2009年10月09日(金)
9の日平和ラン+オバマ大統領のノーベル平和賞 [平和]
オバマ米大統領「核なき世界を目指す」、プラハで演説
4月5日 AFP】バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は5日、チェコの首都プラハ(Prague)で演説し、「核兵器のない世界」の実現に向けて世界をけん引してゆくことを誓った。また、核拡散を「運命だとあきらめる」姿勢を非難し、北朝鮮のロケット発射について北朝鮮は罰せられるべきだと語った。
米国と欧州連合(EU)の初の首脳会議のため、チェコを訪れたオバマ氏は、「世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、米国は行動を起こす責任がある」と述べ、「この取り組みをわれわれ一国で成し遂げることはできないが、しかし、世界をけん引することはできる」と語った。
「だから今日、わたしははっきりと信念を持って、核兵器のない世界の平和と安全保障の実現に米国が取り組むことを宣言する」
オバマ氏は、核実験をただちに禁止したいとの考えを示し、米国議会での包括的核実験禁止条約( Comprehensive Test Ban Treaty、CTBT)の批准を目指すと述べた。
また、2010年までに、国際的な核安全保障サミットを開催したいとの意向を示した。
午前4時30分に北朝鮮のロケット発射の知らせで目を覚ましたオバマ氏は、北朝鮮は報いを受けなければならないと述べ、国連安全保障理事会(UN Security Council)の緊急会合で国際社会が強い反応を示すことを求めた。
「この挑発行為は、行動の必要性を強調するものだ。きょう午後の安保理会合のみならず、核兵器の拡散防止にむけたわれわれの決意をより強くする」(オバマ米大統領)
オバマ氏は、「規則に拘束力を持たせ、違反には制裁を行い、発言は意味を持たせなければならない」と述べ、「核兵器拡散の防止に向けて、世界は共に立ち上がらなければならない。今こそ、国際社会の強力な対応を示す時だ」と訴えた。(c)AFP/Stephen Collinson
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「9の日平和ラン」をしようと思っていた日に、うれしいニュース。
「オバマ大統領に、ノーベル平和賞」
これは、4月5日のプラハでの演説が大きい。(上に当時のニュース記事を載せておきました。)
実は、現在(午後7時)、私はまだ走りに行っておりません。でも、このニュースを聞いてから走れば、身も心も軽快に走れます。
(注) 「9の日平和ラン」の記事は、走った後で。
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2009年09月04日(金)
せのおさん [平和]
今日、「京都キャロット・産大前店」に、せのお直樹さんが来てくださった。
せのおさんは、京都市会議員(西京区・日本共産党)である。私が尊敬する三宅誠孝さんが亡くなられたとき、せのおさんの「活動日誌」に書かれていた文を、このブログに引用させていただいた。(「三宅誠孝さんが・・・」 2009/1/23)
せのおさんは、三宅さんの第一印象を「強烈な好感」と表現しておられた。もうそれだけでも、「信用できる方」だと感じた。お電話で「三宅さんとは『京都ランナーズ』を通しての知り合いです」と言っただけだが、私のブログへの引用を快く承諾してくださった。少し話させていただいただけだが、電話の向こうから「まじめさ」が伝わってくるようだった。
いつかまた、三宅誠孝さんのことをお話させてもらえればいいなあと思った。
今日うちの店に来られたのは、政治活動ではなく、ランニング用品を求めてのことだった。
せのおさんは、三宅誠孝さんの影響からか、ちょこちょこ走っておられるらしい。そして、近々、フルマラソンに挑戦される予定。わざわざ時間を作って走るのは難しいので、自宅から議会(京都市役所)まで約12kmを走ろうと思っているとのこと。それに使うバッグを探されていたのだ。
ふだん、私はめったに産大前店にはいないのに、今日は出張販売の準備をしていてラッキーだった。(お客様にとっては、アンラッキー・・・かな?)
