2009年05月14日(木)
♪春のーうららのー・・・♪ [家族]
真樹 「真樹、下のメロディ笛で吹くし、かあちゃん上歌って。」
かあ 「ほいっ!」
真樹 「いくで。ぴょろーぴょろぴょろ・・・」
かあ 「はぁるのおぉーうらぁらぁのぉー・・・」
真樹 「かあちゃん、はずれてるし・・・」
我が家で笛の音が聞こえるのは、いつ以来だろう。どうやら、真樹は学校で笛のテストがあるらしい。
ついこないだも、真樹の宿題を教えてやれなくて、「なんの元教師やねん。」と言われたばかり。私はそんな言葉にまったくめげないが、ヨメさんはけっこうショックだったみたい。
役に立たん両親で、「すまんなー」。
でもな、かあちゃんはあれでもいつも一生懸命やから、あんまりゆうたんなよ。泣かはるで。
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2009年05月06日(水)
真樹の恐怖体験 [家族]
深夜2時。
真樹が突然、背中をたたかれ起こされる。
「これ、あけて。」
これとは、掃除機。
わけが分からんかったが、真樹は掃除機のパック部分をあけた。
「あけて」と頼んだ当事者は、それで納得したようだ。「ありがと」と言って、そのあと掃除機をかたずけた。(朝、「あけて」と頼んだ彼女に確認したところ、掃除機が自分のバッグに見えたらしい。)
そして、二人とも深い眠りについた。
おー、こわっ!
これは、確実に恐怖体験です。
私もお化けとかは全然怖くないけど、生きてる人間が一番怖い。
真樹、怖かったやろなー。
朝、それを一番に話してたもんなー。
(注)5月2日の「CASA MIA」(イタリアレストラン)の記事を書き終えました。よかったら見てください。
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2009年05月05日(火)
こども様様の日 [家族]
今日は祝日「こどもの日」。
しかし、「こども」とはちょっとえらそう。「こども様様の日」にしたら・・・、おかしいかな。
うちには二人「こども」がいます。高3の廉と中3の真樹。
二人とも受験生。
廉は、今日は一日「模試」。こどもの日だというのに気の毒に。理数系はバッチリだったそうだが、英語がもひとつだったらしい。私の正反対やね。
真樹は、午前中からりなちゃんちへ。お昼は、カップラーメンとご飯とギョウザをいただいたそうだ。同学年じゃないのに、気の合う友達が見つかってよかったね。
夕方から、あーちゃんがお泊りに来てくれた。友だちがお泊りに来てくれるのも久しぶりやね。これからももずっと仲よくね。
いい話をひとつ。
廉が小6、真樹が小3くらいのときかな・・・。
雪がいっぱいあったときなので、1月か2月。
当時住んでいた花背別所町は、こどもたちが集団登校していた。
いつものように、もうみんなで行ったのかなと思っていたとき、ずぶぬれになった廉が家に戻ってきた。
「どしたん、廉!」
「真樹が長靴、川に落としてしもて、拾いに行ってきた。」
なかなか来ない友だちを待ちくたびれて、雪を蹴飛ばしていたら、長靴が足からスポッと抜けて川に落ちてしまったらしい。
これは一大事。ドンブラコッコと流れていく長靴を追いかけ、凍りつくような川に入っていった廉。ちゃーんと取ってきました。
頼りになる兄ちゃんじゃー。これは、ほんまにえらかった。このとき、初めて廉に「負けたー」と思ったな。
大人のカチンカチンの頭では思いもつかんようなことを次々とやってくれる「こども」。これはやっぱり「こども」というより「こども様様」です。
【注目!】 今日の「ラスティックなひとりごと」は、犬好き必見です。私のブログのリンク集からどうぞ。
