2009年08月18日(火)
別所小学校・花背第一中学校閉校式 [学校]
8月16日、「花背山の家」で閉校式があった。
130年を超える歴史の「別所小学校」、60年を超える歴史の「花背第一中学校」が閉校になってしまった。
何名かのごあいさつの中では、克己のおっちゃん(私のまたいとこ)のがピカイチだった。(決して、頭のことではありません。)
「私の頭は光輝いていますが、別所町の将来はどうでしょう」くらいまで言ってほしかったなあ。話の中で、「くすっ」と笑うところもないとね。
でも、オリジナリティがあってよかった。ほかの方のごあいさつは、誰が言っても・・・という内容でたいくつだつた。
途中で、「なんか聞いたことある声やなあ」と思ったら、同級生の和佐男ちゃん。
「司会、じょうずやん。」
最近一人で別所に帰ってきているとは聞いていたが、もう町の役をやるくらい溶け込んでるんや。
私の父は、80年ほど前の在校生。
父の年代は、子どものころは病死、青年時代は戦死で同級生が少ない。生き延びた人も、もう88歳。話し相手がいないのがかわいそうだ。
式典のあとは、お弁当を食べながら自由に歓談。
プログラムには書いてなかったのに、父のあいさつもあった。
私の同級生は、出入りを含めると16人。
閉校式参加は、物部和佐男、藤井和幸、林幸博(百井)、中山琴美、藤井鑑子、私の6人。ちょっとさびしいね。
中学校のとき、めっちゃこわかった楠先生(数学)が来てくださった。
「楠先生、よう来てくれはりました。こうじと林幸博です。お元気そうですね。」
「いやー、ひざの調子が悪うて、あかんにゃわ。」
「88歳ですってね。うちの父と同い年です。大正10年生まれですよね。」
それにしても、先生の参加者が多いのにびっくりした。楠先生のようにお体の調子がよくない先生も来てくださった。それは、この日が別所に来る最後の日と思っておられる先生が多かったからだろう。
壁には、学校にかかわる写真が年代ごとに分けてはられていた。
私の母は、昭和20年から21年にかけて別所小学校の教師だった。どこかに写真がないものかとつぶさに見てみてたが、見つからなかった。
その代わり、私の叔父・清作さんのかっこいい写真を見つけた。みんなが白いシャツ黒ズボンでいるのに、一人だけカラープリントのシャツにつりズボン。どうなっとるんじゃー。今やったら、親呼び出しですか。
「学校がなくなったとき、その地域は死ぬ」
私は本気でそう思っている。そういう意味で、この閉校式は、「地域のお葬式」と言ってもいいのかもしれない。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 2 )
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コメント
瀬崎さん、コメントありがとうございます。
私は1968年別所小学校卒なので、瀬崎さんの4年上ということになりますね。4歳下だと、別所ではたかし君やみちこ(みんな藤井です)の学年だと思います。
花背峠以北の3小学校3中学校は統合し、「花背小中学校」になり、花背第二中学校の跡地に新校舎ができました。別所町から小中学校はなくなり、町全体がすごくひっそりしてしまいました。
うちの上の子・廉が中学校最後の卒業生、下の子・真樹が小学校最後の卒業生になりました。私たち家族も学校が統合した年に、いなかの家を出てきました。
瀬崎さんのように私のいなかのことを気にしてくださる方がおられると、ホッとします。機会があれば、ぜひうちのいなかにも遊びに来てください。
初めまして、京都市立明徳小学校を1972年3月に卒業した瀬崎輝(あきら)と申します。現在、枚方市にある常翔啓光学園中学校・高等学校で社会科(日本史)の教員をしています。明徳小学校在学中、5年と6年生は、「左京北支部」の対抗運動会と発表会(正式な名称を忘れました)が、我が母校の明徳小で開催されました。その時、左京区最北部の小学校が広川原の「えんげん(すみません、漢字を忘れました)小学校」であり、それ以外に別所小学校などがあることを知りました。北部の小学校の方は、騎馬戦などの経験が無い(児童数が少ないためで、やむを得ないことですが)ので苦労されたことを覚えています。今、京都市左京区にある小中学校のHPを拝見すると、大原小学校でさえ、児童数の減少で「小中一貫校」にされおり、花背以北からは、学校そのものが無くなってしまったのですね・・・。社会科の教師をしているからではありませんが、「学校が無くなった時、その地域は死ぬ」とのお言葉。実感させられます。花背以北の左京区はこれからどないなるんやろう・・・。岩倉出身で、岩倉が好きな時分として、何との言えない気持ちになります。