2012年03月02日(金)
嗜虐的愉楽 [時事]
◎毎日新聞2月28日夕刊
特集ワイド:日本よ!悲しみを越えて <この国はどこへ行こうとしているのか>
◇性急な単純化が怖い−−中島岳志さん(37)
<多弁という失語状態>
震災後のこの国に漂う空気を近著でこう表現した。
「言論のスパンがすごく短くなってきましたよね」
スケジュールの詰まった東京滞在中、トークイベントの会場から駆けつけてくれた中島さんは、疲れも見せずに語り始めた。抹茶のわんを前に、言葉一つ一つを確かめるように。
「ツイッター社会というのか、何か起きたら瞬間的に反応して、気の利いたことを言う。すると、(他のユーザーがその言葉を拡散させる)リツイートがいっぱい発信される。ところが、そうした言葉も1週間後にはもう古くなってしまう。断片的熱狂のような状態。もう少し立ち止まって考えなければいけないことが、いろいろあるはずです」
3・11から間もないころ、「死者との出会い」について記した文章を発表した。「がんばれ」の洪水は、実は被災者を追い詰めているのではないか。その違和感から出発してつづった一文だった。死は喪失ではなく、死者となった他者との出会いでもある−−そんな思いを込めた。
「僕自身の経験ですが、編集者だった友人が亡くなった後、文章を書き飛ばしている時などに、自分の観念の中に彼が現れることがあるんです。『こんな文章でいいのか』と僕自身、彼のまなざしを通じて自己と対峙(たいじ)している」
死者となった人との間に生まれる、生前とは違う関係性。死とは、その人を失ったというだけではなく、出会い直しもしているのではないか。中島さんはそう考える。
「それは、僕たちがよりよく生きること、自分をごまかさず向き合うことを要求するような出会いです。大切なのは、そうして死者と一緒に生きることじゃないかと思ったのです」
未来のことばかり考えるのではなく、死者を思うことで落ち着いて生きられるのではないか。そのメッセージは静かに被災地に広がっていった。
もうすぐ震災から1年。被災地の未来と復興がさまざまに語られる一方で、大きな進展のない現実に対する世の不満も高まっていく。中島さんの目には、震災がこれまで日本が抱えていた問題をあらわにしたと映る。「震災によって何かが始まったというのではなく、日本の弱い部分が露呈したのだと思います。構造自体は何も変わっていない」
危惧しているのがシニシズム(冷笑主義)だ。「地震によって、政府への信頼が異常な形で地に落ちた。福島第1原発事故では、東電の出すデータも信頼性がない。御用学者、原子力ムラという言葉がはやったように、アカデミズムもだめ、大手メディアも信用できない、となった」。自分で放射線量を測定したり、情報の真偽を見極めなければならない「究極の自己責任社会」。増大する不安の中で一人一人が疲弊し、欲求不満を募らせる。
「そうした時、シニシズムがさらに加速し『救世主待望論』へとつながってくる」。ごちゃごちゃ言わずに決断する政治家を、バシッと大ナタをふるってくれる指導者を−−そういえば、そんな論調が震災後、明らかに目立ってきている。「たとえば橋下徹・大阪市長。彼はそういう社会に適応した人で、出るべくして出た言論、出るべくして出た政治家という印象があります」
この「橋下的」政治手法に批判的な論者の一人でもある中島さん。みんなが感じている「いらいら」や「閉塞(へいそく)感」が「橋下的」なものへと向かうメカニズムをこう解説する。「彼はイデオロギーの政治家ではない。左とか右ではなく、既得権益バッシングなんです。ちょっと楽をして得していると見えてしまう人を徹底的に引きずりおろす。彼が与えるものは具体的利益ではなく、嗜虐(しぎゃく)的愉楽ですよね」
敵と味方という対立構造をつくり、相手をたたく。そうした手法への違和感は、今の原発をめぐる議論にも感じている。
今回の事故以前から原発には否定的で、反原発デモへの参加もするという中島さんだが、単純な「東電糾弾」論にはくみすることはできないと言う。「原発の問題も、敵がどこかにいて、『あいつらが悪いから自分たちが脅かされている』というような話ではないはず。原発を稼働させてきたのは自分たちの欲望だと思ってみないと、東電の人にも話が通じない」
確かに、電力を大量に消費する社会で、その利便を享受してきた自分たちがいる。だが、それはある種の「一億総ざんげ」論に行きついてしまうのでは?