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2009年04月27日(月)
毒嫁、マグマ噴出! [家族]
昨日、「日吉ダムマラソン」の後片付けが終わり、「レストラン桂川」で食事をした。
私は「牛卵とじ丼」、ヨメさんは「薬膳ラーメンセット」を注文した。
そのラーメンは、「白・黒、・赤」の3種類。ヨメさんはおなかの調子がよくないと言っていたので、てっきり白(豆乳)か黒(黒豆)にするものだと思っていた。
私がトイレに行っている間に注文し、運ばれてきたのは赤いスープのラーメンだった。
「なんで? これは体が刺激を求めてんのか。」
そういえば、最近ますますヨメさんの夫批判がきつくなっている。
その中でも最多パターンは、「かしこぶんな!」というやつ。「家族もしっかり守れへんのに、何の平和じゃー」
ごもっとも。
でも、家族崩壊しかけようとも、人格破綻しかけようとも、平和は守らんならん。それさえなくなったら、私の存在価値はゼロ。
かしこぶってるわけじゃないけど、どうしてもにじみだす教養が・・・。
「なにを寝ぼけたたわごとを・・・。バスッ、ボコッ、ドスッ、バチコーン!」
おしまい。
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2009年04月13日(月)
サッカー少年・レンピョウ [家族]
昨日、京都ランナーズの例会のあと、紫野高校に向かった。
廉がサッカーの練習試合に出るかもしれない。
高校に入るとき、親としては陸上部に入ってほしかった。でも、本人は団体競技をしたかったらしい。いなかの中学校で、学年二人しかいなかったのだから無理もない。
ただし、サッカーが特別得意であったわけではない。陸上部に入っておれば、長距離では抜きん出ていただろうに。残念ながら、サッカーではレギュラーへの道はほど遠かったようだ。
あと数ヶ月で引退。
2年間、公式戦にも出してもらえないのに、よく休まずに、よくやめずにがんばったものだ。その姿は、しっかりと見てやりたい。
11時半ころ、紫高のグランドに着くと、目の前に廉がいた。練習試合に出してもらっている。すぐに、ヨメさんに電話。
「廉、試合に出してもうてんでー。」
「そっかー。それやったら、すぐ行くわー。」
ヨメさんが到着する直前に、前半が終了してしまった。後半も続けて出してもらえるのだろうか。
試合のほうは、去年見たときよりずっとスピード感がありおもしろかった。廉も確実に力をつけている。
ただし、廉は小さい! どう見ても、「サッカー少年」。
廉は、悲しいことに、まだ私の身長を抜かせていない。私の子ども時代よりずっと食糧事情はいいであろうに。なんで? 試合に出ている子の中でも、小さくて見つけやすかった。
ヨメさんが到着した後半は、サイドチェンジで正反対の場所に行ってしまった。私達が見ていた場所から一番遠いところ。
でも、愚痴は言うまい。出してもうてるだけで、けっこうけっこう。
後半は疲れてきたのか、相手チームに攻め続けられていた。ここぞ、ディフェンダーの廉の活躍しどころだ。
しかし、私の横で、「レンピョちゃん! レンピョちゃん!」と、ヨメさんがやかましい。
廉が生まれたとき、香港の映画スター・ユンピョウが活躍していた。それをまねて、廉のことを、よく「レンピョウ」と呼んでいたものだ。ヨメさんは、17歳になっている廉に、まだこの呼び方をしている。知らん人が聞いたら、気色悪いどー。
廉は、「大学入ったら、陸上部に入ろっかなー。」とか言っている。
ただし、これで喜ぶのは禁物。廉は、親が喜ぶようなことをわざと言うようなところがある。
どうすんのかなー。
かあちゃんに、「レンピョちゃん!」と呼ばれんようになる日は、いつ?
