2008年04月14日(月)
京都ランナーズの未来は? [ランニング]
京都ランナーズ定期総会に続き、懇親会があった。参加者は、かなり多いほうだった。
お弁当にビールとジュース。5人の子どもたちも参加してくれて、なごやかなふんいきだった。
順番に自己紹介をしていったのだが、積極的に話す人が多く話が盛り上がった。さまざまな事情で途中中断が何回かあり、私を含め3、4人は時間切れでしゃべれなかった。
「ブログ始めました。見てください。」くらいは言いたかったんですけど・・・。
一番盛り上がった話題は、京都ランナーズの運営方針についてだった。
京都ランナーズは、例会もレース、LSDもレース。何もかも競技志向で、広がりがない。特に、新入会員はそれにとまどってしまう。レベル別に分けて、練習したりしていけないものか。
確かに。
私が入会した25年くらい前、京都ランナーズの男はみなサブ3をめざしていたように思う。20代、30代がいっぱいいて活気があった。みんな篠山でサブ3をめざす、そんな時代だったんですね。
今は、走っている人の目的も人それぞれ。競技志向の人もいれば、病気からのリハビリのために走っている人もいる。そんな幅広い人々に対応できるクラブ運営とは?
はっきり言って、それは無理。無理ということをみんなが認める所から再出発してはどうでしょう。
「こんなことをしてほしい、あんなことがしたい。」と言って、誰がしてくれます? 何かをしたいと思う人が率先して動かないと、どうしようもないでしょう。
太田武志さん。長年、京都ランナーズの会員だった。現在、「京都鴨川ゆっくりラン」を主催。年3回のこの大会は、今ではすっかり定着し、一定の評価を得ている。
どんないきさつでこういう道に進まれたかはお聞きしていないが、京都ランナーズの競技志向から離れていかれたことは容易に想像できる。「こんな大会があったらええのになあ。」を自分で実現されたのであろう。
この道も一つの選択肢。いいお手本である。何人かの賛同者が、太田さんに付いていかれた。
人まかせではなく、自分でやる。今は、そういう時代です。
私の会員ナンバーが、20。上には、もう19人しかいないのか(実質10人ほど)。感慨深い。
入会した時は確か80番代。少しして、私が「6」が好きなので無理やり66にしてもらった。
それが今や、退会されたり亡くなられたりして、20番。普通なら幹部になってないとおかしいのに、とにかく役立たずなもんで・・・。
今日の出席者の中で、数少ない私より会員ナンバーの若い谷村さん。
「藤井君、久しぶりにおうたら、あっちこっちでしゃべってるし、社交的になっててびっくりやわ。」
「そうですか。昔はそれなりにプライドもあったし、カチッとしてたんかなあ。今はヨメさんに養ってもらってる身やから、ヨメさんに捨てられんようにするのがすべてですねん。もう、それ以外はどうでもようて。(ヨメさん以外)こわいもんなしですわ。へへへ。」
「ほんま、変わったな。それにしても、ますみさんはえらいもんやなあ。」
「そら、一家の大黒柱やから、しっかりしてますがな。」
谷村さんのあきれ顔を見ながら、実は心の中でほくそ笑む。(ふふふ、わなにはまったな。)
中味はほとんど変わってません。昔も今も自分の縄張りに入ってくる人にはバリアをはっています。
ただ昔とちがう所は、今は人から入り込まれる前に自分から先制して出ていることかな。いつまでも正体不明でいたい。その気持ちは昔と同じ。
話はかわりますが・・・。
まわりの人のアドバイスをしっかり聞いていた外峯さんに、びっくり。私は人のウンチクを聞くのが嫌いで嫌いで。人の自慢話みたいなもん、聞くのはつらいぞー。
さすがに私のええかげんさはすでにお見通しのようで、いろいろお話したけれど、練習方法の話などなし。正解です。今年も練習一切なしでレースに出続けているんですから。
私も、ある日突然プチンと切れる系かな。その時は、みんなで笑ってください。「やっぱりなあ、ばち当たったなあ」って。
あっ! 一番かんじんなことを忘れてた。
「京都ランナーズの未来は?」
・・・そんなこと、知りません。大事なのは、誰かさんの京都ランナーズではなく、自分の京都ランナーズをどうするのか。(何もしてないくせに、ゆうことはえらそうです。)
私は、「スポーツは平和とともに」という言葉にひかれて京都ランナーズに入会しました。だから、この気持ちを持ち続ける限り、自分から退会はしません。
また、京都ランナーズがこの精神を忘れ、ただのランニングクラブに成り下がってしまわない限り会員を続けます。。日本国憲法が改悪されない限り、日本人をやめないのと同じように。(憲法改悪したら、もう日本人やめるどー。)
死ぬまで会員続けたんね。
「わしゃー、最後の一人じゃー」と言えるくらいになりたいなあ。
