2008年04月12日(土)
ブルガリアへの国際電話 [学校]
今日、二回、ブルガリアに電話した。中学時代の担任、中古賀先生に。
はじめは、昼の2時半(現地時間朝の8時半)。
「先生。やっとクラス会の案内状できました。これからぼちぼち動き出しますし。先生は、前言ってた5月18日だいじょうぶですよね。」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
「先生に送りたいもんいっぱいあったんですけど、今から送ったら入れ違いになりますかね。」
「そやなあ。帰るのが4月26日やから、日本に帰ってからもらうわ。」
「わかりました。楽しみにしててください。」
その後、百井と別所へ。
百井の林幸博君に、案内状4人分(百井分)を託す。
幸博君はすでに百井組3人に声をかけてくれていて、内2人はいい感触だったとのこと。さすが、言いだしっぺ。ちゃんと責任感持って動いてくれている。
うれしい。たのんまっせ、4人とも来てくれよー。
別所では、まず「小谷屋」さんへ。私のいなか花背別所町唯一の料理旅館だったのに、今は見る影もない。
しかし、同級生のよりちゃんの携帯番号はわかった。
小谷屋のおばさん、家に行ったら、ものすご喜んでくれはった。
「今年はえらい雪でなあ。だれも雪かきしてくれへんさかい、うらのガラス戸、全部割れてしもたわ。しょうがないし、私一回やってみたんやけど、すべって腰打ってしもてなあ。
こうちゃん、よう来てくれたなあ。頼定にも声かけたって。そら、喜ぶわ。」
小谷屋のおばさんとのやりとりで、おかしかったこと。
「あんたとこはええわなあ。みな、しっかりしてはっさかい。うちはあかんわ。頼定はふらふらしとるし、○○のとこもようヨメさんがしんぼうしとるわ。」
「そんなことないですって。外から見るのと中味は大ちがい。うちかて、いつヨメさんに逃げられるか、いつボクが追い出されるか、毎日ビクビクしながら生きてますねん。」
「そんなこんないやろな。」と言いながら、さっきまで暗かったおばさんの顔が、ぱっと明るくなっていた。
次は富雄君の親戚、高則さんとこへ。
「富雄君の連絡先わかったら、教えてほしいんですけど・・・。」
「わしゃ、知らん。家も売ってしもたらしいし、どこにおんにゃろなー。」
こら、しゃーない。何かほかの手を打たねば。
父に会い、由紀ちゃんの連絡先をさがす方法を聞いてみる。「別所には、親戚らしい親戚はおらん。」これも、しゃーないな。別ルートを探ろう。
家に戻り、もう一度ブルガリアへ国際電話。こっちの夜9時半(現地時間昼3時半)。
「先生、よりちゃんの連絡先わかりました。ボクはちょっと暗いイメージを持ってたんですけど、今日の声は明るかったですよ。この後すぐ電話したげてください。
ほか、百井組は・・・、富雄ちゃんは・・・、由紀ちゃんは・・・」
「いろいろとご苦労さんやなあ。」
「そんなん、全然。けっこう楽しんでやってます。」
「また、おくさんにおこられてんのんちゃうか。」
「えーとこ、つきますね。そのとおーり。 小谷屋のおばさんに、ボクもいつ追い出されるかビクビクしてますねんってゆうたら、大うけでしたわ。」
「そうかー。ははははは。(ブルガリアからも、高笑い)
バラのハンドクリームぎょうさん持って帰るし、それでかんにんしてもらい。」
「はい。よろしゅうお願いします。」
よっしゃー、これでなんとかクラス会の形が見えてきた。手動カメラでピントを合わせていく感覚。これ、好きなんや。
先生も楽しみにしてくれてはるれど、ボクはもっともっと楽しみです。さあー、14人中何人来るか。
これから先も、あらゆる手を打ちまっせー。
◎できあがった案内状は、以下の通り。
2008年4月吉日
花背第一中学校・1970年度卒業生の皆様へ
中古賀クラス会のお知らせ
花の色が美しい季節になりました。皆様いかがおすごしでしょうか。