そう問うと、中島さんはイラン情勢に話題を転じた。封鎖が取りざたされるホルムズ海峡。日本が輸入する原油の8割がここを通る。「本当に封鎖されると原油は入ってこなくなる。現実にこれまでの生活水準が保てなくなった時、反原発の世論は一気に反転して『原発動かせ』になると思う。僕が反発したいのは、そういう世論なんです」
電気がないと全てが動かないような社会に対して一定の批判を持ち、その中で生活している自分を直視すること。それは今の文明に対する根源的な問いでもある。「東電の人たちも、停電のない日本をつくろうと頑張ってきた。そのプライドを認めたうえで、だけど未来に向けてどういうことがあり得るのかを一緒に考えましょうと言わなければ。はなから敵だとみなして突っかかってくる人と真面目に話そうとは彼らも思わない。どう喝では駄目なのです」
図式的な対立構造を作って「敵」を攻撃する言説は、何も政治家だけのものではない。テレビにも雑誌にも、そして新聞にもあふれている。自身が編集委員を務める「週刊金曜日」にも「現場に行く前から結論が存在しているルポ」などと厳しい評価をする中島さんに、今のメディアが抱える問題点を尋ねると、「分かりやすさという名の単純化」を指摘した。「人間はすごく複雑だから、それをできる限り多くの人が使える言語の形で丁寧に書くこと、これが分かりやすさだと思う。ところが、メディア、特にテレビでは『AかBか』みたいな二者択一型言語になっている。あれは分かりやすさじゃなくて単純化です」
賛成か反対か。やるのかやらないのか。閉塞状況に駆り立てられるように性急に結論を求め、単純なストーリーに当てはめて、何かを描こうとしていないだろうか……。羽田発の最終便で北海道に帰る中島さんを見送りながら自らに問うた。【井田純】
■なかじま・たけし 1975年生まれ。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。「中村屋のボース」で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞。近著に「世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ」。
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私が持っていた話題のあの人のイメージは、「下品さの極致」、「エセ右翼」、「私憤を晴らす人」・・・。うーん「嗜虐的愉楽を追求する人」、これは思いつかんかったなあ。(嗜虐的愉楽とは残虐なことを楽しむことらしい。)
「彼はイデオロギーの政治家ではない。左とか右ではなく、既得権益バッシングなんです。ちょっと楽をして得していると見えてしまう人を徹底的に引きずりおろす。彼が与えるものは具体的利益ではなく、嗜虐(しぎゃく)的愉楽ですよね」
なんで、「ちょっと楽をして得してると見えてしまう」ような人を徹底的に攻撃して、なにもせず大きな得をしている人は攻撃せず仲良くしてるんかなあ。
けっきょくあの人は、政財界のただの「パシリ」か・・・。
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【RUN】
今日はちょっとだけアレンジ。
まずは3km、14分49秒。
1kmスロージョグをはさんで、1km全力。バス通りのアンパンマンの看板から北稜高校バス停前まで。ゆるやかな下り。
3分58秒、合格!
