2010年06月24日(木)
沖縄「慰霊の日」と映画「GAMAー月桃の花」 [沖縄]
昨日6月23日は、沖縄「慰霊の日」。
1945年のこの日、3ヶ月近く続いた悲惨な沖縄戦で旧日本軍の組織的戦闘が終結した。
私は、4年前までその日さえ知らなかった。
2006年、当時小6だった真樹が「沖縄行ってみたいなあ」と言い出した。
真樹の知らない新しい世界を見せたくて、私たち夫婦と真樹で沖縄旅行。
一番の目的は、自分たちの学校と境遇の似た「鳩間小中学校」見学。
その次の目的は、沖縄戦で戦死した私の父のいとこ・藤井勘六さんのお参り。
私自身も、いなかの本家の藤井克己さんのお父さんが沖縄で戦死したという事実だけは知っていた。私の父より10歳ほど年上の藤井勘六さんは、父の出征の時、「絶対死ぬなよ」と声をかけて送り出してくれたそうだ。
その勘六さんの名前が「平和の礎」に刻まれていた。
真樹も、「京都からこんなに遠い沖縄で、となりのおっちゃんのお父さんは戦死したんや」ということだけは分かったと思う。
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昨日、真樹の高校では、映画「GAMAー月桃の花」を鑑賞した。
■ストーリー
1994年沖縄県では戦後50周年事業として、全戦没者の名前を刻んだ“平和の礎”を摩文仁の丘に建立することになり、各市町村で名簿づくりの一斉調査が始まっていた。
宮里房(72)は海辺の村で琉舞を教えながら幼稚園を経営している現役の園長である。
同世代の沖縄のアンマーの例にもれず地獄の戦場を体験した一人だ。5名の身内を次々と砲爆撃で奪われ、最後に追い詰められた摩文仁岬の洞窟から母と娘(赤ちゃん)だけが奇跡的に生還した。だが、房はその洞窟の中で何が起こり、何を目撃したのか誰にも語ったことがない。語るに語れないつらい悲しい想いを胸の内に秘めたままだった。房は戦没者調査も頑固に拒んで役所職員を手こずらせていた。
そんなある日、突然、アメリカから孫のジョージ(22)が訪ねてくる。摩文仁の洞窟から九死に一生を得た娘の和子はアメリカに住んでいて、なぜか房とは絶縁状態になっていた。ジョージはその和子の一人息子なのだ。
ジョージが母の故郷・沖縄を訪れたのは、母と祖母が仲違いした原因を直接房の口から聞きたかったのと、母の記憶にも無い沖縄戦で死んだらしい自分の祖母についても詳しく知りたかったからだ。しかし、房の口は重く、ジョージの期待ははずれた。
ジョージはアメリカを発つとき、母から一度訪ねるように言われた読谷村(よみたんそん)の陶工・平良勝男(59)に会い、そこで意外な事実を聞いた。
沖縄戦の末期、洞窟の中で房と和子と一緒にいた勝男は戦後、和子と兄妹のように房に育てられたというのだ。やがて成人した和子は、米軍のパイロットと恋仲になり、房の猛反対を押し切ってアメリカへ渡っていったという。そのパイロットの父はもういない。ジョージが2歳の時ベトナムで戦死している。
ジョージは祖母と母が不仲になった理由をはじめて知った。だが、祖父の話に及ぶと、勝男も房と同じように口を閉ざして語ろうとしなかった。
その後、ジョージは「今でもアメリカを恨んでいるか。アメリカ人の僕が憎くはないか」と房に聞いた。ジョージの唐突な問いかけに眠れぬ一夜を過ごした房は、翌日勝男に電話をかけ、すべてをジョージに話すつもりだと言う。「和ちゃんのあのこともですか?」と勝男は一瞬戸惑いを見せるが房の決意を察して同意する。2人には、何か和子に関わる共通の秘密があるようだ。
房と勝男はジョージを伴い、50年前、地獄を体験したガマの前に来ていた。「ジョージ、何もかも話すから、和子にしっかり伝えておくれ」固唾を飲んで見つめるジョージに房は語り始めた。
1945年4月1日、北谷(ちゃたん)の海岸から戦車の群が真っ黒に這い上がってきた。太平洋戦争の総決算として、沖縄本島を中心に日米最後の地上戦が展開されたのだ。
実家のある中城村に疎開していた房は、4歳の真吉と1歳の和子を抱えていた。夫の真助は防衛隊にとられ、舅と実母、義理妹とその赤ちゃんの一行7名は、軍司令部のある首里(しゅり)を目指して避難して行ったが、やがて首里にも敵部隊が迫り、さらに南へと逃避行は続いた。