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2008年04月13日(日)
京都ランナーズ例会(4月第2日曜)+定期総会 [ランニング]
今日は、御所一般公開の最終日。だいぶ前、この日に車で行って駐車場に入れられず、路上駐車で違反切符を切られたことがあった。そのため、今日は叡電で行くことに。精華大前から出町柳まで17分。便利。
4月の第2日曜は、例年、山梨の「南アルプス桃源郷マラソン」に出張販売に行っていたのだが、近年ランニング用品店の乱立で今年より撤退した。遠い割りに、もうけが出なくなってしまった。
今日の申込用紙に名前を書いていると、「こんにちは」の声。何の気なしに、「こんにちは」と返事して、顔を見てびっくり。
「生きてはったんですか?」
「生きとるわいな。」と谷村さん。
脳内出血で倒れて4年。やっと復活してきましたね。一時は歩くことも難しかったのに。昔からの知り合いが復活してくれることは、心からうれしい。
そこらをうろうろしていると、話かけてこられる女性が。
「篠山で20kmのあたりまで、ついて走らせてもらいました。」 (いやま、早そうな人。)
「へー、そうやったんですか。気、つきませんでした。どこで抜かれたんでしょうね。ゴールはどれくらいで?」
「4時間4分くらいです。」
「いやー、ボクより12分も早いですやん。後半がんばらはったんや。」
前からうわさの増馬さん、発見。
「増馬さん、ブログに載せたいんで写真撮らせてください。あのー、篠山は、結局どれくらいでゴールしやはったんですか。」
「もう、ぜんぜん。3時間32分かかりました。」
「ひえー、そんなに。」
ハーフのベストの3倍近く。どうなっとるんじゃー。
次回のフルが楽しみ。また、結果を聞き出そう。
さて、スタート。今日はまあまあ多いほう。
谷村さんも、一周に挑戦。超久しぶりらしい。
4年前、ゴルフ中に突然頭の中の血管が切れ、左半身不随に。そのころは、ジョギングとかはしていなかったそうだ。いろいろなリハビリを続け、ゆっくり歩くところから始め、最近やっとジョギングができるようになった。
谷村さんと言えば、20年以上前の私ライバルである。
30kmまでのレースはすべて私が上回っていた。ところが、フルだけは大惨敗だった。
私のベストが3時間11分、谷村さんは2時間51分。
20分も早い。
サブ3も、合計4回。「なんで、こんなおっさんに負けんねん。(谷村さんは、私の7歳上)」と不思議でしょうがなかった。
本人いわく、「タイミングがよかっただけや。」そうあっさり言われると、よけいくやしい。
今日はデジカメを持って走ったので、いっぱい写真を撮ろうと思ったが、とにかく人が多い。歩道がきゅうくつで、写真どころの話ではない。
2周目ゴールの時、前を見ると、外峯さんと小外峯さんらしき人。これはうれしい。まず写真を撮って、それからゴール。(36分45秒くらい? よう、わからん。)
外峯さん、今日はお子さん連れで来られたんですね。
小外峯1号ちゃんは、小3。
小外峯2号ちゃんは、ぴかぴかの一年生。
二人とも、お母さんに似て美人です。
こんな子たちも、ゆっくり楽しく走れるような企画も考えたいなあ。
こないだの大阪城公園4時間走に出ていた家族は、楽しそうやった。競技志向の高い京都ランナーズでは、無理かな。
場所を御所の中に移し、定期総会。
冨田会長のあいさつで、「スポーツは平和とともに」を強調されていたのがよかった。冨田さんも、やっと私のブログを読んでくれはったそうだ。
「藤井さんが、『スポーツは平和とともに』と書いてくれてたから、プリントアウトしてほかの人にも配っときました。それにしても、藤井さんのブログは長い。」
そんな真剣に読まんでもいいのに。もっと、軽く。
三宅誠孝さん(元京都市議、元京都ランナーズ相談役)の話。
「私は、ガンで、昨年8月までの命と宣告を受けました。それがちょびちょび伸びて、12月のホノルルマラソンも走ることができました。今も生きていますが、もう医者はいつまでの命とは言わんようになりました。」
衝撃です。
三宅誠孝さんは、いつもおだやかで、話もわかりやすく、誇張や嘘がない信頼できる人です。どうかその調子で、ちょびちょび長生きしてください。
もし、三宅誠孝さんのことを悪く言う人がいるとしたら、その人のほうに問題があるのではと私は思ってしまいます。酷かもしれませんが、命の続く限り、どうかもう少し私たちにいろいろなことを教えてください。
子どもがいると、それだけでその場が明るくなります。
今日のようにたくさんお子さんが来てくれていると、なにかこの子たちもいっしょに楽しめることができないかと思う。
御所の中を使ったミニリレーとか、ミニ時間走とかはどうでしょう?
