2008年11月09日(日)
第18回南紀日置川リバーサイドマラソン [ランニング・出張販売]
今年の京都キャロットの方針は、「もうけのでない出張販売は切る」。そのため、今までほぼ毎週だった出張販売が、今年はかなり少なくなっている。
今日の「日置川マラソン」も、小学生や幼児も入れて1000人にも満たない大会。本来なら「切る」大会である。
それでも行くには、わけがある。
まず、ランニング用品の出店業者がうちだけであること。
それに、うちの出店を楽しみにして待っていただいているお客様が多いこと。
大会が町の一大行事のようで、みなさんが楽しい大会になるように努力されているのがこちらにも伝わってくること。
そして・・・、この大会は、私と廉が親子レースで初優勝した思い出の大会なんです。
廉が小3の時なので、もう8年も前の話。
前の年、親子レースに母ちゃんと出た廉は、ゴール前で母ちゃんを待つという悔しい結果に。それなら、親子レース最後の小3はパオパオと。
勢い込んでスタートしたのはよかったが、いきなり廉のシューズが脱げてしまうというアクシデント。「あちゃー、これで優勝はゆめまぼろしかー」と思ったが、そこから抜いた抜いた。折り返し点につくまで全員抜き、トップへ。折り返してからの残り1kmはダントツの二人旅。たぶん2位に100m以上の差をつけたと思う。(2km、8分26秒)
シューズが脱げたのにはきなおして優勝した人は、世界でも少ないのでは。(って、そんなたいそうなもんでもないか)
シューズが脱げた時はボロクソに怒ってしまったが、めっちゃ引っ張ったのに弱音をはかず最後までついてきた廉はえらかった。
これは、一生忘れられないいい思い出です。
さて、今年の大会に戻ります。
朝から、雨がパラパラと。
しかし、ここはいつも大きなテントを貸してくださっているのでまだまし。走るには、このパラパラ雨くらいが一番いい。
一番最初は、小学生未満と親のペアが走るバンビの部。その次が、小1〜小3と親のペアが走るファミリーの部。この雨の中を走っている親子の姿は見ごたえがあります。
トップでゴールする親子ではなく、最後の方に泣きながら歩いてゴールする親子こそ見てほしい。親が子にどんな言葉をかけているかを聞いてあげてほしい。どの子も、親といっしょになにかをすることは大好きなんですよ。
ハーフスタート前に、見慣れたお客様の姿が。
この大会で必ずうちのテントに来てくださる花村さん。今日は視覚障害ランナーの伴走をされるようだ。
花村さんは、以前、私たちに梅干しをおみやげにくださった。お世話になっているのはこちらの方なのに。こんな気配りのできる人だから、伴走もできるんですね。
雨はまだやまず。
雨の日の伴走は、普段以上に気を使わなければならないだろう。
何年か前にはこの大会でも優勝されている花村さん。個人の記録のためではなく、こうして人のためにも走られている。そして、それが楽しそう。うらやましくなってくる。
スタート直前、校舎の玄関で雨宿りをされていたお二人を写真に撮らせてもらった。
森本さんはちょっと緊張、花村さんはにこやか。「どうか、アクシデントが起こりませんように」と祈ります。
スタートは、日置小学校の正門前。みなさん雨にぬれるのがいやなので、ぎりぎりまでスタートラインに並びません。
さあ、スタートと思ったら・・・。
ゲストの小ざきまりさんが、サインの最中。
「雨の日は体が温まるまで時間がかかるので、初めはくれぐれも無理しないように」といったごあいさつ。
それは分かっています。分かっているけど、今日はちょっとがんばるつもりです。(おー、めずらし!)