昼夜を分かたぬ間断ない砲爆撃。山は割られ、村々は焼き尽くされ、地面を叩きつける砲煙弾雨の中を房たち一行は生活道具を堤げて泥道に散乱する死体をまたぎながら歩き続けた。
途中、舅と実母、義理妹とその赤ちゃんの4人が次々と「鉄の暴風」の餌食になっていった。和子を背負い、怪我をした真吉の手を引いて命からがら逃げ込んだガマの中には、敗残兵と避難民が雑居していて、絶えずにらみ合っていた。
不安なガマ生活の房親子を手助けしたのは平良勝男(10)だった。勝男は避難小屋にいたとき、米軍に手榴弾を投げ込まれて家族全員を失い戦争孤児になった。房たちに自分の失った家族を投影していたのかもしれない。とりわけ、真吉や和子を弟や妹のように可愛がった。
戦闘はますます悪化し直撃弾がガマを見舞うようになる。真吉は傷が原因で高熱を出してうなされ続けた。房は、父を慕う真吉のうわ言を聞きながら胸を痛めた。夫の真助はどこにいるのだろうか…生きているのか…死んでしまったのか…房は夢を見た。戦争前の平和な家族団らんの幸福な日々の夢だった。
いよいよガマが猛攻撃を受けた。轟音と共に岩天井が落盤し、壕内は大混乱となった。そして、ついに真吉が岩石の下敷きになって事切れた。そんな時、夫の真助が現れた。防衛隊にとられた真助はハワイ帰りで英語が出きるという理由でスパイ容疑をかけられ、危うく処刑されるところを脱走してきたのだ。
2人は真吉に何もしてやれなかったことを詫びながら、泣き泣きガマの奥に遺体を埋葬した。
馬乗り攻撃されたガマに最後の時が迫っていた。米兵はしきりに投降を呼びかけてくるが、「敵の捕虜になる者はスパイとみなして処刑する」という命令で、日本兵たちは住民に銃口を向けて脱出を許さない。地下川は涸れ、食料も底をついて飢餓地獄の様相を呈していた。赤ちゃんや幼児が泣き叫ぶ。「子どもを泣かすな! 敵は音波探知機で探っているのだ! 泣く者は始末するぞ!」と住民を脅した。
親たちは我が子の口をふさぎだまらせるのに懸命だった。房も和子に乳房をふくませ泣き声が漏れないように強く抱きしめた。その様子を勝男が悲しそうに見つめていた。
房が和子の異変に気づいたのは間もなくだった。
真助は房を日本兵の人質に残し、米軍と折衝するためにガマを出た。そして、交渉が成立し、喜び勇んで戻ってきた時、その背後には米兵の姿があった。敵を誘導してきたと勘違いした日本兵は真助を撃ち殺した。狂ったように真助に走り寄る房。
米軍の一斉攻撃が始まった。火炎放射の猛火がガマを襲い、迫撃砲が容赦なくぶち込まれた。避難民の間で手榴弾の炸裂音が次々と響く。断末魔の呻き声が壕内に充満し、阿鼻叫喚の地獄図が現出した。
硝煙の漂う中、真助の遺体のそばに幽鬼のような房が立っていた。すべてを失った房が手榴弾の引き金を引こうとしたその時、かすかに聞こえてくる赤ちゃんの泣き声。房はその声に引き寄せられるように近づき、赤ちゃんを抱き上げた。
房の話が終わったとき、ジョージ、勝男、それぞれの目に涙が光っていた。ジョージが呟く「それがママだったんだ…」。房はこれまで真実を隠していたことをジョージとアメリカの和子に詫びた。ジョージも又、母の命を救ってくれたからこそ、今の自分が存在していることで房に感謝した。「前よりもっとおばあちゃんを愛しています」ジョージは房を強く抱きしめた。
翌、1995年、摩文仁の丘に“平和の礎”が完成した。林立した礎には敵味方を超えた戦没者23万人余りの名前が刻まれている。その中に「宮里和子」の名前もあった。
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真樹は、この何日も前から映画鑑賞の話をしていた。
真樹はとにかくこわがりで、感情移入も激しい。 小さいときから、映画の途中で大泣きした事が何度もある。
でも、この内容の映画で、こわくなったり泣きたくなったりしても何も恥ずかしがることではない。それだけは言っておけばよかった。
映画鑑賞の前日、真樹がおもしろいことを言っていた。
「みんながみんな真剣に見ているのも変やし、誰も真剣に見てへんのもイヤ。」
ふだんみんながそれぞれ様々な反応をするように、この映画鑑賞でもそうであってほしいという意味だと思う。それは、私が常々言っている「戦争の強制はもってのほかだが、平和の強制もまっぴらごめん」と似ているかもしれない。