定期総会、懇親会が終わろうとしている時、かわいいワンちゃんを見つけた。上品な老夫婦が飼われているそのワンちゃんの名は「ろく」。メスにはめずらしい名前だと思っていたら、前に飼っておられて死んじゃったワンちゃんが「ごろう」だったのでそうつけたそうだ。
前のワンちゃんが死んだ時、悲しくてもう飼うまいと思っていたのに、知り合いが次々と紹介してくださったらしい。「ろく」ちゃんは、ちょっとだけシェパードが入っている雑種だそうだ。
「お近くですか。」と聞くと、「いいえ。近くに散歩させるいい所がなくて、ここまで車に乗せて来てるんです。」とのこと。
京都迎賓館を強行建設されたおえら方。こんな人の調査まできちんとやりましたか。一般庶民のささやかな幸せまで制限してしまう迎賓館は、いったいナニ?
老犬と老夫婦の息のあった歩みを目で追いながら、心が暖まり、また一方にはムカムカ。
「今度は、どっちが先に行く(死ぬ)のやら。」とおっしゃっていましたが、そんなこと言わず、またここでお会いしましょう。
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2008年04月12日(土)
ブルガリアへの国際電話 [学校]
今日、二回、ブルガリアに電話した。中学時代の担任、中古賀先生に。
はじめは、昼の2時半(現地時間朝の8時半)。
「先生。やっとクラス会の案内状できました。これからぼちぼち動き出しますし。先生は、前言ってた5月18日だいじょうぶですよね。」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
「先生に送りたいもんいっぱいあったんですけど、今から送ったら入れ違いになりますかね。」
「そやなあ。帰るのが4月26日やから、日本に帰ってからもらうわ。」
「わかりました。楽しみにしててください。」
その後、百井と別所へ。
百井の林幸博君に、案内状4人分(百井分)を託す。
幸博君はすでに百井組3人に声をかけてくれていて、内2人はいい感触だったとのこと。さすが、言いだしっぺ。ちゃんと責任感持って動いてくれている。
うれしい。たのんまっせ、4人とも来てくれよー。
別所では、まず「小谷屋」さんへ。私のいなか花背別所町唯一の料理旅館だったのに、今は見る影もない。
しかし、同級生のよりちゃんの携帯番号はわかった。
小谷屋のおばさん、家に行ったら、ものすご喜んでくれはった。
「今年はえらい雪でなあ。だれも雪かきしてくれへんさかい、うらのガラス戸、全部割れてしもたわ。しょうがないし、私一回やってみたんやけど、すべって腰打ってしもてなあ。
こうちゃん、よう来てくれたなあ。頼定にも声かけたって。そら、喜ぶわ。」
小谷屋のおばさんとのやりとりで、おかしかったこと。
「あんたとこはええわなあ。みな、しっかりしてはっさかい。うちはあかんわ。頼定はふらふらしとるし、○○のとこもようヨメさんがしんぼうしとるわ。」
「そんなことないですって。外から見るのと中味は大ちがい。うちかて、いつヨメさんに逃げられるか、いつボクが追い出されるか、毎日ビクビクしながら生きてますねん。」
「そんなこんないやろな。」と言いながら、さっきまで暗かったおばさんの顔が、ぱっと明るくなっていた。
次は富雄君の親戚、高則さんとこへ。
「富雄君の連絡先わかったら、教えてほしいんですけど・・・。」
「わしゃ、知らん。家も売ってしもたらしいし、どこにおんにゃろなー。」
こら、しゃーない。何かほかの手を打たねば。
父に会い、由紀ちゃんの連絡先をさがす方法を聞いてみる。「別所には、親戚らしい親戚はおらん。」これも、しゃーないな。別ルートを探ろう。