その理由は、また明日。(続きを読んでください。)
(訂正)「1000人にも満たない大会」と書いてしまいしたが、実際は1179人だったようです。しっかりとした大会運営をされているので、参加者が増えているのかもしれません。認識不足をおわびします。
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2008年11月08日(土)
第15回キツツキ会木彫工芸展 [雑用]
京都走ろう会の井上孝夫さんから「木彫工芸展」の案内をいただいていた。会場は、「相国寺 承天閣美術館」。上京区の同志社大のおとなりである。
今日の午前、少しだけ時間が空いたので行ってみることにした。
同志社のすぐ横に、こんな大きなお寺があるとは知りませんでした。お寺の拝観にこられた方も多かったようです。
敷地の中央には、立派な法堂。
そのななめ奥に、承天閣美術館がありました。
井上さんの出店作品は、上の三点。
額はもちろんのこと、中の水墨画や水彩画も井上さんの作です。
週2時間の木彫教室でこつこつ作業されているので、一つの額が完成するまで一年以上かかるそうです。根気がいります。
私は午後から出張のため短時間しかおられなかったのですが、見に行ったことをすごくよろこんでいただきました。
せっかく来たので、ほかの方の作品も鑑賞。
外は小雨でしたが、お寺の境内を歩くのも気持ちいいもんです。
この展覧会は11月10日まで。明日9日は、会場に井上さんがおられます。時間のある方は、ぜひ足を運んでみてください。
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2008年11月07日(金)
「文化の日」におもう [雑感]
最近、ほとんど祝日を意識することがない。
それは、祝日にも何がしかの仕事(のようなもの)があって、遊びに行ったりしにくいからだ。
今年の11月3日は、滋賀・沖縄県人会の高間さんからお誘いを受け、「佐渡山豊コンサート」に参加することができた。文化の日に、文化的な行事に参加できてよかった。
新聞各紙も、祝日だといって特集を組むこともない。
ただ、11月4日の毎日新聞の小さなコラムに、すばらしい記事が載せられていた。
■憂楽帳 「歴史を学ぶ日」に
「自由と平和を愛し、文化をすすめる」
国民の祝日に関する法律(祝日法)に記された「文化の日」の趣旨だ。文言から連想できるように1946年11月3日の日本国憲法公布を記念した日だ。
当時は、終戦直後の物資不足の時代。通常2ページの毎日新聞(大阪)は翌4日、公布式典の模様などを4ページの特別版で報じた。自由、平和、民主などの文字が躍る紙面からは、新しい時代を迎える人々の喜びが伝わってくる。
それから60余年。旧憲法時代の記憶の風化が激しい。戦後生まれによる近隣諸国侵略の歴史を否定する発言が目につき、教育現場では日の丸・君が代の強制も進む。先月31日には、航空自衛隊のトップ、田母神俊雄航空幕僚長が「日本が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」と論文出主張していた事が判明した。
新旧の憲法の歴史をみても、いまの「自由と平和」が、近隣諸国の、そして、日本の人々の大きな犠牲の上にあることは明らかだ。
祝日法の条文を「自由と平和を愛し、歴史に学び、文化を進める」に改正しては、どうだろう。
【湯谷茂樹】
☆私の好きな言葉。
「過去を知り、現在を知るものは、未来を知るものである」
上賀茂小学校で高学年を担任していた時、教室にこの言葉をはっていたけれど、一人くらいはおぼえてくれているかなー。
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2008年11月06日(木)
佐渡山豊in琵琶湖ライブ 〜変わりゆく時代の中で〜(11/3)・続き [沖縄]
第2部は、いよいよ佐渡山豊さんのコンサート。
誤解を恐れず言わせてもらうと、「まだこんな歌手がいたんや」。
プロフィールには年齢が書いてなかったが、ネットで調べると私の5歳上。50代半ば。
私が若いときは、こういうタイプのフォーク歌手の全盛期だった。社会に対するメッセージを魂の底から歌い上げるタイプ。
沖縄出身なので、もちろん沖縄がかかえる問題・・・一番は米軍基地に関わる歌が多かった。
それにプラス、集団自決の問題、琉球人差別の問題(人類館事件)、死刑制度に関する問題、などなど。
私が一番心に残っているのは、「日の丸・君が代を指導せよと、校長がヒットラーのように言う」というフレーズが入っていた歌。題名はおぼえてていないが、沖縄の言葉の題名だったように思う。