すでにご承知かと思いますが、私たちの母校、花背第一中学校・別所小学校は昨年3月閉校となり、統合して花背小中一貫校となりました。現在暫定的に別所の校舎を使用していますが、来年春より花背第二中学校跡地に完成する新校舎に移転します。(別所から学校がなくなります。)
中学校卒業後37年がたち、私たちも50歳を越えました。
一昨年、PTAだよりの原稿の件で百井の林幸博君に会い、その時、中古賀先生とクラス会がしたいなあという話になりました。昨年3月、ブルガリアから一時帰国されていた中古賀先生に相談すると、たいそう喜ばれ、翌年5月にまた帰国するので頼みますとのことでした。(2月末、国際電話で先生の出席は確約していただきました。)
会場は、林幸博君ご一家が経営されている百井の地鶏料理店「とり幸」さんです。
交通の便が良くないところですが、百井のきれいな空気を思いっきり吸いに来てください。 当日、私(こうじ)はハンドルキーパーに徹するつもりですので、送迎は遠慮せずに申し付けてください。
記
日時 2008年5月18日 (日) 12時30分〜
場所 「とり幸」 (大原百井町、百井分校お向かい)
TEL 075-744-2252
会費 6000円 (当日、受付にて申し受けます)
幹事 藤井廣司 TEL 090-6989-2171
e-mail kikukouji@docomo.ne.jp
林 幸博 TEL 075-744-3044 (養鶏場)
075-744-2252 (とり幸)
※ 恐れ入りますが、4月30日までに電話(またはメール)にて幹事まで出欠をお知らせください。
(欠席の時は、中古賀先生へのメッセージを送ってください。責任を持ってお伝えします。)
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2008年04月11日(金)
「飼い犬に手をかまれる」にもほどがある [わんこ・にゃんこ]
うちの「きく」は箱入り娘である。
生後40日足らずでうちに来て、蝶よ花よと育てられたため、超わがまま犬になってしまった。
それでも元気ならええやんかと思っていたが、一つだけ困ったことがある。それは、カミカミぐせ。しっぽを振っていたかと思うと、突然こわいこわい顔になってかみつく。そら、あかんで。
特に「馬のつめ」をやった後、取り上げる時が大変。顔がデビル。動きは猛獣。
うちのヨメさんが、「パオパオは、かんでもええ」とかゆうから、本気でかみよる。
先週の木曜、左手の人指し指の下のへんをかまれた。血が止まらない。神経直撃か、手がジンジンしびれる。夜、痛くてなかなか寝付けなかった。
それがやっとましになったと思ったら、またかまれてもた。今度は右手。親指と中指の二か所。また、血が止まらん。また、神経直撃かい。
「飼い犬に手をかまれるアホがいる。」
「飼い犬に手をかまれて、寝られまへん。」
もうかんにんして、きくちゃん。
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2008年04月09日(水)
やっと八重山シリーズ総括 [沖縄]
夢の八重山旅行から、もう2ヶ月がたった。
4泊5日(実質4泊4日)の、仕事がらみでない旅行は本当に楽しかった。
「クーの毎日」のクーちゃんに会えただけで、今回の旅行の目的はほぼ達成と言っても過言ではない。マラソンの日と翌日のエコツアーと、2回も会えた。もうそれが、うれしくてうれしくて・・・。テレビや映画でしか見られなかったスターに会えたような、そんな感覚。
クーちゃんは、世界で2番目にかわいいワンちゃんです。(もちろん1位は、うちの「きく」)
それ以外の目的も、だいたい思い通り。
「やまねこマラソン」は雨の中をしっかり走ったし、「船浮小中学習発表会」もしっかり見れた。
「鳩間」には行けなかったけれど、マラソン会場で古我知先生や小山校長先生に会えた。
「大浜中」のユニフォームの子を何人も見たので、入波平先生も来ておられたのかも。そうだとしたら、会えなくてちょっと残念。