家に戻り、もう一度ブルガリアへ国際電話。こっちの夜9時半(現地時間昼3時半)。
「先生、よりちゃんの連絡先わかりました。ボクはちょっと暗いイメージを持ってたんですけど、今日の声は明るかったですよ。この後すぐ電話したげてください。
ほか、百井組は・・・、富雄ちゃんは・・・、由紀ちゃんは・・・」
「いろいろとご苦労さんやなあ。」
「そんなん、全然。けっこう楽しんでやってます。」
「また、おくさんにおこられてんのんちゃうか。」
「えーとこ、つきますね。そのとおーり。 小谷屋のおばさんに、ボクもいつ追い出されるかビクビクしてますねんってゆうたら、大うけでしたわ。」
「そうかー。ははははは。(ブルガリアからも、高笑い)
バラのハンドクリームぎょうさん持って帰るし、それでかんにんしてもらい。」
「はい。よろしゅうお願いします。」
よっしゃー、これでなんとかクラス会の形が見えてきた。手動カメラでピントを合わせていく感覚。これ、好きなんや。
先生も楽しみにしてくれてはるれど、ボクはもっともっと楽しみです。さあー、14人中何人来るか。
これから先も、あらゆる手を打ちまっせー。
◎できあがった案内状は、以下の通り。
2008年4月吉日
花背第一中学校・1970年度卒業生の皆様へ
中古賀クラス会のお知らせ
花の色が美しい季節になりました。皆様いかがおすごしでしょうか。
すでにご承知かと思いますが、私たちの母校、花背第一中学校・別所小学校は昨年3月閉校となり、統合して花背小中一貫校となりました。現在暫定的に別所の校舎を使用していますが、来年春より花背第二中学校跡地に完成する新校舎に移転します。(別所から学校がなくなります。)
中学校卒業後37年がたち、私たちも50歳を越えました。
一昨年、PTAだよりの原稿の件で百井の林幸博君に会い、その時、中古賀先生とクラス会がしたいなあという話になりました。昨年3月、ブルガリアから一時帰国されていた中古賀先生に相談すると、たいそう喜ばれ、翌年5月にまた帰国するので頼みますとのことでした。(2月末、国際電話で先生の出席は確約していただきました。)
会場は、林幸博君ご一家が経営されている百井の地鶏料理店「とり幸」さんです。
交通の便が良くないところですが、百井のきれいな空気を思いっきり吸いに来てください。 当日、私(こうじ)はハンドルキーパーに徹するつもりですので、送迎は遠慮せずに申し付けてください。
記
日時 2008年5月18日 (日) 12時30分〜
場所 「とり幸」 (大原百井町、百井分校お向かい)
TEL 075-744-2252
会費 6000円 (当日、受付にて申し受けます)
幹事 藤井廣司 TEL 090-6989-2171
e-mail kikukouji@docomo.ne.jp
林 幸博 TEL 075-744-3044 (養鶏場)
075-744-2252 (とり幸)
※ 恐れ入りますが、4月30日までに電話(またはメール)にて幹事まで出欠をお知らせください。
(欠席の時は、中古賀先生へのメッセージを送ってください。責任を持ってお伝えします。)
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2008年04月11日(金)
「飼い犬に手をかまれる」にもほどがある [わんこ・にゃんこ]
うちの「きく」は箱入り娘である。
生後40日足らずでうちに来て、蝶よ花よと育てられたため、超わがまま犬になってしまった。
それでも元気ならええやんかと思っていたが、一つだけ困ったことがある。それは、カミカミぐせ。しっぽを振っていたかと思うと、突然こわいこわい顔になってかみつく。そら、あかんで。