こんなことを歌にして歌ってくれていた歌手がいたんや。ありがとうございます。これからも、この歌を歌い続けてください。
コンサートの様子を文章で説明するのは本当にむずかしい。これは、実際に聞いてもらうしかないと思う。
今回は、「佐渡山豊&SwingMASAライブコンサート」。
全曲、謎の(?)サックス奏者とのジョイントだった。
主催者からもらったチラシには、ふたりのことを以下のように紹介してあった。
■佐渡山豊プロフィール
沖縄、コザ(現沖縄市)生。1995年「ドゥチュイムニー」が泡盛(菊の露酒造)のCMに起用され、大きな話題となる。1997年、アルバム「さよならおきなわ」を発表。
関西、関東はじめ四国や北海道など全国各地で精力的にライブをおこない、2004年5月にはNY在住サックスプレーヤ―のMASAとN.Y.PEACEツアーを成功させ、着実に活動の幅を拡げている。現在、新年リリース予定の新CDを製作中。
■SwingMASAプロフィール
中学入学と同時に吹奏楽部でサックスを吹き始める。高校時代、JohnColtraneのMyFavoriteThingsを聞いてJazzへと傾倒してゆく。1987年、コンサートの収益金と、支援者の出資金でJazz修行のためNewYorkへと渡る。1996年、NewSchoolUniversityJazz&ContenporaryMusicを卒業。在学中、ReggieWorkman、BillyHarperらに師事する。1997年、JazzSaxophonistとしてビザを取得。1999年、演奏活動の実績が認められ、グリーンカード(アメリカ合衆国永住権)を取得。2001年、大阪府よりプリムラ奨励賞を受賞。NewYork、Harlem在住。アメリカと日本を往復しながら、演奏活動を続け、現在に至る。
Feminist、Pacifist、Vegetarian、Ecologist、死刑廃止運動はライフワーク。
全部で何曲聞かせてもらったのだろう。
ほとんどお話はなく、次から次へと歌われていった。
佐渡山豊さんは見かけによらず(すいません!)、すごくきれいないい声だった。
MASAさんのサックスは、嘆きの表現が秀逸だった。
「そうか、あんなふうにもふけるんや。」
自己紹介の時、死刑廃止運動に力を入れておられるとのことだったが、なにをきっかけにそこに力を入れられるようになったか、もう少しくわしく聞きたかった。ちょっと残念。
コンサートの様子を文章にするのには限界がある。
機会があれば、ぜひもう一度行きたい。人にもすすめたい。そう言うのが精いっぱいです。
コンサートが終わり、最後のあいさつも終わり、ホールを出た。
出口で、高間悦子さんを発見。参加者のみなさんにお礼を言っておられた。
「高間さん、京都の藤井です。今日は、先生のお話もコンサートも両方よかったです。」
「ありがとうございます。よく来てくださいました。藤井さん、ちょっと、こっちこっち・・・。」
「えっ、なんですか。」
「うちの主人です。」
「いつもお世話になってます。と言っても、今日のようなイベントしか参加させてもらってないんですけど・・・。」
「藤井さん、実は私、ついこの間も沖縄に帰ってたの。これ、おみやげです。」
何の役にも立っていない私におみやげなんて。申しわけない。いつか必ず何かのお役に立てるように、努力します。ほんとうにありがとうございました。(想定外の出来事で、うれしかった。)
2階の階段前には、滋賀・沖縄県人会の方々のお見送り。会場を出る一人ひとりにお礼のあいさつをされていた。
その時思ったのだが、こういったイベントの中で、短時間でもいいから沖縄県人会の普通の方のお話を聞けないものだろうか。普通の人の普通の話の中に、沖縄を考えるさまざまなヒントがかくれているような気もする。
会場を出る前、佐渡山豊さんのCDを展示販売してあるコーナーを見てみた。私がもう一度聞きたいと思った曲は、そこにあるCDには入っていなかった。「新年リリース予定の新CD」っていうのが、要チェックですね。
その代わりと言ってはなんですが・・・。
CDの横に、松島先生の著書が。
「琉球の『自治』」。目次を見るだけでも、ワクワクする。石垣島の開発史、西表島の開発史、「日本復帰」と奄美諸島の開発、琉球の開発と米軍基地、八重山諸島における「経世済民」の実践、琉球独立を巡る動き、・・・。
全344ページ、2940円。
今日は、1時間の講演を集中してしっかり聞くことができた。
このぶ厚い本も、絶対最後まで読む。期限は、今年中。
負けへんでー。
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2008年11月05日(水)
