2009年12月18日(金)
中野勇人さん [私の好きな人]
「中野さんてなあ、かわいいとこあんねんでー。」
「なにー。」
「男の子さん二人いやはんにゃけどな、『解雇されてなかったら、もっといっぱい子どもがほしかった。女の子が生まれたら、バリバリの女子校に入れて、赤いスポーツカーで迎えに行きたかったなあ』やって。」
「へー。」
「その話しやはった時の中野さんの顔が、パオパオは一番好きやなあ。」
おととい、「国会前54日連続フルマラソン」の46日目を中野さんといっしょに走らせてもらい、家に帰って最初にヨメさんに話したのがこの会話です。
国鉄民営化は、「国労つぶし」が主たる目的ということはよく聞いていた。しかし、私のイメージでは、給料をたくさんもらっていた年齢層の高い人が首切りにあったものだとばかり思い込んでいた。
1987年、国鉄民営化の年、中野さんは24歳。
ご長男が今24歳だと言っておられたので、結婚して最初の子が生まれ、前途洋々たる気持ちでおられたまっ最中であったと思う。
中野さんのこの「アピール行動」の日々のレポートの最後は、闘い半ばで亡くなってしまわれた仲間のことが記されている。
その中の「享年」を見ていたら、泣けてくる。ほとんどが今の私の年齢より下。30代で亡くなられた方も数多くおられる。きっと、「あれもしたかった、これもしたかった」と思いながら亡くなっていかれたのであろう。
中野さんが選ばれた「54」という数字は、その亡くなられた人々ひとりひとりを決して忘れないという気持ちが込められている。(その後5名の方がお亡くなりになり、その数は「59」にまで増えてしまっている。「どうか、早期解決を!」)
それにしても、毎日毎日フルマラソンを走り続けている修行僧のような人の口から、「バリバリの女子校」とか「赤いスポーツカー」という言葉が出てくるとは思わなかった。この言葉で、中野さんのことをいっぺんに好きになってしまった。(そんな私は、やっぱり変?)
あまりくわしくはお聞きしていないが、中野さんの奥さまやお子さんもたいへんだっただろうと思う。
現在、奥様と二男さんが地元北見、長男さんは東京、中野さん自身は国労闘争団の四国常駐として徳島に暮らしておられる。
私がどうこう言うことでもないが、自分の信念を貫き通し、仲間全員の職場復帰の糸口を見つけようとしておられる中野さんの生き方には敬服する。
走っている間、国会議事堂の見学に来ていた小学生の列に出くわした。ここぞとばかり、私が中野さんに聞いてほしかったたった一つの話をきりだした。
「私ね、実は18年前まで小学校の教師してたんです。国鉄民営化の前の年の1986年の卒業式にね、京都市中の小中学校全校に突然、『日の丸・君が代』が強制されたんです。
その時、京都市中の校長先生が全員同じことを言い出したんです。こっちがどんな聞き方をしても一字一句ちがわんような答えが返ってきたんですよ。『ずっと前から、日の丸・君が代を式に入れたいと思い続けていました』とか・・・。
なんやねん。あんたら、『教え子を再び戦場に送らない』という気持ちで教師になったんちゃうんかいな!そんなんで、今までの自分自身との整合性とれとるんかいな!
それまで私らの話をようよう聞いてくれてはった校長まで、この件に関してはいっさい受け付けず。校長さん、全員がリモコンロボットになってしもて・・・。
その時全市で250人ほど校長先生がいたんですけど、この『日の丸・君が代』の強制に反旗を翻した人はゼロ。なんちゅー恐ろしいこっちゃと思いました。これは、絶対、市教委の中に校長恫喝係がいるんやわと思いました。(まさか、その係員が出世して教育長になり、そののち市長になっている・・・、なんてことはないですよね。まさか、ねえ。)
それに加えて組合の方針が・・・。
さんざん議論したあげくの結論が、『卒業式では何もしない』ですよ。何もしない組合活動って、いったいなに?
労働組合は組合員の生活を守るためのものやから、もし免職者が大量に出る事態になったら支えきれない、というのが理由ですわ。なんじゃ、そら。
自分の信じることを貫き通せない職場にいても無意味と思って、その5年後の1991年に退職しました。
だから、どんな迫害にもめげず信念を貫いておられる根津公子先生や中野さんがうらやましくて・・・。こんな生き方がしたかったと、今ごろつくづく思ってるんです。」
あの時、「クビになっても、いっしょに勉強して裁判に持ち込んで、勝とうぜ!」と言ってくれる仲間が一人でもいたら・・・。でも、そんな仲間を探そうともしなかった私は、闘わずして負けていた。
私が教師をやめたら一番がっかりするであろう母が死んだ2ヵ月後、「日の丸・君が代」強制から5年目の1991年3月、私は退職した。
自分のことだけでなく、仲間みんなのことを考えながら走っておられる中野さんの姿を見て、いろいろなことから逃げてしまった自分が恥ずかしくなった。
あの「日の丸・君が代」強制の時、私は30歳。結婚したばっかりで子どももなし。中野さんは、国鉄民営化の時24歳。すでに一児の父。
比べさせていただくのもおこがましいが、私と中野さんは雲泥の差でした。今回、このアピール行動の54分の1だけでもいっしょに走らせてもらって、本当によかった。
これからは、自分のできることをしっかりと見つけ、実行していきたいと思っています。
最後にもう一度、中野さんの大好きなチェ・ゲバラの言葉を・・・。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と。」
<おまけ>
昨日、廉が3日遅れの誕プレをくれた。「ライト・オン」でトレーナーを買ってきてくれた。なかなか、センスいいでしょ。
「ひょっとして、ますみちゃんのさしがね?」
「なんでやねん。廉が自分でこうてきたんやわ。ふだんの私の育て方がええもんやから・・・。」
またもや出ましたー。「私一人で育てました」パターン。
中野さん、女の子はもちろんかわいいけど、男の子もいいとこいっぱいありますよ。
いつか、中野さんの息子さんたちとも会わせてくださいね。
※ 中野さん(国労闘争団)のホームページを私のリンク集に入れさせていただきました。興味のある方は、ぜひのぞいてみてください。特に、その中の「中野レポート」を。→
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 2 )
トラックバック
トラックバックURL
http://blog.kyoto-carrot.com/tb.php?ID=691
コメント
yosiさん、コメントありがとうございます。
中野さん、喜んでおられたでしょう。あの殺風景なところを一人で走るのはつらいでしょうからね。
私ももう少し早くこの「アピール行動」を知っていたら、もう一回くらいは行っていたのにと、返す返す残念でなりません。
中野さんとは初対面だったのに、いっぱい話を聞いてもらいました。あの人だから話せるというような話もいっぱいさせてもらいました。私より7歳も年下なのに・・・。ちょっと頼ってしまったかな。でも、いっしょに走らせてもらって本当によかったです。
ブログ見ていただいてありがとうございます。家族ネタは許可なんかとってません。あとで発覚した時にボコボコにやられるだけです。特にヨメさんからの攻撃が・・・。
パオパオさん、こんばんはいつも楽しくブログ見ています。今回、日記で中野さんのことを知り、丁度東京に出張があったので、20日の夜行バスで行き仕事の前に午前中走ってきました。中野さんとは年齢的に近いのですが、すごいパワーの持ち主で頭が下がりました。
よい刺激をもらいました。
パオパオさんもこれからもブログ頑張ってください。
応援しています。(家族ネタも最高ですね!!家族の許可が大変でしょうが!!笑〜)
私が誰だか分からないと思いますが、中野さんのブログを見れば分かりますよ!!