2009年08月12日(水)
伊藤さんとの対話 [学校]
「ずーっと、学校の好きな先生でいてくださいね。」
「はい。」
森之宮駅前で伊藤千尋さんとお別れするとき、もう一度念を押しておいた。
8月8日大阪城公園での「夕涼みRun」で、伊藤さんにもう一度追いついたらまたしゃべらせてもらおうと思っていたが追いつけなかった。その代わり、ゴールしてそのちょっと先で「ゼイゼイ」言っている私を見つけて話しかけてきてくださった。
「相談とかに答えたりしておられるんですか?」
うん?
カウンセラーでもあるまいに、私が何でと思ったが、よーく聞いてみると「京都キャロット」に来られたお客様にアドバイスをしてるのかという問いだった。
「いっつもヨメさんに言われてますねん。アンタのええかげんな話は逆効果やから、絶対お店には来んといて。頼むし、ほかの仕事探して、とっととどっか行って・・・、って。ほんま、仮面夫婦はたいへんなんやから。」
「そうなんですか。でも、ブログに出ている奥さんの写真、すごくいい感じじゃないですか。」
「そうでしょう。」
うちのヨメさんは顔はかわいいんやけど根性はババ、と言いかけてやめておいた。「アンタのブログのせいで、私をこわがる人が多なってかなん」と、またおこられる。
20分ほどしゃべったと思うが、伊藤さんのほうから話されたのはこれだけ。あとは、ほとんど私の話を聞いてくださった。
家族以外では私のブログに最多登場であると思われる伊藤さん。私の娘でもおかしくない歳だが、落ち着いておられる。
私は自分が教師を辞めてから、現役の教職の方は避けていた。いろいろなトラウマのようなものがよみがえってくるのがいやだったからかな。
でも、伊藤さんが自分から教師であることを話されたとき、なぜか「ふつうに、スッと」受け入れられた。なーんでか。
私が帰る道々、彼女に話したことは三つ。
?「子どもが好きな先生じゃなく、学校が好きな先生でいてほしい」
子どもが好きという人は、大人が嫌いなことが多い。学校が大好きな先生は、子どもも保護者も同僚の先生もみんな好きになれる。
?「学校べったりじゃなく、広くいろいろなところへ出ていろいろなことを体験してほしい」
至れり尽くせりの先生をありがたいと思う人は多いかもしれないけれど、学校べったりで視野のせまい先生は困る。(そんな先生ばかりにしてしまったのは、我々保護者の責任でもある。)
こうして走りに来ておられるのもすごくいいこと。そのとき出会ったいろいろな方としゃべってかえってほしい。
?「自分が体験したことは、必ず学校で話してほしい」
いろいろな制約がありむずかしいとは思うが、自分が体験したことそのとき感じたことを子どもたちに話すことは、すごく大事なことだと思う。
私ももし教師を続けていたら、「鯖街道ウルトラ」の賀茂川パートナーズのお二人のことは、次の日の朝一番に絶対に子どもに話していたと思う。
「無関心な子もいるかもしれんけど、きっと一生懸命聞いてくれる子もいるし・・・」
私のお願いみたいなことばっかりになってしまいました。聞き疲れたでしょう。すいません。
でも、いつまでも、「学校が大好きな先生でいてくださいね。」
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2009年07月23日(木)
「紫野対鳥羽」−山田君の涙ー [学校]
紫野高校応援席に向かって一礼したあと、一人の選手が崩れ落ちた。その選手を抱き起こし、いっしょにベンチへ向かう4人。
泣き崩れていたのは、「サヨナラ」のマウンドにいた山田投手。助け起こしていたのも、たぶん3年生。みんな、うちの廉と同じ高校の同級生。
とてもじゃないけど見てられん。ああこの子らは、本気で甲子園をめざしてたんや。
延長14回裏サヨナラ試合。4時間近い熱戦の幕切れは、2アウト満塁ツースリーからの押し出しだった。あまりにも残酷な・・・。
