2010年07月07日(水)
中野さんイメージダウン作戦 [私の好きな人]
「今度、『中野さんイメージダウン作戦』という題でブログ書きますわー。へへへー。」
「えー、中野さんに焼きもちやいてんじゃないのー。」
「サロマ前夜交流会」で同席しておられた高久さんの奥様がそう突っ込んでこられた。
焼もちとちがうんですよ。
私は、どの世界でもがんばっておられる人に対して素直に認められないようなところがある。どんなすばらしいことをしておられたとしても、それがいろいろな犠牲の上であったり、その人だけの特殊な状況の上でのみ成り立っているとしたら・・・。それだと、多くの人の共感を呼ぶことはむずかしい。
中野勇人さんは一般からは関心が薄れてしまった「JR不採用問題」の解決の糸口をさぐろうと、「国会前54日間連続フルマラソン」を決行された。これは、ギネス登録はしておられないが、実質世界記録。
その46日目、私も1日だけいっしょに走らせてもらおうと思い、前夜、中野さんの携帯に電話した。電話する前は、「ギンギンギラギラの声のでかいオッサンが出たらどうしょう」と思っていた。申し訳ないけど、そういうイメージを持っていた。
ところが、電話の声の主は常識のある落ち着いた声の方だった。「あれー、普通の人やん。」
その日の夜、東京行きの夜行バスに乗り国会議事堂前へ。スタート地点には私が先に着き、しばらくすると中野さんが現れた。中野さんは、私とそう体格の変わらないおだやかな人だった。「あれー、普通の人やん。」
このとき、私は確信した。
「この『国会前54日間連続フルマラソン』は、中野さんのような一見どこにでもいそうな普通の人がやっているからこそすばらしい。」
それに加えてこうも思った。
「ごく普通の人をここまで駆り立てた『JR不採用問題』のことを調べてみたい。」
それまでほとんど関心のなかった私の関心を引いただけでも、このアピールは成功と言えますよ。
さて、本題の「中野さんイメージダウン作戦」を。
ヨメさんと中野さんの話題になると、必ず「家族はどう思ってはんにゃろ」ということになる。これだけは、ご本人に聞かないと分からない。幸い、「サロマ前夜交流会」に、中野さんの次男君が出てきてくれた。私はすかさず隣りの席をゲット! さあ、根掘り葉掘り・・・。
「お父さん、龍二君の中学生のときから徳島に行ってしまわはったやん。それをどう思っているかなあと思って・・・。」
「もう7年になるのでいないのが当たり前になって・・・。もう慣れました。いつも家族のことを考えてくれているのは分かるんだけど、一番いてほしかった肝心な時にいなかったから・・・。」
(うーん、これは評価の分かれるところか・・・。でも、この「一番いてほしかったときに・・・」というのは今後一生言われそう。)
「龍二君、映画の中で、『お父さんは頭が悪い』って言ってたやん。そのへんは?」
「悪いと思いますよ。それなのに、ぼくらには『勉強しろ、勉強しろ』ってうるさいんですよ。自分がしなかったくせにね。」
「えー、中野さん、そんなんゆうん。意外やなー。」
「それにね、自分の机はぐちゃぐちゃなくせに、『部屋をきれいに整理しろ』とうるさいんですよ。たまに帰ってきたと思ったら、これですから。」
「えー、中野さん、そんなことも・・・。」
「あっ、それにね、中野家では腕相撲で一番のものが家で一番えらいということになってたんですよ。それでつい最近ぼくのほうが強くなったら、今度はちがうことで勝負しようとか言い出すんですよ。どう思います。ひどいでしょう。」
「まあ、そう言わずに。今度はマラソンで勝負しよう。」と中野さん。
こらあー、何ゆうとんねん、このオッサン。
「勉強しろ」、「片付けろ」、「勝負は自分の得意分野で」てか? まあ、なんと普通なこと。
でもそんなごく普通の人をここまで駆り立てたのは・・・。
中野さんが国労闘争団四国常駐として徳島に行かれてから、「南の国から」というおたよりを出しておられる。(私のこのブログのリンク集「中野勇人さんのページ」から「闘争団のたより」を開き、「南の国から」を見てください。)
今、私はそのおたよりを最初から読んでいる。もう55号にもなるので、まだ4分の1くらいまでしか読めていない。それでも、中野さんの足跡が少しずつ分かってきてた。もっと早く読めばよかった。
さあ、私の「中野さんイメージダウン作戦」は成功したでしょうか。(逆効果かな。)
