2012年11月10日(土)
小さいけれど大きいニュース [時事]
◎時事通信 11月7日(水)18時56分配信
元教員への賠償、都に命じる=君が代不起立訴訟で初―東京高裁
入学式や卒業式で、国旗に向かった起立と国歌斉唱を義務付けた東京都教育委員会の職務命令に従わず、停職処分を受けた都立養護学校元教員の女性(62)が、都に300万円の損害賠償などを求めた訴訟の差し戻し控訴審判決が7日、東京高裁であった。南敏文裁判長は請求を棄却した一審東京地裁判決を変更し、30万円の支払いを命じた。
原告側代理人弁護士によると、君が代不起立訴訟で、損害賠償が認められたのは初めて。
判決は、「不起立で女性に不利益な処分をすることは、思想や良心の自由に影響を与える」とし、戒告、減給から停職へと機械的に加重して処分すべきではないと指摘。都には、不起立による学校運営への影響など、処分の際に考慮すべきことを認識しなかった過失があるとした。
その上で、「養護学校では、教諭と児童・生徒との触れ合いが教育に欠かせず、女性はその触れ合いを特に重視していた」と判断。停職中、教壇に立てないことによる精神的苦痛は、支給されなかった給与の支払いでは回復できないと結論付けた。
女性は、都を相手に処分取り消しと損害賠償を求めて提訴。一、二審は訴えを退けたが、最高裁は停職処分を「懲戒権者の裁量の範囲を超えている」として取り消し、賠償請求について高裁に審理を差し戻していた。
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◎日経ビジネスオンライン 2011年6月3日「小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句」より
判決は気味が良かったですか?
先月の30日、いわゆる「君が代不起立訴訟」について、最高裁が原告側の上告を棄却する判決を下した。
興味深い話題だ。
が、記事として取り上げるのは、正直に言って、気が重い。
今回は、私自身のこの「気後れ」を出発点に原稿を書き始めてみることにする。
「君が代」について書くことが、どうして書き手にストレスをもたらすのか。
「君が代」の最初の課題はここにある。圧力。見逃されがちだが、大切なポイントだ。
気後れの理由のひとつは、たとえば、コメント欄が荒れるところにある。
愛国心関連の記事がアップされていることが伝わる(どうせ伝わるのだよ。どこからともなく。またたく間に)と、本欄の定期的な読者ではない人々も含めて、かなりの数の野次馬が吸い寄せられてくる。その彼らは、「売国」だとか「反日」だとかいった定型的なコメントを大量に書きこんでいく。休止状態になっている私のブログにも、例によっていやがらせのコメントが押し寄せることになる。メールも届く。「はろー売国奴」とか。捨てアドレスのGmail経由で。
私は圧力を感じる。コメントを処理する編集者にも負担がかかる。デスクにも。たぶん。
ということはつまり、コメント欄を荒らしに来る人々の行動は、あれはやっぱり効果的なのだ。
この程度のことに「言論弾圧」という言葉を使うと、被害妄想に聞こえるだろう。
「何を言ってるんだ? こいつ」
「反論すると弾圧だとさ」
「ん? 読者の側に言論の自由があるとそれは著者にとっての言論弾圧になるということか?」
「どこまで思い上がってるんだ、マスゴミの連中は」
圧力と呼ばれているものの現実的なありようは、多くの場合、この程度のものだ。
憲兵がやってくるとか、公安警察の尾行が付くとか、目の据わった若者が玄関口に立つとか、そういう露骨な弾圧は、滅多なことでは現実化しない。その種の物理的な圧力が実行されるのは、お国がいよいよ滅びようとする時の、最終的な段階での話だ。
わが国のような民主的な社会では、目に見える形での弾圧はまず生じない。
圧力は、「特定の話題を記事にすると編集部が困った顔をする」といった感じの、微妙な行き違いみたいなものとして筆者の前に立ち現れる。と、書き手は、それらの摩擦に対して、「いわく言いがたい気後れ」や、「そこはかとない面倒くささ」を感じて、結果、特定の話題や用語や団体や事柄への言及を避けるようになる。
かくして、「弾圧」は、成功し、言論は萎縮する。そういうふうにして、メディアは呼吸をしている。
当初、私は、この話題を、大阪府の橋下府知事が、起立条例の法案について語ったタイミング(具体的には先々週)で、原稿にするつもりでいた。が、その週はなんとなく気持ちが乗らないので、別の話題(IMF専務理事の強制わいせつ疑惑)を選んだ。翌週も同様。メルトダウンについて書いた。
結局、私は、書きたい気持ちを持っていながら、実現を先送りにしていたわけだ。
理由は、前述した通り、面倒くさかったからだが、より実態に即して、「ビビった」というふうに申し上げても良い。
が、いずれであれ、面倒くさいからこそ書かねばならないケースがある。
君が代は、そういう話題だ。
(以上、5ページの記事の1ページ分。この先を読むのは有料らしい。)
◎ウィキ ニュース【2011年5月30日】
君が代訴訟、教職員への起立を命じる職務命令は「合憲」- 最高裁が初判断
