2009年12月23日(水)
2009万博クロスカントリー [ランニング・出張販売]
久しぶりに、廉が出張販売についてきてくれた。
大学の推薦入試に合格してから、へーのような毎日。刺激的なこともないとね。
1年の最後の出張販売。
今年は、スポンサーさんの関係でミズノの商品しか販売できない。ほかのメーカーの商品を買おうと思っておられたお客様、申しわけありません。
朝、京美人・伊藤千尋さんが顔を出してくださった。
いろいろと話しかけて下さるのだが、なんせ若い娘さんと話す機会などないので私が緊張してしまって話がはずまない。
伊藤さんの丸顔を見ていると、「うちの真樹が大人になったらこんなんなんかなあ」と思ってしまう。伊藤さんは背が高いので身長は全然ちがうが、なんとなく真樹に似ている感じ。
今日は私と同じ10kmにエントリー。55分くらいの予定とおっしゃっていたので、へたすれば負けてしまうかも。
11時40分、10kmのスタート。
一番後ろあたりに並んでいると、声をかけて下さる方あり。
「お店はほったらかしで、走ってばっかりみたいですねえ。」
「ランナーズ9の会」のユニフォームを着出してから、声をかけて下さる方は少なくなった。でも、「つう」なランナーは私の顔を見ただけで誰だか分かってくださる。
朝日さんを見ていると、こんなお元気な70代になりたいとつくづく思う。
今日の目標は・・・。
特にはない。去年51分02秒だったので、同じくらいで走りたい。
去年足元が滑りそうだったので、今年はミズノの「ウェーブハリアー2」で走ることにした。このシューズはトレイルラン用なので、芝生では威力を発揮するはずである。
ほぼ中間点である自然文化園東口前で、27分11秒。これは時間がかかりすぎ。55分予定の伊藤さんに抜かされるかも・・・。
2周目は、上り坂で足が上がらなくなった。それでも下りは意外と足がスムーズに出た。
何とか54分台でと思っていたが、ゴールは53分18秒。最後らへん、ようがんばりました。でも、去年より2分以上遅くなったんですね。
私のゴール後、そんなに間をあけず伊藤さんが戻ってきた。
「いとうさーん」の声に反応。
「パチリ!」
いい写真が撮れました。
「伊藤さん、ほっぺたにすごい塩。色白美人になってますわ。」
「あー、はずかしい。」
近くにおられた伊藤さんの同僚の方にお願いして、記念のツーショット。
一年のしめくくりの大会で、いい写真ですなあ。しみじみ(わが子のようで・・・)。
あとは、朝日さんの写真を撮りに行かんなん。
朝日さんは1時間くらいを目標にとおっしゃっていたし・・・。
弧線橋まで戻ってみると朝日さんの姿が。年配の方で走り続けておられる方は、みんなフォームがきれい。私も長く走り続けるためには、フォームに気を使わなければいけないと思う。
今日は「ミズノ」から助っ人に来ていただいた。
Sさん、大学出たてのフレッシュな方。「四万十ウルトラ」で私の後ろを走っておられたそうだ。今現在はペーペーでも、実際に走っておられる方なので今後が期待できる。
今日は「ミズノ」の商品限定だったので、売り上げはもひとつだった。雨もぱらついたりして・・・。
でも、久しぶりに廉も来てくれたのでいい出張販売になった。
今日は雑種犬が不作やったなあ。
つながれてご主人を待ち続けている黒ラプちゃん。
でも、うちに帰ったら、かえらしかえらしきくちゃんが待っています。
今日も、「すべり台しゅるしゅるしゅる」やりました。
今日は退屈だったのか、きくが遊んで遊んで。
真樹の靴下引っぱって引っぱって。
こんな男前(?)な顔もできます。
今日の夜は、真樹にもいっぱい遊んでもらいました。
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2009年12月22日(火)
年賀状の登場人物 [雑用]
「年賀状、できたん?」と廉。
「うん、見る?」
「おー・・・。」
「パオパオの大学の時の友だちで長谷川浩一君ているんやけどな、『藤井の年賀状は、目がチカチカして見る気がせん』て言いよんねん。」
「たしかになあ。」
昨日の夜10時過ぎ、やっと出来上がった年賀状の試作品を家に持って帰って見てもらった。
最近は、一年間の写真を張り合わせて縮小コピーしたものを年賀状にしている。前は写真の説明を書いていたのだが、もうそのスペースもなくなった。今年は去年以上に写真の数を増やしたので、目のチカチカ度はさらにアップ!