最後に超貴重なおまけを。
「サロマ前夜交流会」が終わろうとしているとき、中野さんの次男君に聞いてみた。
「最後に聞くけど、これだけは人に絶対言えないなあというお父さんの秘密の話してくれへん。」
「うーん。・・・これ言っていいのかな。
お父さんが初めてお母さんに出会ったときの・・・。
『飲みなよ、ベイビー!』と言ってお酒をスーと・・・」
これは、うけた。
※「南の国から ?8」2004.8.25 (中野さんを訪ねられた奥様の言葉の一部)
主人も慣れない土地で一人で頑張っていられるのも周りの多くの方々の支え応援があるからだと感じることが出来ました。もちろん本人の努力と人柄もあると思いますが…(妻が言うのもおかしいですが)これからも四国の方々に何かとご迷惑をおかけする事と思いますが、見知らぬ土地で一人で頑張っている主人を勝利解決の日まで支えてほしいと思います。
私も少々寂しい日々が続きますが、「亭主元気で留守がいい!」ぐらいの気持ちで納得のいく解決まで頑張りたいと思います。
(注)今日、やっと「サロマ湖100kmウルトラ」の記事を書き上げました。6月27日、28日に戻って見てください。
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2010年06月04日(金)
「人らしく生きよう・パート2・新たな出発」 [私の好きな人]
国労闘争団の中野勇人さんが3月4日に送ってきてくださったビデオを、今日やっと見た(ヨメさんと二人で)。3ヶ月見ずにほっておいたことになる。
「アンタみたいな人間を不誠実なヤツっていうんや。」
毎度毎度、ヨメさんからのお叱りの言葉。
「まあ、こんなもんや。」
中野さんも、この私にそんなに多くのことを望んでおられるはずもない。
このビデオは、今から6、7年前の国労闘争団の様子を追った内容だった。
その中でも一番多くの時間を割いて紹介されていたのが、北海道北見から四国徳島常駐となった中野勇人さんの姿だった。ビデオの中の中野さんは、まだ41歳。徳島に移られてまだ半年というころだった。北見に残っている奥様や二人の息子さん(高3と中2)の話される姿もおさめられていた。
「離婚を考えたこともありました・・・」
「お父さんはバカだと思う・・・」
その映像からすでに6年がたっている。
中野さんは「54日連続フルマラソン」を完走された人だが、お会いしてみるとごく普通の人だった。それと同じように、ビデオに出てきた奥様や息子さんたちもごく普通の人たちだった。そんなごく普通のご家族を、長年にわたって苦しめている国鉄=JR=政府の責任は重い。
徳島の若者が言っていた。「中野さんに会わなければ、JR不採用問題など一生知らないままで終わったと思う。中野さんに会って、その問題を教えてもらってよかった。」
今の私も同じ気持ちです。教えてもらったからと言って何ができるというわけでもないが、まったく何もできないということもない。今こうして、このブログに国労闘争団を紹介していることだけでも何がしかの役に立っているかもしれない。そう思っています。
ヨメさんが言った。
「私はこんな目にあいたくない。」
「そら、だれかってあいたくないって。中野さんかて、自分がそんな目にあうとは夢にも思ってはらへんかったって。」
「もし私がこんな目にあったら、すぐあきらめてほかの仕事探すわ。」
「でもな、やっと自分のしたい仕事に就けたと思ったら、なんの理由もなくクビやで。それで、はい分かりましたってやめられるかー。」
「私はやめるかもしれん。いくら正しいことでも、そんな長い間耐えられへん。」
「それでは向こうの思うつぼや。なんの負い目もない人間がクビにされたら、普通は『おかしい』と思ってがんばるやろう。そういう思いで中野さんもがんばってきやはったんやと思うで。」
話は堂々巡り・・・。
ビデオの最後のほうで、中野さんが自分の好きな言葉を言っておられた。
「道険笑歩」・・・どうせ通らなければならない道なら、どんな険しい道でも笑って歩こう。(これは、元ボクシング世界チャンピオンの徳山選手の言葉だそうだ。)
私は険しい道を通った経験がないが、どんなしんどい時でも笑えるという特技(?)がある。人が怒ったり泣いたりしているときでも、何か笑かすネタがないかと探しているようなところがある。(不謹慎!)