映画鑑賞が終わって、家に帰ってきた真樹は元気がなかった。真樹がイヤがっていた「誰も真剣に見てへん」状態に近かったようだ。
せっかく沖縄「慰霊の日」に行われた行事なのに、何の説明もなく映画が始まったらしい。先入感を与えるのもよくないかも知れないが、ひと言もないというのはどうなんでしょう。
今、沖縄の米軍基地の問題が大きくクローズアップされているのだから、その辺もからめてたとえ5分ほどでも話してくれはったらよかたのに。
でも、真樹は、4年前の沖縄旅行で感じたことがこの映画鑑賞にも必ずつながっているはず。今は話し相手もいないかもしれないが、映画を見て感じたことをいつか誰かに話せる時が来たらいいのにと思う。
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2010年06月23日(水)
小谷屋のおばさん [雑用]
「おばさん、ちょっと写真撮らしてもらいますわ。」
「えー、こんなおばあさん撮ってどうすんにゃなあ。」
「まあまあ。」
(パチリ!)
「いや、おばさん、顔が白う白う写ってしまいましたわ。」
「頭が白いさかい、そう見えんのとちゃうかなあ。まあ、私は顔は白いほうやけど・・・。」
そうそう。小谷屋のおばさんは、ぼくらの同級生のお母さんの中では色白で美人。それは、80歳になった今も変わらない。
今日の午後、久しぶりにいなか(花脊別所町)に帰った。
おじいさん(父)の家に行く前に、ちょっと小谷屋(元旅館)へ。
「おばさーん、また来ました。」
「ああ、こうじさん。よう来てくれはった。」
「電気ついてへんさかい、いやはらへんのかいなと思いましたわ。」
「一人でおったら電気はつけへん。もったいないやろ。」
「またね、富士山のお菓子買うて来ましてん。富士山行ったら、おばさんのこと思い出しますにゃわ。」
「いやー、ありがとうな。私みたいなよそのおばさんのことまで心配してくれて・・・。」
「そんなたいそうな。一年に一回だけですやん。」
「中学の時担任やった中古賀先生が、ブルガリアから帰ってきてはるんですわ。もうむこう引き払って、元の家に住まはるみたいですよ。」
「そうかー。ほんなら、また同窓会するんやな。」
「そうですねん。よりちゃんにも連絡せんならん。」
「こうじさん、よりさだも呼んだってな。よりさだは気楽なもんやわ。あんたとこはええわ、よめさんがしっかりしてはるさかいなあ。」
「ほんまにそうですねん。何でも『ははー』ゆうとったらうまいこといきますねん。」
「そら、あんたもちゃんと考えてるさかい、うまいこといってるんやわ。」
「いやいや、みんなそうゆうてくれはるんですけど、ほんまのほんまにヨメさん頼りで生きてますねん。」
「はははー、そうか。それでええて。ヨメさんがしっかりしとる家はみんなうまいこといっとるてー。」
「うちのありさん(だんなさん)はな、58で死んでしもたんやわ。そやし、よりさだもあと4年したら気つけんなんゆうとる。」
「ありさん、そんなはよ死なはったんでしたっけ。うちもね、おかちゃんが65で死んだんです。そやし、ボクもあと10年ほどしたら気つけんなんなあ思とるんです。」
「あんたはだいじょうぶやてー。腹も出でへんし、元気そうやし・・・。よりさだは心配やわ。」
「こうじさん、あの写真見てみー。あのころはスキーのお客さんがいっぱいで・・・。」
「あー、これはぼくらが小学生くらいの時やね。45年ほど前ですわ。このころは、リフト乗るのんが1時間待ちとかゆうこともあったしねえ。」
「そうやで、こうじさん。うちの前でバス待ってる人におでん売ったら、鍋に入れる間もなく次々と売れてなあ。おにぎりかて、まだごはんも炊けてへんうちから次々とお金出さはんにゃわ。みんな我先にな。ほんまににぎる間もないくらいに飛ぶように売れたんやで。
そんでな、その売れたお金はどこ行ってしもたんやてよう言われるんやけど・・・。おおかた、その時働いてくれはった人に渡してしもたわ。」
「うちの駐車場にも車があふれてなあ・・・。とめるとこないゆうておこられるくらいやったのに・・・。」
「おばさん、ごはんちゃんと食べてはります?」
「それがな、ちゃんと食べとるんやわ。朝はパン、昼と夜はごはん。」
「でも、農協もなくなってしもたし、買いもんたいへんやね。京都とか行ってはります?」
「いやー、めったに行かんわ。」