せのおさんのように「走れる議員さん」がおられることは、本当にうれしい。我々ランナーの気持ちがわかってもらえそうで。そんな議員さんが、もっともっと増えてほしいなあ。
今日もちょっとだけお話させていただいた。
「選挙、お疲れ様でした。共産党がもうちょっと取ってほしかったんですけどね・・・。」
「そうですね。でも、確実に何かが変わりつつありますよ。」
「うちの姉夫婦がゆってたんですけど、反共勢力が減ったというふうに考えたらええんやって。ただ、一般の人は民主党は反自民やと思ってる人が多いけど、実際は自民党よりもっとえげつない人も入ってますもんね。東京都議のTという人はびっくりですよ。卒業式に君が代歌ってるかどうか視察に行ったり、性教育は偏向教育と決めつけて、その学校にどんどん介入してきたりね。それが、民主党やちゅうんやから、あきれます。」
「そう、しっかり目を光らせてないと、どんどん悪い方に引っ張られていきます。」
「こんな言い方したら失礼かもしれませんけど、私のまわりでも、『共産党はも一つなんやけど、憲法9条は絶対守らなあかん』ゆう人、けっこう多いんですわ。それやったら、そこからちょっとずつでも拡げていったらいいんちゃうかなあって思ってるんですよ。」
「いや、ほんとにそうです。どんなことでもできることをしていってもらったらありがたい。がんばってください。」
日々身を粉にして活動しておられる議員さんに向って、日々ほとんど何にもしていない私がえらそうなことを言ってしまった。「反省」
ただし、マラソンに関しては私の方がちょっとだけ先輩だと思いますので、これからもどうかよろしくお願いします。
※ぜひ、せのお直樹さんのホームページものぞいてください。ください。
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2009年08月27日(木)
「子どもは見ていた」 [平和]
8月は、新聞に戦争関連の特集記事が組まれていた。
いろいろあったが、連載ものの中で私がもっとも心に残ったのは、毎日新聞の「子どもは見ていたーー戦争と動物」シリーズだ。
8/10 愛犬供出「心が死んだ」
8/11 軍用兔飼育「小国民の務め」
8/12 伝書鳩は戦友だった
8/13 馬の出征 泣いた母
8/14 ゾウ列車は夢を乗せて
この連載の中でも、第1回の「愛犬供出」は泣けて泣けて・・・。
少し長いですが、ぜひ読んでください。
◎毎日新聞 2009年8月10日
子どもは見ていた:戦争と動物/1 愛犬供出、「心が死んだ」
犬、ウサギ、馬……。戦時中、家々で大切にしてきた動物が子どもたちの前から姿を消した。国に求められ、差し出す役割を担わされた子もいた。出征する家族との別れにくわえ、小さな友達まで奪われた悲しみ。終戦から64回目の夏、当時を知る人たちが若い記者に語ってくれた。動物を通して見えた戦争を伝えたい。
◇兄出征の悲しみに追い打ち 撲殺役も少年「国のため」
ペット問題を担当する私(記者)の元に昨秋、一通の手紙が届いた。差出人は宇都宮市の渡辺礼子さん(81)。ペットブームの中で捨てられた動物が毎日殺処分されている記事を読み「やり切れない思いです」とあった。
つづられていたのは17歳だった戦争中、軍服の毛皮にするため愛犬「マル」を供出させられた悲しい記憶。「マルのような犬がいたことを忘れないで」
私は市営住宅で1人暮らしをする礼子さんに会いに行った。
*
戦時中、礼子さんは栃木県西方町の農家に暮らしていた。ある夕方、弟が友達に子犬をもらってきた。もこもこした真っ黒な毛。8人のきょうだいのうち、小さい弟や妹から順に抱っこした。やっと長女の礼子さんの番が来た。腕の中でしっぽを振り続けた。前に飼っていた犬の名をつけることで家族全員が一致した。
家にはマルと遊びたい子どもたちが集まってきた。食べるものも着るものもなく、重い空気がたちこめた村に笑顔が戻った。
礼子さんは国民学校(現在の小学校)を卒業後、畑仕事に出た。父は勤め、兄は学校に行くため、母と2人での麦作り。人手が足りず雑草に負けてしまい、供出する分しか収穫できない。「私もマルも、いつもおなかをすかせてた」。くたくたになってあぜ道を歩いた。マルが後をついてきて、どこかで拾ってきた干しイモやたくあんをポリポリと音を立てて食べていると、ほっとした。
一番の楽しみは三つ上の兄、郁さんとハーモニカを吹くことだった。普段はおとなしいマルが「ウオーン、ウオーン」と歌うように鳴き声を合わせるので、2人で声を上げて笑った。