「一希君」にお別れが言えなかったれけど、後で手紙を出したら返事が返ってきた。希望の高校に合格し、沖縄本島で元気に暮らしているようだ。
「宮良校長先生」の笑顔も見られたし、想定外の三崎先生にも会えた。
真樹がおすすめの「由布島」の水牛車も、ゆっくりと乗れた。めったに撮れないヨメさんとのツーショット写真も撮れたし。
私の「パラグライダー体験」とヨメさんの「豪華エステ」は、両方アウトやったけど、これはもともとおまけみたいなもんやったから、まあいいか。次のお楽しみに取っとこ。
旅行前のうちのヨメさんの鬼嫁度を10とすると、旅行中は1、帰ってきた直後が2か3、そして現在は・・・残念ながら8か9です。(だいぶ戻ってしもた。)
「来年も、また行こな。」と言っても、「だれが、行くかー。」とか言っていたが、最近は、「暖かかったら、行ってもええかな。」と微妙に変わってきた。
まだ10ヶ月もある。ねばり強く、ヨメさんを説得しよう。
★羽根田治さんの「極私的鳩間日記」4月5日の記事より。
家に帰って古我知先生から留守電が入っていることに気付く。折り返し電話してみると、セイジとケーコ先生が引っ越したばかりの新居にやってきて4人で飲んでいるところだった。みんなけっこう酔っ払っているようで、楽しそうな雰囲気が受話器を通して伝わってくる。昨夜、先生からは「入籍しました」という連絡を受けたばかり。末永くお幸せに。
◎やまねこマラソンで古我知先生にお会いした時、「4月に本島の学校に異動になります。」と教えてくださった。その時、ちょっと口元がゆるんでいたので、「結婚しやはんのんちゃう?」とヨメさんと言ってたのだが、本当にそうだった。おめでとうございます。古我知先生らしい楽しい家庭を築いて行ってください。
今度の学校にも、おじゃましてもいいですか?
また、沖縄に行く理由が一つ増えた。私もヨメさんも、古我知先生の大ファンですから。
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2008年04月08日(火)
平久保小学校-やっと八重山5-(2月12日分) [沖縄・学校]
朝起きると、外は強風。
一応、「スカイアドベンチャーうーまくぅ」さんに電話してみた。
「今日は、ダメですよね。」
「はい。風が強くて。」
残念。ちょうど、平久保小学校の帰りに寄るのにぴったりだと思っていたのに。
ゆっくりゆっくり朝ごはんを食べた。
パラグライダー体験がボツになってしまったので、今日の予定は平久保小学校訪問だけになってしまった。
でもよく考えてみると、この旅行を平日まで延ばしたのは、平久保小学校を訪問し宮良校長先生に会いたかったからだ。本来の目的を忘れてはいけません。
フサキリゾートヴィレッジのすぐそばに、唐人墓があったので行ってみた。そこには、こんな説明が・・・
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。
そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還した。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の機運が盛り上がった・・・
(この歴史的事件については、まったく知りませんでした。)
平久保小学校は、石垣島の最北端に近い所にある。
宮良校長先生のご自宅は離島桟橋の近くだから、石垣島最南端。毎日、南北に長い石垣島を往復されている。船浮から石垣島に戻ったと思ったら、今度は毎日往復2時間のドライブらしい。
私たちが学校に着いたのは、10時半くらいだった。
すぐに校長室に通していただいた。先生方に「私のお友達の藤井さんです。」と紹介してしてくださった。
あいさつの後、宮良先生が最初に言われた言葉。
「奥さんのお疲れは、取れましたでしょうか?」