佐渡山豊in琵琶湖ライブ 〜変わりゆく時代の中で〜(11/3) [沖縄]
11月3日の夕方、滋賀県栗東市の「さきら」へ。
10/10のブログに書いたとおり、「高間悦子さんを取るか石井慧選手を取るか」。だいぶ思案した上で、滋賀・沖縄県人会のこのイベントに参加することにした。
主催は、「滋賀・沖縄県人会」にプラス「連帯ユニオン関西地区生コン支部・京津、湖東ブロック・朝日分会」。
なにやら長い名前だが、非正規労働者の組合らしい。
「分会」という言葉を久しぶりに聞いた。
私が小学校教師をやめたのは35歳の時だったので、もちろんヒラ。ただし、市教組・雲ヶ畑小中分会の分会長だった。「長」のつく肩書きは、あとにもさきにもこれだけです。(おっと、別所PTA会長を忘れてた。3年前にやりました。)
3時間の予定のイベントは、第1部と第2部に分けてあった。
第1部は、滋賀・沖縄県人会の三線演奏と、龍谷大学准教授・松島先生の講演「琉球の自治」。
第2部が、佐渡山豊ライブコンサート。
小ホールはほんとに小さく、100人も入ればいっぱいになりそうだった。
私が入った時にはもうほぼ満席で、一番前のパイプイスの席くらいしか空いていなかった。一番前だと写真も撮りやすいし、かえってよかったかも。
6時ちょうどに、三線の音色が・・・。
前列には、2月の時に紹介されていた中学生の男の子とお母さん。がんばって続けてはるんや。
総勢11名。後ろでちょっと見えにくかったが、高間悦子さんの姿も。
主催者を代表して、高間悦子さんのごあいさつ。
いろいろとお話されたが、いきなり、「私たちが暮らすこの滋賀にも、いまだ沖縄差別が残っています。」
こういう言葉をはっきり言える人、それが高間さんです。さすがです。
きっと、今までさまざまな圧力と戦ってこられたでしょう。
昨年は体をこわされ、2月のイベントの時も顔色がよくないように見えたが、もうだいじょうぶそう。よかった。
最後の方に言われた言葉もよかった。
「どうぞ、興味のある方は、三線クラブにいらしてください。ただし、ただ三線をひくだけでなく、沖縄全体の問題を考えていただける人しか受け入れられません。」
スパッ、スパッと話される様子は見ていて実に気持ちがいい。
まいりました。
「どうか、この私を弟子に!」と言いたくなります。
あっ、一つ思い出した。
2006年5月、当時湖南市にあった沖縄館まで高間さんに会いにいった時のこと。
「沖縄の人って、宴会とかですぐ踊ったりしやはるんですよね。」
私は、NHKの「ちゅらさん」のイメージでそう言った。
「あれは、ウソ。最後の最後にみんなで踊ったりすることはあるけど、いつも踊ってるわけじやないのよ。」と、ピシャリ!
「テレビのイメージで、沖縄全体をみな同じととらえてもらったら困る」という感じだった。
おやさしいお顔で、ゆうことはピシャッとゆう人。
実はもうその時、「どうか、この私を弟子に!」と思っていました。
このあと、もう一つの主催者である連帯ユニオン関西地区生コン支部の高副委員長のごあいさつ。
今日のイベントを主催されるまでのいきさつなどを説明された。滋賀にもたくさんの非正規労働者がおられる。その中には、沖縄出身者もたくさんおられるらしい。さまざまな問題を解決するには、幅広い人たちとのつながりが必要である。
それにしても、「沖縄」と「生コン」はなかなか共通項がみつからなかった。「生コン支部」というのは、コンクリートミキサー車の運ちゃんの組合なんかなあ。
次は、第1部のメイン、講演「琉球の自治」。講師は、松島泰勝氏。
主催者側からいただいたチラシには、以下のような紹介があった。
■松島 泰勝 プロフィール
1963年石垣市生まれ。石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島にて育つ。その後、東京、グアム、パラオ、沖縄島、静岡、京都、滋賀にて学び、働き、生活する。
那覇中学・那覇高校卒業。東京狛江市の南灯寮で4年近く生活。早稲田大学政治経済学経済学科卒業。早稲田大学大学院経済学研究科博士後期過程履修単位習得。早稲田大学から経済学の博士号を取得。
在ハガッニャ8グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館専門調査員、東海大学海洋学部海洋文明学科准教授を経て、現在、特定非営利法人「ゆいまーる琉球の自治」の代表、龍谷大学経済学部国際経済学科准教授。
著書に、『沖縄島嶼経済史ー12世紀から現在まで』 『琉球の「自治」』(ともに藤原書店)
『ミクロネシアー小さな島々の自立への挑戦』(早稲田大学出版部)がある。
「一言一句、聞き逃すまい。」
この歳になって、大学の先生の講義が聴けるなんて。絶対1時間集中するぜぃ!
