2010年10月28日(木)
幸せそうじゃない先生 [学校]
※以下、あくまでも私個人の考えです。ご批判があれば、それはすべて私に。
前々から気になっていることがある。
ある学校の先生が、授業があるごとに「こんなことも分からないのか」と言われるとのこと。
「えっ!」私はわが耳を疑った。
その言葉は、何をねらった言葉なのだろう。子どもたちがどう反応することを願っておられるのだろう。私にはまったく分からない。それを言って何になるのだろう。
もし私が生徒であってそう言われたとしたら、「はい、分かりません。だから、分かるように教えてください」とお願いすると思う。その先生はそれをねらっておられるのだろうか。
しかし残念ながら、そのクラスには私のような鈍感態度デカ生徒はおらず、その先生は毎時間毎時間「こんなことも分からないのか」という言葉をくり返す。生徒たちは、ただただそのうっとうしい時間が過ぎていくことだけを願っているようだ。
ああ、もったいない時間!
そして、幸せそうじゃない先生!
前々からずっと思っていた。
先生になった人たちは、小さいときからお勉強がよくできる人が多い。そして、公立の教育大学や教育学部を卒業した人が多い。いわゆるエリートコースを歩んできた人たちである。私のように働きながら夜間大学を卒業し、通信教育で教員免許を取ったようなものはなかなか教員採用試験に合格しない。
エリートコースを歩んできた人は、「簡単な問題が分からない」人間など今まで見たこともないのだろう。
自慢じゃないけど、私はお勉強のできる側とできない側の両方が理解できる。小中学校まではいなかの学校だったので、クラス十数人のうちのいつも一二位争いをしていた。そのころ、「自分は賢い」と勘ちがいしていた。
しかし、高校に入って大ショック。通知簿で言うと「5→3」、「4→2」という感じ。さすがに「1」だけは免れたが、それまでと同じように普通に勉強していたのにさっぱり分からなくなってしまった。一番苦手な授業では、とうとうずる休みするまでになってしまった。
「いやー、ボクって賢くなかったんやー。」
やっと、気づきました。
それでも学校が大好きだったので、先生になりたいと思った。私の実力からいうと、当時5倍の競争率だった小学校教員採用試験はまあ無理。ところが2回目(2年目)の採用試験で、私が勉強したところばかりが出た。奇跡! それで、めっちゃまぐれの合格。
先生になれた時、一番に思ったことは「自分が一番楽しんだろ」ということ。毎日毎日「何ぞおもろいことはないか」とキョロキョロしよう。
別に無理にそう思わなくても自然にそんなふうになったみたい。夏休みも一日も休まず出勤している私を見て、教頭先生が「藤井君はよっぽど学校が好きなんやなあ」とあきれておられたことをおぼえている。(当時は夏休みの「自宅研修」が認められていた。)
だから、「こんなことも分からないのか」というようなことは言ったことはないと思う。
「先生、分かりません」と言われたら、「私を頼ってくれてるんや」とうれしくなった。もちろん、それに十分応えられたわけではないけれど・・・。
「先生、分かりました!」と言うときの子どもらのうれしそうな顔・・・。それは、たいていは分かったのでなく、「スカタン」なんですけど。でも、一瞬でも子どもらのそんな生き生きした表情を見られるなんて、先生って仕事はええぞー。
もう一つ。
どういう話の流れかははっきりとは分からないが、その同じ先生は「学校をやめなさい」とも言われるらしい。
もう、ここまで来るとあぜん。教師としてそれだけは絶対言ってはならない言葉ではないか。あなたたちの一番の仕事は、「子どもたちに生き生きとした学校生活を送らせること」ではなかったのか。職務放棄ととられても仕方のないような言葉をくり返すのは、なぜ?
