、卒業式を終えて帰宅した後、自宅マンションから飛び降りて死亡していたことが26日分かった。自宅に「死んでおわびします」という趣旨の走り書きがあり、警視庁志村署は自殺とみて詳しい動機などを調べている。
志村署によると、男児は25日午後1時半ごろ、板橋区中台の自宅マンション14階のベランダから飛び降りた。病院に搬送されたが全身を強く打っており、約二時間後に死亡。普段着姿で靴は履いていなかった。自宅居間のテーブルに男児が書いたと見られる走り書きが置いてあった。
男児は25日午前、小学校の卒業式に出席。校長によると、男児は卒業生による呼び掛けで「大好きな学校」とするところを「大嫌いな学校」と発言。校長には式の後、「緊張して間違えた」などと説明していたという。
校長は「明るい児童でいじめなども確認されていない」と話している。
◎この記事だけでは、くわしいことはわからないが・・・。
小学校の卒業式は何のためにあるのか。
自分の小学校時代6年間を振り返り、それまでお世話になったみなさんに感謝し、これから始まる新しい生活に気持ちよくスタートを切る。その区切りをつけるイベントである。決して国家に忠誠を誓う儀式ではない。
記事を読んだかぎりでは、この子が「大好きな学校」と言いたくなかったことは想像できる。
私も先生の作ったいいことづくめの「呼び掛け」は、大嫌いだった。そういうことを言いたい子もいれば、言いたくない子もいるはずだ。見た目だけよくしようという卒業式なんか、いらない。
私の最後の2回の卒業生には、自分を見つめ直して書いた作文を読んでもらった。これは、けっこう好評だった。
「大嫌いな学校」と言った子。私が担任だったら、「よう、思い切って言ったな」とほめてやったのに。「実はな、先生も学校にはむかつくことがいっぱいあったんや。ほんまに、よう、ゆうてくれたな。先生もスカッとしたわ。ありがとう。」
これくらい、言えんか!
どんなことがあろうと、子どもを死なすな!
◎ ブログを書き終わって(夜10時)、初めて今日の夕刊を見た。
<京都新聞> 集団自決「軍深く関与」 「沖縄ノート」訴訟 大江氏記述は妥当 大阪地裁判決 元隊長訴え棄却
<毎日新聞> 集団自決 軍関与を認定 「沖縄ノート」訴訟 「命令」信じるに足る 大阪地裁判決 名誉毀損認めず
久しぶりにいいニュース。
裁判長は、文章読解力のある人でよかった。この問題についても、いつか自分の考えを書いてみたい。(今日は、ちょっと疲れた。)
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2008年02月13日(水)
岩国市長選 [平和]
長い旅行の間に、平和に関わる大きなニュースが二つあった。
?岩国市長選、米軍容認 新人当選 (2月10日)
?沖縄米兵、中3少女暴行 (2月11日・未明)
?の事件については、賛否両論はありえない。ニュースでは、「沖縄の怒り」を強調していたが、沖縄は日本ではないのかといつも思ってしまう。
少し話がとぶが、だいぶ前、ある作家が興味深いことを書いていた。原子力発電についてである。
「国や電力会社がそんなに安全性を強調するのなら、東京湾や大阪湾に原子力発電所を建設すべきである。」という論である。人口(受益者)の少ない北陸などではなく、都会のそばにこそ作れ。そうすれば、長い長い送電線も必要ないし、核燃料運搬にかかる莫大な警備費も削減できる。
これは、一理あると思った。
本当に、米軍が日本に必要なら、首都東京から2000kmも離れた沖縄ではなく、東京湾、大阪湾に基地がなくてはならない。そこで発生するであろう事件事故トラブルも、人口(受益者)の割合によって受け入れなければ仕方ない。
沖縄で、米軍の事件が多いのは、日本駐留の米軍の75%が沖縄に集中しているからである。
誘致すべきは、オリンピックではなく、沖縄の米軍基地じゃありませんか、都知事さん。「東京都知事、日本最大の米軍基地、東京湾に誘致」、「大阪府知事、日本最大の原発、大阪湾に誘致」 そんな時代には、なりませんかね。受益者負担の原則を貫くのなら、これは決して暴論ではないと思う。
国政選挙のたびに、1票の格差が問題になる。それをとやかく言うのなら、マイナス要素も引き受けてください。それが本当の、「応分の負担」ですよね。
いなかでひっそり暮らすお年寄りも、都会で便利さを享受している若者も、なくして困る命の数は、みなそれぞれ一つづつ。
都会に住むみなさん、もう知らんぷりするのはやめませんか。
?の選挙結果は、正直言って意外だった。
この選挙は、米軍再編に伴う空母艦載機部隊の岩国基地移転が争点だった。
06年3月、艦載機移転の是非を問う住民投票で、87%が反対。同年4月、反対派の井原氏が新岩国市長選初当選(合併前から通算すると3期連続。)その後、国が市への補助金見送り。岩国市議会が補正予算案を4回にわたり否決。
そして、井原氏は辞職し、出直し市長選へ。
投票率76.26%(前回65.09%)、福田氏 47081、井原氏 45299。 約1800票の僅差で、米軍移転容認派の福田氏が当選。(9割の反対派は、真っ二つに割れた。)
この結果を、どう見るか。
これは、意見の分かれるところである。
先の作家の論では、沖縄の負担を岩国市民が受け入ようとしたと判断されるかも知れない。