しかし、見る側から言わせてもらえれば、こんなすばらしい試合はなかった。野球はチーム対チームの戦いだということを、ひしひしと感じさせてくれるゲームだった。
こんな長い試合だったのに、真樹も感動していた。「見に来てよかった」と何度も言っていた。
西京極球場の近くに駐車場の空きが見つからず、だいぶ遠いところにとめたため、球場に着いたのは試合開始予定時刻を15分ほど過ぎていた。しかし、その前の試合が長引いていたようで、私たちが着いたとき、まだ試合は始まっていなかった。
球場は、ほとんど日陰がなかった。
どうせ暑いのなら、3塁ベンチのすぐ近くにすわろう。選手の表情もよく見えていい。
紫野高校の先発は、長身右腕の上田投手。左腕山田投手は、センター4番での先発となった。
1塁側鳥羽高校は、赤いメガホンでの応援。
試合開始。
元気のいい掛け声とともに、ホームベースまでダッシュ。
紫野高校はチア部による応援だったが、真横なのでよく見えない。
真樹は、自分から「見に行きたい」と言った。なんでやろう。
ベンチ中央におられる谷監督。
体育の先生ですが、実は「京都キャロット」のお得意様です。知る人ぞ知るサブスリーランナー。とにかく、部員を走らせまくることで有名です。
廉は自分の学校であるにもかかわらず、応援に来ず。
私たちの周りには、紫高生らしき子がいっぱい来てるのに・・・。
反対の1塁側まで行って、紫高チア部も撮っておいた。
紫野高校一番打者。
真樹は炎天下なのに何の不満も言わない。
しっかりと、高校生たちのがんばりを見つめていた。
私の横に座った紫高生が、おもしろいことを言っていた。
「さっきまでテレビで見てたんやけど、名将(谷先生のことらしい)、サインバレバレやぞー。こればっかりやから。」(と言いながら、左手首をさするしぐさ。)
この大会は、第91回だそうです。すごい歴史です。
ここから3枚は、4番バッター山田選手の華麗なフォーム。
見事な選球眼で、フォアーボールゲット。
試合開始1時間後くらいから、太陽が雲に隠れる時間が長くなってきた。一時は暑さで倒れるかもしれんと思っていたが、何とか持ちこたえた。
紫野、鳥羽はともに公立高校。通学地域が限定されている公立高校が、よくここまで勝ち進んできたものだ。
紫野は、左右の2枚エースを擁し前評判も高かった。しかし、私の目には、相当練習量をこなしているチームだとうつった。牽制からの挟殺が2回、バント処理でランナーを殺すことも数回。盗塁刺殺も数回。これは、かなり練習を積み重ねないと本番で成功しない。
3試合連続完封で勝ち上がってきたのは、ピッチャーの力だけではないことがよくわかった。「連携力」のあるチームである。
一方、鳥羽は「何があっても前へ前へ」というチーム。積極的というか、やや雑というか・・・。
しかし、それを貫き通して勝ち進んできたことがうかがえる。何回も連続して盗塁を刺されているのに、また走ってきたときはびっくりした。
チーム全体に、「失敗を恐れず前へ」という考えが徹底されていた。
両方とも、すごくいいチームである。どの子の顔もイキイキしていた。
どちらが勝ち進むにせよ、「公立高校の希望の星」になることはまちがいない。(この時点で、公立のもう一校、塔南高校もベスト8に残っている。)
3回に1対1になってから、本当に目が離せなくなった。
7回に鳥羽が1点取りなお満塁。そこで紫野高校先発上田投手は降板。センターから山田選手がリリーフ。見事な火消し。
9回表、それまでさっぱり当たりの出なかった5番打者矢田選手が起死回生の同点打。
そこから延長へ。
球場のフンイキは、延長15回同点で再試合もありか、という感じだった。
延長何回か忘れたが、紫野の先頭打者がセカンドゴロ。それを鳥羽の二塁手がお手玉。この二塁手は、この試合3個目のエラーであったと思う。
このときだけは、鳥羽を応援した。「なんとか、このエラーから決勝点が生まれませんように・・・。」
この回の鳥羽の守りはすばらしかった。「絶対におまえ(二塁手)のせいにはさせへんぞー」という気迫が感じられた。