その兄の出征が決まった。見送る途中で涙をこぼし、村の大人に「どの家もお国のために兵隊を出してる。名誉の戦死を遂げるんだ」としかられた。一人でハーモニカを吹いた。マルが一緒に鳴いてくれた。
だが間もなく役場から連絡が来た。「兵隊さんの毛皮にするので犬を供出せよ」。もう言葉も出なかった。
犬たちは学校の校庭に集められた。マルを連れていった近所のおじさんから「校庭の手前から足を踏ん張って歩こうとしなくて困った」と聞かされた。
話し終えた礼子さんがつぶやいた。「戦争で、私の心は一回死んだの。うれしいことも悲しいことも、感じないように決めたの。苦しまずにすむから」。戦後は准看護師として働き、戦場で心を病んだ人たちの世話もした。犬を飼うことも、誰かにマルの話をすることもなかったという。
*
集められた犬はどうなったのか。動物の供出に詳しい児童文学作家の井上こみちさんが、犬や猫を撲殺する仕事をしていた修さん(79)=仮名=のことを教えてくれた。北海道に住む修さんに取材を申し入れると「忘れたいし、妻や子にも秘密にしている」と悩みつつも「勝っても負けても戦争はだめ。それを伝えられるなら」と話してくれた。
1944年の冬休み。15歳だった修さんは友達に「いい仕事がある」と誘われた。家族5人、長屋での貧しい暮らし。「少しでもお金になるなら」と飛びついた。
指定された場所に集まり、初めて仕事の内容を聞かされた。仲間の一人は逃げ出した。修さんは「満州や空の上の兵隊さんはどんなにお寒いだろう。これもお国のためだ」と心に決めた。でも子ども心に「猫は化けて出る」と思うと怖くて眠れず、便所に一人で行けなかった。
いろんな町を泊まり歩き、集められた動物を仲間が押さえ、修さんが撲殺する。「毛皮に傷が付かぬよう、犬は丈夫な木の棒、猫には金づちを眉間(みけん)めがけて力いっぱい振り下ろせ」と教えられた。連れてくる飼い主たちの表情は暗い。みんな悲惨な光景を見て動揺し「殺さないで」と懇願する。泣きだす少女。「うちの犬だけは助けて」と、どぶろくをわいろに差し出す男の人。泊めてもらった農家の犬をこっそり見逃したこともあった。仕事は20日間ほど続いた。帰宅して、家族に何をしていたかは言えなかったという。
私が「かわいそうなことをしたという思いはありますか」と尋ねると、修さんの口調に怒気が混じった。「ないね」。自分に言い聞かせるように続けた。「仕方がなかった。そう思うほかないんだ」
修さんは犬や猫が捨てられていると、拾ってきてしまうという。4年前からは茶色い雑種を育てている。
「鼻をなでてやると、じいっとこっちを見るんだ。かしこいんだ」。顔を上げてくれたのは、この時が初めてだった。【田後真里・28歳】
◇物資不足で食用、軍服の毛皮用に
「犬の現代史」(今川勲氏著、現代書館)によると、日中戦争開戦後の1940年、国会で「人間も食べるものがないのだから、軍用犬以外は殺して利用してはどうか」という犬猫不要論が巻き起こった。当時は「愛犬家の楽しみを奪ってよいものか」との慎重論も強く、退けられた。
だが戦争の長期化で44年12月、当時の軍需省は強制的な供出を決定。毛皮は飛行服、肉は食べるためだった。同月19日付少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)は<犬君も撃滅(げきめつ)戦へ>という見出しで、犬の供出により空襲を受けた際に国民がかみつかれることも防げると書いている。<立派な忠犬にしてやりませう>と訴えた隣組回報も残っている。
※このシリーズ「子どもは見ていた」は、すべてネット上に公開されています。他の記事も読んでみてください。
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子どもたちに戦争の話をするのは、すごくむずかしい。自分が経験していないことを話さねばならない。
そんな時、「今普通に過ごしていることが普通にはできなくなる」ということを示せばいいのかと思う。
この「愛犬供出」は、犬猫を飼っている子には衝撃的な記事である。
例えば、うちの「きく」や「あんも」が兵隊さんの毛皮のために使われるとしたら・・・。これなら、廉や真樹も理解できるだろう。
犬猫の扱いに慣れている私は、犬の撲殺役に任命。それを受け入れなければ「非国民」。家族の一員だと思っていっしょに暮らしていた犬や猫が・・・。
ここから先は、それぞれが考えましょう。
最後に、京都新聞のコラム「灯」から。
◎京都新聞 2009年8月19日
「ささやかな継承」