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2009年04月09日(木)
久しぶりにおじいさん(父・善一)と [家族]
昨日の夜、約2か月ぶりにいなかの家に帰った。
ところが、市原交差点の道路掲示板に「花背峠・夜間通行止」の文字。
「あちゃー、早くもとんぼがえりかー」
ガードマンのおっちゃんが立ってはったので聞いてみた。
「通行止めは10時からやから、まだ間に合う、だいじょうぶ。」
ぎりぎりセーフだった。
昨日帰ったのは、長くしゃべっていないおじいさん(私の父)に会うためだ。
父は、深泥ヶ池近くに住んでいる私の姉夫婦の家にはよく行っているらしい。だから、父の様子は姉から間接的に聞いてはいる。今年の冬はちょっと元気がなかったらしい。たまには、しゃべりに帰らんとね。
それに、うちのバイトさんから預かっているバレンタインデーのチョコ、まだおじいさんに渡してへん。ヨメさんと真樹からの分も。おじいさん、おこっとるで、きっと。
暖かくなったとはいえ、夜10時前の花背峠は7℃だった。昼間は暖かいが、朝晩はまだまだ。
修理の終わったうちのおふろに初めて入った。いなかのおふろは、今のおふろの1.5倍くらいの大きさ。足を思いっきり伸ばしてゆっくり入ることができた。
そして、今日の朝。
うちの家から300m北のおじいさんの家に行った。
うちの家は、いなかでは「かんろくのいんきよ」と呼ばれている。別所下の町の「かんろくのおもや(本家)」のとなり。
しかし、13年ほど前、道路の拡幅計画にかかり、家は取り壊しになった。おじいさんは、300m北のうちのたんぼだったところに家を新築。それ以来、私の兄夫婦と同居している。
道路工事が終わり、狭い土地が残った。
ちょうどそのころ、うちの廉が小学校に入る前。都会のせせこましいところではなく、いなかの伸び伸びしたところで育てたかった。
そこで、ちょっと無理をして、私たちも家を新築。廉が中学校を卒業するまでの9年間、そこに住んでいた。
ここら界隈で、「藤井善一」を知らない人はいない。私も父のおかげでどれだけ大きな顔をさせてもらったか分からない。うちの子らも、私の父をはじめ地域の方々のあたたかい目で育てられた。(こんなときに、「はぐくまれた」という言葉を使うのでしょうか。)
今では、夏休み冬休みにちょこちょこっと帰る程度。でも、子どもたちにとっても、そこは今でも大事な場所ではないだろうか。
12年前の餅まき(上棟式)の日(1997年6月)。私の兄が写真を撮ってくれていた。なつかしい写真を公開。
朝9時過ぎにおじいさんの家に行くと、おじいさんは家の前の草むしりをしていた。
チョコと日本平のみやげのまんじゅうを置いて帰ろうとしたら、「茶でも飲むか」。そこから1時間半ほどしゃべった。
おじいさんは心配したほどもなく、意外と元気だった。
おじいさんの話は大きく分けて三つ。
?別所界隈の最近の話題(特に、自分が長年かかわった「花背山の家」の話題)、?近所の方でなくなった方、病気になった方の情報、?旅行の話。
私はどの話も好きである。
「だれだれが死んだ」という話はちょっとつらいが、それ以外はどれも楽しそうに話してくれる。歳をとって一番大切なものは、「話し相手」ですね。
そろそろ帰らなくてはならなくなったとき、「おじいさん、ゆっとかなあかんことがあんねん」と、私がきりだした。おじいさんは、一瞬真顔に。
私はオチャラケで父を喜ばせるのが役目。父にまじめな話などしたことがない。
唯一の例外は、1991年3月31日。次の日の新聞に、教職員異動退職の報が出る。私は父に話もせず、その日(退職)を迎えようとしていた。しかし「それはないわな」と思い返し、前日の夜、2ヶ月前母を亡くしいなかで一人暮らしをしていた父に会いに行った。
そのときも、父は「そうかー」と言って、何事もなかったかのように話し続けていた。私の父は、どんなことがあっても私の味方です。
「実はなー、真樹がなー、・・・(以下都合により省略)」
「そうかー、そんなもん、何ぼでもあるこっちゃ。・・・はー、そら、よかったな。まあ、いろんなことがあるわい。」
(このあたりの会話、なんのことかよく分からないと思いますが、ブログに書くのはここらが限界。お察しください。)
私の父は、私の家族のつよーい味方でもあります。孫のことも、いつも心強く見守ってくれています。
おとちゃん、まだまだ死んでもろたら困るでー。
せめて、月に1回でもしゃべりに帰ろう。
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