「家から出て行かはることも少ないんやね。」
「そうや。そやけどな、あんたとこの裏の診療所にはちゃんと歩いて行ってるんやで。去年、私の弟が二人ともガンで死んでしもてなあ。あんたもしっかり検査してもらわなアカンてみんなに言われて・・・。そやけどな、『兄弟3人中2人がガンで死んだら確率的には後の1人はだいじょうぶです』て先生に言われて・・・。うまいこと言わはるわ。」
「こうじさん、私もよりさだに電話しとくし、呼んだってな。」
「はい、電話します。でも、富山から出てきてくれるかなあ。」
「そら分からんけど、さそたって。」
「ほなら、おばさん、帰りますわ。またしゃべりに来ますし。」
「ほんまにありがとうね。よう来てくれたね。」
2年ぶりの第2回中古賀クラス会の目標は、1回目に来てもらえなかったメンバーに1人でも2人でも来てもらうこと。
「よりちゃーん、来てくれよー。」
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2010年06月22日(火)
にゃー子? [わんこ・にゃんこ]
わたくし、にゃー子と申します。
いえ、みゃー子だったかも。
パオパオさんのブログに登場するのは、たぶん3回目。
最初は、にゃーにゃー。次は、みーちゃんという名前で出ていたような・・・。
実はわたくし、とあるお方のおうちにかくまってもらっています。「かくまう」とはたいそうに思われるかも知れませんが、わたくしたちネコのことがどうしても好きになれない人たちもたくさんおられるんです。
パオパオさんはわたくしとは知り合いでもないのに、なれなれしくしてくるのでちょっとイヤです。
わたくしがカリカリを食べている時、おしりをなでたり、おなかをさわったり。
「おちついて食べられないにゃー。」
わたくしはネコ界では弱もんでして、おしりらへんやくびらへんをかまれて毛が抜けてしまっています。
でも、気まぐれに帰ってこられるこの「隠れ家」があるおかげで、まだまだ長生きができそうです。いえ、します!
「隠れ家」のおっちゃんおばちゃん、いつもありがとう。
これからわたくしも、むちゃしないようにしますね。
(「隠れ家」のおっちゃんおばちゃんの名前は秘密です。ヒントは、ワールドカップサッカー・カメルーン代表の・・・。)
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2010年06月21日(月)
ミサンガ2世 [家族]
昨日、「SAIKOロードレース」から帰ったのは夜8時前。廉がなんかの会に出かけていたので、真樹は一人で出前のお寿司を食べていた。
「パオパオ、あげる。」
真樹が差し出したのは、ミサンガ。去年作ってくれたミサンガは数ヶ月前に切れてしまっていた。(きくのガウガウのせいで。)
「父の日のプレゼントかー」とヨメさん。
「ありがとう。若々しい色でええやん。」
なぜだかわからないが、4月以降、子どもたちにおこづかいをやっていない。私はそれまでのように毎月決まった額を渡すのがいいと思っているのだが、ヨメさんは反対。いる時にいるだけ渡すのがいいと思っているようだ。
そのため、うちの子らはお金がないときはまったくない。かわいそうに。
そこで、前から買ってあった糸を使ってミサンガを作ろうと思ったようだ。かしこいなあ。
ちょうど1週間後に、「サロマ」。
真樹に作ってもらったミサンガの力を借りて、「めざせ80kmプラス1m」。
「役立たずの父」というイメージが定着してしまった。確かに、役には立っていない。
真樹は、ときどきいつもより1本早い電車に乗る。いつもは駅まで歩いているが、その時は駅まで自転車で行く。その自転車を回収して、自宅まで持って帰ってくるのが私の役目。
今、真樹の役に立っているのはこれくらいですかねえ。
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2010年06月20日(日)
第26回SAIKOロードレース [ランニング・出張販売]
「写真、撮らせてもらいまーす。」
「あー、ありがとね。レイ子ちゃんは、元気に走ってます。」
去年「写真撮ります」と約束していたのに撮れなかったレイ子さん。今年はバッチリ撮れました。