元気のなくなった人は、それで元気を取り戻してくれることもある。もちろん、反対に私の不謹慎な態度に逆上される方もある。そんな私ですが、これからも勝手に国労を応援させてもらいます。
今月末、「サロマ湖ウルトラ」で中野さんに会える。中野さんは、17年前、フルも走ったこともないのにサロマを初挑戦で完走された。そのあとも連続完走されているらしい。
私も同じ年、ヨメさんと1歳の廉についてきてもらいサロマに初挑戦。雨に体温を奪われ、80km地点でバスに収容。翌年再挑戦。またもやヨメさん廉付き、ヨメさんのおなかには生まれる前の真樹。その年は余裕たっぷりのつもりが、70km地点でバスに収容。今年はそれ以来16年ぶりの挑戦になる。
私の宿泊先は中野さんの地元・北見市。レース当日はむずかしいが、その前後には中野さんと会えそうだ。
中野さんに会ったら、いっぱいしゃべろうっと。
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2010年05月01日(土)
乗りかかった国鉄 [私の好きな人]
もうほとぼりが冷めた(?)ので、お写真公開してもいいですよね。
上の写真は、今年の2月18日、国労闘争団四国常駐の中野勇人さんが京都に来てくださったときにうちのヨメさんが撮った写真です。まあ、なんとほっそりとした・・・。
先日、その中野さんからメールをいただいた。
4月25日の「徳島マラソン」に出られ、3時間38分39秒で完走。忙しくて練習ができなかったらしいのだが、すごいいい記録です。今年の「サロマ」、期待できますねえ。
また、JR不採用問題についての今後の見通しなども書いてくださっていた。
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それから、ご心配をお掛けしています、国鉄闘争の状況ですが、政府案が示され、こちら側としては受け入れの声明を出しましたが、鉄道運輸機構側の態度は、いまだ一切示されていません。ひとつの大きな山は越えましたがゴールまだです。政府案(解決金、JR200名の雇用)を完全履行させて初めて、闘いのゴールとなります。引き続き最後までの伴走をよろしくお願いいたします。
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乗りかかった船ならぬ「乗りかかった国鉄(闘争)」です。私にできることは、月1回の「勝手に国労応援ラン」をして世間アピールすることくらいですが、中野さんが「もういい」と言われるまでは続けます。
私の返信は以下のとおり。
京都の藤井です。
「徳島マラソン」、いい記録でしたね。3時間38分なら、私の20年前の記録です。それくらいのタイムで走りきりたいなあ。
中野さんのゴール後の写真を見て・・・
前よりちょっとふっくらしておられません? まあ、それはそれでいいことだと思いますが・・・。
うちのヨメさんは、「ひきしまってる中野さんがかっこよかったのに、これではちょっと・・・」と言ってました。まあ、「ほっといてくれ」っていう感じですかね。
私のぎっくり腰は何とか元に戻りました。ただ、まだいろいろなところが痛みます。今は股関節がしくしくと・・・。
ブログにも書きましたが、今月24日は大会と重なったので、明日「勝手に国労応援ラン」をします。北の駅をめざして走ろうと思っています。
前から気になっていたことを・・・。
?1047名の解雇者に対して救済対象が910世帯と言うのはなぜ?