今回の旅行は、うちのヨメさんの疲れをやわらげるが目的ですと言っていたのをよく覚えていてくださったのだ。(さすが、です。)
その後、各教室を案内していただき、併設されている幼稚園も見せていただいた。
それぞれの学級は複式でも5名以下、幼稚園も2学年合わせて5名。学校の存続が危ぶまれているとのこと。
近くにたくさん牧場があるのどかな環境にある学校なのに、なくすのはもったいない。
4・5年複式学級の三崎先生とお話させてもらって、びっくりした。
三崎先生は京都出身ということで、詳しく聞いてみると・・・
私の教師生活のスタートが、大原小学校百井分校。その時、本校にいたのが三崎先生(三崎君!)。サッカーをすごくがんばってやっていたので、私は覚えていた。
当時、大原はサッカーが盛んで、スポーツ少年団の指導も学校の先生がすべて行っていた。私は、時々お手伝いに行っていた程度なので、残念ながら三崎先生の記憶にはなかったようだ。
それでも、指導しておられた安田先生、義井先生、同級生のチョウ君のことなど、ローカルな話題で盛り上がった。
こんな所で大原の話ができるとは、思ってもみなかった。
宮良校長先生もお元気そうで、私の好きな歯切れのいい話し方も健在だった。宮良先生は、沖縄独特の「・・・しましょうね」がない。話し方は、江戸っ子ぽい。沖縄ではめずらしい人だと思う。
午後から校長会があるとのことだったので、お昼前に先生とはお別れした。
正味4日間の旅行で、3人の校長先生とお会いした。鳩間小中の小山校長先生、船浮小中の崎濱校長先生、平久保小の宮良校長先生。
もし、私が今も現役の教師だったとして、このお三方の下で働くとしたら・・・
人間的に一番おもしろそうなのは、小山先生。一番しっかり働けそうなのが、宮良先生。何でも相談にのってもらえそうなのが、崎濱先生。
とにかく、三人とも尊敬できるすばらしい先生です。
(なんか、校長さんめぐりみたいになってしもたなあ。私何様? 教育委員会の視察でもあるまいに・・・。)
平久保小学校を出た後、せっかくなんで最北端の平久保崎へ行った。そこはとにかく、風がビュンビュンでこわかった。
ガイドブックにも載っている「明石食堂」さんが休みだったので、宮良先生ご推薦の「はまゆう」に食べに行った。
メニューは少なかったが、当店自慢のという「タコライス」を注文した。これが、意外とおいしかった。ぜひ、食べてみてください。
店の厨房のあたりを、小さな子が動きまわっていた。
あれっ、あの子、さっき平久保幼稚園にいた子とちがう? お昼やし、帰ってきたんかな。それとも、人ちがい?
どっちにしても、小さな子がいるだけで、その場がなごむ。大人だけ、年寄りだけの集落に未来はない。
どんなことがあっても、無理をしてでも学校は守ってほしい。それが、学校がなくなってしまった地区に住んでいた者の願いです。
効率ばかりが優先されて、ひとりひとりをしっかり見つめるという教育の基本が忘れられていく。
今まで小学校が担ってきた地域の文化センター的な役割も、忘れられていく。
「本当に、学校がなくなってもいいんですか?」
考えて考えて考えて、その上もう一回考えてみてください。お願いです。
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2008年04月06日(日)
第24回日本平桜マラソン [ランニング・出張販売]
いつもレースのスタート前、自分なりに今日のテーマを決める。
今日は天気もよく、春らしい絶好のコンディション。東京から近いこともあり、女性の参加者も多い。ランスカランナーが多いかも。ブログに載せられないかなあ。
23.4kmの部のスタートはかなり込んでいた。
1km過ぎくらいから、だらだらとした上りが始まる。
小さな川沿いに見たこともない桜が。なんと、一本の木からいろいろな色の桜の花が咲き乱れ・・・。