今はこれくらいで走れたらいいでしょう。
ゆるやかな上り1km、6分11秒。これにスロージョグ1kmをプラスして、今日は7km。
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2012年02月21日(火)
3種類の怒り [時事]
◎京都新聞2月19日朝刊
「オギャーは怒りの表れ」
精神科医・名越さん、南丹で子育て講演
精神科医の名越康文さんの「子育て応援講演会」が18日、南丹市園部町の国際交流会館で開かれた。心理学や精神医学の視点から「赤ちゃんはものすごく怒っている」などと解説し、市民ら約70人が、こころや子育てについて理解を深めた。
安心して子どもを育てる環境をつくる取り組みとして、南丹市が主催した。「ほめる育児のすすめ 子育ての処方箋」がテーマ。
名越さんは「赤ちゃんが泣くのは悲しいからではない。実は怒っているんです。オギャーは怒りの表れ。泣くと、お母さんがなんでもしてくれる。怒って人を動かすのは、赤ちゃん」と、ソフトな語り口で説明した。
「怒りには3種類ある。イライラやムカッとした思い、恨みや怒りが原因となる暗さ、人をバカにする軽蔑です。怒りは子育てに直結する。これら三つの怒りに予防線を張り、制御できる子どもに育てることが大切」などと指摘し、参加者は熱心に聞いていた。 (二松啓紀)
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「ふーん、ふむふむ、この講演聞きたかったなあ。」
と言っても、格別子育てに興味があるわけではない。この記事を読んで、維新の会の市長のことを思い出したからだ。
あの人への批判が次々と出ているが、どれもみな似たり寄ったりで目新しいものはない。なぜあんなに下品で執拗なのかを分析されている方はない。それにはどうしても生育歴に触れなければならず、そこには差別にかかわる問題が発生してしまう。だから、みなさんそこは避けて通っておられるようだ。
しかし、選挙演説中、「オヤジがヤクザで何が悪い。けっこう毛だらけ」と言っていたときの彼の顔はあわれだった。自分の父親のことを「けっこう毛だらけ」と茶化したようにしか表現できないなんて・・・。
彼の三つの怒りは、自殺したと言われる父と、何でもしてくれたであろう母と、一浪して私立大学にしか合格させられなかった教師に向けられているような気がしてならない。
私は知事時代の彼より、茶髪サングラスで「チンピラ弁護士」として売っておられたときの印象が強い。「弁護士にまでなってここまでして目立ちたいと言うことは、誰かにアピールしてるんやろうなあ」と思っていた。あれは、自分を捨てて死んでしまった父への慟哭だったのだろうか。
彼のふだんの表情を見る限り、ほおっておけば凶悪犯罪に走りかねないような面も感じられる。それを自分でも分かっておられるのではないだろうか。だから、わざと人の目を引くような発言をくり返し、自分の存在感を確かめつつ生きているような気もする。彼にはそこしか居場所がないのだ。
これに対するには、名越先生がおっしゃるように「怒りに予防線を張り、制御できる子どもに育てることが大切」。まあ、彼は子どもではないけれど、私たちはそんな気持ちで対処していくのがいいのかもしれない。
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【RUN】
今日もいつもの5kmコース。
行き13分56秒、帰り14分33秒で28分30秒。
今日は体が重かった。ストーブの前でゴローンと寝ころびたい気分。
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2012年01月17日(火)
憲法19条 [時事]
◎京都新聞1月17日朝刊 (1面のメイン記事ではなく、28面の関連記事より)
日の丸・君が代判決
現場の萎縮くい止め 原告評価、無念さも
「処分に一定の歯止めをかけた」。16日、最高裁で停職が取り消された元教諭は記者会見で胸を張った。学校行事で君が代斉唱時の不起立などをめぐる処分取り消しを求めた訴訟。一方、過去の卒業式の行動から同じ停職でも敗訴が確定した原告は無念さを訴えた。
停職処分が取り消された元教諭河原井純子さん(61)は東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、今も続く東京都教育委員会による処分を意識して「現職の人たちの背中を押せた。萎縮している現場で停職への歯止めになる」と評価。職務命令違反3回で免職とする大阪府の教育基本条例案に対しても「暴走にブレーキがかけられるはず」と期待した。
判決は補足意見で都教委を強く批判。減給処分が取り消された元教諭の渡辺厚子さん(61)も「処分の累積は許さないという判断が示されたことは大きな勝利」と笑顔を見せた。
