2011年02月22日(火)
ビューティ・コロシアム 「うちの中で一番のふたえは」 [家族]
「うちの中で一番のふたえはパオパオやん」と真樹。
「なんでえー」と私。
「パオパオ、ふたえやって。なあ、かあちゃん」と廉。
「知らんわ! パオパオの顔なんか、見とうもない。ああ、きしょくわる!」とヨメさん。
「ふたえなんてゆわれたん、はじめてやわー。」
でも、子どもら二人がそうゆうてくれてるんやから、これからは「うちの中では一番のふたえのパオパオです」って言おう。
テレビ番組「ビューテイ・コロシアム」を見ていてのうちの家族の会話。
まあ、最後は「今日のブログの題、『うちの中で一番のふたえは』にしょうっと」という私の言葉で終わり。それだけですけど・・・。
上の写真は、今日書いた履歴書に貼ったもの。写真自体は、1月12日に免許更新のときに撮ってもらったもの。写りがまあまあだったので、コピーして使わせてもらった。
「履歴書って?」と不審に思われる方もあるでしょう。
実は、今日はアルバイトの面接日だったんです。
「55のオッサンが、アルバイト?」
さらに不審に思われる方もあるでしょう。しかし、話せば長くなるのでそこらは省略。
面接に来ていたのは3人。その中では、私が一番よく働きそうに見えたんですけどねえ・・・。採用されへんかったらショックやなあ。
でも、3人の中で私が一番あやしそうでもありました。ヘラヘラしてて・・・。ひっひっひー。
ついでに、私のしょうもない学歴と職歴も披露しときましょう。
「家事手伝いじゃなくて、家業手伝いやろう」とヨメさんに叱られたけど、書き直すのんめんどくさいしそのまま。
それにしても、字がきたなくなってしもた。前は父親譲りのしっかりした字を書いてたのに・・・。
「おとちゃん、泣くで。」
「もう、とっくに泣いとる。」
「失礼しました!」
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【何を今さら5km20分切りメモ】
今日は400mダッシュ。
うちの近くの新しい道を車で測ってみた。地球研前から頼光橋がちょうど400m。ゆるやかな下りなので、ダッシュの練習には最適。
1kmジョグのあと、(下り400mダッシュ+上り400mジョグ)×5本。
82秒、85秒、83秒、83秒、82秒。
これではあかんな。
廉の5000mは今16分10秒。これは、400mを78秒弱のペース。ということは、廉の5000mにトラック1周も付いて行けんちゅうことかーい! ああ、なさけなや。とりあえず400mダッシュの当面の目標は、この78秒やね。
1kmダウンジョグをしている時、左のおケツがしみしみと痛い。家に帰って廉に報告。
「400mダッシュをアスファルトでやるときついな。おケツがいとうていとうて・・・。」
「そやろ、それ、『ケツわれる』ゆうねん。」
「そっかー。でもな、これからがんばって体重減らしてな、62kgになったらソーテイもらうねん。」
「ソーティ? 足にはあんまりようないんちゃうか。」
「いやいや、ソーティはけるようになって、そこからさらに上をめざす・・・。」
次々と自分勝手な目標を設定して楽しんでいる私を見て、あきれている廉でした。
今日は合計6km。
フロ上りは、「みず!」
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2011年01月11日(火)
おかちゃんの思い出 [家族]
後列右から3人目が母、その隣りが父。
前列右端が姉(長女)みき江、その隣りが私、一人飛ばして兄優三、姉(次女)多鶴子。
私が2歳だとすると、父36歳、母32歳、みき江姉10歳、兄9歳、多鶴子姉6歳。
うちの家だけなのかうちのいなか全体がそうなのかわからないが、母親のことを「おかちゃん」と呼ぶ。(ここは「か」にアクセントをつける。サッカー監督の<お>かちゃんではない。)
うちのおかちゃんが死んで、今日でちょうど20年。命日は1月11日という1が3つ並ぶ日で覚えやすい。
私の母・俊子は、1925年(大正14年)北区小野郷生まれ。18歳で小学校教師になり、左京区久多小学校に赴任。そのあと、左京区別所小学校に転任。
そこで中国から帰国した藤井善一(私の父)と知り合い結婚、退職(22歳)。その後は、畑仕事山仕事をしながら4人の子を育て上げる。
母が亡くなったのは、1991年1月11日の早朝。そのとき65歳。胃がんだった。
おかちゃんの一番の思い出と言えば、「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」やね。この「バシン!」はほっぺたをしばかれる音。あのこわさは、今も忘れられん。ほっぺた、痛かったなあ。
でも、おとちゃん(父)のことを聞かれても、やっぱり怒られてこわかったことになるのでいっしょか。要するに、私は末っ子やから甘やかされてゆうこと聞かん子やっただけのことか。