もうすこし進むと、日本平動物園。ここは、大会前日、家族4人で何回も行った。山の上の爬虫類館に行き、スーパースライダーですべって降りてくる。これがおもしろかった。 ハイエナの「星」くん、元気にしてるかな。子どもがついて来なくなっても、動物園は行きたいな。
3km過ぎくらいから、前を行くランスカランナーに追いついてきた。
「写真、撮らせてもらっていいですか。」とか、「ブログに載せてもいいですか。」とか声をかけたかったのだが、できなかった。一番の原因は、その表情の険しさである。
何人ものランスカランナーに追いつき声をかけようとしたが、みんな厳しい顔だった。
上り坂が延々と続くのだから、あの表情も無理もない。ただ、ランスカはまわりの注目をあびているのだから、もうちょっとにこやかに走ってほしいと思った。私が見たかぎりでは、みなさんランスカが似合っていただけに、よけい残念。
10km手前、山の頂上付近。ランナーにタッチして応援されている人がいた。近づくと、テレビカメラと音声マイク。
「あっ、パッション屋良さん。」ウェストバッグからデジカメを取り出し撮っていると、向こうから話かけられた。
「すごいですね。カメラを持って走ってるんですか。」
「はい、いつも。」
「今日の調子は?」
「はい、バッチリです。」
そこを過ぎると、後は下り。足がスイスイ前に出る。
ぱっと目の前に広がる駿河湾。そして、その向こうに真っ白な富士山。
その時、急にある人のことが頭に浮かんだ。
「高石てるえさんが、ここを走れるようになったらいいのになあ。きっと、きれいな富士山を見て喜ばはるやろなあ。」
ガンと戦っておられる高石ともやさんの奥様。勝手に応援したいけど、迷惑かな。マラソン大会で応援メッセージを身に着けて走る、というのはどうやろう。絶対使ったらあかん言葉は、「がんばれ」やね。
「いっしょに走ろう、高石てるえさん」
「しっかりにっこり、高石てるえさん」
「待ってます、高石てるえさん」
こんなとこで、どうでしょう。
そんなことを考えながら走っていると、もう大通り。もう15km地点。
だいぶ前に23.4kmの部に出たが、ゴール前、渋滞の車の排気ガスを吸いながら走ったといういやなイメージが残っていた。それは、最後の2kmくらいだと思っていたが、後8km以上。
こんな長かったっけ?
ただ、前よりは車が少ないようにも思う。
しかし、排気ガスよりも気になりだしたことがある。山下りでスピードアップしたため、2時間切りの可能性が出てきた。残り5kmくらいからは、かなり、前のランナーを抜いた。
残り1kmくらいからは、もう時計を見る余裕もなく、最後は息絶え絶えのゴール。うーん、2時間ちょっと越えてもたー。くやしー。
とその時、「キャロットさん、後でお店行きます」の声。
「あっ、馬杉さん!」
ああ、こんなところにランスカ美人が。最後の最後に追い着いたようだ。
馬杉さんは、元kappa社員で現役ウルトラランナー。今は退職されて他の仕事をされているが、今もうちの通販を利用していただいている。
私が知っているウルトラランナーの中で一番の美人です。うちのヨメさんいわく、「あんなきれいな人やのに、何が彼女をウルトラに駆り立ててんのかなあ。」
別に、人は何かつらいことがあってウルトラに走っているのではないと思うんですが・・・。
馬杉さんのゴールタイムを聞いて、ビックリ! 2時間0分18秒。なんと、私と同タイム。
「2時間切れへんかった二人ということで、いっしょに写真を」 うまいことお願いできました。
もちろん、撮影役はうちのヨメさん。トイレに行くひまもなく一人で働いていたのに、やっと帰って来たと思ったら、「写真撮って」てか? そら、怒るのも無理もない。ごめんね。
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2008年04月03日(木)
西表島観光-やっと八重山4-(2月11日分) [沖縄]
今日は、初めて普通の観光日。
カンピラ荘でゆっくり朝ごはんを食べた後、バスで由布島に向かった。