毎日新聞・朝日新聞によると、卒業式において『君が代』斉唱時に起立しなかったことを理由に、東京都教育委員会が定年後の再雇用を拒否したことが、「思想・良心の自由」を保障した憲法に違反するなどとして、元都立高校教諭(64歳)が東京都に対し損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(須藤正彦裁判長)は5月30日(UTC+9)に、「校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲である」とする初判断を示した。
毎日新聞によると、その上で、元教諭敗訴の二審の東京高裁判決(2009年10月)を支持し、上告を棄却。元教諭の敗訴が確定することになった。
朝日新聞によると、元教諭は、2004年3月の当時の勤務校の卒業式で、「国歌斉唱の際は、国旗の日の丸に向かって起立するように」と校長から命令を受けたものの、起立しなかったことから、戒告の処分を受けた。その後、2007年3月に定年退職する前に「嘱託員」として再雇用するよう申請したものの不採用とされたため、都に対し損害賠償などを求め提訴した。この訴訟で、一審の東京地裁は2009年1月に、職務命令は合憲としながらも、2004年3月以降は元教諭は職務命令に従っていた点などを考慮し、「裁量権の逸脱」と判断、約210万円の支払いを都に命じる判決を出した。しかし、二審の東京高裁は2009年10月に、「都には広範な裁量権がある」として、元教諭の逆転敗訴の判決を出したため、元教諭が上告していた。
朝日新聞によると、上告審においては、「再雇用の拒否が裁量権の逸脱・濫用に相当するか」などの争点については、既に第二小法廷が上告審として受理しないことを決定しているため、今回の判決は、「職務命令そのものが憲法に違反するか」のみが争点として残っていた。第二小法廷は、この日の判決の中で、「合憲である」との判断をした上で、損害賠償などを求めた元教諭側の上告を棄却する判決を言い渡した。
毎日新聞によると、今回の判決は、担当の裁判官4人全員一致の判断であった。小法廷はまず、「起立斉唱行為は、卒業式などの式典における慣例上の儀礼的性質を有し、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、特定の思想を強制するものでもない」と指摘した。但し、起立斉唱行為について、教員の日常業務には含まれないとした上で、「国歌への敬愛表明を含む行為で、『思想・良心の自由』への間接的制約となる面がある」と位置付け、間接的制約が認められるかについては、「命令の目的や内容、制約の態様を総合的に考慮し、必要性や合理性の有無によって判断すべきである」との判断基準を示した。
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◎ねっとわーく京都・2011年9月号
「憲法9条」+「ランニング」=「パオパオ」と言われる日をめざして
以下、6年前のある小中併設校の入学式でのPTA会長の祝辞です。
2005年度ご入学、○○さん、○○さん、ご入学おめでとうございます。
話は短くしてとうちの子に言われてきたのですが、どうしてもお話したいことがあるので聞いてください。
私が新入生のお二人に一番望むことは、「自分の気持ちを口に出してはっきりと言える人になってほしい」ということです。心の中にうれしいことやいやなことがあっても、言葉にしないとなかなか人には伝わりません。自分一人でうまく言えない時は、まわりの人に助けてもらってもいいでしょう。
例えば、私の話になりますが・・・。前からずっとおかしいと思っていても、なかなか口に出して言えないことがありました。それは、「入学式や卒業式での日の丸と君が代の押し付け」です。私はそれがいやで、14年前小学校の先生の仕事を辞めました。そして、14年間おかしいと思いながら、何も言わずに過ごしてしまいました。
でも、今年入学式のお祝いの言葉を言うことになり、自分の考えははっきり言おうと決めました。昔の友だちに相談すると、こんなかわいい勇気づけてくれるバッジを作ってくれました。
このバッジには、こう書いてあります。「日の丸、君が代のおしつけダメ!」
このバッジを作ってくれたのは、ある小学校の先生です。そして、このバッジをうちの家まで届けてくれたのも別の小学校の先生です。私はこの二人の先生から力をもらって、胸をはってここに来ることができました。
学校に関係のあるすべての方にお願いします。押し付けの教育は、絶対にしないでください。日本国憲法・教育基本法の精神に沿った、生き生きとした伸び伸びとした教育をお願いします。
○○さん、○○さん、自分の気持ちをはっきり口に出して言える人になってくださいね。みんな応援しています。
以下、この祝辞を述べたPTA会長からバッジを作ってくれた友だちへのお礼の手紙(一部抜粋)。
○○先生、ほんとにほんとにありがとう。○○先生のおかげで、長い長い間肩にズシンとのっていた重りが少しだけ軽くなりました。
今年は、確か「日の丸・君が代強制20周年」。教師として6年、一民間人として14年、ほとんど何もできなかった自分を情けなく思います。「生まれてくる子どもの前で胸を張って生きて行きたい」と言って教師を辞めたはずなのに、14年間そんな父親ではありませんでした。今年は、自分ではPTA会長になるつもりはなかったので、心の準備ができていなかったのですが、どうせ引き受けるなら何かやらねばと心に決めました。(ここで何もしなかったらもう人間失格!)