80歳になる母親と8歳の息子と広島平和記念資料館に行った。小3の息子には父親として戦争の写真や映像を見せて、恐ろしさを教えてはいるつもりだ。とはいえ、自身も戦争を知らない世代で、書籍などで学んだことでしかない。
そこでわが家でただ一人の戦争体験者であるわたしの母親の出番だ。資料館で母は手を引っ張ってくれている孫に、展示物の解説を丹念にしてくれていた。被爆直後の広島の模型の前で、自らが体験した神戸空襲での恐怖を重ねて話していた。
被爆当時、13歳や14歳の女学生が着ていた衣服の前で足が止まった。原爆の熱線を浴びてボロボロになり焦げている。「怖かったろうなあ」と、当時、16歳だった母は、今、生きていれば同世代の人たちの苦しみを思いやった。
そして、つぶやいた。「戦争中も戦後も物は何もなかった。本当に惨めな暮らしだった」。孫の手をギュッと握り、「あんたは幸せやなあ。いっぱい楽しいことをしいな」と笑った。三世代でのささやかな平和学習だった。
母の住む神戸の家は阪神大震災で半壊した。次は震災体験を話してもらおう。母にしか孫に伝えられないことはまだまだある。 (塚本宏)
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そう、一番大事なのは「継承」なんです。
私も、現在87歳の父から戦争体験をたくさん聞いている。でも、そのうちの少ししかうちの子には話していない。
いつも私の心に引っかかるのは、私の一番嫌いな「強制」にならないかということだ。
平和運動に携わる人々の高齢化が目に付く。
「あなたたちの子や孫に、あなたたちの考えは引き継がれていないんですか?」と問いかけたくなってしまう。
たぶんそれは私と同じく、「強制」の大嫌いな上品な方たちばかりで、自分の子にまで気を使いすぎているのかも。
でも、私は、「コソッ」、「コソッ」と伝えていくつもり。子どもたちも、この「パオパオだより」を時々は読んでくれているらしい。
「ささやかな継承」、するぞー。
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2009年08月25日(火)
「だまされない」 [平和]
8月は、新聞テレビなどで戦争関連の特集が多い。
テレビはあまり見る暇がないが、新聞はできるだけ読むようにしている。その中で、毎日新聞夕刊の短いコラム「憂楽帳」の記事が心に残った。
◎毎日新聞 2009年8月13日 大阪夕刊
憂楽帳:だまされない
1年間に本を100冊読んでも、心に残る1冊はおろか、心に残る一文にもなかなか巡り合えない。
佐高信さんと魚住昭さんの対談集「だまされることの責任」(角川文庫)に収録された、映画監督・伊丹万作が1946年夏に発表したエッセー「戦争責任者の問題」。映画人が負うべき戦争の責任を問いかけた一文として心に刻まれる。
その論旨は、日本人の多くが「だまされて」第二次世界大戦に突入し、「だまされていた」という言葉で済ませ、その後の一切の責任から解放された気になっている。だまされていたと平気でいっていられる人は何度でもだまされる。二度とだまされまいとする真剣な反省と努力がなければ進歩がない−−というものだ。
戦禍が語り継がれる限り、今の日本人がだまされることはないと信じたい。一方で今、社会保障や外交、経済政策など私たちに選択を迫る課題は多い。「政権選択」のその先にある問題にも目を向け、しっかりした視点が必要だ。衆院選の投票日が近づく。
4年ぶりに訪れた機会、だまされずに一票を行使しませんか。【飯田剛】
何事も仕方なかったではすまされない。
私は、ちょっとでも「戦争のにおい」がするものに拒否反応を起こす。「何をたいそうに騒ぐのか」といぶかしげに見られることもよくある。
でも、「あの時、たいそうにしていて、(結果として)よかったね」ということがこれから先にあるかも・・・。
「とくに深く考えていませんでした。みなさん、そうでしょう。みんな、だまされていたんです。」
こんなふうにだけは言いたくありません。
私は話がヘタ。
私のブログ友だち・みきさん(「ふくたままのRunRunLife」)が、論理的でわかりやすい投書を京都新聞にしておられた。
◎京都新聞 2009年7月30日
「国旗国歌の強制が問題」
「窓」欄の投稿「国を誇りに思う心必要」を読みました。世界の人々が自国の国旗、国歌に誇りを持つのは自然なことでしょう。でも、オリンピックなどの国際的な祭典で用いられる国旗、国歌と、学校の入学式や卒業式などでのそれとは、意味が違うと思います。
