2009年02月09日(月)
クーファミリーとよんなぁよんなぁさん〜「犬」沖縄〜 [沖縄]
さあ、今回の旅のメインイベント。(というか、去年の夏の旅も「クーちゃん親子」がメインやったね。子犬は7月4日生まれで、まだ生後1ヶ月にもなってなかった。)
午前中、竹富島観光をし、いったん石垣島に戻り昼食。午後1時30分発の「西表島上原行き」の船に乗る。
エコツーリスト「よんなあよんなぁ」さんにお願いした、「ゆるいエコツアー」。
「ワンちゃんをメインにお願いします」とメールしておいたら、いきなり港でこのお出迎え。もう、うれしすぎます。
◎ここで、西表島の基礎知識を(@西表島より)
西表島の概要
西表島は沖縄本島から400km南西にある八重山諸島のひとつで、台湾からはわずか200kmに位置する。ちなみに東京からの距離は2100km。
気候は亜熱帯に属し年平均気温は23℃前後。夏のジャングルは湿度90%を超えることもあり、蒸し風呂状態。12月までセミが鳴き、蚊にいたっては一年中飛び回っている。
ただし冬(1〜2月)は強い季節風の影響で体感温度は低く、意外と肌寒い。年に数日、11〜2℃まで下がることもあるが、そういう時は川や浅瀬の魚が寒さで仮死状態になり浮かんでくることも。
台風は夏場に頻繁に来襲する。そのため最近の家屋はスラブ屋と呼ばれるコンクリート製が多い。最近では2006年9月の13号台風は最大瞬間風速の記録を30年ぶりに更新し、島の生活と自然に甚大な被害を与えた。
※追記 2007年9月の台風でも観測史上2番目の最大瞬間風速を記録した。温暖化による台風の強力化が心配される。
第一章 干立の「チャーチャ」とクーとスー
よんなぁよんなぁさんのお家は、西表島の一番北にとがったあたりの住吉集落。そこから西南に数キロ行ったところ干立(ほしだて)にチャーチャ(オス)がいる。
飼い主さんはお留守だったが、「言ってあるので・・・」ということで浜に連れ出し、いっしょにお散歩。
もらわれた当初、体の毛が半分以上抜けてしまいどうなる事かと心配していたが、いまや立派な青年犬に。スーちゃんよりふた回りほど大きい感じ。それでもうちのきくより細く見えるのは、なーんでかな。
ロープをはずすと、一番にスーちゃんが海に向かって駆け出した。それを追いかけるチャーチャ。クーちゃんはあまり海が好きではないらしく、砂浜掘り開始。大事な大事な石を埋めるつもりらしい。
しばらくすると知らぬ間に、クーちゃんも水遊びの仲間に入っていた。2ひきの楽しそうな様子につられたのかな。それとも、私たちお客さんへのサービス?
最後には、チャーチャとダッシュまでさせてもらった。
それにしても、ワンちゃんたちが遊んでいる姿は見あきることがない。水にぬれてもいいかっこうをしていたら、いっしょに海に入るとこやったのに、残念!
第二章 祖納の「キラ」+アルファ
干立からさらに西南に少し行ったところ祖納(そない)に、キラ(オス)がいる。
クーちゃんのだんなさんだった初代「キラ」の飼い主さんが、「キラ」が死んでしまったのでその子をもらってくださった。名前も同じ「キラ」と名づけ、かわいがっておられる。
飼い主さんは、よんなぁよんなぁさんの農作業の師匠でもある「ノージ」さん。本名は星さんだが、「星の王子(ホシノオージ」から「ノージ」さんになったらしい。
どうか、二代目キラちゃんが長生きできますように・・・。
ノージさんの話によると、二代目キラは、初代キラよりそのお父さんにそっくりだそうだ(おじいさん似)。私から見ても、チャーチャの方がお父さん(初代キラ)に似ているような気がする。
私があんまり犬の話ばかりするもんで、「犬の研究家の方ですか」とノージさんに言われたのにはまいった。(これから、「日本雑種犬研究協会会長」を名乗ろうかなあ。)
ノージさんのおうちのすぐ上には、ヤギ牧場(?)。小っちゃいヤギは、柵のすきまから脱走していました。
どうやらこのヤギさんたちは食用らしい。沖縄ではヤギはすごいごちそうなんです。
そのまたおとなりにかわいいワンちゃんが。
日石にお勤めの方が飼い主なので、名前は「ダッシュ」。いい名前です。
ノージさんにことわって、キラちゃんをレンタルして浜へ。さっきクーとスーとチャーチャ3びきが遊んだ干立の浜の対岸です。
向こうの浜はゴミ一つないきれいな浜だったのに、こっちはペットボトルなどがいっぱい。
よんなぁよんなぁさんの話によると、潮の流れでこんなちがいがでるそうだ。ペットボトルを手にとって見ると、「上海」「天津」「台湾」の文字。何年か前は韓国のものが多かったが、今は中国のものが多くなっているらしい。
ボランティアで浜のゴミひろいをしているが、最終処分場が西表にはなく石垣まで運ぶ。その費用も自治体からの負担(援助)が一切なく、ボランティアに重くのしかかっているとのこと。おかしいですよね。
私たちが祖納の浜で遊んでいる間、クーとスーは車でお留守番。窓を全開にしていても絶対に飛び出しはしないそうです。かしこ!