2周の部の10分前にスタートした1周の部(10.7km)の、後ろのほうを走っておられたレイ子さん。そのレイ子さんに追いついたのは3.5kmくらいの地点。しっかりとしたいいペースで走っておられました。
「また、うちの店にも顔を出してくださいね。」
朝5時起き。
民宿「こまどり」さんが作ってくださったおにぎり弁当を持って会場へ。
前日の予報では朝9時くらいまで雨ということだったが、いいほうに外れてくれたようだ。
雨に備えて予備のテントを持ってきていた。しかし、それも出さずに済みそうな気配。前日と同じように賞品を陳列した。
この大会に初めて来たとき(20年以上前)は、ランニング用品店の出店は「京都キャロット」のみ。しかし、現在はたいへんな数になっている。
うちのように何年たっても同じメンバーできている店は少ない。うちは子どもたちが大きくなってついてこなくなっただけで、ずっと夫婦二人で来ている。
しかし他の店では、来られるメンバーが変わったり、その店の出入り業者(?)の人をひきつれて来たりしておられる。それは、買われるお客様にとってはどうなんでしょう。私自身がお客として見たら、そんな店はちょっとうさん臭いにおいがしてイヤです。自分らが来れなくなった時は、他の人に「京都キャロット」の名前を貸すのではなく、もうあっさりと店をたたむべきですね。
うちが売り上げが落ち込んでいる大会にもしがみついているように見えるのは、子どもらとの思い出がいっぱい詰まっているからです。
「あそこで、廉が大けがしてたいへんやったなあ・・・。」
「ここでは、真樹が大泣きしたなあ・・・。」
私は、出店させていただいているマラソン大会にはほとんどすべて出場させていただいています。そうでないと、その大会の良さがわからない。どんなコースか走ったこともない店員さんは、どんなことを言いながら販売されているんでしょう。私にはまったく理解できません。
私は、今年も例年通り2周の部(20.5km)。
早起きしても体はまだ半寝の状態。インストラクターの方といっしょに準備運動。
会場の隅には、「健康科学大学」の学生さんによるストレッチとマッサージ。
受付には、「私たちは有資格者ではありません。・・・・・をご了承ください」と書かれていた。
私も時間があれば受けてみたかった。
泊めていただいた民宿「こまどり」さんのすぐ近くがスタート地点。ただし、会場から700mほど離れている。
左奥に富士山が見えていた。富士山か゛見えていたら、天気が急変することはないだろう。
私がレースに出ている途中に大雨、というのが最悪のパターン。ヨメさんがずくずくでへとへとになるというやつ。パラパラ降る可能性はあっても、急な大雨というのはなさそう。
9時20分、2周の部がスタート。
去年は1時間53分59秒だったが、今年はもっとゆっくり走りたい。できればキロ6分ペース、ゴールが2時間ちょっとくらいが理想。
スタートラインまで40秒。後ろに並んだわりにはスムーズなスタートだと言える。持ちタイムの速い順に並ぶのが徹底されていたら、こういう気持ちのいいスタートが切れる。
最初の1km、6分37秒。ということは、実質キロ6分ペース。
次の1km、5分48秒。まあまあいい感じ。このペースを続けていきたい。
5km、29分12秒。
10km、57分25秒(27分13秒)。想定していたタイムよりちょっと速い。
思っていたより蒸し暑く決して走りやすいとは言えなかったが、特別痛むところもなかったので後半もこのペースで。
10kmすぎで、声をかけてくださった方あり。沼津の田中さん。いろいろ話しながら、しばらく並走させていただいた。
今日は店の宣伝のため、「京都キャロット」のユニフォームで出場している。どこに行っても、「京都」にいイメージを持っておられる方が多い。
「京都には修学旅行で・・・」
「大学が京都で・・・」
「京都シティハーフマラソンで・・・」
その思い出は様々だが、悪口はほとんど聞いたことがない。2012年開催と言われている「京都マラソン」も、このあたりをよく考えなくてはね。
15km、1時間24分32秒(27分07秒)。
20km、1時間52分35秒(28分03秒)。最後の上り坂はさすがにきびしい。
ゴールは、1時間55分03秒くらいかな。
去年より1分遅れ。でも、去年より気持ちよく走れた気がした。
雨は降らなくてよかったのだが、店のほうはも一つだったようだ。
