2025年06月24日(火)
もっといたかった沖縄 [沖縄]
昨日の夕方、比嘉さんご夫婦がホテルまで。
「ますみさんへのおみやげと、フルーツは藤井さん食べて」と。
比嘉増美さんから藤井眞寿美へ。ありがとうございます。
夜は知らん間に寝てしまい、フルーツを食べ忘れ。でも、それを今日の朝食にさせてもらいました。弱った胃腸にちょうどよかった。
昨日許田で、きっと屋キッチンのテンコさんからパンと飲み物の差し入れ。
パン1個は、いただいてすぐにほおばった。それに黒酢。キョーレツすぎた。すっぱすぎるって。
残り2個のうち1個は、昨日の晩ごはん。最後の1個は、帰りの許田から高速に入ってパクパク。昨日仲村さんにもらったコーラを飲みながら。
昨日走っている途中にコンビニに入って以来、帰るまでもらったものでお腹を満たした。ああ安上がり。みなさん、ありがとうございました。
ホテルを出るとき、今まで一度も会ってなかった猫ちゃんに遭遇。
「みんなで何びきいるんですか」とお聞きすると「3びきです。」
「車の上に1ぴきいたんですけど・・・。」
「あれはうちのじゃない。うちのは絶対に車の上には乗らないから。」
おとといからずっと愛想よく近づいてきてくれる2ひき。
この2ひきはおうちに入れてもらえないんかな。
「来年もぜひ。」
「はい、体力の続く限り走り続けます。」
なんといっても、ホテルに猫ちゃんがいるだけで魅力的。
どうか、来年も来れますように。
今日の9時に、「理容きゃん」さんを予約しておいた。
また散髪中にヤクルトの配達。
「本当は月曜だけど、昨日お休みだったからね。」
「今年も『健児の塔』へ行かれたんですか。」
「いえ、もう主人の足が悪くて。あそこはきつい階段を下りて、また上らないといけないでしょう。」
「そうでしたね。なんであんな谷底みたいなところに建てたんでしょう。」(また調べなければ。)
おととい、桜坂劇場で映画「摩文仁」を見た。
その中に、大田昌秀元沖縄県知事が出てこられるシーンがあった。摩文仁の「健児の塔」の前で。あの塔は、太田さんが知事のときに建てられたもの。
太田元知事も師範学校の学生で、沖縄戦に巻き込まれ多くの学友を亡くされた。その名前が「健児の塔」の前に記されている。
きゃんさんのダンナさんは、初子さんの一回り上で、師範学校におられたそのお兄さんはずいぶん年が離れていたそうだ(ダンナさんは8番目の子)。
大田昌秀さんは1925年生まれで、生きておられたら100歳。ひょっとしたら、きゃんさんのダンナさんのお兄さんと同期だったかもしれない。
そのあたり、もう少しくわしく聞いとけばよかった。
ついでに言っとくと、私の母も1925年生まれで、終戦の年には左京区久多で小学校の教師をしていた。そのあと別所に転勤になり、中国から復員してきた父と知り合い結婚。
あらためて、「そうやったんかー」という感じです。
「おっとこまえ」にしあがりましたねー。
顔がかなりいびつになってるけど。これは仕方ない。
急いで豊見城のシーサイドレンタカーへ。
高速は通常料金が大幅値上げ。初めてETCカードを持って行ったのだが、軽だったので許田から豊見城まで850円(通常1320円)。こんなに安かったんや。
いっちゃん安いレンタカー(4800円)を借りたのでカーナビなし。初めてケータイのカーナビを使った。
豊崎あたりは道がややこしく、ケイタイのカーナビにも慣れていなかったので難儀した。
それでもしっかり、ペタとパーラーがいるシーサイドレンタカーに到着。
長い間コロナで、レンタカー屋さんも大変だったと思う。今は昔の活気が戻っていた。
帰りもジェットスタ―。
行きと同じように、関空→天王寺→京橋がJR、京橋→出町柳が京阪、出町柳→二軒茶屋が叡電。
15時32分発で、二軒茶屋駅に着いたのは18時07分。沖縄からの飛行機に乗ってるより時間がかかった。
とにかく、冷房と扇風機の風がこたえた。
甲状腺全摘患者は体温調節の機能がなくなり、極端に冷房には弱い。困ったこっちゃわ。
「おかえり」と出迎えてくれる若くない方のミケちゃん。
私に会っても知らんぷりして通りすぎるドキンちゃん。
家に帰って「みーちゃんおらへんなー」と探したら、私の部屋でくつろいでいた。
「パオパオ部屋、のっとったなー。」
「てへへ」みたいな・・・。
ちっちゃいおみやげは家族用。
予告通り、「完走できなかったので、二条城ランの仲間へのおみやげはなし。」
また、来年よろしく。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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