第三章 風の牧場の「ファイト」+アルファ
キラをノージさんちに返し、高台の方へ。
そこは、以前祖納の中心だったそうだ。今は民家は一軒もなく、黒牛の牧場があるだけ。戦時中、日本軍の高射砲基地建設のため家を移すことを強制されたらしい。
前津さんという方がやっておられる風の牧場には、ハブに4回かまれた犬「ファイト」がいる。このワンちゃんもすごく人なつっこかった。(ファイトは、クーファミリーではありません。)
このあと、舗装してない裏道へ。この道を知っている旅行者はいないでしょうね。
バス通りを横断し、祖納の診療所の前の田んぼへ。
そこは、よんなあよんなぁさんの田んぼがあるところ。田植えは半分終わっていた。
私の経験から言うと、苗が田んぼに沈みすぎのような気がしたが、「全然だいじょうぶ」らしい。
すぐ横の立派なお墓では、お墓そうじに来ておられる方が多かった。2月10日は亡くなった方のお正月で、家族みんなが集まりお墓の前で宴会をされるらしい。こちらにはそんな風習はないが、いい行事ですね。
こうして、その地方の風習を見ておくこともいい勉強。ただ景色などを見る素通り旅行者では、ダメ!
よんなぁよんなぁさんは、この日の宿「民宿さわやか荘」まで送ってくださった。
本当に、よんなぁよんなぁさんには何から何までお世話になった。クーちゃんファミリーは4ひきともさわりほうだい。何ぼさわっても、全然怒らない。うちのきくやったら、めっちゃかまれてるとこや。
こんな気持ちのいい大自然の中を走り回っているから、こんなかわいいワンちゃんに育ってるのかなあ。
「真樹も、どう?」
パオパオは、もうちょっとここにいたいなあ。
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2009年02月08日(日)
ホエールウォッチング〜「鯨」沖縄〜 [沖縄]

午前中はレンタカーを借り、渡嘉敷島を一周。昨日走っていない久比里原林道にも入ってみた。
海岸沿いの道路はアップダウンがきつかったが、絶景だった。桜やつつじまで咲いているのには驚いた。
「今、何月やったっけ?」
きついコースなのに、島一周の部が人気なわけが分かった。海や花を見ながら、ポカポカしたところを気持ちよく走れるわけですね。
昨日の3kmコースを走っている時、犬の鳴き声がしていた。レース中で見られなかったので、確かめに行くと、いましたー。かわいいかわいいワンちゃんたち。
一応、資材置き場の番犬だと思いますが、人なつっこくて番犬失格かも。(両方オスでした。)
お昼12時ちょうど、「フェリーけらま」が出発。このフェリーは毎日泊港を往復している定期船。
普通ホエールウォッチングは5000円ほどとられるのだが、この特別便は2000円。渡嘉敷港の受付で2人分4000円を払おうとしたら、「○○のご厚意により、無料になりました。」
「ラッキー、ポン!」
港から東に向かって30分ほど。ここが、クジラ目撃情報が入った第1ポイントらしい。
しばらく停泊して海面を観察したが、潮吹きが見られず。もう、すでにどこかへ去ってしまったようだ。
今日は昨日に比べると、曇り空でやや肌寒い。船に受ける風も強く、もっと服を着てきたらよかったと後悔した。
船は、続いて第2ポイントへ。
いきなり見える白いしぶき。いましたいました大量に。
ただし、写真に撮るのがめちゃくちゃむずかしい。何の目標もない広い海面にいきなり出てくる鯨を撮るって・・・。これはデジカメじゃなく、昔風ののぞきながらシャッターを押すカメラの方がいいのかも。
なんか、写真ではようわかりませんが、とにかくいっぱい鯨を見ました。一回だけ大ジャンプ(ブリーチングとかいうらしい)も見ることができ、よかったです。(写真には撮れなかったけど。)
鯨を見ながら思ったこと。
「京都盆地に、水族館はいりません。」
今、京都市の梅小路公園に水族館建設が計画されている。動物園は仕方ないにしても、海に囲まれた日本なら海の生物はできるだけ海に行って見てほしい。
今日も、「見れるかどうか」とドキドキしながら待つことができた。いつもいつもガラスの向こうにいる海の生物なんか、京都盆地で見てどうやろうと思ってしまう。
「京都市に水族館はにあいません。」
もしこれを強行したら、前市長が強行しようとした「鴨川のフランス風の橋」の二の舞になるのでは。(結局あれは集中砲火を浴び、ポシャリました。)