松島先生のお話は、内容が濃かった。
「クスッ」と笑うところも一度もなく、時々「フー」となりそうだったが、しっかり聞けたと思う。
順番的にはむちゃくちゃだと思うが、私が覚えていることは・・・。
まず初めに、琉球・沖縄の歴史について語られた時、奄美の人たちの複雑な感情について。
奄美地方は、島津が琉球王国に攻めてきた時、武力によって琉球から切り離され、薩摩藩の統治下になった。しかし、その前は、武力によって琉球王国の統治下になっていたのだ。
だから今でも沖縄の人々をすんなり受け入れることができないらしい。ヤナトンチュー(本土の人)も敵であるが、沖縄の人ももっと古くからの敵であるわけだ。複雑。
次に驚いたこと。
沖縄では、古くからゆいまーる(たすけあい)の精神が根付いている。
その典型が、久高島である。
久高島では、島全体は島の住民みんなのものという考えで、個人資産がない。そのため、本土のリゾート開発業者の誘惑もはね返すことができたとのこと。
すごい。そんな一枚岩のような地域がまだあったんや。
次は、米軍基地に関する話。
伊江島は、終戦直後、島の60パーセントが米軍基地として強制収用された。しかし、その後、島民のねばり強い運動で30パーセントくらいにまで縮小させた。
そんなことを知っている沖縄以外の日本人は、いったいどれくらいいるのか。私もまったく知りませんでした。
辺野古のV字滑走路。これは、新たな米軍基地というとらえ方でないとダメ。決して普天間の代替地ではない。そう思っている沖縄以外の日本人は、いったいどれくらいいるのか。知らないことだらけです。
最後の方に、沖縄のリゾート乱開発の話。
松島先生のふるさと・石垣島は最悪。住所変更をしないまま石垣に住みついている人が、かなり多いそうだ。住民税を払わず、島のいいところだけを享受している移住者。
逆に、ユニマットの社長は、生活実態のない竹富町に現住所を移し、莫大な住民税を払う見返りに西表島のリゾート開発を我が物顔で進めていった。(ニラカナイホテル)
そして、最後の最後に、私にとってビックリ仰天の発言があった。
「西表の西の端に、人口50人ほどの船浮と言う地区があります。そこは、船でしか行けないような不便なところなのですが、そんなところにまで開発業者の手が伸びています。」
まさか、あの船浮が・・・。
お金持っとるやつらは、そこまでやるのか。
私はここ2年間に、三回船浮を訪れた。ほとんど手付かずと言っていい、素朴さの残っている地区であった。船浮小中学校を中心としたこじんまりとした集落で、少し歩いたところにはイダの浜というきれいな浜があった。当時の校長先生は、ご自分の名刺にその景色を入れておられたくらいの自慢の浜だった。
こんなところにまで・・・。
松島先生のお話は、私にとっても多くの課題を突きつけられた内容であった。
第1部が終わり、10分の休けいになった。ホール外の通路でミニ沖縄物産展をやっているということだったので、見に行こうとして席を立った。
その時、一番はしの方の席に松島先生が座っておられるのが目に入った。1時間話されてお疲れであろうと思ったが、ついさっきの船浮の開発の話がどうしても気になりお話させてもらうことにした。(わずか10分間でしたが、内容の濃いお話をさせていただきました。)
驚いたことに、リゾート開発の話はやはりあのイダの浜。 先生のお話によると、浜一帯はすでにほぼ全部業者の手に渡ってしまったとか。
こういう話が持ち上がった時、一番の問題は地域住民が二つに分断されることである。西表島のニラカナイホテルの時もそうである。自然破壊に反対する住民と、雇用先の確保を狙う住民との対立。
けっきょくホテルが建設されて数年たった今、「だまされた」と思っている人(元賛成派)も多いようだ。
松島先生とも話していたのだが、こういった開発業者に抵抗するには、元からいる住民だけでなく、本土から移住して地域に溶け込んでいる人たちの力も借りなければ。(私の中では、住吉のよんなぁよんなぁさん、上原の「工房ながや」のオーナーを頭に浮かべながら話していました。)
今のところは、船浮地区では開発反対派が圧倒しているらしい。しかし、私も含めた無責任な旅行者によって、この船浮地区の平穏な空気を乱すことは今後ますます増えていくだろう。
高間さんが、前に繰り返し言っておられた。
「本土の人は、自分の見たい沖縄しか見ないのか。」
自分に都合のいい部分だけ取り出してわがままに楽しむような人間は、沖縄には来てほしくないということだと思う。
私自身も、しっかり肝に銘じたい。
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2008年11月04日(火)