私は、この回の鳥羽のまとまりが今日の勝因であったように思う。一人のミスをチームのミスと思い、一致団結して挽回する。これが、団体競技の醍醐味です。
試合終了。
紫野高校3年生にとっては、ここで高校野球のすべてが終わりを告げた。
鳥羽高校の校歌斉唱。
紫野高校応援席に向かって一礼。一番深々と頭を下げられていたのは谷監督だった。(右から2人目)
家に帰って廉に確かめたら。本当に谷先生は「名将」と呼ばれているらしい。公立高校をここまで導いたのだから、確かに「名将」である。ちょっと谷先生を見る目が変わってきたかも・・・。
こんな機会はめったにないのに、廉も見に来ればよかったのに。真樹はこの試合を見て、自分なりにいろいろと考えるところがあったみたいよ。
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2009年07月22日(水)
京都市中学校選手権大会(卓球の部) [学校]
「やったー!」
第1試合、フルセット、ジュースの熱戦を制し超スレスレで勝ったとき、真樹が私のほうにニコニコしながら近づいてきた。
「絶対、見にこんといてやー」ゆうてたのにね・・・。こんな心からの笑顔を見たのはいつ以来やろう。
昨日の夜の父と娘の会話。
「このユニフォームの胸のボタン、はずしてていいんかなー。」
「おぉっと、胸チラお色気作戦で相手をメロメロにするつもりやなー。」
「なんでやな。相手も女やって。」
「ははー、ほんまや。」
こんなお気楽なパオパオのおかげで、娘はリラックス。(と思っているのは、私だけ・・・かな。)
勝ち負けは二の次。「楽しめ」とは言わんけど、何でもしっかり「味わう」こと。それが一番大事。
今年4月に転校したばかりで、卓球暦3ヶ月の真樹。
1回きりのユニフォームを買うのはもったいないので、卒業した先輩「T・まきちゃん」のユニフォームを借りて出場。
「T・まきちゃん」は、真樹と同じ名前だが、すらっとした長身。ちびまるこい真樹が、貸してもらってだいじょうぶかと心配だった。
でも、着て動いているところを見てみると、全然だいじようぶ。
「T・まきちゃん」は、真樹の古くからの文通友達。私も合同行事などで何回かしゃべったことがある。今どき珍しい落ち着いた子。
その子のユニフォームが借りられたことが、何か「ラッキー」なような気がした。
北区のK中からは、最強女子カルテットが参加。(と言っても、これで女子全員です。) 3年の真樹とあーちゃん、2年のRちゃん、Mちゃん。
真樹以外の3人にうちの家まで来てもらい、そこから会場の山科・大宅中まで私の車で行くことにした。
大会で説明に立たれた先生は、たいへん好感が持てた。中学校の先生にありがちな「がなりたてる」といことがない。生徒たちの聞く態度もすごくよかった。それは、先生が要領よく手短に話されていたからだと思う。
K中のトップバッターは、2年のRちゃん。
K中が誇る大型選手。(真樹の1.5倍はある???)
遠くから撮ったので、ピンボケです。
きっと緊張しているだろうに、着実にリードを広げ、見事な勝利。
このときほとんど同時に、2年のMちゃんも試合。ごめんねー、写真撮れへんかった。試合も残念やったね。
RちゃんもMちゃんも、真樹の古くからの文通友達。急に転校してきたのに、仲良くしてくれてありがとね。
あーちゃんのお父さんも仕事の途中によってくださった。あーちゃんのお父さんは、いつも真樹のことをかまってくれはる。真樹もうれしそう。
学校からは校長先生たちも来てくださった。
真樹の初戦の相手は、なんと珍しい真樹より小さい女の子。
なんで、ニコニコしてんにゃろ。
セットが終わるごとに、ベンチに帰り作戦タイム。なんか、楽しそう。
真樹は、学校から借りている安もんラケット。相手がチェックするとき、「えっ、こんな重たいラケット?」という顔をするらしい。
おーと、出ましたー。
臨時コーチ? 特命コーチ?