一度もお会いしたこともなく、その授業も見せていただいたこともないが、私が想像するにはその先生は「楽しめていない」。「分かりません」ゆうてる子を分からすのは、やりがいがあってめっちゃおもしろいのに。
20年近く前に教壇を去った人間が何をえらそうにと思われるかもしれないけど、誰かそのおもしろさをその先生に教えてあげてほしいな。
今の教育界にはいろいろなしばりがあって大変だとは思いますが、「子どもらの笑顔が見られたらうれしい」という気持ちが教育の基本であることはまちがいないでしょう。
「あーあ」とため息ばかりついている先生の授業では、子どもらは笑顔になれません。どうか、まず、ご自身が楽しいと思える授業をめざしてください。お願いします。
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2010年10月02日(土)
第62回学園祭 (体育祭)・続き [学校]
学年別種目の一番初めは、1年の種目・大縄跳び。
一番前を跳ぶ真樹。背の順番だそうです。写真が撮りやすくてよかった。
それにしても、すごく足が上っている。
クラス対抗リレーの女子の部の3走として、真樹が出場。
2走からしっかりバトンを受け取り、最後まできっちり走り、アンカーに確実にバトンを渡すことができた。毎晩かあちゃんと一緒に走った練習が役に立ったね。
アンカーのMちゃんががんばり、2位でゴール。よかった、よかった。
後で真樹に聞いてみると・・・。
「もうめちゃくちゃ緊張したわー。」
「えー、真樹ってそんなタイプやったっけ。パオパオは、全然緊張しいひんにゃけどな。」
「そうゆうふうに見えへんようにしてるから余計にたいへんなんやー。」
「ふーん、そうなん。かあちゃんに似たんちゃう?」
ここで、午前の部終了。
紫野グランドの隅には、学食の出張販売。
おばちゃんが、「予約している人はこっち。してない人はそっち」と仕切っておられた。
いい感じの学食です。
仕事があるので、ヨメさんはここでおしまい。
午後の部は、私だけで見ることになった。
「?クラブ対抗リレー」は、お昼を食べに帰っていたので見ることができなかった。男子は、バトンの代わりににんじんをリレーした野球部が優勝したらしい。女子はバスケ部。
二人三脚には、真樹と仲良しのYちゃんとで出場。
そこそこの順位でゴール。よかった、よかった。
体育祭を見ていたヨメさんの言葉。
「死ぬまでにもう一回教師の仕事したいなあ。」
何か思うところがあったのでしょう。
私はそう思ったことはただの一度もありませんが・・・。
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2010年10月01日(金)
第62回学園祭 (体育祭) [学校]
今日の真樹の笑顔を見ていて・・・。
思い出した。
ちょうど3年前の中1の体育祭。
学年1人だけの小学校から学年250人の中学校に入り、初めての体育祭。そのとき、親の心配をうれしいほうに裏切ってくれた。
自分で体育委員に立候補し、体育祭でも大活躍。笑顔を絶やさず動きまわっている姿を、私たち夫婦は遠くから目を細くして見ていたものだ。
あれからいろいろあったけど、また知り合いのほとんどいない高校に入り、ちょっと忘れかけていた笑顔が戻ってきたように思う。
今は部活はやっていないけど、ほんとは真樹は体を動かすことが大好きやもんね。
今日のように、ニコニコできる時間がもっともっと増えていきますように!
※ またもや、真樹から写真使用についてダメ出しの続出。どう使うか、現在思案中。もうちょっと書きたいんですけど・・・。
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2010年09月24日(金)
ドミノ倒しコンクール優勝 [学校]
今日、真樹の高校で文化祭のコンクールの成績発表があった。
1年の「ドミノ倒しコンクール」は、真樹のクラスが見事優勝。この夏、連日の猛暑の中、「来てくれる人が少ない」と嘆きながらもがんばった甲斐があったね。
この喜びを忘れることなく、次に・・・。
※ 今日24日は「勝手に国労応援ラン」の日ですが、「駒ヶ根高原マラソン」への出張販売の準備のため、走る時間がありません。よって、29日(水)に延期します。
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2010年09月10日(金)
第62回学園祭 〈文化祭〉 [学校]
今日、真樹の高校の文化祭を見に行ってきました。
1年は、「ドミノ倒しコンクール」でした。
今年の真樹の夏休みは、「沖縄旅行・バイト・ドミノ」で終わりました。暑い中、クーラーをつけてもらえない教室でドミノ作りに励んでいました。続けてずっと準備に来ていたのは、クラスの中の数人だけだったそうです。
でも、がんばって準備した人ほどやり遂げた時の喜びは大きいんちゃうん?