1世帯で複数というのは考えにくいし。100数名はどうなったんでしょう。
?再雇用の見通しは?
特に、中野さんの地元JR北海道では絶望的という報道がされていますね。仮に地元ではないところでの再雇用となった場合、それに応じる方がおられるのでしょうか。中野さんは?
「勝手に国労応援ラン」はまだまだ続きそうです。まあ、いい練習になっています。本当に心から喜べる日が来ることを願います。
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それに対する中野さんからの返信は、以下のとおり。(世間から忘れ去られようとしているJR不採用問題に関心を持ってもらうために、私信ですが公開させていただきます。)
藤 井 様
お誉めにあずかり光栄です。2月に京都でお会いした時よりは確かに5?程体重増となりましたが、ただ贅肉がついただけではありませんよ…(汗)
お見せするわけにはいきませんが、肉体改造で少しビルドアップしまして北斗の拳のケンシロウ(おおげさ且つネタが古いかな…)のようですと眞寿美さんにお伝え下さい(笑)
それからご質問ですが、この度の解決案対象の910世帯ですが、国労、全動労争議団の当事者、遺族の方が対象になっています。遺族の方は、同世帯で奥さん、お子さんも争議をしている方がおられますので、○人ではなく○世帯となっています。残りの当事者の方々ですが、千葉動労争議団の9名の方は、政治解決に否定的であくまで裁判で決着をつける方針です。残り100数名の方々ですが、この23年間の間に闘争団を退団をして裁判を行っていないため、残念ですが解決対象者にはなりません。しかし、今日まで最終的に清算事業団から解雇通告を受けた1047名の解雇撤回・JR復帰を勝ち取るために闘ってきたのは事実です。
あとJRへの雇用ですが、JR東日本、西日本、東海会社は、完全民営化になっていますから政府の指導がどこまで届くのか分かりませんが、株を売却できていない、政府が株を100%保有している、いってみれば国鉄のままのようなJR北海道、四国、九州、貨物会社は政府が本気で指導すれば200名ぐらいの採用はいくらでも出来ると思います。いずれにしましても、解決案ではJRへの雇用については保証は出来ないとなっていますが、合意文章に与党3党、公明党の幹事長印、前原国交大臣、官財務大臣、平野官房長官の印鑑を押すわけですから、努力してゼロ人という事にはならないと思います。ですが、国交省の官僚、この解決を良しとしないJR総連、JR連合の激しい巻き返しも予想されますので、解決案を完全履行させるまで闘いは続きますし、予断を許しません。
そして、JRへの道が開かれた場合、私に限らず雇用先が地元でなくても道が開けた場所に行かなければならないと思います。ですから、何処に行くかも含めてこれからです。関西も可能性としてゼロではありません。
では、再会できる日を楽しみにしています。
中野 勇人 拝
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私が一番気にかかったのは、「この解決を良しとしないJR総連、JR連合の激しい巻き返しも予想されますので・・・」の部分。
闘う相手は、JRと政府だと思い込んでいたが、まさか本来は仲間であるはずの(他組合の)労働者も含まれるとは・・・。この部分は、どの組合にも所属しない今の若者にはまったく理解できない部分であると思う。(正直、私にもよくは分かりません。教育界の「日教組」と「全教」みたいなもん? いや、もっと複雑な関係みたい・・・。)
「乗りかかった国鉄(闘争)」なので、人に聞かれたらちょっとは答えられるようにこれから勉強していきます。
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2010年04月20日(火)
女優・由美さんご来店 [私の好きな人]
今日火曜日は、バイトさんのお休みの日。「京都キャロット産大前店」に、店長がずっといる日。もちろん、番犬きくをひきつれて。
夕方、高校から帰ってきた真樹といっしょに「産大前店」に。
「こうじさん、ユミさん来てはるで。」
「ヘロー、ヘロー、・・・」
荷物のかげになってちょうど見えない。外人の女の人に知り合いおったっけ?