2008あいの土山マラソン・男女編 [ランニング・出張販売]
土山マラソンは、スタートして1.5kmほどを直進。
そこから右折し、最初の上り坂にさしかかる。
そのまがりんちょに、いました。うちの「きく」のそっくりさん。
まだ10分も走っていないのに、早くも「ワンちゃんの写真撮らしてください。」
「ワンちゃんのお名前は?」
「こっちは、やす。」
「へー、かわいい名前ですやん。男の子ですよね。」
「いや、女の子。」
「そっちのワンちゃんは?」
「こっちは、たま。」
「こらまためずらしい名前・・・。何歳ですか。」
「両方、5歳。」
ガラはちがうけど似た感じやから、姉妹かもね。
それにしても、自転車の前かご後ろかごに雑種を装備って、めっちゃぜいたく。うらやましくて、目がくらんだ。ここで、雑種犬パワーを思いっきり吸わせてもらってと。
今日も幸先のいいスタートが切れた。
さて、本題へ。
(このおっちゃんと女の子のワンちゃんのペアを「土山マラソン・男女編」と言っているわけではありません。)
スタート前、京都キャロットのテントに吉田康彦さん(京都走ろう会)があいさつに来られた。
「今日も、伴走ですか?」
「はい。」
「いつもの方ですよね。」
「そうです。」
「どれくらいで走らはる予定ですか?」
「たぶん、ハーフを2時間くらいやと思います。」
「いやー、けっこう早いですやん。2時間のランナーの伴走しょうと思たら、1時間40分くらいの走力がないと無理でしょう。」
「いやいや、そこまでは・・・。」
「私もハーフ出ますし、すれちがう時に写真撮らしてもらいますわ。」
私が吉田康彦さんにお会いするのは、?京都走ろう会例会で10kmの最終走者の伴走、?レースで視覚障害ランナーの伴走、このどちらかです。そのどちらも、ニコニコ楽しそうにやっておられる。最近は、自分ひとりでレースに出ることはほとんどないとのこと。
これは、なかなかできることではない。ひそかにですが、ちょっとあこがれてしまいます。
5km付近で、やっと吉田さんたちに追いついた。
「すんませーん。うちのブログに、お写真載せさせてもらっていいですかー。」
「OKです。」
「また、帰りもすれちがったら撮らせてもらいます―。」
ところがここのコースは折り返しではなく、9kmから11kmまでの2kmほどがループ(輪)なっている。私が追い抜いた後かなりがんばられたようで、私と吉田ペアが両方ループに入ってしまい、すれちがわなかった。
「また写真撮るって約束したのになあ。あとは、ゴールで待ってみるか。」
私がゴールして12,3分がたち、あわててゴール地点に向かった。(女子は5分前スタートやから、もう2時間過ぎてる。えらいこっちゃ。)
ゴール付近で見ておられた方に聞いてみた。
「サングラスをかけた女性ランナーと伴走者のペア、もうゴールしました?」
「えーと、どうやったかな。さっき、一組ゴールしたような・・・。」
あっちゃー、遅かったかー。でも、ひょっとしたらっていうこともあるし、とりあえずコースを逆にたどってみよう。
ゴール前5、600mのところに、ビミョーな上り坂がある。毎年私の足が棒になってしまうところ。そこは見通しがいいので、そこらにすわって待つことにした。
待つことおよそ10分くらいでしょうか。はるか向こうに並んで走る吉田ペア発見。でも、よーく見ると、女性ランナーは歩いておられた。
分かります、そのつらさ。今年は何とかセーフでしたが、このゆるい坂、私も前に何べん歩いたか分かりません。
その時、吉田さんが彼女に向って何か言葉をかけられた。そしたら、そのあと彼女は走り出し、ゴールまで歩くことなく走り抜けられた。
「あうんの呼吸」って、こうゆうことですか。
そこからゴールまで、私は撮れるだけの写真を撮った。
吉田さんのペアの相手は、佐藤町子さん。
以前滋賀に住んでおられ、現在は名古屋にお住まいだそうだ。そのため、吉田さんとはレースの時だけ顔を合わされる。それでよくこんなに息ぴったりで伴走できるものだと感心させられる。きっと今までの積み上げの上に、このお姿があるのだろう。
以前、吉田さんから、「藤井さんも、伴走やってみやはったら」とすすめられたことがある。
その時は、「ボクはまだまだ修行が足りませんから」とおことわりした。
でも今日のおふたりの、・・・なんて言ったらいいのかな、・・・楽しそうな? ・・・はげまし合っているような?・・・自然とふたりがひとつになっているような?・・・そんな姿を見ていると、そんな修行ならやってみたいと思いました。
できるかな?
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