オリンピックは、国ごとに選手が各競技で競い、勝利者の健闘をたたえて国旗が掲揚され、国歌が演奏されます。しかし、日本の学校では、式典での国旗掲揚、国歌斉唱が、文部科学省の通達で半ば強制的に行われています。式典での国歌斉唱時に起立しない教職員、生徒、保護者たちは、こうした「強制」に反対の意思表示をしているのです。
投稿者の義母も、日の丸で「祝福」されて戦地へ送り出され、命を落とした息子さんを思い、国民を犠牲にした国への怒り、あるいは戦争反対の強い意志を「国旗を揚げない」という行動で表されたのでは、と思います。国を誇りに思う心は、自発的であってこそ尊いものであり、強制的であってはなりません。
教育現場においては、「日の丸、君が代」の押し付けではなく、この国の歴史や文化を偽りなくきちんと教え、学ぶことで国を誇りに思う心をはぐくむべきだと思います。
「だだの歌じゃないんですか、『君が代』って。ただのしるしじゃないんですか、『日の丸』って。そんなもんが人の命より上に扱われるなんて、どうしても理解できません。」
私に言わせてもらうと、こうなってしまいます。これでは説得力ないわな。
もうひとつ、気になる投書があった。私が常日頃懸念していたことが、ズバリ書かれていた。
◎京都新聞 2009年8月9日
「右傾化進むネット社会」 Y.S (44歳男性)
インターネットのニュース記事を見ると、一部のニュースの下にコメント欄があり、読者が書き込めるようになっていて、書き込みに賛成したり、反対するボタンるがついている。そこでは、驚くほど自民党・麻生政権擁護の意見が多く、賛同者も多い。世論調査とは、全く反対なのである。
意見の多くは極端なナショナリズムで、民主党や社民党に対して否定的であり、民主党が政権をとると、国が北朝鮮に乗っ取られるかのごとく書いてあったりする。そして、その主張に反対する人が100人にも達しないうちに、賛同者は2000人ぐらい集まったりしている。
私は戦後生まれだが、子どもの時にはまだ、戦争の影が残っていた。当時は、平和が豊かさをもたらしてくれた時代だった。しかし、今の若い人は、格差社会にに生まれてきて、インターネットを通じて社会参加するようになれば、極端な右翼思想が一般的な意見だと考えてしまうかもしれない。かつてナチスが台頭した時代のようにならなければよいが、と危惧するのは私だけだろうか。
私も、このY.Sさんが指摘されているのと同じようなサイトを見たことがある。それは「極端なナショナリズム」というより、「下品で世間知らずのだだっ子の言いたい放題」という感じだった。内容が3パターンくらいしかなく、同じ人がペンネームを変えてコメントを書き続けているのではないかと疑われるようなしろものだった。(※)
世の中にはさまざまな考えの方がおり、それを知った上で、ねばり強い対話によってともに生きていく道を探る。それしかないでしょう。(一方的な強制など、もってのほか)
「下品で世間知らずのだだっ子」ばかりの世界に未来はない。私は、そう思います。
※そのサイトは、卒業式で「君が代不起立」を続けておられる東京都立高校の根津公子教諭の行動を追った動画を見られるもの。
それに対する賛同のコメント0、誹謗中傷100以上。
誹謗中傷コメントは、大きく分けて次の三つ。
?そんなに日本がいやなら、日本を出でいけ。
?生徒に校則を守らせる立場にあるものが、決まりを守れないのか。
?生徒のことを考えず自分のわがままを通す教師のせいで、日本の学校はガタガタ。
幼稚!
本当にちゃんとその行動を見た後のコメントとは思えない。
長くなるのでくわしくは書かないが、根津先生はどんなふうに批判されようと、その人に真正面に向かれとことん対話されている。匿名でコソコソ誹謗中傷している人たちとはくらべものにならない。
「わがまま」批判には、もうビックリ。停職3カ月をくらった根津先生は、ボーナスなども含めると実質年収が半減。単なる「わがまま」で、そこまでできますか。そこまでできる人は、本当の「人間の良心」を持った人でしょう。
文章なら読解力不足ということも考えられるが、映像でも真実を見る能力が低下しているのでしょうか。
しかし、賛同のコメントが0ということは、それが意図的に削除されているのかもしれない。誹謗中傷のコメントも、短くて誰でも書けるような単純なものばかり。誰かが、世論をある方向へ引っ張っていくために開設されたサイトかもしれない。
私のようなパソコンしろうとでもすぐたどり着けたのだから、これは危険。
みなさん、「だまされない」で!