ただ、判決直後、最高裁前で原告団が掲げた幕の文字は「分断判決」「一部勝訴」。過去に国旗を引き降ろしたなどとして停職取り消しが認められなかった元教諭根津公子さん(61)は「子どもたちの教育を考えての行為だった。裁判官にその思いが届かなかったことは非常に悔しい」と肩を落とした。
職務命令の精査必要 右崎正博・独協大放火大学院教授(憲法)
実際には行事の進行になんら妨げにならないにもかかわらず、起立や斉唱など出す必要のない職務命令が、従われないことを承知の上で発せられ、個々の教員の思想・良心があぶりだされている。憲法19条が保障する思想・信条の自由は基本的人権の根底に位置付けられるべきものだ。職務命令に合憲判断を示しているのは承知しているが、最高裁はこの裁判を処分の程度問題に矮小(わいしょう)化せず、もう少し正面から取り上げるべきだ。職務命令の発せられ方を憲法的な観点からもう一度精査する必要がある。
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独協大学の先生、ええことゆうてはんなあ。
すべての判決は、日本国憲法に照らし合わせて出されるべきものである。思想・良心の自由は、憲法19条やったんや。ちゃんと覚えとこ。
「日の丸・君が代」の強制は、日の丸・君が代を好きな人たちがしているわけではない。教師集団を分断する道具の一つとして使っているだけのことである。本当に日の丸・君が代が好きな人は、道具として利用されているこんな状態に憤るべきである。
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【RUN】
明るいうちに、いつもの5kmコース。
行き11分49秒、帰り12分07秒で23分56秒。思っていたより速く走れた。あちこち痛い割には好調。
暗くなってから3kmコース。
14分44秒。今度は思っていたより遅かった。やっぱり明るい時に走ったほうがいいみたい。
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2011年12月20日(火)
きづな? [時事]
◎毎日新聞12月11日朝刊 「時代の風」より
時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環
◇自由な個人の連帯こそ
3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に「絆」がある。「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「こだまでしょうか」といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。
確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。
しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。
語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。
訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。
おそらく「絆」には、二つのとらえ方がある。家族や友人を失い、家を失い、あるいはお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷につなぎとめるもの。個人がそうした「いとおしい束縛」に対して抱く感情を「絆」と呼ぶのなら、これほど大切な言葉もない。
しかし「ピンチはチャンス」とばかりに大声で連呼される「絆を深めよう」については、少なからず違和感を覚えてしまう。絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。
つながりとしての絆は優しく温かい。利害や対立を越えて、絆は人々をひとつに包み込むだろう。しかし、しがらみとしての絆はどうか。それはしばしばわずらわしく、うっとうしい「空気」のように個人を束縛し支配する。たとえばひきこもりや家庭内暴力は、そうした絆の副産物だ。
もちろん危機に際して第一に頼りになるものは絆である。その点に異論はない。しかし人々の気分が絆に向かいすぎることの問題もあるのではないか。
絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。これを仮に「絆バイアス」と名付けよう。
絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。たとえ社会やシステムに不満があっても、「社会とはそういうものだ」という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。そう、私には絆という言葉が、どうしようもない社会を前提とした自衛ネットワークにしか思えないのだ。
それは現場で黙々と復興にいそしむ人々を強力に支えるだろう。しかし社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない。
なかでも最大の問題は「弱者保護」である。絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが「家族の絆」にゆだねられてしまいかねない点だ。
かつて精神障害者は私宅監置にゆだねられ、高齢者の介護が全面的に家族に任された。いま高年齢化する「ひきこもり」もまた、高齢化した両親との絆に依存せざるを得ない状況がある。そして被災した人々もまた。
さらに問題の射程を広げてみよう。
カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインが提唱する「ショック・ドクトリン」という言葉がある。災害便乗資本主義、などと訳されるが、要するに大惨事につけ込んでなされる過激な市場原理主義改革のことだ。日本では阪神淡路大震災以降になされた橋本(龍太郎)構造改革がこれにあたるとされ、さきごろ大阪市長選で当選した橋下徹氏の政策も、そのように呼ばれることがある。
人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。
もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。批評家の東浩紀氏が言うように、本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。その上で私は、束縛としての絆から解放された、自由な個人の「連帯」のほうに、未来を賭けてみたいと考えている。=毎週日曜日に掲載
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「絆」という言葉がよく使われるようになった時、自分なりに語源を考えてみた。「傷をなめあう仲」から来たんかなと思ったり・・・。それほど、「きずな」と「きず」は近い関係にあるのだと勝手に思い込んでいた。その「きずな」という言葉を聞くたびに「きず」を連想してしまって、痛い感じがしてあまり好きな言葉ではなかった。
話はぐーんとそれるが、小柳ゆきの名曲「あなたのキスを数えましょう」を知っておられますか。私は、「キス」のところをずっと「きず」だと思い込んで口ずさんでいました。「あなたのキズをかぞえましょう・・・、ああなんて痛々しい名曲なんやろう」と感慨にふけりながら・・・。アホでしょ。
でも、「絆」は辞書によると「動物をつなぎとめる綱」からきた言葉だそうだ。そうか、「木につなぐ綱」なんか。(それなら、もともとは読み仮名は「きづな」だったのだろうか。)そういう意味やったから、この言葉が好きになれへんにゃね。
20000パーセントの強制はまっぴらごめん。
私は協調性0パーセントに近い人間です。
「絆、絆」と言う人は、綱につながれたまま死んでいった動物のことも思い出してほしい。
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2011年11月29日(火)
大阪ダブル選・私の分析 [時事]
◎ ohara1095さんとhinemoさんのツイッターより(上から古い順)
hinemo hinehine
もうこのままではどうにもならない、窮状を産み出した既存の勢力では変えられないではないか、少々乱暴であろうがグレーであろうが本当に変えてくれそうな人に託すしかない、そういった感覚を持つ市民の期待の受け皿が必要。橋下さんが潰れるだけだと政治離れが加速しそうです。@ohara1095
11月7日 お気に入りに登録 リツイート 返信 返信 ↑
@ohara1095
おっはー(小原明大) @hinemo どちらにせよ、期待している対象が「偽り」や「虚像」ではダメなのです。もの言えぬ公務員、ついてゆけなければ切り捨てられる子ども・・・それを否定した先に切り開きたい展望をいかに具体的にイメージして伝えられるかが問われています。
@ohara1095
おっはー(小原明大) @hinemo いま、期待を集めるために劇場型で感情に訴えて何でも身も蓋もなくやらなくてはならないような現状こそ何とかしたいと思うんです。日本中のみんながこんなことやり出したらどうなるかと思います。議会改革とかなんて吹っ飛んでしまう。
@hinemo