「なんやなー、由美さんかいなー。」(私が、「女優」とあがめている「かもなす」の由美さんでした。)
「いや、ちょっと心配になってな、様子見に来てん。『パオパオだより』が消されてしもたやろ。これはついに、パオパオさん追い出されたんかなあと思って・・・」
「いや、すんません。そうですねん。ついにヨメさんがプチ切れて、消されてしもたんですわ。そやし、今、『パオパオだより』で検索して見てくれてはる人がすごいふえましたわ。」
「そやてね。今、眞寿美さんに教えてもろたし、今度からそうして見ますわ。」
「ありがとうございます。」
「パオパオさん、頭ええなあっていつも思ってんねん。」
「そうでしょ。実はボク、すごい頭ええんですよ。」
「いや、私はもっとええけどな・・・。」
「負けてへんなー。」
「なにげなしにちょっとゆったことを、一字一句覚えててブログに書いてはるでしょ。あれはすごいなあと思って・・・。」
「そうでしょそうでしょ。マラソンの途中で聞いた犬の名前を覚えられんようになった時が、ボクの引退の時やと思てます。」
まあ、ちょっとあきれてはったかな。
こんな「掛け合い漫才」みたいな会話ができる人は、私にとっては貴重な存在だ。「心配して様子見に来た」という言葉は、その通りにとらせてもらってよい言葉だと思う。本当にありがとうございます。
由美さんのように、3月末から「パオパオだより」が見られなくなった人が何人かおられるかもしれない。そんな人にはどうして知らせてあげたらいいんでしょう。まわりの人が教えてくれはったらいいんですけど・・・。
由美さーん。「パオパオだより」、見れましたかー。
いちいち検索するのんたいへんやから、「お気に入り」に入れといてねー。
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2010年04月01日(木)
ナリケーン! [私の好きな人]
ナリケーン、元気にしとるかい?
今日、「4月1日は、ナリケン記念日」という題で記事を書こうと思ったら、ちょうど1年前その題を使ってしもてた。だから、「ナリケーン!」と呼びかける題にした。
京都から静岡に引っ越して、もう1年3ヶ月もたったね。
高校はひょっとしたら京都に戻ってくるかなと密かに期待してたんやけど、静岡の高校に行くんやね。希望していた高校に合格したって言ってたな。おめでとう。
ナリケンによくおちょくってもらってたうちの真樹も、行きたい高校に合格したよ。中1の時よりもっとコロコロになっとるで。ナリケンはスマートになったかい?
1年3ヶ月前ナリケンにお別れを言いに行った時、お母さんがゆってはった。
「あんなふうに見えて、けっこう繊細なところもある子なんです。」
今はどうなんやろう。体格どおりの豪快な青年に成長してるのかな。
京都に来ることがあったら、絶対に声をかけてや。成長したナリケンの姿を見てみたいからな。
※ 「ナリケン」は、真樹の中1の時のクラスメイト。中2の時の12月に静岡に引っ越していった。それ以来、私の数少ない「メル友」の一人になってくれています。(この話は、真実です。)
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2010年03月15日(月)
高津臣吾 [私の好きな人]
3月9日の「すぽると!」、見やはりました?