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2009年08月15日(土)
1945年8月15日 [平和]
3年前、私は、私の子どもたちが通っていた別所小・花背一中のPTA広報部長をしていた。そのとき発行していた「PTAだより」の8月号に、私の父のことを載せさせてもらった。そのときの私としてはがんばって書いた記事なので、読んでください。
日本の夏、8月と言えば、広島・長崎そして終戦記念日。
終戦後61年、別所でも、戦争(戦地)体験者の方がずいぶん少なくなりました。うんぱの物部秀雄さん、きょうもんのいんきょの物部好孝さん、たひちの藤井征造さん、そして私の父・藤井善一(かんろくのいんきょ)。
今年の8月15日、私は、たまたまあの話題の靖国神社に行く機会がありました。
夏休みに息子とヤクルトの試合を見る約束をしていたので、ついでに東京であるマラソン大会をさがし、参加しました。わずか5名の参加でしたが、皇居や靖国神社などを走るユニークな会でした。
正午の時報に合わせて1分間の黙祷。その1分間に考えたことは、終戦の日、父と母は何をしていたのだろう、ということでした。
母は、久多か別所のどちらかで小学校の先生をしていたはず。でも8月は夏休みだし、小野郷に帰省かな。
父は、中国で戦闘の真っ最中(?)。私が小学生のころは、父からよく戦争中の話を聞いたのですが、その後40年ほどはその機会がありませんでした。一番身近な所に戦争体験者がいるのに、話を聞かないのはもったいない。皇居の周りを走りながら、そんなことを考えました。
そして午後1時過ぎに、靖国神社へ。
小泉首相は早朝に参拝をすまされたと聞いたので、どんな様子かなと思ったら、ビックリ!人、人、人で、前に進むのもたいへんな大混雑でした。参道では、教科書で学ぶ内容とはかけ離れた歴史観を主張する声、ビラ、看板。「何でこんなににぎわってるの?」 靖国神社は慰霊の場だとばかりかんちがいしていたのは、私だけでしょうか。よく考えたら、神社は神様をおまつりする場。でも、たとえば、藤井克己さんのお母さんは、このごったがえしたような靖国神社を見たら、どう思われるんでしょう。
帰ったら、父にいろいろ聞いてみようと思いながら、ランニング姿で境内をウロウロ観察しました。
私の父は、大正10年(1921年)12月5日生まれ。現在、84歳です。
昭和17年(1942年)12月に召集され、中支派遣。(中支の中は中央部、支は中国のこと)
12月20日、京都駅を出発。下関から船で朝鮮に上陸。その後、鉄道で満州を経由し、南京に到着したのは翌18年(1943年)1月8日。
この時、父も含め多くの人が寒さから肺炎になり倒れたそうです。20歳過ぎの元気な若者が倒れるのだから、そうとうな寒さだったらしい。
1月10日、南京で入隊式。
部隊名は、「嵐六二一三部隊(渡辺隊)」です。
入隊後、隊付衛生兵として教育を受け、南京より西の揚子江沿岸の警備にあたりました。
その年の7月12日、望江の近くでの戦闘で、右足太ももに銃弾を受けました。片足の力で体をずらしながら後退したので、新しいズボンのお尻に穴があいたそうです。出血もかなりなもので、今でも肉のえぐられたあとが残っています。
私は小さいころ、父といっしょにおフロに入った時、父のその右足の大きなキズを見てショックを受けました。でも、なぜか私の右足の同じ所にキズがあるのです。「おとちゃんとおんなじとこにキズがある」。戦争の意味がよくわからなかった私は、そのころそう言って無邪気によろこんでいました。一つまちがえば、父の命はなかったのに。
昭和19年(1944年)からは、さらに西の武昌・油坊嶺地区の警備にあたりました。
そのころ、戦死者をだびに付すのに歩哨に立たねばならず、肉をねらって出てくる野犬がこわかったそうです。自分が襲われるのではないかと、ビクビクしていたそうです。
その後、さらに西へ西へと進み、昭和20年(1945年)には宝慶へ。そこからさらに芷江(しこう)へ進む作戦に参加となりました。結局、これが最後の戦いとなり、芷江にたどり着くことなく撤退。8月15日には、川向かいからのスピーカーの声で終戦を知ったそうです。「日本ノ兵隊サン、戦争ハ終ワリマシタ、・・・」
8月18日、宝慶で復員下令。9月3日、反転。9月30日、岳州で武装解除。