「人の写真を勝手に載せてはダメ!」と真樹にきつく言われているので、載せられる写真は上のとおりです。
一番下の写真は、とっても元気のいいカメラウーマンさん(業者の方)です。もう、声がかすれていました。プロの方が撮られた「ドミノ倒し」の写真を見せてもらうのが楽しみです。
昨日は3年生の「仰げばパレード」も見せてもらいました。私が写真を撮ろうとするとこっちに向かってポーズをとってくれたり、「ありがとうございます」と言ってくれた子らが印象的でした。(それらの写真も載せてはいけないんですよね。)
今の子は今の子なりに、しっかり楽しくやってますよ。そんなに心配することはないのかも・・・。
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※ 一枚だけ、「仰げばパレード」の写真で顔の写ってないものがありました。↓
府立病院の前あたりを南に向かっています。
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2010年08月14日(土)
第2回中古賀クラス会 [学校]
さっき帰ってきたところ。
今、「ヨッパライ、ヨッパライ」状態です。こんな状態でまともな記事が書けるか不安ですが、とにかく早く書かねば。
クラス会の会場は、宝ヶ池のプリンスホテル。
遠くから来てくれる予定の同級生がいたので、京都駅から地下鉄で終点まで来てもらったら分かりやすいやろうと思いここにした。
ところがどっこい、遠くから来てくれる予定だった2人がドタキャン。10人参加の予定が8人になってしまった。2年前の第1回が9人だったので、それを上回るのが今回の目標だったのに・・・。
最初に、前回からこの2年間の状況について、私の知っている範囲のことを説明させてもらった。相変わらず連絡の取れない同級生もいる。
乾杯の音頭は、参加者の中で誕生日が3番目に早い和幸ちゃんに。落ち着いた渋い声で、いい乾杯の音頭だった。
これは、フカヒレスープですよね。
中華料理が嫌いな人はいないだろうという理由で、この店を選んだ。
ここからは、中華料理を食べながらしばし歓談。
和佐男ちゃんがおもしろいことを言っていた。
「こうちゃんは自分ことだけしかせえへん人間やと思ってたのに、クラス会の幹事をみんなのためにするなんて意外やった。」
うーん、そう思ってる人は多いかも。でも、うちの毒嫁の解説。
「あんたは、クラス会の幹事かてみんなのためにやってるんじゃなくて、自分が楽しみたいだけのことやろう。みんなだまされてる。」
さすがです。見抜かれてます。
中古賀先生にはブルガリア時代の写真を持ってきてもらうようお願いしていたのだが、お忙しくてそれどころではなかったようだ。
先生も過ぎ去った過去のことではなく、これからの生活のほうに重点を置かれている。お母さん代わりだった一番上のお姉さんの介護、京都にいる息子さんと名古屋にいる娘さんの子どもたちのこと(先生にとっては孫)などなど。
和幸ちゃんは、このあと別所の家に帰るということでノンアルコールビール。そのほかの者もあまり飲んではいないようだった。これなら「飲み放題プラン」にしなくてもよかったかな。
やっと、中古賀先生の5年間に渡るブルガリア時代のみやげ話が始まった。私は先生と何回も連絡を取り合っていたのでそんなに珍しくはないが、ほかの参加者にとっては興味深い話であったにちがいない。
このあと左回りにそれぞれの近況報告。
周作ちゃん。
独特の間のある話しっぷりで、聞いていておもしろかった。周作ちゃんて、中学の時こんなおもしろかったっけ。
お母さんが元気で、今も田んぼをしてはるらしい。それを聞いたみんながすごくうらやましがっていた。
幸博君。
百井で養鶏の仕事をしている。次々と、鶏やひよこのいろいろな病気が発生して大変らしい。
2年前のクラス会の時、元気な顔を身見せてくれはったお父さんは、1年前に亡くなられたそうだ。
ヤッチン(靖弘君)。
ご両親の介護が続く日々。それぞれが別の施設に入っておられるので、よりいっそう大変らしい。それでもヤッチンのお父さんは、幸博君のお父さんが危篤の時、病院に駆けつけられたそうだ。
和幸ちゃん。
現在兵庫県在住だが、今日は別所から来てくれたらしい。 和幸君もお父さんが倒れられて、週末は4時間かけて京都まで看護にきているそうだ。今は、それが生活の中心になっているというようなことを言っていた。
ここでちょっと休けい。
「ピッカリコンビ」または、「ゆでたまごコンビ」で笑いをとって・・・。