いえいえ、彼はあーちゃんのお父さんです。
セットを取られて取って、取られて取って、第5セット。
一進一退、一進一退。ついに、ジュース。
取って取られて、今度は取って取って。13対11。
「やったー!」
「練習少なく成果を上げる」
これは、我が家の家訓です。
ただ、一生懸命練習してきただろう相手には、本当に申し訳ない。
最強女子カルテットの大トリとして登場のあーちゃん。
お父さんもななめ後ろから応援です。
作戦タイムには、みんなからアドバイスが。
K中応援ベンチには、お母さんや先生も。
あーちゃんパパ臨時コーチも、適格な指示を。
対戦相手との実力は紙一重。
フルセットで、最後はジュース。
取られて取って、取って取られて、取られて取られて・・・。
あー、おしい。12対14。
ほんとうに、もうひとふんばり。最後は勝たせてあげたかった。
でも、いつもまじめに取り組んでいた姿勢は立派でした。
体育館の外では、部分日食。
曇り空だったので、肉眼で観察できた。ラッキー!
真樹の2回戦。
相手は、シード選手である華頂女子のKさん。これは、どう見ても真樹の2倍はある(???)。
あっ、身長じゃなくて実力。5段階評価で、「2.5対5」という感じでしょうか。
真樹は変化球サーブができないので、相手のバックをねらうサーブを多用する。
このときも真樹からのサーブだったので、相手のバックにサーブ・・・。
「バチコーン!」
一瞬、ピン球が消えたのかと・・・。
気がつけば、ピン球は応援席に・・・。これはもう、みんな笑うしかない。
真樹がパックをねらっているつもりだったサーブは、相手が左利きのため打ちごろのコースに入っていた。
「知らんかったなー」
しかし、相手もミスが多く、得点板見てください。
「真樹がリードしてますがなー」
卓球部顧問の若きM先生は、こんな時どんなアドバイスをしてくださったのだろう。
第1セットこそ8点までとれたが、第2、第3は「ムリー」。
セットカウント3-0で、完敗。
ちょっと前ならプンプンしながらこう言ったと思う。
「なんで私があんな強い人と対戦せんならんねなあ。意味ないし。」
でも、今日はちがった。
「強い人ともやれてよかったわ。いろんな人がいんねんなあ。」
もちろん一回勝てて気をよくしているのだろうが、「普通の中学生としてみんなの輪の中に入れている自分」が実感できたのがうれしかったのだと思う。
いやなことがあってもすぐうれしいこともある。そして、またつらいことがあり、またよろこびもある。
人間て、そんなことのくりかえしちゃうん?