しかし、実際に復員輸送が開始されたのは、昭和21年(1946年)5月2日です。この間、約7ヶ月は部隊の形のまま、農家の手伝いをしたりして生き延びていたらしいです。寝泊りをしていたのは、戦禍をのがれるため空き家となっていた家を勝手に使っていたそうです。
6月11日、上海より内地帰還。
鹿児島に上陸し、そこから京都駅に着いたのは6月21日。鞍馬から別所まで歩いて、ようやく家に着きました。
そのころ、家は田植えの後片づけで、父の祖母・おヤスばあさん以外は、家から離れた田んぼにいました。父を見たおヤスばあさんは、腰を抜かすくらいビックリしたらしいです。おばけちゃうんか、と。
うんぱの物部秀雄さんの弟・宇一さん(復員兵)が、「善一さんは戦死した」と言っていたらしく、家の者は皆そう思いこんでいたそうです。
それでおヤスばあさんが田んぼにむかって、「善一が、かえってきたー」と大声で叫んでも、みんな「おばあ、なにゆうとんね」という感じやったそうです。
別所に帰ってしばらくは、父の末の弟・清作さん(当時・中1)が、山に行くにも田んぼに行くにもどこに行くにもついてきて困ったそうです。死んだと思っていた兄が帰ってきて、めちゃくちゃうれしかったんやろなあ。私自身も四人兄弟の末っ子なので、清作さんの気持ちがよくわかります。そのことを話す父の顔もほころんでいました。
父の母・ウメは、父が帰った時どんな気持ちだったんでしょう。生きているうちに聞いておきたかったなあ。私が小6の時、死んでしまったし。今思えば、惜しいことをした。
戦争中に困ったこと。(戦闘以外で)
1.しらみにおうじょう。動いている時は気にならないが、寝る時かゆくて眠れない。
2.衛生兵のため、負傷者の手当て、衣類の洗濯、縫い物など、今までしたことがないことをやらされ苦労した。
3.食べ物は何とか調達できても、それを煮炊きする燃料がない。松の根っこを掘り起こしたり、防風林の樫の木を勝手に切って持って行ったりした。
それに、今回、父から初めて聞いた話。
藤井春嗣さんのお母さんキヨ子さんが、戦中、南京の陸軍病院で看護婦として勤務されていたとのこと。当時、看護婦さんは、父より位が上で敬礼をする対象であったらしい。もちろん、当時面識はないが、敬礼をした先にキヨ子さんがいたことはまちがいない。
キヨ子さんは、終戦後、病院で知り合った藤井甚六さんと結婚。(父と甚六さんはいとこ) キヨ子さんは、それはそれはべっぴんさんで、別所でも評判になったそうです。
今度お会いしたら、絶対当時の話を聞かせてもらおう。(できたら、写真も見せてほしいなあ。)
もう一つ、小さい時、父から聞いた戦争の話で一番心に残っていたこと。それは中国でのことではなく、中国から日本に帰る船での出来事です。もうすぐ日本に着くというところで亡くなった方がいたそうです。(なんて悲しい。)
その話を最近父に確かめてみて、またビックリしました。亡くなったのは鋸屋教頭先生のご親戚、鋸屋まつさんのご主人でした。もうすぐ日本にと言うより、もうすぐ八桝に帰れるとゆう時に、病気で息を引き取られたのです。
鋸屋まつさんは、永年、花背第二中学校の管理用務員をされていたので、私のことも知ってもらっているはずです。会って、お話がしたくなりました。
さて、話は元にもどりますが・・・。
父の話を聞いていて、映画によく出で来る「靖国で会おう」という言葉は、まったく思い浮かびません。話を聞けば聞くほど、20歳すぎの青年の「生きて、生きて、生き抜こう」という執念を感じます。
そのことを父に問うと、「死んで人の役に立つのではなく、生きて人の役に立つことを考えていた」という意味の答えが返ってきました。
藤井克己さんの父・勘六さんの「死んだらあかん」という言葉を守り抜いたような気がしてなりません。
勘六さん自身は、准尉であり、軍隊の教育係の仕事をされていた立場上、覚悟はされていたようです。小さいながらも後継ぎ息子もいたし。当時まだ結婚もしていなかった分家の長男である父には、本音ではげましてくださっていたようです。
(沖縄で戦死された勘六さんは、遺骨も遺品もなく、名前が書かれた木の札だけが別所の家に送られてきたそうです。)
父が、よく言っています。
「戦争も行ってへんもんが、何も知らんと、何えらそうにゆうとんねん。」
こんな声も聞いてください、○○さん!