今年の年賀状を見たら、たぶん長谷川浩一君は気絶するでしょう。
上の写真は、年賀状に入れる写真から惜しくも外れてしまった写真たち。よーく見ると・・・、きくの写真ばっかりやん!
今年の年賀状はまだ公開しません。
私のブログを見てくださっている方にみんな年賀状を出したいくらいですが、ほとんど住所が分からないので出せません。1月7日くらいに、いただいた年賀状の大賞とともにこのブログ上で公開したいと思っています。
2010の年賀状は・・・。
今まで家族だけ(きくとあんもを含む)の写真を使っていたのだが、今年は強烈なインパクトがあった二人の方に入ってもらった。
お一人は、中野勇人さん。「国会前54日連続フルマラソン」もあと2日。とてつもない方にめぐり会えました。
私とヨメさんの会話。
「中野さんはすごいわ。人の話を聞くのがうまい。ボクの話も嫌がらんとよう聞いてくれはった。」
「たいへんや。アンタのカウンセリングまでせんなんにゃから。」
「いや、あの人はそんなん全然だいじょうぶ。ボクより7歳も下やけど、人間ができてはるわ。」
「あー、私もそんな人とめぐり会いたかったなあ。こんなへんなオッサンにひっかかってしもて・・・。」
「ほんま、気の毒やったなあ・・・。」
私も、女性であったら中野さんにひかれるでしょうね。
もうお一人は、まっちゃん。
「ランナーズ9の会」を通じて知り合ったのだが、まっちゃんと知り合えただけでもこの会に入った値打ちがあったちゅうもんや。
私がまったく知らなかった「障害者」の世界を、いろいろと教えてもらえる。いつまでもお付き合いができそうな人。 これからもよろしくお願いします。
まっちゃんからいただいた「ゆめさき舎」特製「寅の絵馬」も、年賀状に使わせていただきました。
さあて、どんな年賀状になったのでしょう。・・・やっぱりチカチカかな。
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2009年12月21日(月)
エキデン [マラソン評論]
昨日は、高校駅伝。
午前中が女子、午後から男子。西京極陸上競技場スタートゴールで行われた。
私は、午前中は京都走ろう会の例会に参加していたため、女子は見られなかった。午後の男子は、ゆっくりテレビ観戦。
もうすぐゴールというころ、元同級生の友だちに誘われて買い物に出かけていた真樹が家に帰ってきた。(自転車で)
「国際会館のとこ通行止めで、先頭から最後まで全チーム見てきたわー。」
「へー、そらよかったやん。」
「なんか、前のほう留学生ばっかりやったで。」
「ああ、留学生は1区に出られへんようになったし、みんな3区なんや。」
「ふーん、そうなん。」
「見てて、おもしろかったやろ。」
「だいぶフラフラの人もいたわ。でも、後ろのほうの人でも前がすぐ見えてるしええやんなあ。真樹が大文字駅伝走った時は、前の人と5分くらい離れてたんやもんなあ。人と競えるとこで走りたかったわ。」
「そやなー。」
真樹は、「もう絶対走りたくない」と言ってはいるが、のんびりゆっくり走れそうな「ホノルルマラソン」と、その正反対の「駅伝」は走ってみたいらしい。大文字駅伝が不完全燃焼やったんですかねえ・・・。(よう、わからん。)
ここで一つ、一般にはあまり知られてない情報を・・・。
今年の男子優勝校・世羅。
今年も留学生の活躍が優勝への大きなポイントとなった。しかし、今年はうまくいってよかったが、数年前招いていた留学生は期待外れだったようだ。
その留学生は、うちが出張販売に行っている毎年8月の「ひろしまクロスカントリー」で見かけた。少し小柄だが、明るくて素直な高校生に見えた。だが、彼はいつの間にか消えてしまっていた。
同じ時期に来ていた女の子の留学生は、うちの店で「マケテクダサイ」というくらい日本になじんでいた。その子は、確かその後実業団に入り活躍したはずである。しかし、男の子のほうはなじめなかったんでしょうね。なんちゅうても、15くらいで遠い外国来てるんやからね。
留学生がみな成功しているわけではない。一度も栄光の場に出ることなく、人知れず帰国した留学生もいるだろう。華やかな全国大会だけを見ている人々は、それには気づくこともない。
「留学生」という名のもとに、残酷なことがおこなわれているような気がします。