hinehine 橋下さんの件。窮状の責任者でもある既成政党・勢力の「改革」じゃ埒があかない、っていう空気の中で、市民が「独裁」を求めている事を理解しないで、つまらない批判をいくらやってダメ。本質的な所で説得力のある訴えをしないと、たとえ非橋下勢力総掛かりでも勝てやしない。
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私の大好きな小原明大さん(前長岡京市議)のツイッターは、ほぼ毎日のぞいている。11月4日に党の推薦候補が立候補辞退を発表したことについてはどう説明されるのだろうと注目していた。11月7日のつぶやきを見たときはさすがだと思った。
端的に言えば、「独裁批判ではなく、期待にこたえる具体的な展望を示そう」ということだろう。もっと言えば、「独裁批判はムダ」とまで言ってもいいかもしれない。
私の姉は長岡京市の保育士だが、「小原君のいいところは、はっきりとした数字を調べてきて誰にでも分かりやすく説明してくれるところ」だそうだ。そういう意味で、今回の大阪ダブル選の反維新側の敗北は「はっきりとした数字を出して、具体的な展望を示す」ことができなかったからかもしれない。
新聞の選挙結果の分析は、まったくおもしろくない。
「今まで選挙に行かなかった若者が、維新側候補に投票しに行った」というのがほとんど。
甘いね。分析が甘すぎる。
私の知り合いで絶対に選挙に行かない人がいるが、その人が行かない理由は「何の得にもならないから」である。選挙に行ってクーポンがもらえるわけでもなく、ポイントがたまるわけでもなく・・・。若者が皆そうだとは言わないが、その考えに近い人は多いと思う。
具体的イメージがわきにくい「大阪都」の連呼しかしてない候補者に投票しに行きますか。アホらしもない。「大阪都実現したら、阪神戦はタダ」とかゆうたら行ったかもしれんけど・・・。
「真剣に反維新側の候補を応援していた議員は少数で、実際は次の選挙のことを考えて裏で維新側候補の応援をしていた」というのが実情ではないだろうか。
橋下氏は悪徳商工ローンの顧問弁護士をされていたそうだから、人の弱みに付け込む術も身につけておられるだろう。議員にとって最大の関心事は次期選挙での自分の当落である。そのへんを脅されたら、裏で動きまわる議員はいくらでもいそう。そしてその議員さんらが、選挙違反すれすれの買収まがいのことやってたら票は伸びますでー。
大阪の選挙の真っ最中に、次期衆議院選挙の候補者の発表をしている党もあるくらいだし・・・。出口調査で各政党の支持者がどっちに入れたかの割合を出していたが、あんなもん正直に答えますか。衆院選の候補者を発表したその党の支持者は、反維新側がやや多いということになっていたが、信じられん。だいぶ裏で暗躍した気がしてならん。
また、これはどこも報道していないが・・・。
選挙期間中に話題をさらったニュースが2つあった。
1つは、「ナベツネ」事件。ああ、「独裁者」にピッタリの風貌。候補者自身が、「こんなかわいい独裁者がいますか」と言っていたが、ナベツネ氏よりはましと思った人も多かったかも・・・。
あの告発は日本シリーズのさなかに行われたと言うより、大阪で独裁者が議論されているさなかに行われたと言ったほうがいい。選挙の結果に多少の影響があったと思われる。
もう1つは、「大王バカ息子」事件。
「実の父が暴力団? けっこう毛だらけ。今の権力構造を変えるには、坊ちゃん、お嬢ちゃんじゃできませんよ」とは候補者本人の言葉。
100億円以上をカジノにつぎ込んだ、あのバカ坊ちゃんよりはましと思った人も多かったか。これも多少は投票行動に影響したと思うのだがどうでしょう。
しかし、実の父をこんなふうに語らねばならないのはかわいそうだった。身内に暴力団がいる場合、一切無関係でありたいと思う派と暴力団にもいい人がいると主張する派とに分かれる。彼はどっちだったのだろう。
これも知り合いから聞いた話だが、ある県では今でも票をお金で買うのは当たり前だそうだ。警察もそんな手柄にもならない下っ端の選挙違反など取り締まらないそうだ。
大阪はどうやったんやろう。現ナマは動かしたらバレバレやけど、物ならばれにくいし、地位や待遇の保障と引き換えならばれないと言っていい。
どう考えても、「大阪都構想」や「教育基本条例」ごときで若者が(初めて)選挙に行ったとは考えられへんにゃけど・・・。
ああ、それから橋下氏の知事時代の発言で唯一評価できるもの「沖縄の米軍基地を大阪に!」はどうなったんでしよう。知事を辞めたし、もうわしゃ知らんちゅうことですかね。「関空の横に米軍基地を」というのは、ただの思いつき発言だったんでしょうか。もしそうなら、沖縄県民を愚弄してます。まあ、これ一つを見てもいいかげんな人間であることが分かります。あー、こんな人が・・・。
