2008年05月06日(火)
大学のクラス会 [学校]
5月4日の午後、大学時代の友だちが集まりクラス会をした。
大学を卒業して、ちょうど30年。
私が卒業したのは、立命館大学二部文学部。
私は2回生から3回生に上がる時、地理系から哲学系に移ったため、ほかのメンバーとは2年間いっしょだっただけ。声をかけてもらえるだけでもありがたい。(私に限ると32年ぶりということになる。)
最初のクラスは30人弱だっただろうか。働きながら学ぶコースなので18歳は半分、あとはバラバラで確か10歳上の人もいた。
京都出身は、私を含め5、6人だけ。こちらも北海道から九州までさまざまな所から集まっていた。
声をかけてくれたのは、九州男児・岡部四郎君。(現在、大阪在住)
5月4日にしてくれたのも、私の都合を優先してくれた結果のようだ。
私は、会場さがしを任され、ヨメさんと下見に行った「花かれん」を予約しておいた。
岡部君には参加人数を聞いただけで、誰が来るかはくわしく聞かなかった。でもまあ、「花かれん」さんは創作寿司のお店なので、誰でもだいじょうぶでしょう。
午前中の京都走ろう会例会から帰り、急いで着替え、叡電「精華大前」駅に向かった。10kmを走った後だったのでシャワーくらいはしたかったのだが、時間がなかった。ちょっと汗臭かったかも。すんません。
「出町柳」で京阪に乗り換える時、集合時間の午後1時に、もう7、8分しかなかった。ここで岡部君に電話して、先に入っておいてもらうことにした。電車に乗りなれてへんと、時間の感覚が鈍くてあきません。
10分遅れくらいで「花かれん」に着くと、私以外の5人がチンとすわって待ち構えていた。
岡部君に長谷川君、都志さんの3人はすぐ分かり、あと二人。おーおーおー、飯沼さんに三上さん。これで、男3女3。なんかええやん、ええやん。
「フジイ、走って来たんけ?」
「午前中に10km走ったし。昨日は、フルマラソン走ったし。そやし、こんなに焼けてんねん。」
まずは、乾杯。
「こうゆう時は、場の最年長が音頭とるもんなんやけど」と私が言うと、みんなが三上さんを指さす。
「えっ、三上さんて、そんな上でしたっけ。」
「うん。」(指、4本。4歳も上やったんか。大学時代しゃべったことなかったし知らんかった。)
「92歳の義理のお母さんと住んでんにゃなあ。娘と3人で。」
「えっ、だんなさんは?」・・・(以下、都合により話の内容は省略します。)
岡部君は22歳の息子と20歳の娘、長谷川君は25歳と23歳の息子+孫2人。飯沼さんは26歳と21歳の娘、三上さんは28歳の娘。都志さんはお母さんと二人暮らし。
みなそれぞれいろいろあるけど、今日のこの場に出てこれたということは、それだけで幸せっていうことや。
長谷川君のなんかの話の中で、「ヨメさんに『○○こうてこい』ってゆったりなあ。」
私「えっ、そんなえらそうにゆってんの? 飯沼さんとこのだんなさんもそんなこと言わはる?」
「そんなの、しょっちゅうよ。」
「ふぇー、一生に一回でええしそんなことゆうてみたいなあ。でも、その後どんな目に合わされるか・・・。ヨメさんに食わしてもろとる身は、つらいどー。これな、ネタでゆうとんのとちゃうねん。ほんまのほんま。ここは相手が納得するまできっちり説明せー、ゆわれとんね。」
私の真剣な説明に、一同納得。
三上さんに、4年の空白の後大学に入ろうと思ったわけや、大学時代の思い出を聞いてみた。「何で今頃そんなこと聞くの?」とは言われず、ちゃんと説明してくれた。こちらは大学時代にしゃべったことがなかったので、何もかも新鮮。
まじめな飯沼さんの言葉。
「後40年も生きなくちゃいけないのに、どうするの。奥さんのサポートができるようにならなくっちゃー。」(たぶん、40年は無理でしょう。私の予定では、あと20年。)
うーん、身にしみるアドバイスです。でも、そんな能力が・・・。
とその時、私の携帯にメール着信音が。
「いやま、グッドタイミングやわ。ボクの最後の教え子からメールや。こうゆう子からメールが来るちゅうことは、まあまあええ先生やったちゅうこっちゃ。なっ!」と自慢。
教え子ちいちゃんからのメール「こんにちは。お元気ですか? さわやかなお天気のGWですね。今日は家で修論やら大学院の資料のまとめをしています。
京都キャロットのHPを見つけたら、そこに先生のブログ発見! 楽しく見せてもらいました。」
ありがとうね。よかったら、コメントしてね。
2年前亡くなった、金沢の越野君のことも話題になった。
「秋の定期健診で肺ガンが見つかって、12月に死んでしもたんやで。早すぎるよな。」