「これで、いいんでしょうか?」
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2009年12月20日(日)
京都走ろう会例会・12月第3日曜 [ランニング]
「さっきの子、まだいるかなあ。」
私が10kmコースの6km地点付近(北大路橋北)を北上している時、小柄な女の子がこちらに向かって走ってきた。たぶん、この例会には初めての参加。
このときは、すごくしんどそうに見えた。
もう帰ってるかもしれんと思いながら、エノキ前のベンチを見ると、いましたいました。
いっしょに走っておられた美人ランナーさんと、ご家族らしき方(お母さんかな?)と3人で。
「すいませーん。私、京都走ろう会の会員で、藤井といいます。さっき走ってはるとこを写真に撮らせてもらったんですけど、私のブログに載せさせてもらってもいいでしょうか。」
「はい。」
「例会の様子とかをレポートして、写真付きで載せてるんです。」
「そうなんですか。」
「今日は、3.1kmですか。」
「いえ、5km。」
「うわー、すごいですやん。」
「最後は、泣いてしまって・・・」
「いや、でも最後までしっかり走らはったんでしょう。タイムはどれくらいでした。」
「32分くらい・・・」
「いやー、すごいすごい。何年生ですか。」
「中3です。」
「いやま、うちの子といっしょですやん。うちの娘もね、小学校の時はよう走ったんですけど、中学になってからは全然で・・・。
もう一枚、写真撮らせてもらってもいいですか。」
「はい。」
「パチリ!」
さっきのつらそうな顔がうそみたい。
いやじゃなかったら、また「京都走ろう会」の例会に来てね。
今日は、正直に言って、あまり走りたいという気分ではなかった。でも、やっぱり来てしまった。
柴田秀夫さんが、うまいこと言ってはった。
「私もね、今日は頭も痛いし、やめようかなと思とったんですわ。でも、ここまで来たらなんとかなるやろうと思って来てしまいました。
一人ではあきませんわ。こうしてみなさんと走らせてもらうと、気分まですっきりしますしね。」
「みなさーん、今日の10kmはお得ですよー。」と私。
「えー、何がお得やのー。」と平田邦子さん。
「12月でこんな穏やかな天気の日って、めずらしいですよ。これは、10km走らんとー。」
「そやねー、みなさーん、10km走ってくださいよー。」
私と平田さんの二人でお誘いしたのに、10kmは6人+役員さん。
スタートしていきなり、北出吉弘さんがポーンと飛び出す。
「藤井さん、写真撮らはるんやったら、先頭行かなあきませんやん。」と山本詳三さん。
「そんなん、無理ですって。あの人、38分くらいで走らはるんやから・・・。でもね、私の若い時は、北出さんとけっこうええ勝負してたんですよ。今は話にならんけど・・・。」
こんなことしゃべってる間にしっかり走れ、ちゅうことですな。
丸太町橋までの下りは、北出さんの背中を追いかけて楽に走ることができた。
ところが、折り返して北上すると、風もないのに走りづらい。4日前の42kmがきいてきたのか。
へロヘロになりかけた時、かわいいワンちゃん発見!
私がめぼしをつけたとおり、かわいいかわいいおばあちゃん犬だった。もう耳が聞こえないらしい。それでもこわがらずに、私の手のにおいをクンクンとかいでくれていた。
「シェリーちゃん、長生きしてやー。」
「元気、復活!」
なんぼ単純な人間なんでしようね、私って。
今日は、谷角裕之さんが来られていたので10kmで対決しようと思っていた。ところが、谷角さんは5km。
それなら、せめて10kmの中間点(実際は4.8kmくらい)で先着しようと思ったが、わずか及ばず。残念!
ここまでで、23分10秒くらい。
これは、前回よりだいぶ遅くなりそう。
谷角さんに続き、5kmの人が帰ってきた。
吉田出さん。スポーツジムで水泳もしておられるそうだ。
佐藤光一さん。
いつも私のすずしそうなかっこうを見ては、「藤井さん、元気やなあ」と言ってくださる。いやいや、佐藤さんのほうが・・・。
北大路橋を過ぎたところで、小柄な女の子がしんどそうに走ってくる。でも、安心。ぴったりと寄り添って走る女性。それに、京都走ろう会の松山健治さん。いろんな人がしっかり見守ってくれています。
北出さんが御薗橋を折り返してきた。
あれ?