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2011年11月22日(火)
大阪の教育基本条例案 [時事]
◎京都新聞11月22日 「視点2011」より
裸で放り出される若者層
「民意」が教員評価 ネガティブな感情を動員 中島岳志
橋下徹氏が率いる「大阪維新の会」が提出した「教育基本条例案」が議論になっている。その内容は多岐にわたるが、「教育への競争原理の導入」と「不適格教師の免職」が骨子となっている。
高校が“ネット”に
条例案では、大阪府立高校の学区制廃止とともに、3年連続定員割れとなった学校は統廃合の対象とすることが明記されている。
この条項は、「学力格差」の拡大が深刻な教育現場を直撃する。今年の府立高校入試で大幅な定員割れが起きた学校は、学力的な課題を抱えた生徒が多く通う高校に集中しているからだ。
しかし、高校はさまざまなかたちで、若者の重要なセーフテイーネットの役割を担っている。先日、大阪府立西成高校を取材したが、この学校には、家に自分の学習机がない生徒が半数以上おり、家庭環境の問題を抱える生徒が多いという。
近年、「貧困の連鎖」が問題化する中、西成高校では「反貧困学習」を行っている。これは自らがおかれた状況や社会システムを客体化し、課題解決の方法を模索する試みで、生徒が主体的に解決に取組む重要なきっかけとなっている。また「応募前職場見学」を進めることで仕事のミスマッチを防ぎ、職の安定を図っている。さらに、児童相談所の職員や生活保護のケースワーカーと連携し、各家庭の課題解決を共同して行っている。
このような地道な努力が、多くの高校で行われている。「入学試験の倍率」という指標だけでは計ることのできない社会的価値や包摂機能が、各高校には存在するのだ。
狭まる選択の幅
報道によると、来春の大阪府内の高校入試では当初、公私立高合わせた募集定員が府内の受験予定者数より約2千人も少なくなった。その後、定員は上積みされることになったが、統廃合を恐れた高校が一斉に事前の定員削減を予定したのが原因だという。条例の影響で公立高校の募集が減るような事態になれば、低学力で貧困家庭出身の学生の行き場が大幅に失われることになる。
大阪では私立高校の無償化政策が実施されたが、用具などにかかる経費や電車代などの問題で、遠くの私立学校似通うことが困難な学生も多い。また、貧困家庭の学生はアルバイトによって家計を支えているケースも少なくない。経費と時間のかかる遠方の学校への進学は難しく、必然的に自転車で通うことのできる地元高校を選択するケースが多くなるのだ。
条例案は、学力が高く経済的に豊かな家庭の学生にとっては選択の幅を広げるが、学力が低く貧困に苦しむ家庭の学生にとっては、選択の幅を狭める結果となる。高校が担ってきたセーフティーネットに大きな穴があき、弱い立場の若年層、裸のまま激烈な労働市場に放り出されてしまう。
さらに問題なのは、「教員の免職」に関する規定である。教育基本条例案では、校長による教員の相対評価が義務付けられている。2年連続最低ランクの評価を受けた教員は研修を受け、評価されなければ免職となる。相対評価は絶対評価と異なり、必ず一定数の最低ランクを付けなければならない。条例案ではその割合が5%と定められているため、100人の教員のうち毎年必ず5人は最低ランクの評価を受ける。
多様な価値観必要
条例案では、保護者らによる学校協議会が具体的な「教員評価」も行う。この評価を校長は重視しなければならず、「民意」が教員人事に反映されるシステムが構築されるという。しかし、これでは特定の保護者たちの声が「民意」とされ、特定の教員へのバッシングが起こる可能性が高い。
もちろん明らかな不適格教員は教育現場から退くべきである。しかし、一方で「教員評価」は極めて多様な価値観を反映する必要がある。多くの学生に人気のない教師でも、特定の学生にとってはかけがえのない理解者であったりするからだ。
最大の問題は、住民「社会的参加の動機付け」に、人間のネガティブな感情が動員される点だ。学校教育に対する行きすぎたクレームや加虐を発動させる条例は、攻撃的熱狂を煽りすい。
不安や不満が堆積する現代社会で、われわれの「民意」のあり方が問われている。 (北海道大学准教授)
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ああ、たいへんやった。
この記事がネットのどっかに載ってたら、コピー一発ですぐここに載せられたんやけど・・・。全部手打ちですわ。時間かかりましたわー。
でも、大阪市民でもない私にできることは、なるほどと思う記事をここに紹介することくらい。中島岳志さんは大変分かりやすく説明してくださっている。