「マザコン」という言葉がある。私はまぎれもなくマザコンですなあ。ただし、「コンプレックス」本来の意味「複雑なもの」という意味で。「マザコン」というのは母に対する劣等感ではなく、母に対する複雑な感情というのが本来の意味のはず。
単純より複雑のほうが、なんか賢そうでいいですやん。ああ、「マザー」なんてとんでもないから「おかコン(おかちゃんコンプレックス)」と言ったほうがいいかも。
母が亡くなったのが、1991年1月。小学校教師の退職願いを出したのがその少しあと。辞めようと思った理由はしっかりとあったのだが、辞めたら一番怒るであろう母が亡くなったのも大きかった。
当時私は35歳だったのだが、そんな歳にもなって母の落胆を恐れていたのだから、やっぱりマザコン。
ただ、私が教員採用試験に合格した時一番喜んでくれたのも母だった。母は、少しの間でも小学校教師をしていた自分のあと継ぎのように思ってくれていたんでしょう。
もし、母が天国から今の私を見ることができたらきっとこうです。
「こうじ! こっちおいで・・・、バシン!」
ウェーン・・・。
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2011年01月07日(金)
とよぞのおっさん・続き [家族]
胸のあたりに花を置き、豊三叔父さんの顔をのぞきこんだ瞬間涙がこみ上げてきた。
「あかん、あかん、ちがう、ちがう。」
叔父さんの奥さんと4人の子どもたち(娘3人、息子1人)がまだこらえているのに、甥である私ごときが先に泣いてどうする。そうは思ったが、もう耐え切れなかった。一歩二歩後ずさりして、人の影に入って泣かせてもらった。(ハンカチを持ってきていてよかった。)
20年前私の母が亡くなったとき、もっともっと話をしておけばよかったと後悔した。今度またまったく同じ後悔を・・・。
上品で物知りで、それでいていつも謙虚だった「とよぞのおっさん」。きっと、私のような者でも話を聞きに行けば喜んでくださっただろうに・・・。
◇ ◇ ◇
今日もまた、雪。いなかから出てきたうちの本家のおじさんは、「一晩で40cm積もった」と言ってはった。
うちのあたりも2、3cmの積雪。しかし、葬儀場のある円町あたりはまったく積もっていなかった。
私は、昨日に引き続き立礼役。
昨日は、100円ショップの数珠とただ黒いだけの690円のドタ靴がばれないかとハラハラしていた。まあそれも2日目となるとちょっと余裕。
滞りなく式は進行し、あとは出棺を残すのみとなった。私はお山(火葬場)には行かないので、今日のお役目はこれにておしまいという感じだった。
◇ ◇ ◇
昨日は、いろいろなことを考えた。
家から円町まで一人で運転してきたのだが、その間ずっと豊三叔父さんの上品な語り口を思い出していた。自分が話されるだけでなく、人の話を聞くのもすごくうまい。人に自分の考えを押し付けたり、怒鳴ったり怒ったりしているのも見たことがない。
それは、退職されるまで長年ハイヤーやタクシーの仕事をされていたのと関係あるのかもしれない。いや逆か。そういう性格だったからこそ、その仕事が長く続けられたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
豊三叔父さんに関する間接的なエピソード。
今から32年前、私の教師1年目のこと。そのとき担任していたクラスは、子ども一人だけ。学芸会の劇を一人ではやりようがないので、私もかつらをかぶり武士の役で出演した。
その学校はうちのいなかの隣りだったので、私の両親も見にきていた。そして、私の武士の姿を見た母がびっくりぎょうてん。「とよぞのおっさんに、そっくり!」本当に目を丸くして言っていた。
私は自分ではそんなに似ているという意識はなかったのだが、かっこいいと思っていた「とよぞのおっさん」にそっくりと言われていい気分だった。
この話、「とよぞのおっさん」本人にはしてへんかったなあ。残念!
◇ ◇ ◇
私の兄は、中学校の3年間、豊三叔父さんの家にお世話になりその地域の中学校に通わせてもらった。(いわゆる里親里子の関係です。)どういういきさつでそうなったのかは知らないが、当時はそういうこともめずらしくはなかったようだ。
兄は「とよぞのおっさん」のことをどう思っていたのだろう。自分の甥を預かった豊三叔父さんは、私の兄のことをどう思っていたのだろう。私には想像もつかない。
◇ ◇ ◇
昨日お通夜が終わったあと、食事の準備ができるまで少し間があった。
そのとき、私は飾られている叔父さんの写真を一人で見続けていた。遺影が何かを語りかけてくるということはない。こちらが一方的に話しかけるだけだ。
しかし、ずっと見続けていると写真の表情が変る錯覚に陥る。まわりを飾る花やろうそくも動き出すような・・・。
「とよぞのおっさん」は私のことを「こうじ」と呼んではったっけ?