ヨメさんの分析では、同じような店が多く出すぎていて、お客様の購買意欲が低下しているのではないかということ。確かに、最近は出店業者「共倒れ」の傾向が強くなっている。
私は自分の好きなレースに出れて自己満足しているのだが、一家を支える藤井眞寿美店長としてはゆゆしき傾向に苦慮している。私がこんな風なお気楽なブログを書いているもので、見た人は「京都キャロット」は何もかもうまくいっているとかんちがいされている。それがヨメさんの一番「むかつく」ところらしい(私に対して)。
「お気楽なんはオッサンだけで、私は毎日毎日たいへんなんやから・・・。」
食事をしている写真も撮るな、とヨメさんに言われる。
「あちこち旅行して、おいしいものを食べて、遊び気分で仕事ができていいですね」といようなことをよく言われるらしい。
私は、「そうですねん、遊んでいてもガッポガッポと儲かって、笑いがとまりませんわー」ゆうとけと言うのだが、ヨメさんは堅物なのでそんないいかげんなことが言えない。
「気の毒じゃー。」
片付けが終わって、精進湖畔の「ニューあかいけ」さんで昼食。今日は割と段取りよく片付けられ、2時には食べ始めることができた。
私は「わかさぎ定食」、1260円。
ヨメさんは「オムライス」、840円。
それほどたいしたもん(高い物)食べてないでしょ。
わかさぎのフライはホクホクでおいしかったし、添えられていた野菜がシャキシャキで、久しぶりの野菜らしい野菜という感じだった。(今、京都にはあんなおいしい野菜はない。)
最後のお楽しみは、富士IC近くの「田子の月」。
ここで、おじいさん(私の父)へのおみやげのお菓子を買い、私らもその場で食べる分を買う。コーヒーやお茶のサービスがあるので、おいしいお菓子を食べながらちょっと一息。しっかり働いたあとは、これが一段とおいしいんです。
直接大会とは関係ないが、このお店に寄って帰るのも「SAIKOロードレース」の大きな楽しみの一つになっている。
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2010年06月19日(土)
第26回SAIKOロードレース・前日受付 [ランニング・出張販売]
「去年のSAIKOの写真をブログに載せてくれたでしょ。あのあと、みんなから『見たよ』と言ってもらいましたよ。」
フルマラソン世界記録保持者・保坂好久さん。よーくお聞きすると、59・60・61歳の世界記録を持っておられるそうだ。60歳で2時間36分、61歳(現在)で2時間38分。脅威の記録です。
「62歳でも世界記録出しますよ」とのこと。
去年はうちのヨメさんとの2ショットだったので、今年は私といっしょに写真に入ってもらった。
保坂さんの会社の「シーズニングソルト」と「バーベキュースパイス」をくださった。見るからにおいしそうな・・・。さっそくサラダに使わせていただきましょう。
SAIKOロードレースの前日受付は、午後4時から6時までの2時間だけ。
しかし、日曜の天気予報は雨。雨の心配のない今日、たとえ2時間でもしっかりと販売に力を入れなくては。
大会会場は、「野鳥の森公園」。
芝生が広がっていて気持ちがいい。
うちの子どもたちといっしょに来ていたころは、この芝生でよく遊んだものだ。
「こうじさんこうじさん、かわいいワンちゃんいるで。」
「あかん。あれは柴犬やん。上等系やし・・・。上等系は年寄りに限る。」
「いや、あれはけっこういっとるで。」
「そうかあー。」
「すんませーん。ワンちゃんの写真撮らせてください。お名前は?」
「リュウです。」
「男の子ですよね。歳は?」
「10歳です。」
「わー、ええわー。りゅうちゃん、こっちむいて。写真、写真。」
「リュウは、愛想ないんですよ。」
「うちの犬もそうなんです。カメラ向けたら、必ず横向きます。」
「リュウ、こっちこっち。」
リュウちゃんはやっと前を向いてくれて、いい写真が撮れました。
会場の東側には富士山が。
頂上付近に雲がかかっていたが、そこ以外はくっきりきれいに見えていた。
やはり、2時間ではお客様は少ない。もう少し時間を延ばしてもいいように思うのだが。
明日、雨が降ったらいややなあ。
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