明美ちゃん。
ボクらとは中1の時の1年間だけいっしょだった。それでも、今日は紅一点、よく来てくれた。
お商売をしているので、言葉の端々にシビアな発言がありためになる。ボクみたいな「甘チャン」はバッサリと切られてしまう。
今日もダンナさんのによるお迎えがあるようで、仲良し夫婦ぶりはうらやましい。
さて、私。自分のことは書くのはやめておきます。
2年前のクラス会から2年がかりで計画してたくさんの同級生に来てもらおうと努力したつもりだったが、私のひとりよがりな面もあったかもしれない。
連絡が取れなかった人、急に来れなくなった人もいたが、次にクラス会をするときには今度こそ来てもらえるように働きかけよう。それだけはみんなに言っておいた。
名古屋のゆきちゃんが送ってきてくれたお菓子を披露。富山のよりちゃんの代わりにお詫びの電話をかけてきてくださった小谷屋のおばさんの最後の言葉。「また、よりさだ誘たってな。」(自分でゆっててちょっと泣けてきた。)
うれしいこともあった。2年前はまったく連絡が取れなかったシュウタン(修平君)と電話で話すことができた。何も避けていたわけではなく、仕事が休めず来られなかっただけとのこと。「みんなと会いたい気持ちはある」とはっきり言ってくれた。次のクラス会に希望が持てる返事だった。
これらの仲間には、みんながものすごく会いたがっていることを伝えきれていなかったように思う。これからは、もっともっと小まめに連絡するようにして行こう。
和佐男ちゃん。
私が別所を出て行った3年前くらいに、入れ替わるように別所に帰ってきた。ご両親の体の具合がよくないらしく、長男としての責任感から面倒を見なくてはと思っているらしい。
双子の娘さん達たちは、それぞれちがう大学に進学し元気に活躍しているようだ。
お店のスタッフさんにお願いし、全員集合写真。
私は何回も「わろてー、わろてー」と言っていたのだが、一番笑っているのは私でしたね。
中華料理店での終了予定時刻3時を30分ほどオーバー。
そのあと、すぐお隣りにある喫茶店に場所を移した。
ホテルのロビーの広々とした場所にある喫茶店。
開放的なフンイキの中、話が弾んだ。
2年前から宿敵関係にある(?)明美ちゃんと和佐男ちゃん。というのはじょうだんで、和やかに楽しそうに話していた。
こちらは髪の毛が対象的なヤッチンと和幸ちゃん。
「もう、務めて何年になるん?」
「えーと、36年かな。ん? 二人とも高校出てずっと働いてるんやから同じやろがー。おれだけ20年とかやったらおかしいでー。」
「そら、そうやー。」
明美ちゃんから言われたためになる話。
「ボクなー、ケイタイも出ーへんし、メールも全然見いひんゆうてヨメさんに怒られてばっかりやねん。」
「こうちゃん、それはな、自分に返ってくるっていう自覚がないからやわ。私は商売してるから、電話に出なかったりメールを見なかったりしたら全部自分の身に返ってくるんやわ。何も好きで電話したりメール見たりしてるのとちがうの。仕事やから・・・。」
「うーん・・・。」
周作君とヤッチンは、今でも友だち付き合いが続いているようだ。いなかを出てしまっても、こうして付き合いが続けられるのはうらやましい。
中古賀先生のブルガリアの話で一番おもしろかったのは、向こうで「クルマ」と言えば「オチンチン」のことという話。ついでに「柔軟剤」を表す言葉は、とてもここには書けません。興味のある人は自分で調べましょう。
そして、6時前にお開き。
次回のクラス会は・・・。
A案→中古賀先生がお姉さんの介護に帰られる佐世保に集結。一日だけ時間をとってもらい、先生のガイドによる「佐世保ツアークラス会」をする。これには積み立て金が必要。
B案→私らの下の学年は5名。その下の学年はわずか2名。たぶんクラス会はしにくいはず。この下の2学年7名にも呼びかけて「拡大クラス会」をしてはどうか。こちらのほうが現実みがありそうだ。
どうなるか分かりませんが、みなさん、またよろしくお願いします。
私と幸博君はバスで帰るので、先生がバス停まで見送りに来てくださった。幸弘君は大原までバスで帰り、そこまでお兄さんが迎えに来てくださるそうだ。
同級生の中では、幸博君に一番楽しんで帰ってもらいたいといつも思っている。どうやったかな。
先生もツヤツヤピカピカやし、当分はだいじょうぶそう。これで、70歳だそうです。次のクラス会にも、ぜひ元気な顔を見せてくださいね。
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