バス停近くのお店に張り紙がしてあった。「ニラカナイ宿泊のお客様は、お断りします。」
やまねこマラソンに参加が決まった時、「ニラカナイに泊まろうか」と思ったこともあった。しかし、前に見た道路沿いの「ニラカナイ反対!」の看板が気になっていた。
ネットで調べると、たいへん問題のあるホテルであることがわかった。自然破壊との理由から多くの反対があり、それを押し切って建設されたホテルだった。確かに、人口2000人ちょっとの島に、あのホテルは似合わない。きれいな浜も破壊されたそうだ。
泊まらなくてよかった。
今度はバスに乗り遅れず、無事由布島に着いた。
途中、山の合間にきれいな滝が見えた。あれが有名な、なんたらの滝か、そばまで行ってみたいなあ。
今度、よんなぁよんなぁさんお願いします。
私は3回目の由布島。もう、ベテランです。
水牛がゆったりゆったり。もうそれだけで、ヨメさんは大満足です。牛がかわいくてかわいくて。ツーショット写真はめったにないので、島でモデル水牛といっしょに撮ってもらいました。かえりの水牛はかなり」ゆっくりで、後ろからきた別の水牛に抜かれていた。おまけにかなり斜行しており、これは競馬なら失格です。おもしろい。何回乗っても飽きません。
由布島からまたバスで、大原港へ。
水中観光船「うみえーる」が目当て。受付で聞いてみると、4人以上集まらないと船は出ないとのこと。そこらにいる人に向かって呼び込みをやろうとしたが、「かっこ悪いし、やめ」とヨメさんにしかられた。
仕方がないので、近くのスーパーでも行くことに。その間に人が来れば出航できるかもしれない。
スーパーの帰り、口のまわりが真っ黒のワンちゃん発見。きくのちっちゃい時によう似とる。
「きくちゃーん、元気にしとるかい。」
よそ様の庭先で、勝手に写真を撮ってきた。
スーパーから戻ると、もう一人お客さんが増えて合計3人。これで出航してもらえることになった。(これは赤字覚悟ですな。) 沖のほうに行くと、日本最大級のさんご礁。こりゃ、すごい。
腹ばいで見てくださいとすすめられたのでそうすると、ちょっと船酔い。ヨメさんは、かなりしんどそうだった。
この船は酔いやすい。気をつけて。
大原港に戻った時、石垣行きの船が出そうになっていた。「うみえーる」の帰りが少し遅れたからだ。(ちょっと長めのサービス?)
こちらの船の方が、指笛でむこうの船に知らせてくれた。それで気づいてもらって、なんとか乗ることができた。あぶなかった。
石垣に着くと、まず公設市場のある商店街に行った。ここは京都で言うと、出町? 大宮? いやいやもっとごちゃごちゃした、いい感じの通りです。うちのヨメさんは、こうゆうとこが大好き。
公設市場のトイレで、横から声が。
「おとつい、西表におられましたよね。」
「はい。」
「犬のTシャツ着ておられたから、よく覚えてるんです。」
確かに、きくちゃん顔でかでかトレーナー着てましたけど。声をかけてくださったあなたは、だれ?
そこでいろいろおみやげを買い、タクシーでホテルに向かった。
今日のホテルは、フサキリゾート。コテージ風の建物がいくつも並んだ、ちょっとかわったホテル。
ここで、ヨメさん念願の高級エステを予約しようとしたが、すでにいっぱいで断念。残念!
気を取り直して、創作島料理「ゆんたく」へ。
ここはよかった。めったに食べられないナポレオンフィッシュを食べ、その後は石垣牛のコース料理。やわらかくて、おいしかった。
お店の従業員さんも感じがよく、楽しそうに働いておられるのがよかった。料理を運ぶ女の人がすごく日に焼けているように見えたのが、気にはなったけど。(なんぼ沖縄ゆうても、今2月やし・・・。)
外は、パラパラと雨。
いろいろありましたが、まずまずゆっくりできた一日でした。
(注)デジカメのバッテリー切れのため、2枚目以降の写真はヨメさんの携帯で撮ったものです。
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