いつもはもっと離されているんやけど・・・。ちょっと調子が悪いんかな。
御薗橋折り返しでは、いつもどおり塚本政琉さんとりんちゃん。
「ごくろうさんどす。」
さあ、あと約2.5km。
ゴール手前からゴール付近を見ると、松葉杖の人が・・・。
あー、吉田康彦さんやー。いやー、こんな状態やのに顔出してくれてはんにゃー。もう、ほんまに、「京都走ろう会」の役員さんはすごい。
もう、仕事に復帰しておられるそうだ。もちろん、ディスクワークで。
私のゴールタイムは、47分36秒。
前回(12/6)より、2分以上も遅くなってしまった。
でも、今日は、かわいい中学生に会えたし、心配していた吉田さんにも会えたし、柴田さんともいっぱいしゃべれたし・・・。
やっぱり家に閉じこもってたら、ダメ!
そうやん、今まで外に出て行って後悔したことなんかただの一度もない!
みなさん、ぜひ「京都走ろう会」例会へ。
左から、村瀬洋子さん、三輪新造さん、津田昌子会長、井上孝夫さん。
役員のみなさん、今日もありがとうございました。
(津田さん、かわいく映ってます。)
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2009年12月19日(土)
初雪しゅるしゅるしゅる [わんこ・にゃんこ]
夜明け前、ここら(左京区市原)あたりにも初雪が降ったようだ。天気予報では積もるくらい降るといっていたがうっすら白くなった程度。、
きくは、いなか(左京区花背)に住んでいたとき、雪遊びが大好きだった。こっちに引っ越してきてからは、遊べるほどは積もらない。
「きくちゃん、しゅるしゅるしゅるしょうか。」
これですべり台すべったことになるんかなあ。
でも、まあまあうれしそう。
あれ?
ちょっといやがってる? (ばれたか)
「雪景色ときく」を撮ろうとしても、下ばっかり向いて・・・。
私の車にもうっすらと雪が・・・。
ご近所イケメン犬・タロウちゃんにもごあいさつ。
「タロちゃん、うちのきくなあ、もう子ども産めへんにゃけど、仲良くしたってな。」
あんも(20歳)、今日も元気。
必殺黒猫パンチを今日もくらってしまった。
きくは避妊手術の抜糸は済んだのだが、今度は乳腺腫の手術をしなくてはならなくなるかもしれないそうだ。もう、手術はかんにんしてほしいよなあ。
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2009年12月18日(金)
中野勇人さん [私の好きな人]
「中野さんてなあ、かわいいとこあんねんでー。」
「なにー。」
「男の子さん二人いやはんにゃけどな、『解雇されてなかったら、もっといっぱい子どもがほしかった。女の子が生まれたら、バリバリの女子校に入れて、赤いスポーツカーで迎えに行きたかったなあ』やって。」
「へー。」
「その話しやはった時の中野さんの顔が、パオパオは一番好きやなあ。」
おととい、「国会前54日連続フルマラソン」の46日目を中野さんといっしょに走らせてもらい、家に帰って最初にヨメさんに話したのがこの会話です。
国鉄民営化は、「国労つぶし」が主たる目的ということはよく聞いていた。しかし、私のイメージでは、給料をたくさんもらっていた年齢層の高い人が首切りにあったものだとばかり思い込んでいた。
1987年、国鉄民営化の年、中野さんは24歳。
ご長男が今24歳だと言っておられたので、結婚して最初の子が生まれ、前途洋々たる気持ちでおられたまっ最中であったと思う。
中野さんのこの「アピール行動」の日々のレポートの最後は、闘い半ばで亡くなってしまわれた仲間のことが記されている。
その中の「享年」を見ていたら、泣けてくる。ほとんどが今の私の年齢より下。30代で亡くなられた方も数多くおられる。きっと、「あれもしたかった、これもしたかった」と思いながら亡くなっていかれたのであろう。
中野さんが選ばれた「54」という数字は、その亡くなられた人々ひとりひとりを決して忘れないという気持ちが込められている。(その後5名の方がお亡くなりになり、その数は「59」にまで増えてしまっている。「どうか、早期解決を!」)
それにしても、毎日毎日フルマラソンを走り続けている修行僧のような人の口から、「バリバリの女子校」とか「赤いスポーツカー」という言葉が出てくるとは思わなかった。この言葉で、中野さんのことをいっぺんに好きになってしまった。(そんな私は、やっぱり変?)