特に「馬のつめ」をやった後、取り上げる時が大変。顔がデビル。動きは猛獣。
うちのヨメさんが、「パオパオは、かんでもええ」とかゆうから、本気でかみよる。
先週の木曜、左手の人指し指の下のへんをかまれた。血が止まらない。神経直撃か、手がジンジンしびれる。夜、痛くてなかなか寝付けなかった。
それがやっとましになったと思ったら、またかまれてもた。今度は右手。親指と中指の二か所。また、血が止まらん。また、神経直撃かい。
「飼い犬に手をかまれるアホがいる。」
「飼い犬に手をかまれて、寝られまへん。」
もうかんにんして、きくちゃん。
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2008年04月09日(水)
やっと八重山シリーズ総括 [沖縄]
夢の八重山旅行から、もう2ヶ月がたった。
4泊5日(実質4泊4日)の、仕事がらみでない旅行は本当に楽しかった。
「クーの毎日」のクーちゃんに会えただけで、今回の旅行の目的はほぼ達成と言っても過言ではない。マラソンの日と翌日のエコツアーと、2回も会えた。もうそれが、うれしくてうれしくて・・・。テレビや映画でしか見られなかったスターに会えたような、そんな感覚。
クーちゃんは、世界で2番目にかわいいワンちゃんです。(もちろん1位は、うちの「きく」)
それ以外の目的も、だいたい思い通り。
「やまねこマラソン」は雨の中をしっかり走ったし、「船浮小中学習発表会」もしっかり見れた。
「鳩間」には行けなかったけれど、マラソン会場で古我知先生や小山校長先生に会えた。
「大浜中」のユニフォームの子を何人も見たので、入波平先生も来ておられたのかも。そうだとしたら、会えなくてちょっと残念。
「一希君」にお別れが言えなかったれけど、後で手紙を出したら返事が返ってきた。希望の高校に合格し、沖縄本島で元気に暮らしているようだ。
「宮良校長先生」の笑顔も見られたし、想定外の三崎先生にも会えた。
真樹がおすすめの「由布島」の水牛車も、ゆっくりと乗れた。めったに撮れないヨメさんとのツーショット写真も撮れたし。
私の「パラグライダー体験」とヨメさんの「豪華エステ」は、両方アウトやったけど、これはもともとおまけみたいなもんやったから、まあいいか。次のお楽しみに取っとこ。
旅行前のうちのヨメさんの鬼嫁度を10とすると、旅行中は1、帰ってきた直後が2か3、そして現在は・・・残念ながら8か9です。(だいぶ戻ってしもた。)
「来年も、また行こな。」と言っても、「だれが、行くかー。」とか言っていたが、最近は、「暖かかったら、行ってもええかな。」と微妙に変わってきた。
まだ10ヶ月もある。ねばり強く、ヨメさんを説得しよう。
★羽根田治さんの「極私的鳩間日記」4月5日の記事より。
家に帰って古我知先生から留守電が入っていることに気付く。折り返し電話してみると、セイジとケーコ先生が引っ越したばかりの新居にやってきて4人で飲んでいるところだった。みんなけっこう酔っ払っているようで、楽しそうな雰囲気が受話器を通して伝わってくる。昨夜、先生からは「入籍しました」という連絡を受けたばかり。末永くお幸せに。
◎やまねこマラソンで古我知先生にお会いした時、「4月に本島の学校に異動になります。」と教えてくださった。その時、ちょっと口元がゆるんでいたので、「結婚しやはんのんちゃう?」とヨメさんと言ってたのだが、本当にそうだった。おめでとうございます。古我知先生らしい楽しい家庭を築いて行ってください。
今度の学校にも、おじゃましてもいいですか?
