2017年02月09日(木)
家族ががんになったとき [病院]
◎毎日新聞2月9日朝刊・くらしナビ ライフスタイル
がんになり すれ違う夫婦
がん闘病には、家族をはじめ周囲の支えが大きな力となる。しかし、配偶者ががんになったことで、心のすれ違いが生じる場合もある。人生の大きな試練に共に立ち向かえない。そんな悩みを抱える人は少なくない。
●痛み分かち合えず
東京都在住の美樹さん(53)=仮名=は、がんをきっかけに夫との関係が壊れ、離婚に至った。「痛みを分かち合うことができなかった」と美樹さんは振り返る。
2002年5月、美樹さんに直腸がんが見つかった。放射線と抗がん剤を経て手術。人工肛門や尿管へのステント(管)も必要となった。術後の抗がん剤治療も無事終えたが、やがて体調が悪化。04年8月に放射線性直腸炎と診断され、40度の熱と腹痛が続いた。がんが分かって以来、何度も入退院を繰り返した。一時帰宅しても就寝中、おなかの痛みに襲われる。苦しむ美樹さんを見て、夫は「またか」と言い、枕を抱えて別の部屋に行った。救急車で運ばれても「大丈夫?」の一言もない。
「私の突然の病や入院に、気持ちが追いつかなかったのでしょう」。2人は同い年で高校時代に知り合い、25歳で結婚。3人の子どもに恵まれた。美樹さんのがんが分かった時、長女は中学2年、長男は小学6年、次女は小学1年。「もともと会話の多い夫婦ではなく、病気についてもほとんど話し合わなかった」。長女が家事を支えたが、父である夫は娘にいら立ちをぶつけた。長女は一時、精神的なバランスを崩す。「そんな時、妻であり母である私がクッションになっていたら。でも病気でその役目が果たせませんでした」
やがて家庭内別居。夫は美樹さんの義兄のもとで働いていたが、ある日帰宅して「もう疲れた。別れよう」と言った。「本心ではなかったと思う。私の身内が彼に責めるようなことを言ったのでしょう」。しかし美樹さんは、病で相手を思いやることができないことに負い目を感じ、05年12月に離婚。子どもは引き取った。「結局、私は逃げてしまったんです」
●支える側の悩み
「夫婦関係に悩む患者さんから相談を受けることがある」。腫瘍内科医で日本医科大武蔵小杉病院教授の勝俣範之さんは話す。「どちらかといえば『主人が全く頼りにならない』といった女性側の訴えが多い」。そんな時は夫にも来てもらい、理解を深めてもらうよう指導するという。
支える側の夫も悩みは大きい。フリーライターの桃山透さん(48)は11年5月、妻に乳がんが分かり、ほどなく円形脱毛症になった。「ダメな夫です。妻のほうが心の整理が早かった。一人娘がまだ6歳で、落ち込む暇なんてなかったでしょうから」。手術で胸を全摘出したが、術後の抗がん剤治療が終わったタイミングで肝臓への転移が分かった。医師からは「治ることはない」と言われ、死を意識する日々となった。
「ゴールのないマラソンを走っているような気分」と桃山さん。「ダメな自分」を突き詰めると苦しくなるので「『自分』というパロディーを生きてみよう。そう思って気持ちをコントロールしています」。
フリーランスで収入は不安定だ。お金があれば治療に加え、生活に潤いを与えることもできる。しかし「稼げないなら動くしかない」。妻は薬の副作用で手先に支障があるため、洗濯やゴミ出しは引き受け、食器洗いは11歳になった娘にも手伝わせる。桃山さんも家で仕事をするため、共にいる時間が長い。「仕事が忙しくて余裕がないと、妻とどう接していいか分からなくなる」。常に試行錯誤だ。「お互いに我慢している部分があるでしょう。でも僕もがんばっていることを、妻は評価してくれていると思う」
転移再発から5年近くたった。妻は治療を続けながらも週2回、楽しみ半分でパートに出る。病と生きる夫妻の日々を、桃山さんは著書「娘はまだ6歳、妻が乳がんになった」につづった。「日々、感謝の言葉を口にして、『気にかけている』ことを行動で示すようにしている。しんどいけど、妻のほうが大変には違いないですから」と桃山さん。「妻思いなわけでも何でもない。結婚も長いと残るのは家族愛です」。病気の妻から逃げる人もいると聞くが、桃山さんは逃げない。「近所に散歩に行くにも、やっぱり妻とでなきゃと思うから」
●精神的サポートは
国立がん研究センターの精神腫瘍医で、がん患者の心のケアが専門の内富庸介さんによれば、「一般的に、男性は車の送り迎えなど身体的なサポートは得意だが、女性が求めているのは精神的なサポートとされます。そこにずれが生じる可能性はある」。米国や韓国の研究では、男性より女性のがん患者のほうが、離婚率が高いとデータで示されている。離婚率自体は一般と変わらないため、男性がん患者の離婚率は低いと言える。「男性ががんになると、夫婦の絆が強まるのかもしれない」。がんに限らず、病がきっかけでカップルの関係性が変わることは少なくない。日本でも、これから研究が進む。