私の大好きな高津投手の特集。
高津と言えば、元ヤクルトスワローズのセーブ王。
なにを隠そうこの私は、「サンケイアトムズ」以来のこの球団のファン。
その理由は、私が小学生の時だったと思うが、巨人と年間26回対戦して3勝23敗。(1年に3回しか勝てないなんて!)これでいっぺんにファンになってしまった。
最近はちょっと強くなりすぎてガッカリ(?)。しかし、高津のような人を食ったような選手もいて、ずいぶん楽しませてもらった。
「高津は今どうしてんにゃろう?」と思っていたら、フジテレビの夜のスポーツ番組「すぽると!」で特集が組まれていた。
その中でビックリしたのは、41歳で新天地である台湾の球団に入団を果たしたことではない。番組の中で語っていた言葉。
「野球が大好きなので、お金を出してでも野球をやりたい。
死ぬまで野球をやり続けたい、もちろんプロの現役選手として。」
あ〜ん、かっこよすぎるって。
なんであんなとぼけたような顔で、こんなかっこいいこと言えるんやろう。
「あ〜ん、台湾まで高津見に行きたーい!」
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◎産経ニュース 2010.1.18
【スポーツ群像】なぜ台湾へ? 41歳高津臣吾の流転人生
日本歴代1位の通算286セーブの誇るサイドスローが再び海を渡る。今季から台湾プロ野球・興農でプレーする元ヤクルトの高津臣吾投手(41)。日本プロ野球名球会に入った選手で初めて台湾でプレーすることになった。“都落ち”の感は否めないが、それでも本人は「好きな野球をやりたいから続けている」と淡々と語る。プロ20年目の右腕は今もマウンドに立ち続けている。(宝田将志)
1月下旬、明治神宮外苑に高津の姿はあった。自主トレをしているヤクルトの選手たちから少し離れ、練習パートナーと2人で、ランニング、ダッシュ、キャッチボール…。
「もう、そう技術は伸びないし、体力は落ちるばかり。練習ではそんなに感じないが、ゲームに入ると(衰えも)あると思う」
2月1日から合流予定の台湾・高雄での興農の春季キャンプに備え、基礎トレーニングに汗を流す日々だ。
最優秀救援投手4回など輝かしい実績を持つ高津だが、ここ数年は、野球を続けるための“綱渡り”を余儀なくされてきた。米大リーグを経て復帰したヤクルトを2007年に戦力外となると、08年はカブスとマイナー契約して招待選手でキャンプに参加。しかし、オープン戦期間中に解雇となった。
同年6月に韓国・ウリに途中入団し、登板18試合で1勝8セーブ、防御率0・86の好成績を残しながら、チームの構想から外れ自由契約に。昨年はトライアウトを受験し、7月からジャイアンツ傘下の3Aフレズノでプレーした。
そして、今季は「ただ、野球を続けたくて、そこしかなかったから」とオファーのあった興農に入団。台湾のリーグ戦は4チームによる争いで、レベルも日本より落ちる。契約は1年。年俸は「いっぱいもらえたら、その方がいいですけど」とのこと。
契約直後の1月19日には、自分のブログに、こう心境をつづった。
「昨年の12月にこの話をもらい、いろいろと悩んだりもしましたが…(中略)マイナーも合わせると8チーム目か。ようやっとるなぁ」
それでも、新しいチームが決まれば、高揚感も生まれてくる。昨秋に八百長事件で逮捕者が出るなど揺れた台湾球界について、「良いニュースを聞かないが、チャンスだから、この目で確かめたい」といい、対戦相手や野球のスタイルについては「見たことがないので何も知らないが、その分、楽しみでもある。驚きや発見があるだろう」。
加えて、新天地の興農は高津にとって比較的、実力を発揮しやすい環境にある。現在、元阪神の正田樹投手(28)が所属しており、昨季は最多勝(14勝)のタイトルを獲得。また、2人の日本人がコーチを務めている。球団公式ホームページによると、高津には抑えとして活躍が期待されているという。
もちろん、高津自身には「早く慣れることが大事。これまでの(米韓での)経験は参考にならない。国も野球も生活も違うから」と油断や慢心はない。
チームに所属しての春季キャンプは実に2年ぶり。久々に腰を落ち着けてシーズンを通して戦える芽が出てきた。
プロ20年目のスタートに、「周りがいろいろ言うのは自由だけど、これから野球をやっていくのだから、(キャリアの)締めくくりだとは思わない」。そして、こう決意を語った。
「外国人選手として期待に応えたい。思いっきり投げて勝負したい」
リリーフのマウンドに立つ闘争心は、まだ衰えていない。日米韓で321のセーブを積み重ねてきた41歳。自身の現役生活の最終回は、まだ先に見ている。
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