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2009年07月08日(水)
ともちゃん [学校]
「こんにちはー、ふじいですー。」
「あっ、せんせい。・・・わたし?」(おー、なつかし。ともちゃんのいぶかしげな顔。)
「私や私。私の子、見にきてん。」
昨日、あーちゃんのお母さんから教えてもらった。
「ともちゃん、二人目産まはったんよー。今、おうち帰ってはるえー。見に行ったげてー。」
今日、ちょうど真樹の中学校に用事があったので、お祝いを持っておじゃますることにした。
中学校の真向かいのともちゃんの実家には、ともちゃんとご両親、2歳のお兄ちゃん(そういちろう君)とスヤスヤ眠っているあかちゃん。「まあ、ちっちゃくてかわいいこと。」
ちっちゃいように思ったが、出産時3200gを超えていたそうだ。こんな近くであかちゃんを見ることはめったにないので、大きい小さいがよく分かっていない。
それにしても、どうしてあかちゃんの顔を見ていると心が落ち着くのだろう。時々、「きゅーきゅー」、「ぶひーぶひー」。これもかわいい。そうや、みんなにかわいがってもらうために生まれてきたんやね。
「先生、全然変わってはらへんねえ。」
「いやー、髪の毛がうすーなってしもて、今日みたいな雨の日は頭ぬれんようにせんとえらいことに・・・。」
「でも、若いかっこうしてはる。」
「あっ、この服な、父の日に廉にこうてもうてん。」
「廉君 ! なつかしい。廉君の『清廉潔白』の廉というのがずっと頭の中に残っててね、自分の子の名前にも入れたいなあってずっと思ってたんですよ。いろいろ相談して、こういう名前になりましたけど・・・。」
うー、「泣けてくるやろー!」
「ともちゃん、30?、31?」
「えー、私ですかー。12月の誕生日がきたら31です。」
ともちゃんは、私の最後の教え子の一人。18年前小学校を卒業したのだから、それで勘定あってます。
私はええかげんな小学校教師だったが、ひとつだけ心がけていたことがある。それは、「よけいなことをしないこと」。自分がよかれと思ってやっていることが、実は子どもたちのためになっていないことがよくある。それどころか、逆効果で迷惑な場合もある。一番大切なのは、<必要に応じて> いつでも動ける体制を維持し続けること。これが分かるのに、10年ほどかかった。(やっと分かったころに、退職してしまったわけですが・・・。)
その点、最後に担任させていただいた「ともちゃん」を含む3人は、言うことなし。3人が3人とも個性あふれるよい子で、卒業までの1年間「いらんこと言ったりさせたり、せんとこー」とだけ思っていた。
私が何もしなかったおかげ(?)で、いまやこの3人は立派な大人に。ともちゃんなんか、2人も子どもを産んで・・・。こんなうれしいことはない。
「どっかから聞いてはるとは思うけど・・・。今ね、うちの真樹、ここの中学校にお世話になってんねん。」
「えー、新しく女の子が入ってきたことは知ってたけど、藤井さんて、先生とこの娘さんやったんですかー。花背の藤井さんて多いから、先生とつながりませんでした。」
「真樹はボクに似んとかわいいからなー。分からんかったか。」
「真樹ちゃん、お母さんに似てはるねえ。」と、ともちゃんのお母さん。
「ボクのええかげんなとこ似てくれたらよかったんですけど、けっこうまじめで息切れしたみたいです。」
「私もね、高校入った次の日に熱が出て1週間休んだんですよ。その後も中間に熱が出て、そのときも1週間ほど休みました。自覚はなかったんやけど、小さい学校から大きいところに入ったギャップが原因やったんでしょうね。」
「そうか、ともちゃんもそんな経験してんにゃ。もし今度うちの子におうたら、そんな話したって。」
「先生はつらいこととかなかったんですか。」
「なーんも。何でも味わうタイプやから。何でも楽しめとまでは言わんけど、つらいこともよう味わってほしいな。」
「それは、ちょっとむずかしいでしょう。実は、先生も意外と繊細やったりして・・・。」
ともちゃん、なかなか言うやんけー。
間スポッと抜けとるから、こっちはいつまでも小6の子を見ている感覚やけど、30歳やもんね。しっかりしとるがなー。
お昼ごはんどきにおじゃましたので、おにいちゃん・そういちろう君はサラダ作りの真っ最中。
「ブログ用におにいちゃんの写真とっとくわー。はい、グルグル回してー。顔はこっちむいてー。」
この要求は、2歳の子にはかなりむずかしかったようだ。手をグルグル回したら顔は自然と手元に向くし、顔をカメラに向けたら手が止まってしまう。