いやいや、「こうじ君」と君付けで呼んではったように思う。
最後に会ったのは2年前のお墓参り。若いときに毎日あの道を通って山仕事に行かれた話をしてくれはりましたよね。そのときは、「こうじ君」とは呼んでくれはらへんかったけど・・・。
◇ ◇ ◇
叔父さんにお花を捧げたあと、なかなか涙が止まらなかった。しかし、叔父さんにとってただ一人の孫・Sちゃんが横で大泣きしている姿に気づいてやっと我に返った。
私の母が亡くなったとき、お通夜でもお葬式でも泣かなかった。なぜかしら現実味がなかった。しかし、亡くなって1週間くらいたってからだろうか、運転中に急に涙があふれ出して運転できなくなってしまった。
たぶん、叔父さんの奥さんと4人の子どもたちもそれと似たような状態なのかもしれない。本当に悲しいのは、もうちょっとたってから・・・。
◇ ◇ ◇
父は、最後のお別れにと無理してお山までついて行った。
自分の弟が自分より先に死んでしまうなんて・・・。
何年か前から、父は「出かけるというと、葬式ばっかり」と嘆いていた。ましてや、自分に最も近い肉親を送り出さなくてはならないとは・・・。
出棺の前、父も何度も何度も涙をぬぐっていた。
もしかしたら、その輪の中で一番泣いていたのは私の父だったかもしれない。
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2011年01月06日(木)
とよぞのおっさん [家族]
今日は、豊三叔父さんのお通夜だった。
豊三叔父さんは私の父の弟。父の4歳下なので85歳だった。
昨日、いなかの倉庫の前の雪かきをしている時、兄から電話があった。
「とよぞのおっさんが、1月3日に亡くならはったんやわ。」
「えー!」
前から具合はよくないとは聞いていたが、まさか・・・。
小さいときから「豊三叔父さん」とは呼んだことはない。ずうっと、「とよぞのおっさん」。
私の父は、(息子の私が言うのも変かもしれないが)とても山奥の農家の長男とは思えない気品がある。そして、次男・豊三さんはそれにさらに輪をかけたような上品さがあった。そして、すごく物知りでもあった。(ついでに言うと、男前でかっこよかった。)父も叔父さんも高等小学校しか出ていないはずだが、人間の品格と学歴とは関係ないといういい見本だ。
豊三叔父さんについては、若いころ東京で働いていたこと、そこで知り合った人と結婚したことくらいしか知らなかった。お母さんが関東の人なので、4人の子どもはみんな京都弁と関東弁のチャンポンだ。
その叔父さんが、戦時中満蒙開拓団に入っており戦後シベリアに抑留されていたというのを知ったのは去年。もうそのときは、叔父さんとは話ができない状態になっていた。
「シベリア抑留」の補償が話題になっていた時、自分にはまったく関係のない話だと思っていた。こんな身近にその対象者がいたというのに・・・。
戦争体験の話は、やはり自分と少しでも関係のある人から聞いたほうが心に残る。その体験を話せる人がどんどん少なくなっている。
今日、父と豊三叔父さんのいとこ「ひろしのおっさん」とちょっと話ができた。ひろしのおっさんは豊三さんの1つ下の84歳。
「おっさんは戦争中どうしてはったんですか」と聞くと、「東京の海軍兵舎で働いとった」とのこと。そのあと時間がなくて話が広がらなかったが、まだまだ元気そうなのでまた話を聞きに行こう。
◇ ◇ ◇
今まで、お通夜といえばお焼香だけして帰るというものだった。でも、今日はちがう。喪主が豊三さんの息子で、男兄弟はなし。いとこで男は私と兄だけなので、兄が受付、私が立礼役をすることになった。
喪主の横に立って、お焼香に来ていただいた人に礼をする役目だった。初めてのことなので緊張したが、半分近くは知り合いだったので心配することもなかった。
それよりビビったのは、お焼香。なんと、私は喪主の次。
「えっ、私はナンバー2あつかい?」
お焼香のあと、ご住職様から「通夜 お別れ説教」があった。戒名についての説明、叔父さんの経歴、残された者の心の持ち方などについて話してくださった。これは本当によかった。みなさんもそうおっしゃっていた。
「今のうちにボクが死んだ時の分の原稿書いとこう。ええことばっかり書いて、お坊さんにゆうてもらおう。」・・・ややヒンシュク。
◇ ◇ ◇
叔父さんの長女は私と同い年。
小さいときは同い年ということで、ちょっとライバル心もあった。私も当時はいなかでは「かしこ」でとおっていた。でも、豊三叔父さんの長女も「かしこ」という評判だった。そして対面して思った。都会のかしこはいなかのかしこの3倍くらい賢そう。
「負けましたー。」
私の祖母のお葬式に会って以来なので、たぶん43年ぶり。弟や妹たちはさっぱり見分けられなかったが、長女・Rちゃんの賢そうな風貌に変りはなかった。
「お久しぶり、元気にしてる?」
「うーん、元気というかなんというか・・・。こうちゃん、顔変ったね。」
「そうか? 若く見えるってことかな・・・。」
「お通夜の席で、遺族に何ゆうとんねん」って感じでした。(あとで思ったんやけど、「顔かわったね」はボクがアホっぽくなったっていう意味やったんかなあ。)
とよぞのおっさん、こんなお気楽な甥ですが、天国からあたたかく見守ってくださいね。
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2010年12月30日(木)
もちつき大会、あわや大惨事 [家族]
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2010年12月15日(水)
波平越え [家族]
◎毎日新聞12月5日朝刊
Dr.中川のがんから死生をみつめる:/85
「年齢調整死亡率に疑問も」
がん対策基本法を実現するがん対策推進基本計画が掲げる目標の一つ、「がん死亡率の2割減」の死亡率とは「年齢調整死亡率」のことです。「年齢調整」とは、どういう意味でしょうか?