あまりくわしくはお聞きしていないが、中野さんの奥さまやお子さんもたいへんだっただろうと思う。
現在、奥様と二男さんが地元北見、長男さんは東京、中野さん自身は国労闘争団の四国常駐として徳島に暮らしておられる。
私がどうこう言うことでもないが、自分の信念を貫き通し、仲間全員の職場復帰の糸口を見つけようとしておられる中野さんの生き方には敬服する。
走っている間、国会議事堂の見学に来ていた小学生の列に出くわした。ここぞとばかり、私が中野さんに聞いてほしかったたった一つの話をきりだした。
「私ね、実は18年前まで小学校の教師してたんです。国鉄民営化の前の年の1986年の卒業式にね、京都市中の小中学校全校に突然、『日の丸・君が代』が強制されたんです。
その時、京都市中の校長先生が全員同じことを言い出したんです。こっちがどんな聞き方をしても一字一句ちがわんような答えが返ってきたんですよ。『ずっと前から、日の丸・君が代を式に入れたいと思い続けていました』とか・・・。
なんやねん。あんたら、『教え子を再び戦場に送らない』という気持ちで教師になったんちゃうんかいな!そんなんで、今までの自分自身との整合性とれとるんかいな!
それまで私らの話をようよう聞いてくれてはった校長まで、この件に関してはいっさい受け付けず。校長さん、全員がリモコンロボットになってしもて・・・。
その時全市で250人ほど校長先生がいたんですけど、この『日の丸・君が代』の強制に反旗を翻した人はゼロ。なんちゅー恐ろしいこっちゃと思いました。これは、絶対、市教委の中に校長恫喝係がいるんやわと思いました。(まさか、その係員が出世して教育長になり、そののち市長になっている・・・、なんてことはないですよね。まさか、ねえ。)
それに加えて組合の方針が・・・。
さんざん議論したあげくの結論が、『卒業式では何もしない』ですよ。何もしない組合活動って、いったいなに?
労働組合は組合員の生活を守るためのものやから、もし免職者が大量に出る事態になったら支えきれない、というのが理由ですわ。なんじゃ、そら。
自分の信じることを貫き通せない職場にいても無意味と思って、その5年後の1991年に退職しました。
だから、どんな迫害にもめげず信念を貫いておられる根津公子先生や中野さんがうらやましくて・・・。こんな生き方がしたかったと、今ごろつくづく思ってるんです。」
あの時、「クビになっても、いっしょに勉強して裁判に持ち込んで、勝とうぜ!」と言ってくれる仲間が一人でもいたら・・・。でも、そんな仲間を探そうともしなかった私は、闘わずして負けていた。
私が教師をやめたら一番がっかりするであろう母が死んだ2ヵ月後、「日の丸・君が代」強制から5年目の1991年3月、私は退職した。
自分のことだけでなく、仲間みんなのことを考えながら走っておられる中野さんの姿を見て、いろいろなことから逃げてしまった自分が恥ずかしくなった。
あの「日の丸・君が代」強制の時、私は30歳。結婚したばっかりで子どももなし。中野さんは、国鉄民営化の時24歳。すでに一児の父。
比べさせていただくのもおこがましいが、私と中野さんは雲泥の差でした。今回、このアピール行動の54分の1だけでもいっしょに走らせてもらって、本当によかった。
これからは、自分のできることをしっかりと見つけ、実行していきたいと思っています。
最後にもう一度、中野さんの大好きなチェ・ゲバラの言葉を・・・。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と。」
<おまけ>
昨日、廉が3日遅れの誕プレをくれた。「ライト・オン」でトレーナーを買ってきてくれた。なかなか、センスいいでしょ。
「ひょっとして、ますみちゃんのさしがね?」
「なんでやねん。廉が自分でこうてきたんやわ。ふだんの私の育て方がええもんやから・・・。」
またもや出ましたー。「私一人で育てました」パターン。
中野さん、女の子はもちろんかわいいけど、男の子もいいとこいっぱいありますよ。
いつか、中野さんの息子さんたちとも会わせてくださいね。
※ 中野さん(国労闘争団)のホームページを私のリンク集に入れさせていただきました。興味のある方は、ぜひのぞいてみてください。特に、その中の「中野レポート」を。→
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