ともちゃんのお母さんが、「先生のほうを向いてー」とおっしゃったので、「先生ゆうても分かりませんて。」
すかさずともちゃんが、「おっちゃんのほう向いてー」。
何回目かのチャレンジで、やっと成功。
いい「調理師さん」の写真が撮れました。
それにしても、つくづく、「ともちゃん、成長したなー」。
帰り際のともちゃんとの会話。
「先生、毎年沖縄言ってはるんでしよう。私、奄美大島行きたいんです。」
「そっかー。ほな、いっしょに行こ。」
「いや、ほんまですか。行きましょ、行きましょ。」
元担任と教え子の会話としてはへんかな。
そして、小雨そぼ降る中、ともちゃんの実家を後にした。
お向かいには、中学校の校舎。あと8ヶ月、どうかここで中学校生活をしっかり味わって。
そう心の中で祈らずにはいられない。
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2009年06月29日(月)
「熱血校長VS都教育委 孤独な闘い」 テレビ朝日・ドキュメンタリ宣言より [学校]

今日は別のことを書く予定だったが・・・。
新聞のテレビ欄で見つけた。
「ドキュメンタリ宣言」 夜7時〜
教職員の言論の自由を守るために闘う東京都立三鷹高校の元校長・土肥信男さんに密着する。
土肥さんは、2008年4月に東京都教育委員会から全都立高校あてに通知された「職員会議における挙手・採決の禁止」に反対。公開討論を申し込むが、都教委は応じようとしなかった。土肥さんは定年退職後も教育現場に残りたいと、非常勤教員の採用試験を受けた。法令違反を犯さない限り落ちることはほとんどないが、不合格とされた。都教委を公然と批判したことが原因なのか。土肥さんは都教委を公の場に引っ張り出すため、提訴に踏み切った。
その内容は、私が今までに知っていることをまとめたようなものだった。
しかし、初めて知ったこともある。土肥さんは東大出身。それは知っていた。その東大在学中に起こったのが、東大安田講堂事件。当時3回生だった土肥さんは、決して学生運動に参加しなかった。その理由は、「東大卒というレッテルをどうしても欲しかった」から。
そうして手に入れた東大卒のレッテルで、一流商社に就職。しかし、そこで経験したのは「闇カルテル」。こんな不正だけはどうしても許せないと思い、退職。自分の信念を貫くことができるであろう教職を目指す。
この思いで、34年間がんばってこられた。
そうかー。根底に、この商社時代のいやーな経験があったんや。
それと、どうでもいいことやけど、土肥さんはうちの兄と同世代です。戦後ベビーブーム世代。(めっちゃ、大学に入るのが難しかった時代。)
もうひとつ、土肥さんの奥さんが番組に出ておられた。嫌がらせなどもあるだろうに、ちゃんと顔を出しておられました。
土肥さんが都教委を提訴することに踏み切ったとき、「私には、なくすものはなにもない」とおっしゃったそうだ。
それを聞いた奥さん。「私や子どもたちもいるのに・・・。」
奥さんが普通ぽい方で、なんだか安心しました。
私が、「卒業式・入学式での日の丸・君が代の強制は、どうも納得がいかん」と言っただけで、私を「左寄り」と決め付ける人がいる。なんで?
わしゃー、右も左も知らんど。普通の人やって・・・。
自分の都合が悪くなると対話を打ち切ってしまう人たちは信用ならんと言っているだけなのに、それと右翼左翼関係あるん? よう、わからん。
子どもたちがちがう番組を見ていたので、自分の部屋の小さい液晶テレビでこの番組を見ていた。ただ最後の、高校生が土肥さんに卒業証書を渡す場面はヨメさんにも見て欲しかったので、呼んでいっしょに見た。
「アンタみたいに口だけとちごうて、しっかりやることやってはるから、こうして子どもらに慕われるんやなあ。」
ひと言多いような気もするが、ここは土肥さんが一番大事にされていた「言論の自由」を思い出しじっとがまん。こうやって土肥さんの言動を私のブログで紹介するだけでも、何もしないよりはましと思うんですけど・・・。
「言論の自由がすべて。それがない学校では、子どもたちは幸せになれない。言いたいことが言える社会、それが基本だ。」というようなことをおっしゃっていた。
「たまにはまちがったことを言ってしまうこともある。でも、それは社会がきちんと判断してくれる。」
このテレビ番組では、土肥さんのことを「熱血校長」と紹介しているが、それはおかしい。私が冠をつけるなら、「冷静な良識ある校長」としたい。
でも、東京のように人口が一番多いところで、「冷静な良識ある校長」がたった一人なのは、どうして?