それにしても、投票日5日前にこの記事を掲載する新聞社もすごい。この記事をしっかり読み取れる大阪市民は、決してあの人には投票しないでしょう。
私の大好きな前長岡京市議・小原明大さんは、すごい分析をしておられる。日本共産党の所属でありながら、「橋下独裁批判では選挙は勝てない」とツイッターでつぶやいておられた。
私もそう思う。橋下さんに投票する人は、その政策を見て判断されているのではない。タレントとしてファンになっておられるだけだと思う。それなら、「独裁者」と批判することはそのファンクラブの結束力を高めてしまうだけの効果しかない。
小原明大さんが指摘されているように、この4年近く大阪府がどう変っていったのか、具体的な数字を出して批判するしかない。「社会的弱者・少数者を切り捨て」ているあの人のやり口を明らかにして、粘り強く説明していくしかない。
一度ファンになってしまった人は、ちょっとやそっとのことでは裏切らない。その証拠に、各新聞社の世論調査では橋下氏一歩リード。「教育基本条例案」に対しても反対より賛成のほうが多いらしい。
小泉郵政改革にだまされた人は、また橋下「維新」にだまされる。残念だが、短期間でそのファン心理を覆すのは無理だと思う。今からでもできることは、今まで投票に行ってなかった「だれがなっても同じ」派に、「だれがなっても同じということはない」と分かってもらうこと。
橋下さんは何がやりたいのだろう。私にはよく分からない。いろいろなコンプレックスがあって、虚勢を張っておられるのだろうとは思う。
サングラスをかけてチンピラ風でテレビの人気物になったのに、知事選に立候補する時に普通のメガネに変更。
あんなに激しい口調が売り物だったのに、知事退任の記者会見ではニコニコ笑顔に変更。私はそれを見て背筋がぞっとした。
「私の主張が理解できない人は私に投票しないでください。そんなバカどもの一票がなくても、私は悠々当選してみせますよ」くらい言われるのかと思っていたのに・・・。
とにかく、こんなにコロコロ変る人を私は信用できません。自分の賞味期限切れが近いことを悟られ、あせっておられるのでしょうか。
もし、まだ投票に行くかどうかを決めていない大阪市民の方がおられましたら、どうかもう一度中島岳志さんの記事を読んでください。お願いします。
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【追加】 興味深い記事を見つけたので追加します。
◎京都新聞11月23日朝刊
教育条例案 かすむ議論
27日投開票の大阪ダブル選で、橋下徹前知事(42)率いる「大阪維新の会」が争点に掲げた「教育基本条例案」に関し、橋下氏の言及が少なくなっている。選挙戦終盤の街頭演説などでは、若い世代に投票に行くように促す発言が目立ち、条例案の議論はかすみがちだ。
条例案は教育行政への政治関与を明記。2年連続で人事評価が最低の教員を分限免職の対象とするほか、3年連続定員割れした府立高の統廃合を盛り込み、教育現場から反発が出ていた。
これに対し橋下氏は10月の教育委員との意見交換で「府民の大きな声を感じるために選挙をやる」と強調。維新の会のマニフェスト(公約集)の柱に位置付けていた。
選挙戦では「駄目な先生は退場してもらい、優秀な先生の給料を上げる」などと訴えたものの、具体的な説明は乏しい。維新の会の議員は「条例案は独裁批判と結び付けられると厄介で、誤解される可能性もある」と解説。ただ知事選に立候補した同会幹事長の松井一郎氏(47)は「説明する時間がないだけだ。避けていることは絶対にない」と話している。
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教育現場に不満のある人は、まず教員採用試験を受けて教師になってもらいたい。橋下徹氏にもそれを勧める。
私はわずか12年の小学校教諭の経験しかないが、今まで先生に一度もほめてもらえなかった子を励ますことができたという自信はある。(その反面、それまでよい子ちゃん扱いだった子らがないがしろにされたかもしれないが。)
「えっ、こんな僕がほめてもらっていいんですか」みたいなうれしそうな顔を、あの橋下さんにも見てもらいたいと思う。あんな顔に出あったら、人生観変わりますよ。
そして、ぜひ自ら発案した「教育基本条例」によって分限免職処分になってもらいたい。そのとき、橋下氏は自分をどう弁護するのだろう。また、分限免職になった先生から弁護の依頼を受ければ、どう対処されるのだろう。
自分で種をまいておいて、選挙に不利だと判断したらコソコソと隠してしまうなんて、あなたらしくない。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 9 )
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