がんは、細胞の老化といえますから、基本的に年齢とともに増えていきます。日本が「世界一のがん大国」となった大きな要因です。10万人あたりのがん死亡数を「粗死亡率」と呼びますが、高齢者が多い山村と若者が多い都会を比べれば、山村の粗死亡率が当然高くなります。年齢構成が異なる場合、がん死亡の多さを粗死亡率で比較するのはフェアとはいえません。
「年齢調整死亡率」は、対象地域の各年齢別の死亡率を1985年当時の各年齢の人口割合にあてはめ、補正した死亡率です。これを使えば、年齢構成の違いを気にせず、がん死亡率を比較できます。
日本のがんの年齢調整死亡率は、国際的にトップクラスとはいえ、90年代以降、ゆるやかに減少しています。早期発見や医療技術の進歩のおかげと言えます。しかし、僕は「年齢調整死亡率が減ればよい」とは思っていません。年齢調整死亡率を使う根底には、「人間は年齢の分だけ年老いる」という前提があると思いますが、僕は、日本人が「若くなっている」ことを忘れてはいけないと考えます。
例えば、「サザエさん」のお父さんの磯野波平さんと歌手の郷ひろみさんは同年代です。郷さんは今年55歳になりましたが、波平さんは60年以上前に作品が発表されたときから54歳です。波平さんの妻のフネさんは原作では48歳ですが、女優の由美かおるさんは還暦です。現代の年齢感覚は60年前とまったく違うのです。直腸がんで、4回の手術や抗がん剤治療を受けたジャーナリストの鳥越俊太郎さんは、今年70歳です。髪もふさふさで元気いっぱいです。
日本人が昔より「若くなっている」ことは間違いありませんから、「戸籍上の年齢」で調整した死亡率の減少を目標にしてよいのか疑問です。欧米のように、がんによる死亡者数自体も減っていくことが望ましいと思います。(中川恵一・東京大付属病院准教授、緩和ケア診療部長)
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恐ろしいことが発覚した。
波平・フネ夫婦はうちの夫婦と歳がまったく同じ。私は昨日55になったので、ついに波平越え。ある意味すごい。波平さんに比べたらまだ髪の毛もたくさんあるし・・・。
うちのヨメさんも、来年3月でフネさん越え。こりゃすごい。
今日は真樹の学校が昼までだったので、3人でお昼を食べに出かけた。
ホリデイ・イン京都の中の「中華料理・彩彩」。ランチバイキングが980円から。
真樹とヨメさんは、ワンタンメン(980円)。
私は角煮ラーメン(こちらは1080円)。
デザートも充実している。
ヨメさんバージョン。
メロンがおいしかったと言っていた。
私バージョン。
コーヒー2杯、紅茶1杯もいただいた。コーヒーの受け口をまちがって半杯分ほど流してしまったけど・・・。
食べ過ぎたので、夕方、「お腹へこましラン」。
まずはきくと2kmジョギング。約15分。
「靴かむな」ちゅうねん!
「走れへん」ちゅうねん!
このあときくを返品して、一人でコーナン往復5km。26分57秒。ダウン1kmと合わせて今日は8km。
でも、これくらいではじぇんじぇんお腹はへっこみませーん。これからはもっともっと走ろうっと。
「わしゃー、まだ波平さんにはならんどー。」
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