岩波ブックレットから、「学校から言論の自由がなくなる」という小冊子が出ている。これを読めば、ちょっとは私のギモンも解消されるかな?
読んでみよう!
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2009年06月25日(木)
よりちゃんへ [学校]
よりちゃん。
よりちゃんがこのブログ見てくれてたらいいんやけど・・・。
昨日、別所に帰ってきました。
うちより先に「小谷屋」に寄り、よりちゃんのお母さんに会ってきました。こんな感じです。
「おばさーん、いやはりますかー。」
「はーい、どなたー。」
「かんろくのいんきょのこうじです。」
「ああ、こうじさん。まあ、あんた、よう来てくれたねー。」
「あばさん、去年も富士山に行ったあと、ちょっとだけお菓子持って来ましたやん。今年もおんなじとこ行ったら、おばさんのこと思いだして、またちょっだけお菓子こうてきましたわー。
去年こうてきた『富士山頂』っていうお菓子は人気で、今年売り切れてましてん。そやし、富士山の形の水ようかんこうてきました。」
「いやー・・・。そんな、うちにまで・・・。ありがとうなあ。」
「ついでついで。うちのおじいさんにみやげこうたついでです。」
「なんぼついでゆうたかて・・・。」
「あんたとこのおじいさんは、元気やでー。私より8つも上やけど、しっかりしてはるわ。私もそこらの草やらひかんならんと思ってんにゃけど、もう体が動かへん。」
「そら、無理したらあきませんで。自分のできること、ちょろちょろやらはるくらいでちょうどいいんちゃいますか。」
「こうじさん、遠いとこまで行って、手広く商売してはんにゃね。」
「いやあ、みんなみんなヨメさんが段取り立ててやってくれてますねん。ボクは、車の運転だけですわ。」
「そうかーあ。・・・うちのよりさだも、どうしてることやら。別所に帰って来て、『山の家』にでもやとてもうたらええにゃけど・・・。」
「ほんまやねえ。調理士の免許持ってはんにゃしねえ。」
「もうええ歳やし・・・。」
「そらそうですわ。同級生ですもん。53ですわ。誕生日がきたら、54でっせ―。」
「ほんまやなあ。」
「ボクの方がちょっとだけはよ54になりますねん。」
「こうじさん、何月生まれ?」
「ボク、12月です。」
「そうかー。よりさだは、2月13日生まれやねん。」
(この言葉に、ちょっと感動。別所の人なら、そのわけがわかるはず。)
「8月の閉校式の日に帰ってきやはったらいいのにね。」
「ほんまや。帰ってくるかなあ。さあ、どうやろなあ。」
「今な、私、プランターでええかげんなもん作ってんねん。」
「あっ、トマトですか。」
「これは、ミニトマト。しょうざえもんのおばさんに、苗もうてん。」
「これよろしいで。ボクも別所に住んでるとき作ったことありますけど、いーっぱいすずなりになりますで。」
「そうかー。畑とちごて、プランターやから心配やねん。できたらええにゃけど・・・。」
ほかにも何やかやと、およそ20分ほど。
私が帰るときに言った言葉。
「また、おばさんのこと思い出したら来ますわ。」
おばさんはそれにはこたえず、ただ「ほほえみがえし」。
よりちゃん。
よりちゃんのおかあさんは、ボクが想像してたより元気でした。顔色もよかった。
そして、よりちゃんのことを話すとき、いつも心配そうに、でもうれしそうに話さはります。
もしこのブログを見たら、お母さんに電話したげてね。きっと、よろこばはると思うよ。
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