越野君と私も、けっこう深いつながりがある。
大学卒業後、金沢の中学に採用された彼の最初の赴任地は、「医王山(いおうぜん)中学校」だった。金沢に遊びに行った時、家に泊めてもらい、翌日山間部にあるその学校にも連れて行ってもらった。その時、越野君は女子ソフトボール部の顧問をしており、私のことを野球経験者として紹介してくれた。
「ちょっとみんなに話したって。」そう頼まれて、部員の前で自分の経験を話した。ちょっとはずかしく、ちょっと誇らしげに。
ええふんいきを持った、友だち思いのええやつやったよな。(歳は、いっこ上やったけど。)
皆さんアルコール系があまり好きではないようで、長谷川君一人が飲んでいた。2時間の予定が、30分オーバー。店の入り口で、全員の写真を撮ってもらった。
店を出て、喫茶店でもということで、三条通りをぶーらぶら。しかし、どこも混みごみ。
「イノダコーヒー本店」が比較的ましだったので、待つことにした。
4人が店の中で待ち、私と飯沼さんの二人が店の外に。チャンス! 30年前なら、きっとそう思ったでしょうね。
「大学の時、しゃべったことなかったね。」と彼女。
「そうやね。ボク、一匹狼やったから。いやいやまちがい。一匹猿やったから。」
「えー」(大うけ。私はけっこう、これで満足。)
飯沼さんにも、どうして立命に入学したのか、どうして千葉に帰ったのか、どうして京都に戻って来たのかなどくわしく聞いた。ほんとに初めてしゃべりましたね。
店に入ると、4人はもうすわっていた。
私「今な、白馬にでっかいスイカ持っていった話で盛り上がっとったんや。」
「ああ、みよちゃんの。でも、フジイ、白馬来てたっけ。」
行ってません。行ってなくても、何ぼでも話合わせまっせ。
みんなそれなりに、大学生活を楽しんでたんや。私以外の5人は、4年間もいっしょやったんやもんね。私は、4年間もがいていました。
「フジイ君て、こんなによくしゃべる人やったっけ。」
「うーん、それはな、ニュージーランド旅行に行ってからようしゃべるようになってん。」と都志さん。
この、何でも知ってるよという堂々とした態度は・・・。 無理もない。何をかくそう、私は一時期、都志さんのことを親兄弟より頼りにしていた。
卒業後、何回も電話で身の上相談にのってもらった。
一回だけ、田辺の実家にもおじゃました。四国で自転車の160kmレースに出、徳島から和歌山にフェリーで渡り、そこから田辺まで自転車で行った。自転車で京都まで帰る元気がなくなり、帰りの電車賃貸してもろた。ほんま、お世話になりました。絶対、頭上がりません。
都志さんは、大学時代はふっくらほっぺが印象的だった。ところが、今はしぼんでしまった。体重は40kgしかないそうだ。
「どしたん?」と聞くと、
「皮膚ガンの治療でなあ。」と言って、前髪を上げておでこを見せてくれた。治ったって言ってたけど、だいじょうぶ? 絶対、死んだらあかんで。
2人のおっさんはおいといて、3人の女性に会い感じたこと。
それは、三人三様の個性が変わりなく輝いているということだ。安心した。うれしかった。これは、作家の文体に似ている。
都志さんの次々発射する大阪弁は、田辺聖子風?。三上さんのゆったりした話し方は、川端康成?。飯沼さんのしゃきしゃき関東弁は、曽野綾子?。
そう思うと、私には確固たる文体がないなあ。(目標はカフカなんやけど、原文読んだわけじゃなし。翻訳文体真似してもなあ・・・。でも、じれったさは似てるどー。)
またの再会を誓い、おひらき。
私は京阪電車、ほかの5人は地下鉄だったので四条通りでお別れした。
最後の最後に「両手に花」の写真を撮ってもらった。でも、この花って何の花?
◎あえて写真の説明をしませんでしたが、誰が誰か分かったでしょうか。
また、このブログを見た同級生がいたら、ぜひコメントをお願いします。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 2 )
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コメント
おはようございます。
やっとブログを見ました。
沢山書いてくれてありがとう。
たまによりますので宜しく。
私のブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/tascabile/です
こんばんは。
私のことものってるじゃないですか!ああうれしや。
学生時代の友って、なんか独特のありがたさがあるなあと思います。それぞれが自分探しに懸命でかっこ悪い時代をともに越えてきているからかなあ。