また、沖縄に行く理由が一つ増えた。私もヨメさんも、古我知先生の大ファンですから。
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2008年04月08日(火)
平久保小学校-やっと八重山5-(2月12日分) [沖縄・学校]
朝起きると、外は強風。
一応、「スカイアドベンチャーうーまくぅ」さんに電話してみた。
「今日は、ダメですよね。」
「はい。風が強くて。」
残念。ちょうど、平久保小学校の帰りに寄るのにぴったりだと思っていたのに。
ゆっくりゆっくり朝ごはんを食べた。
パラグライダー体験がボツになってしまったので、今日の予定は平久保小学校訪問だけになってしまった。
でもよく考えてみると、この旅行を平日まで延ばしたのは、平久保小学校を訪問し宮良校長先生に会いたかったからだ。本来の目的を忘れてはいけません。
フサキリゾートヴィレッジのすぐそばに、唐人墓があったので行ってみた。そこには、こんな説明が・・・
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。
そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還した。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の機運が盛り上がった・・・
(この歴史的事件については、まったく知りませんでした。)
平久保小学校は、石垣島の最北端に近い所にある。
宮良校長先生のご自宅は離島桟橋の近くだから、石垣島最南端。毎日、南北に長い石垣島を往復されている。船浮から石垣島に戻ったと思ったら、今度は毎日往復2時間のドライブらしい。
私たちが学校に着いたのは、10時半くらいだった。
すぐに校長室に通していただいた。先生方に「私のお友達の藤井さんです。」と紹介してしてくださった。
あいさつの後、宮良先生が最初に言われた言葉。
「奥さんのお疲れは、取れましたでしょうか?」
今回の旅行は、うちのヨメさんの疲れをやわらげるが目的ですと言っていたのをよく覚えていてくださったのだ。(さすが、です。)
その後、各教室を案内していただき、併設されている幼稚園も見せていただいた。
それぞれの学級は複式でも5名以下、幼稚園も2学年合わせて5名。学校の存続が危ぶまれているとのこと。
近くにたくさん牧場があるのどかな環境にある学校なのに、なくすのはもったいない。
4・5年複式学級の三崎先生とお話させてもらって、びっくりした。
三崎先生は京都出身ということで、詳しく聞いてみると・・・
私の教師生活のスタートが、大原小学校百井分校。その時、本校にいたのが三崎先生(三崎君!)。サッカーをすごくがんばってやっていたので、私は覚えていた。
当時、大原はサッカーが盛んで、スポーツ少年団の指導も学校の先生がすべて行っていた。私は、時々お手伝いに行っていた程度なので、残念ながら三崎先生の記憶にはなかったようだ。
それでも、指導しておられた安田先生、義井先生、同級生のチョウ君のことなど、ローカルな話題で盛り上がった。
こんな所で大原の話ができるとは、思ってもみなかった。
宮良校長先生もお元気そうで、私の好きな歯切れのいい話し方も健在だった。宮良先生は、沖縄独特の「・・・しましょうね」がない。話し方は、江戸っ子ぽい。沖縄ではめずらしい人だと思う。
午後から校長会があるとのことだったので、お昼前に先生とはお別れした。
正味4日間の旅行で、3人の校長先生とお会いした。鳩間小中の小山校長先生、船浮小中の崎濱校長先生、平久保小の宮良校長先生。
もし、私が今も現役の教師だったとして、このお三方の下で働くとしたら・・・
人間的に一番おもしろそうなのは、小山先生。一番しっかり働けそうなのが、宮良先生。何でも相談にのってもらえそうなのが、崎濱先生。
とにかく、三人とも尊敬できるすばらしい先生です。
(なんか、校長さんめぐりみたいになってしもたなあ。私何様? 教育委員会の視察でもあるまいに・・・。)
平久保小学校を出た後、せっかくなんで最北端の平久保崎へ行った。そこはとにかく、風がビュンビュンでこわかった。
ガイドブックにも載っている「明石食堂」さんが休みだったので、宮良先生ご推薦の「はまゆう」に食べに行った。
メニューは少なかったが、当店自慢のという「タコライス」を注文した。これが、意外とおいしかった。ぜひ、食べてみてください。
店の厨房のあたりを、小さな子が動きまわっていた。
あれっ、あの子、さっき平久保幼稚園にいた子とちがう? お昼やし、帰ってきたんかな。それとも、人ちがい?
どっちにしても、小さな子がいるだけで、その場がなごむ。大人だけ、年寄りだけの集落に未来はない。
どんなことがあっても、無理をしてでも学校は守ってほしい。それが、学校がなくなってしまった地区に住んでいた者の願いです。
効率ばかりが優先されて、ひとりひとりをしっかり見つめるという教育の基本が忘れられていく。
今まで小学校が担ってきた地域の文化センター的な役割も、忘れられていく。
「本当に、学校がなくなってもいいんですか?」
考えて考えて考えて、その上もう一回考えてみてください。お願いです。
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