美樹さんは夫と別れた約半年後、今度は大動脈瘤(りゅう)破裂で入院した。その時、元夫が思いがけず病室に現れた。交流はその後も続き、別れる前より会話はずっと多くなったという。ところが元夫は今から2年前、突然の病で亡くなった。「その少し前、年を取ったら隣同士でいいから同じアパートに住もう、なんて言ってました」。美樹さんは穏やかに話す。「当時、諦めずにいろいろ話をすれば良かったのかもしれません。彼は本当はどんな気持ちだったのかな。今となっては聞けませんね」【三輪晴美】
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今日は寮2(出町)24時間。さすがに2日連続は眠とうてしゃーない。
また、新聞をしっかり読んだ。今日の秀逸は毎日新聞のこれかなあ。
「家族ががんになったとき」、みんなはどうしているのだろう。
私が35歳の時、母が胃がんで亡くなった(65歳)。母ががんであることを知ったのは、死の1年前くらいのことだったと思う。すべての責任を負ってくれていた兄から聞いた。
その時は、「がんとかゆうて、なんやかんやできっとまだまだ長生きするんやろう」とたかをくくっていた。母も「冬のさぶい間だけ入院させてもろて、ぬくなったら退院して、また冬になったら入院させてもろて、これからずっとそうやっていくわー」と明るく話していた。でも、そんなふうに話していた2週間後に死んでしまった。
「えー、まだまだ生きるゆうとったんちゃうん!」
すべて兄任せで、母に対して何もしてこなかったツケが回ってきた。私にとって、母の死は衝撃的な「突然の死」だった。
臨終の場にも入り込む余地はなかった。末っ子で一番かわいがってもらったはずなのに、母の意識の中に私はまったくなかった。なんでやろ。それがすごく不思議だった。
さて、私。
「甲状腺低分化癌」と診断されたとき、そう遠くない死というものを覚悟した。動けるうちに、今までお世話になった人にお礼を言っとかなくてはと思った。
家族に対しては、とにかく「煩わせないこと」重視。ヨメさんとは離婚して、子どもたちとは親子の縁を切って、だれにも看取られず一人で死んでいくのが私にふさわしいと思った。
私が癌と判明した時の家族の反応は、私が見た限りは以前通り。特別変わったことはなかった。「あー、またやらかしたか」系の私は、癌も「またやらかしたかー」と思われるだけの範疇だったのかもしれない。
私がどんな悲惨な状態のときもヘラヘラしているので、「またヘラヘラしながら死ぬに決まっとる」とでも思ったんかなー。それならそれでうれしい。その期待に応えたろうやないかい。
私は、この先もヘラヘラしながら生きていく。ヨメさんはそんな私がきっしょくわるーてしょうがないらしい。あきらめんかーい、今のところまだ家族なんやから。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 3 )
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コメント
通りすがりさん、ありがとうございます。
アドバイスの通りにします。
また、このブログを見てくださいね。
[ 内容チェック中 ]
ちいちゃん、ありがたいお言葉第2弾ありがとうございます。去年10月26日の第1弾、「長子の私は末っ子キャラ炸裂の記事にはいささかムッとしてましたが・・・」はグサッと来ました。いまだにヨメさんとの会話にそのコメントがよく出てきます。
それと、私の走友にちいちゃんと同じ名前の人がおり、その人がコメントを入れてくれるたびに「ちいちゃんか!」とビビっています。気が小さいヤツでしょう。ヨメさんは、「元教え子に何ヒビッとんにゃな」とあきれています。
母が亡くなった時、ちいちゃんたちの担任をしていたことを思い出しました。26年も前のことですね。
さてさて私は・・・。
気が小さいくせに、時々スパッと決断することがあります。教師を辞めたのも「スパッと」でした。他の人とはほとんど話をしないのに、「私の中の私」とはしゃべりっぱなし。そして、人が思いつかないような行動をとることがあります。これも「さびしがりの末っ子」の特徴ですかね。「子」じゃなくて「ジジイ」ですけど。
さびしがりの末っ子にはそんななくなりかたはできないはず!願望ですね。
煩わせてこなかったひとは煩わせるかそうでないか、煩わせまくりのひとは引き続き煩わせまくりまくり、というのが私のなかの公式です。
寒いのでお身体お大事に!