2008年04月08日(火)
平久保小学校-やっと八重山5-(2月12日分) [沖縄・学校]
朝起きると、外は強風。
一応、「スカイアドベンチャーうーまくぅ」さんに電話してみた。
「今日は、ダメですよね。」
「はい。風が強くて。」
残念。ちょうど、平久保小学校の帰りに寄るのにぴったりだと思っていたのに。
ゆっくりゆっくり朝ごはんを食べた。
パラグライダー体験がボツになってしまったので、今日の予定は平久保小学校訪問だけになってしまった。
でもよく考えてみると、この旅行を平日まで延ばしたのは、平久保小学校を訪問し宮良校長先生に会いたかったからだ。本来の目的を忘れてはいけません。
フサキリゾートヴィレッジのすぐそばに、唐人墓があったので行ってみた。そこには、こんな説明が・・・
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。
そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還した。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の機運が盛り上がった・・・
(この歴史的事件については、まったく知りませんでした。)
平久保小学校は、石垣島の最北端に近い所にある。
宮良校長先生のご自宅は離島桟橋の近くだから、石垣島最南端。毎日、南北に長い石垣島を往復されている。船浮から石垣島に戻ったと思ったら、今度は毎日往復2時間のドライブらしい。
私たちが学校に着いたのは、10時半くらいだった。
すぐに校長室に通していただいた。先生方に「私のお友達の藤井さんです。」と紹介してしてくださった。
あいさつの後、宮良先生が最初に言われた言葉。
「奥さんのお疲れは、取れましたでしょうか?」
今回の旅行は、うちのヨメさんの疲れをやわらげるが目的ですと言っていたのをよく覚えていてくださったのだ。(さすが、です。)
その後、各教室を案内していただき、併設されている幼稚園も見せていただいた。
それぞれの学級は複式でも5名以下、幼稚園も2学年合わせて5名。学校の存続が危ぶまれているとのこと。
近くにたくさん牧場があるのどかな環境にある学校なのに、なくすのはもったいない。
4・5年複式学級の三崎先生とお話させてもらって、びっくりした。
三崎先生は京都出身ということで、詳しく聞いてみると・・・
私の教師生活のスタートが、大原小学校百井分校。その時、本校にいたのが三崎先生(三崎君!)。サッカーをすごくがんばってやっていたので、私は覚えていた。
当時、大原はサッカーが盛んで、スポーツ少年団の指導も学校の先生がすべて行っていた。私は、時々お手伝いに行っていた程度なので、残念ながら三崎先生の記憶にはなかったようだ。
それでも、指導しておられた安田先生、義井先生、同級生のチョウ君のことなど、ローカルな話題で盛り上がった。
こんな所で大原の話ができるとは、思ってもみなかった。
宮良校長先生もお元気そうで、私の好きな歯切れのいい話し方も健在だった。宮良先生は、沖縄独特の「・・・しましょうね」がない。話し方は、江戸っ子ぽい。沖縄ではめずらしい人だと思う。
午後から校長会があるとのことだったので、お昼前に先生とはお別れした。
正味4日間の旅行で、3人の校長先生とお会いした。鳩間小中の小山校長先生、船浮小中の崎濱校長先生、平久保小の宮良校長先生。
もし、私が今も現役の教師だったとして、このお三方の下で働くとしたら・・・
人間的に一番おもしろそうなのは、小山先生。一番しっかり働けそうなのが、宮良先生。何でも相談にのってもらえそうなのが、崎濱先生。
とにかく、三人とも尊敬できるすばらしい先生です。
(なんか、校長さんめぐりみたいになってしもたなあ。私何様? 教育委員会の視察でもあるまいに・・・。)
平久保小学校を出た後、せっかくなんで最北端の平久保崎へ行った。そこはとにかく、風がビュンビュンでこわかった。
ガイドブックにも載っている「明石食堂」さんが休みだったので、宮良先生ご推薦の「はまゆう」に食べに行った。
メニューは少なかったが、当店自慢のという「タコライス」を注文した。これが、意外とおいしかった。ぜひ、食べてみてください。
店の厨房のあたりを、小さな子が動きまわっていた。
あれっ、あの子、さっき平久保幼稚園にいた子とちがう? お昼やし、帰ってきたんかな。それとも、人ちがい?
どっちにしても、小さな子がいるだけで、その場がなごむ。大人だけ、年寄りだけの集落に未来はない。
どんなことがあっても、無理をしてでも学校は守ってほしい。それが、学校がなくなってしまった地区に住んでいた者の願いです。
効率ばかりが優先されて、ひとりひとりをしっかり見つめるという教育の基本が忘れられていく。
今まで小学校が担ってきた地域の文化センター的な役割も、忘れられていく。
「本当に、学校がなくなってもいいんですか?」
考えて考えて考えて、その上もう一回考えてみてください。お願いです。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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