今日一日を振り返ると・・・。
朝、新中2と新小5の二人の子どもが家を出る前、「君が代の歌の時、イスに座って歌わへんけどびっくりせんといてな」と声かけ。上の子はちょっと動揺していた。下の子は「いいよ」とニコニコ。「○○君かって、いつも絶対歌わはらへんもん。」「へー、そうなん」と私。
子どもたちが家を出た後、パジャマ姿で祝辞の手直し。(前夜遅くまで悩みに悩んで仕上がっておらず。)原稿が完成したのは9時50分。「あと10分で始まるやん。」
急いで着替え・・・、と言ってもスーツではなく白いジャンバーです。高校時代、生徒会執行部で制服反対運動してた人間がスーツなんて着て行けますかって!(人を服装で判断するな。)
バッジ、バッジ、バッジ。○○先生手作り「日の丸・君が代おしつけダメ!」ブーちゃんバッジ。
ギリギリセーフで会場へ。
受付で「PTA会長さんは、一番前へ」と言われ進んでいくと、老人会会長の父が座っている。(おとちゃん、スーツ用意してくれたのに着んとごめんな。スーツなんて着慣れんもん着たら、今日のハードルは越えられへんねん。)
(中略)
式が終わり、会議室でお茶会。私の横に座った校長さんが顔面蒼白。(えー、どうしたん。別に個人攻撃したわけじゃないのに。そうか、誰かに何か言われはったんか。)
自己紹介の時におわび。
「私の言葉で、新入生の○○さんや○○さんのご家族に不愉快な思いをさせてしまったかもしれませんが、もしそうだったらおわびします。どうもすみませんでした。子どものためになることを見つけて努力するのが大人のつとめだと思いますので、私も自分なりにできることをがんばりたいと思います。どうか応援してください。」
心配していた父は意外にニコニコ。それに比べて自治会長さん。「今まで行われてきた伝統を大切にし、厳粛な雰囲気のある式がこれからも続けられるようお願いしたい。」(私は今までなかったくらいに厳粛な気持ちで祝辞を述べたのに・・・。)
夜、校長さんから電話。「どうしてもお話しておきたいことがある。時間をとってほしい。」「私ら給料生活者とちがうんです。いつでも年休が取れる仕事とちがうんです」といくら説明しても理解してもらえない。「こんなにお願いしているのに、どうして時間を取ってもらえないんですか」という上から口調には、私たち商売人をバカにしているような姿勢も感じられた。これからも「いやがらせ」が続きそう。
でも、今回大変やったけど、私の父やうちの子に自分のことが少し説明できたのがよかったです。また、「いやがらせ」をする人より○○君のご家族のようにこっそり味方になってくれる人のほうが多いということも分かってよかったです。
また頼ることがあると思いますが、その時は助けてください。○○先生からもらった力が少しでも広がっていくようにがんばります。
2005年4月8日 ○○○○
手紙の最後の「○○○○」は、6年前の私です。これで、私が反「日の丸・君が代」派ではなく、自分に納得できないものを強制されることに抵抗しているだけということが分かっていただけたでしょうか。
あれから6年がたち、君が代不起立処分最高裁合憲判断や大阪府の「起立斉唱義務条例」施行など、思い上がった人々を喜ばせる情勢が強まっています。「強制」から生み出されるものって、いったい何なんでしょうね。
それでも私はまだあきらめてはいません。嫌がっている人に強制することに喜びを見出すような人とも、粘り強く対話して行きたいと思っています。
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あっちこっちからいろいろと引っ張ってきて、長々とした記事になりました。(前半と後半の記事は別の「君が代不起立」訴訟です)
今回「君が代不起立訴訟で、損害賠償が認められたのは初めて」ということなのに、取り扱いが小さすぎると思って・・・。
私が思う「成熟した社会」とは、「できる限り自分と合わない人たちも受け入れられる」社会。そこに一番必要なものは、「ユーモア」であるような気がする。カンカンになって頭から湯気を出している人たちは、ユーモアにかけてる人が多いんいですよね。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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