パオパオだより

2015年06月01日(月)

泣いてしまう記事 [雑感]

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◎朝日新聞5月27日朝刊

   【記憶の食】朝食にじんわり親心 

 今回の「記憶の食」のテーマは「朝食の思い出」。ご飯派の方からは、朝食の定番、卵かけご飯にまつわるエピソードをたくさんいただきました。食パンをもち網にのせてコンロで焼いてくれる母親の姿を思い出す方もいます。


 ■あこがれた卵かけご飯

 囲炉裏を囲んで、朝餉(あさげ)が始まった。両親、兄、姉たち。ごはんとみそ汁、おひたしがつく程度だった。

 埼玉県春日部市の飽田(あくた)ユリ子さん(69)は鹿児島県の現・出水市で育った。家は農家で葉タバコやスイカ、米を作っていたが、裕福ではなかった。

 質素な朝食。でも2歳年上の姉の静子さんだけは、違った。茶わんに盛られたご飯の上に、生卵がかけてあった。近くの農家が放し飼いで育てた鶏の赤玉は黄身がとても黄色くおいしそうだった。「もしかしたら、きょうは私のおわんにも……」と期待する日もあったが、卵がかかっていることは一度もなかった。

 姉は生後まもなく、脊髄(せきずい)の難病を患い、小学校にも通えない時期もあった。両親は病気を治そうと、姉を連れて病院を転々。手術や2年間の入院などで医療費はかさみ、田畑を切り売りして、しのいだ。

 昭和20年代、卵は貴重品だった。ユリ子さんは「家族全員には食べさせられないが、せめて病弱の姉だけは、という親心でしょう」。

 大人になったとき、ユリ子さんは母から言われた。「あんたは、一言も『卵を食べたい』と言ったことなかったねえ」。食べたくなかったといえば、ウソになる。でも、子ども心にも言える雰囲気ではなかったと思う。

 42歳で病死した姉に聞けるなら聞いてみたい。「姉ちゃん、あのときの卵かけご飯、おいしかったですか」

 茨城県筑西市の古川正子さん(66)も卵料理を食べると、「卵かけご飯」を思い出す。

 福島県郡山市に住んでいた正子さん。6歳のときに父親が病死し、母が田畑での仕事と家事を1人で担い、4人のきょうだいを育てた。

 朝食の「おかず」は生卵。だが、2歳年下の妹と1個を半分こだった。卵をかき混ぜた正子さんは、いつも妹に「先に卵かけていいよ」とおわんを渡した。先に白身の多い部分が、おわんから出ることを知っていたからだ。その後、黄身の多い部分を自分のご飯にかけて食べていた。「今はかわいそうなことをしたと思っています」。妹とは旅行にも行く仲良しだが、「このことは話していません」と笑う。

 高級品だった卵。「価格の優等生」と言われるようになったのは、昭和40年以降、生産性が向上したためだ。


 ■忘れ得ぬ父のコーヒー

 京都府宇治市の塚田有里さん(47)は、幼い頃に父親が朝食とともにだしてくれたコーヒーの味が忘れられない。

 塚田さんは養蚕の指導員をしていた父、多紀男さん(79)と主婦の母、兄とともに愛媛県大洲市で暮らしていた。だが、塚田さんが5歳の時、まだ30代だった母が心臓まひで突然亡くなった。

 まもなく父は小学生の兄と塚田さんを連れて近くに引っ越した。引っ越して最初の朝食は、母が生前に作っていたメニューと同じごはんとみそ汁。だが翌朝、トーストと一緒に、お客さん用のカップで薄茶色の飲み物が出てきた。

 「泥水みたい……」。でも、父や兄は飲んでいる。その姿を横目に、おそるおそる一口。「おいしいっ」

 ミルク入りのコーヒーだった。思い返しても、それほどたっぷり砂糖やミルクが入っていたわけではない。「ちょっと苦かったんですが、それでもすごくおいしくって」

 それ以来、朝食はほろ苦いコーヒーとトースト。小学校に入る頃まで続いた。

 塚田さんは就職で関西に来て夫(48)と結婚し、長女(17)が生まれた。長女が5歳の頃は牛乳やジュースを飲ませた。「どうしてあのころ、5歳児にコーヒーだったんだろう」。10年近く前に家族で愛媛に帰省した際、父に尋ねてみた。

 父は言った。「何か食べささんと、と必死じゃった」。ごはんとみそ汁を毎朝用意するのは「こたわんけん(無理だから)、簡単なパンとコーヒーにしたがよ」。

 父の精いっぱいが、じんわりしみた。

 大阪府羽曳野市の主婦、西原敬子さん(52)が、今も時折思い出すのは、食パンをじっくりとあぶる母、善子さん(83)の姿だ。

 幼稚園に通い始めた頃、朝は何となく心細かった。そんな時、母が弱火のガスコンロにもち網を置き、食パンをのせた。トースターなんて家になかったころだ。マーガリンを塗り砂糖をふってくれた。

 それから、週に2日ほど、トーストが出てきた。一方で、父には必ずごはんとみそ汁。父母は履物の工場を営み、弟や妹もいた。今から思えば、朝はものすごく忙しかっただろう……。

 パンをあぶってくれる母の姿を思い出すたび、胸の奥がきゅっとなる。「自分も子ども2人を育ててきたが、どれほどあたたかい心を注いでくれたのか、と思う。母には勝てません」

 (浅野真、石村裕輔)
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 寮の管理代行のバイト先には朝日新聞がある。
 前の寮長寮母さんは一週間分くらい残して下さっていたので、それをじっくり読むのが楽しみだった。ところが新しい寮長寮母さんはすぐに処分しておられるようだ。最近はだいたい3日分くらいしか残っていない。
 私がいつも楽しみにしているのは「記憶の食」シリーズ。このシリーズでは毎回読みながら泣けてしまう。おととい行ったときには、なんとかこの記事が載っている日の新聞が残っていた。よかった。

 今回は古川正子さんが秀逸。
 小さい時、生卵を妹と半分こするときずっこしをした話。そのことを66歳になった今も、「話していません」とは・・・。泣けてくる。
 66と言えば、うちのにーちゃんと同い年。まさかうちのにーちゃんは7歳も年下の私に、「今も言えない」ようなことはしてへんわなあ。

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【今日のきく】

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 夜の散歩に出ると、「パンパンパーン! ボンボーン!」

 きくはびびって、「なになになに・・・。」

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 かなり近くで花火の打ち上げ。

 「にげろー!」

 大きな音が恐いきくは大急ぎで家へ。もちろん、○ンコは出ていない。
 明日の朝の散歩までしんぼうせなしゃーないな。

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