「おとちゃん。生きてる限り、いっぱいいっぱいしゃべってや。中3の廉や小6の真樹が、自分からすすんでおじいさんの話が聞きたくなるくらいに成長するまで、どうか長生きしてください。」
また、話を聞かせてもらいに行きます。
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2009年06月04日(木)
天安門事件 [平和]
*てんあんもんじけん【天安門事件】 〜「学習百科事典+キッズネットサーチ」より〜
1989年6月4日の未明,北京(ペキン)の天安門広場で,民主化を要求してすわりこみをつづけていた学生と市民を,人民解放軍(じんみんかいほうぐん)の戦車・装甲車が実力で排除した事件。人民解放軍は学生と市民に対して無差別に発砲し,多数の死傷者をだす悲劇となった。
事件後,民主化を要求する運動は反革命暴動とされ,中国政府・中国共産党による徹底的なひきしめが行われた。これに対して,アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国は人権抑圧として中国の指導部を批判し,経済制裁を行った。趙紫陽総書紀(チャオツーヤンそうしょき)はこの暴乱に加担したとして解任され,江沢民(チァンツォーミン)が新しい総書記に選任された。
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あの暗黒の「天安門事件」から、はや20年。
天安門広場での軍の発砲の場面と、戦車の行くてをさえぎる男性の映像。これは、衝撃だった。
この事件で犠牲になったのは、ほとんどが大学生。今もその正確な数は分からないままらしい。
この国で、去年、オリンピックが行われた。
私もご縁があって、北京に行くことができた。この天安門広場にも行ったが、思っていたほど広くはない場所だった。
「ここで多くの大学生が殺された。でも、私と同行している10代の若者たちはそんなことをまったく知らない。」
自分で直接見たことではなくとも、やはり事件の現場に足を踏み入れるのなら、多少の知識は持っていたい。
※今日の毎日新聞の社説「天安門事件20年」より抜粋
民主化を求める学生市民を軍隊で弾圧した天安門事件から20年になる。戦車の前に立ちはだかる青年の映像は世界を感動させた。
民主化運動は、議会制民主政治と自由な市場経済こそが発展をもたらすという信念にもとづく。だが中国は共産党一党独裁体制のもとで大国となった。今年10月の建国60年祝賀軍事パレードでは、軍事大国の力を見せつけるだろう。若い中国人は天安門事件を忘れ、民主主義よりナショナリズムの排外デモに関心を持っている。
この20年間、なにが中国を成長させたのか。?小平氏の「社会主義市場経済」である。
行政権力が強権管理する市場だから、土地の強制収用などが低コストでできる。企業は権力と関係があれば無競争で独り勝ちだ。こうして富強の道を突き進んだ。
その結果、貧しくても平等だった中国社会は、民主の担い手となる中産階層が形成されず、強者と弱者に二分化した。権力と結びついた「特殊権益集団」は富豪化したが、失地農民や農民工などの「弱勢集団」と呼ばれる貧困階層が激増した。
抑圧された貧困層全体に充満した不満の解消は、爆発の危険をはらんでいる。中国の抱え込んだ重荷は、20年前より深刻になった。
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この社説は、中国の強者弱者二分化に、日本が大きく関わっていることには触れていない。
今日の新聞には、「ウアルカイシ氏出頭 天安門事件リーダー」という記事も出ていた。
「天安門事件から20年がたち、風化が指摘されるなか、ウアルカイシ氏の出頭は事件への関心を高める狙いがあるとみられる。」
確か20年前は、「ウー・アール・カイシー」と言っていたように思うのだが・・・。当時の大学生も、今やちょっと太った中年男性になってしまった。
ウアルカイシ氏は言う。
「武力鎮圧した指導部への怒りは消えないが、一方で自らが中心的な役割を果たした運動の中で多くの学生や市民が犠牲になったことに罪悪感も残る。(もう一人の学生リーダーだった王丹氏とともに)2人の『船長』が生き残ってしまった。この事実に一生苦しめられるだろう。」
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と、ちょっと難しい話はここまで。
さて、うちの天安門事件こと黒猫「あんもちゃん」。
1989年、天安門事件のあった年の秋に捨てられていた。家に連れて帰ってきて名前をつけるとき、思い出したのが「暗黒の天安門事件」だった。
私が忘れたくなかった事件とその拾ってきた黒猫が、見事にシンクロした。「あんもちゃん」、かわいい名前やけど奥の深い名前です。
私はほとんどすべてのことにセンスがないのですが、命名だけはちょっと自信がある。
「京都キャロット」という店の名前は、初代飼い猫の「キャロちゃん」から取ったもの。
キャロちゃんの子のメス猫2ひきには、当時トライアスロンで活躍していたカナダの双子・プントス姉妹からもらいー。「シルビア→ルビー→ルビコ、パトリシア→パティ→パティコ」。
そんな中でも、天安門事件からとった「あんも」は、われながら傑作だと思っている。
最後に、天安門事件20年目のあんもちゃんの写真をたっぶりと。
どうか、来年の6月4日も、あんもちゃんが元気でいられますように・・・。
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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