しかし、約2年前、87%が反対だったものが、そんな極端に変わってしまうのだろうか。
私が思うには・・・
やはり、国からの補助金見送りと、市長と議会の対決がこたえたのだと思う。その上で、容認派の市長を選んでも、「まさか、前面容認なんてことにはならないだろう。」という甘い考えがはたらいたように思う。(「それはそれ、これはこれ」の原理。)
岩国市民は、かんちがいされている。
政府が使っているのは、「アメとムチ」ではない。冷静な思考をマヒさせる「神経ガス」なのだ。
30年近く前、職場の同僚の実家が山口県周東町だったので、夏、長崎平和大行進参加のついでに立ち寄った。錦帯橋、秋吉台、岩国城などいろいろ連れて行ってもらったが、一番印象に残っているのは、お城の天守閣から見た岩国基地だった。
そこには、生まれて初めて見る戦闘機の本物があった。(京都に住んでいると、まず見ることはない。) これが基地か。ここから戦争に行くのか。その時はそう思いながら、ただ、だまって見るだけだった。
日本の将来を真剣に考えるために、子どもたちに基地の実態を見せることが必要かもしれない。
今、京都の公立高校でも、さかんに海外研修旅行が行われている。行き先は、何の問題意識を持っていくのか理解しがたい東南アジアの国が多い。
うちの子(高1)は、来月シンガポールに行く。アジアなら、中国か韓国ならまだいいのだが・・・。シンガポールと言われても、村上ファンドの社長の逃亡先くらいしか思い浮かばない。
国際問題の理解が目的なら、まず身近な日本の米軍基地に目を向けてほしい。対アメリカに関して、何も考えていない高校生が多いように思う。
わが子も含め、自分の目でしっかり見、自分でしっかり判断できる人間になってほしい。
へんな「神経ガス」のえじきにならないためにも・・・。
☆ 2月27日 毎日新聞・記者の目 「国と地方」に直面する岩国市長
・・・「言いなりにならぬ」貫徹を ・ アメとムチもう許すな・・・ 内田久光(周南支局)
(略)
選挙戦で、移転問題を最大の争点に掲げた井原氏に対し、福田氏は市の財政再建を前面に出し、(略) 「市議、県議、国会議員の経験と人脈を生かす。補助金や交付金を引き出すために、省庁のどの扉をたたけばいいか知っている」と中央とのパイプを強調した。
だが、この訴え方では、基地依存を前提とした旧態依然の「ばらまき型」との批判を免れないと思った。
井原氏は市長時代、国に「補助金凍結は約束違反」として強く支給を求めた。というのも、補助金は96年の日米特別行動委員会(SACO)の合意に基づき、沖縄県の米軍普天間飛行場から空中給油機12期と米兵約300人を受け入れる見返りだったからだ。そもそも米軍再編とは無関係で、06年度までの2年間で計14億円が支給されていた。
ところが、国は井原氏が“反旗”を翻すと見るや、急きょ補助金の名目を、米軍再編の協力自治体に払う「再編交付金」と同じ扱いに変え、艦載機移転を容認しない限り支給に応じないという強硬姿勢に転じた。
これは、岩国市の苦しい財政に国がつけこんだ「兵糧攻め」に他ならない。
予算に穴があくのは避けたいと、井原氏は合併特例債で代替予算を組んだが、移転容認派が3分の2を占める市議会は4度にわたりこれを否決。昨年12月26日、窮地に立った井原氏が「私の首と引き換えに通してほしい」と5度目の予算案を提案し、修正可決後、市長を辞職して今回の出直し選挙になった。
岩国市はもともと、米軍基地と共存する街だった。井原市長時代も、02年にハワイから米軍の大型輸送ヘリ8機と米兵180人を受け入れるなど、基地に協力する姿勢を保っていた。
その“蜜月”関係に亀裂が生じたのは、05年10月の米軍再編中間報告がきっかけだった。神奈川県の厚木基地から空母艦載機部隊59機、米兵約1900人などが岩国基地に移り、航空機が100機を超えるなど兵力が倍増する計画。井原氏は、歴代防衛庁(当時)長官が約束した「地元への事前の相談」を無視したことを疑問視。「これ以上の基地機能強化は受け入れられない」と表明した。国と地方の信頼関係を先に崩したのは国ではなかったか。
街を二分した市長選は、激烈だった。期日前投票率は、16.20%と前回市長選(8.74%)の倍近くにはね上がった。印象深かったのは、全国から手弁当で井原氏の応援に駆けつけた地方議員らだった。広島県庄原市の元保守系市議、林保武さん(73)は車で片道4時間かけて何度も通った。「国は言語道断。こんなやり方は許せないと思った」選挙事務所には「地方自治を守って」「子どもたちにいじめの構造を渡したくありません」など全国から届いた激励の手紙や寄せ書きが壁一面に張ってあった。
福田市長は初登庁2日後の14日、防衛庁に石破茂防衛相を訪ね、新市庁舎建設の補助金の凍結解除などを求めた。政府は艦載機移転の「受け入れ表明」と引き換えに支給する方針を固めているが、お金が出たから終わりではない。「国と地方のあり方」をこのままあいまいにしいては、岩国市や他の基地の街にとどまらず、全国の自治体にも禍根を残すのではないか。
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Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )