2018年11月26日(月)
ウチナー(沖縄)とヤマト(本土) [時事]
◎朝日新聞11月24日朝刊
【平成とは あの時14】 沖縄と本土 広がる隔たり
編集委員 真鍋弘樹(52)
沖縄の負担軽減が目的だったにもかかわらず、当の県民の意思を押し潰して県内に新基地建設を強行する。米軍普天間飛行場の返還計画は、本来の目的を見失って迷走を続けた。この20年余で、日本本土と沖縄の隔たりは繕いがたいほどに広がった。
■基地移設交渉、元名護市長の執念
自分の身をぎりぎりと削りながら政府と向き合っているのだろう。あの時、そう感じた。
明らかに酒臭かった。名護市の故・岸本建男市長に、いわゆるぶら下がり取材をしていた時のことだ。
沖縄でサミット(主要国首脳会議)が2000年に開催された翌年、当時も焦点は名護市の東海岸、辺野古だった。
群青のサンゴ礁をつぶし、どんな工法で、どれほどの規模の新基地を造るのか。数カ月に一度、首相官邸で行われる早朝の会合に、地元市長として出席する。会議後、ICレコーダーを口元に近づけて質問をすると、ぷーんと酒がにおった。
眠れない、と市長時代はいつもこぼしていた。そう妻の能子(たかこ)さん(70)に聞いたのは10年以上も後だった。若き日は市職員として基地反対の立場だった。そんな岸本氏が市長となり、1999年に基地受け入れを表明すると、反対派は「変節」と受け取った。
その半面、交渉相手となった政府の担当者は、この市長に手を焼いていた。多くの振興策を国から引き出した上で、基地移設については軍民共用化や使用期限を区切ることを求め、しぶとく交渉を続けたからだ。
国と地元、双方から疑いのまなざしを向けられ、その本音は家族にも明かさなかった。「政府も、夫のことを信じてはいなかったでしょう。孤立し、寂しかっただろうと思います」
基地受け入れを決めてからは記者を遠ざけ、肉声を聞けるのは会見などに限られていた。その岸本市長と一度だけ、那覇支局の記者だった頃に酒を酌み交わしたことがある。
どんな風の吹き回しか、その日は側近を通じて市長室に私を招き入れ、午後5時になるとロッカーから泡盛の一升瓶を取り出した。もう勤務時間を過ぎたからね、と言い訳をして、グラスに透明の液体を注ぐ。
記事にはしないようにと念を押し、杯を傾けながら、こんな意味のことを言った。条件闘争を続けていれば、いずれは状況も変わり、基地が必要なくなるかもしれない――と。
「父はずっと交渉を続けるつもりで、基地建設が決まったとは思っていなかったはずです」。息子で名護市議の洋平さん(45)は今、そう語る。「残したかったのは、ウチナーンチュ(沖縄人)の誇りだったのかもしれません」
市長在任中に肝臓がんが見つかった。だが、岸本氏はそれを公表せず、2006年、退任の翌月に世を去った。享年62。
「自分は基地容認市長だったと言われるのかな」。入院の直前、能子さんに、そうもらしたという。「夫がぶつかった相手は、日本政府でした」
国家に立ち向かうとは、どういうことか。
「コップに水が入っている。ほんの少しだけでいいから、ちょっと口をつけるだけ、と言われてコップを持ち上げると、無理やりぐいっと全部飲まされる」
そんな例えを、沖縄県の金武(きん)町長だった吉田勝広さん(73)に聞いたことがある。キャンプ・ハンセンという巨大基地を抱えた町でやはり日本政府と基地移設の交渉をした。その彼は今、政策調整監として県知事を支えている。
このページに広がる東シナ海の青い水面で、沖縄島最北端の辺戸岬と鹿児島県の与論島を分かつのが北緯27度線だ。奄美諸島が日本に返還された1953年から沖縄復帰の72年まで、米軍支配下の沖縄と日本を隔てた「国境」である。
沖縄の人たちには、この線が今も大きく立ちはだかっているようにみえる。そこに生身でぶつかることの激烈さを、私は想像することしかできない。
■「感情の根」語った翁長氏
差別という言葉を沖縄の政治家が頻繁に口にするようになったのは、2010年ごろだと記憶している。
「抑止力のために必要なら国民全体で考えるべきで、沖縄だけに押しつけているのは差別ではないか」
辺野古への移設反対を掲げて名護市長となった稲嶺進氏も10年5月、鳩山由紀夫首相にそう問いかけている。「最低でも県外」と自ら言った公約を鳩山氏が覆し、「抑止力」を理由に普天間の移設先を辺野古へと戻した時のことだった。
差別。沖縄の人たちがそう心に刻む感情の根を私に教えてくれたのは、翁長雄志・前知事である。
同年、当時那覇市長だった翁長氏は、搭乗直前の那覇空港で、取材を依頼した私に休みなく語り続けた。
「基地を他の地域に負わせるのは忍びないと考えるのが沖縄の人たちです。なのに本土にはそれに対する愛情がない。お金が欲しいのかと言う人すらいる。そこまでされて、なぜ日本を守らないといけないのか」
「全国市長会で、少しでも基地を負担して下さいと提起しても、『申し訳ないが沖縄しかない』と言われる。見て見ぬふりです」
本土の記者である私に、けんか腰で怒りをぶつけてきた。そんな語りだった。
普天間飛行場を「最低でも県外」に移すという鳩山首相の公約に、沖縄の人々は希望を抱いた。だが、それに対して本土、沖縄の言葉でいう「ヤマト」の人たちは目をそらし、取り合おうとしなかった。これは、差別ではないのか、と。
自民党県連の幹事長として、以前は基地の県内移設を進める側だった翁長氏は、こうも言った。「私は共産党とは考え方が違う。しかし、沖縄にもう基地はいらないということでは、保革は一致するんです」
基地問題と言えば、沖縄でも「保守対革新」「右対左」のイデオロギー対立が背景にあった。だが平成の半ばに「ヤマト対沖縄」の構図がはっきりと浮かび上がる。沖縄に基地をとどめているのは、実は米国ではなく日本なのだと気づかせたのが鳩山政権だった。
今年死去した新崎盛暉(あらさきもりてる)・元沖縄大学長は生前、取材にこう語っていた。「日米安保の構造そのものが沖縄を差別し、踏み台にして成り立っていることに県民も気付き始めた。沖縄はもう、後戻りできない」
その思いは、世代を超えて引き継がれている。翁長氏の息子で那覇市議の雄治(たけはる)さん(31)はこう話す。
「おやじは変わらずにまっすぐ歩いたのだと思う。オール沖縄とは、日本に対してウチナーンチュの心を表すということなんです」
1995年の少女暴行事件を機に動き出した普天間返還が、最後は県民の代表たる知事の拒絶すら踏みつけて巨大基地建設へ邁進(まいしん)する。その根にあるのは間違いなく日本の意思である。
ニューヨーク支局勤務時に取材したウォルター・モンデール元駐日大使(90)の証言がそれを裏付ける。95年に基地返還交渉の当事者だった元大使は、米国務省にこう証言している。
「彼らは、我々を沖縄から追い出したくなかった」
この発言について、元大使は私に、こう語った。「改善はして欲しいが、基地撤退は望まないと日本の指導者から聞いた。沖縄の基地問題は日本で決めるべき、日本の問題なのです」
生身の人間として、日本という国家に立ち向かう。その覚悟とは、どんなものなのか。翁長氏が訪米した際、ワシントンで問うたことがある。翁長知事はたった一言、こう答えた。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ってね」
知事在任中の今年8月、翁長氏は膵臓(すいぞう)がんで他界する。享年67。
死の数日前に本人が後継指名した玉城デニー氏は、翌月の知事選で過去最多の票を得て圧勝した。沖縄とヤマトを隔てる見えない裂け目は、ますます広く、深くなっている。
■米軍駐留、一番に望んでいるのは日本 鳩山由紀夫・元首相
普天間飛行場の「最低でも県外」という公約については、民主党のマニフェストに明記されていなかったものを私が踏み込みました。正確には「沖縄の民意があるなら」という言い方でしたが。沖縄を初めて訪れた時、他の地方とは違う重さを感じ、政治家としてできることはないかと考えたのです。
加えて、常時駐留なき日米安保、つまり国難の時のみ米軍に協力を求める安全保障条約を以前から考えていました。外国の軍隊に頼り切るのは、真の意味での独立国ではありません。
居心地がよく、思いやり予算で日本が経費を負担する沖縄の基地は、米軍も手放したくないでしょう。しかし、彼ら以上に「出て行かないで」と考えているのが日本です。少なくとも首相在任中、オバマ大統領から「普天間の移設先を辺野古に決めて欲しい」と直接言われたことは一度もなかった。
私が辺野古やむなしと考える前提となった「基地の65カイリ以内に訓練場が必要」という米軍のマニュアルは存在しないことが明らかになっています。日本の官僚は偽りのペーパーで私をだました。つまり日本は、自発的に辺野古に新基地を造っているのです。
首相辞任については、自身の公約を実現できなかったことで身を引くしかないと考えました。米国の圧力で辞めたのではありません。首相に協力せずに米国の意をくんで動く官僚が日本の側にいたからで、外国の圧力に屈するよりも情けない状況だと思います。このことには首相在任中に早く気づかなければいけなかったのですが、当時は早く移設案をまとめることばかり考えていました。反省しています。
翁長知事には生前、お会いしたことがある。自分は那覇市長になることが夢で、それをすでにかなえたから無欲なんです、と話していた。沖縄のために無欲に尽くすことから、あの信念が生まれているのだと感じました。
*
1947年生まれ。自民党を離党し民主党を結党、2009年から翌年まで首相。12年に政界を引退。
■私と平成 編集委員・真鍋弘樹(52)
約20年前から記者として沖縄に関わり続ける間、知り合った多くの人が亡くなった。大田昌秀元知事や辺野古に住む基地反対派のオジイら、国に体を張って向き合った人たちが次々とこの世を去った。
普天間返還が新基地建設へといつの間にか姿を変え、沖縄の人々は希望と絶望の間を何度も行き来した。国というものが、組織と金と権力の全体重をかけて意思を押し通そうとする時、一人の人生はあまりに短く、もろい。
米軍基地という異物を、一部の地域に押しつける。そのエゴと偽りを自覚し、自分の体感を広げて、どれだけ我がこととして考えることができるか。沖縄を報じることの意味を、いつも自分に言い聞かせている。これは「沖縄問題」ではなく、日本の問題なのだと。
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寮2の管理代行は原則金曜日なのだが、今週金曜は月末締め日のため寮長寮母さんは休めない。そのため、今週は月曜に代行。
またいつもの朝日・日経チェック。
いい記事を見つけました。
岸本健男・元名護市長、翁長雄志・前・沖縄知事、鳩山由紀夫・元首相の話。
鳩山さんのは、「今ごろ何ゆうとるんじゃい!」って感じですが、岸本さんと翁長さんの話はしっかり読んでほしいと思う。
もう「沖縄」の人たちの「人のよさ」に付け込んで、迷惑施設である「米軍基地」を押し付けるのはやめましょう。
京都も丹後に米軍レーダー基地ができたが、米軍基地がない都道府県が沖縄の米軍基地引き取れよ。
普天間だけでなく、沖縄のすべての米軍基地を撤去して、なんか困ることあるん?
どっこも引き取らんにゃったら、京都にもう一つ増やしてもええがな。京都府も京都市も、政権側の知事と市長なんやから。
役に立たんやっちゃなあ、山田知事と門川市長!
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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