去年の8月、沖縄本島の海でシートレック(海中散歩)をした。直接、海の中で魚にエサをやることもできた。
そしてその翌日、あの有名な「美ら海水族館」へ行ったのだが、前の日の印象が強すぎてあまり感動がなかった。
そんなもんなんですね。
この時期、ほぼ100%鯨を見ることができるそうだが、もし見えなかったとしてもそれはそれでしょうがない。ここは水族館じゃなくて、自然の海なんやから。
2時過ぎに船は渡嘉敷港に戻り、そこからレンタカーで阿波連の宿「シーフレンド」へ。
おそいお昼ごはんは、「沖縄そば」。船で冷えてしまった体に温かい沖縄そばはしみました。おいしかった。真樹もぺロリンとたいらげました。
お支払いを済ませ、宿の送迎車でまた渡嘉敷港へ。
帰りのフェリーで、またダーデンちゃんといっしょ。
たった二日だが、いい思い出ばかり。何とか来年も来たい。
午後3時30分発の「フェリーけらま」で、那覇泊港へ。
そこから那覇空港までタクシー。午後7時30分発の飛行機で石垣へ。
泊港からタクシーに乗った時、渡嘉敷島から石垣島へ行くことを話すと、「ハードスケジュールで、奥さんもたいへんですねー。」やって。
真樹は、今まで小学生にまちがわれることはしょっちゅうだったが、「奥さん」はねえ・・・。
真樹が成長した? それとも、私が若く見えた?
「真樹が20歳、私が40歳に見えた」でどうでしょう。
「ちがうか?」
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2009年02月07日(土)
第4回鯨海峡とかしき島一周マラソン〜「走」沖縄〜 [沖縄]
ヨメさんときくに京都駅まで送ってもらい、「はるか」で関空へ。那覇空港から泊港までタクシー。泊港のすぐ近くのホテル「ラッソ那覇泊港」へ。
晩ごはんは、ホテルの近くの「ちぬまん」へ。おさしみの盛り合わせや揚げ物がおいしかった。7時半までは生ビールが100円だったので、三杯も飲んでしまった。
個室があったので、真樹も気兼ねすることなくパクパクと食べていた。
夜、寝る前の会話。
「パオパオなあ、申告タイムレースと10kmの両方優勝ねらってんねん。」
「へー。もし、それできたらほめたげるわー。」
わずか3週間とは言え、真剣に練習した。申告タイムレースの優勝確率は50%、10kmの優勝確率は70%のもくろみ。
渡嘉敷島行きの「フェリーけらま」の発券場は長蛇の列。9時出発の予定がかなり遅れた。
フェリーにかわいいワンちゃんが乗っていた。仲村渠(なかんだかり)さんファミリーのダーデンちゃん。このあと何回も何回もお会いすることになる。
渡嘉敷港のすぐ向こう側がマラソン会場(渡嘉敷小中学校)。
グランドで開会式と準備運動。
1時スタートの一周の部につづき、1時20分いよいよ3kmの部がスタート。天気は快晴。気温は23℃くらいらしい。去年同じ時期にあった「やまねこマラソン」は、嵐になり気温は10℃近くまで下がった。えらいちがい。
練習の時の足音を思い出してっと。このくらいのペースでいいんかな。真樹は1kmくらいまでついてきたが、徐々に遅れだしてきた。
でも、折り返しで真樹に会ったとき「真樹!」と呼んだら、ニコッとしていた。楽しそうに走っている。よかった。
ゴールして記録証をもらってビックリ。
「15分16秒? ああん?」
今までの練習はなんやったんやー。どんなに悪くとも、20秒以内には入れると思っていたのに・・・。優勝確率50%? とんでもなかった。
でも、ということは遅れている真樹に入賞のチャンスあり。気持ちよさそうにゴールした真樹は、16分17秒。13秒差。これはいけてるかも。
ゴール近くにいた方にお願いして、真樹とのツーショット。これは貴重な写真です。
このあと体育館に入り、急いで着替え。2時スタートの10km。人数は少ないが、速そうな人ばかり。
今日はこっちも気合が入っています。いつものカメラは封印。真剣に走ります。
スタート直後は順調。直前に走った3km申告タイムレースがいいウォーミングアップになっている。
1kmも行かないうちに、50代と思われるランナーに先行された。できるだけついていこう。と思っているうちに、もう一人50代と思われるランナーに追い抜かれてしまった。
「自分の走りをしよう。めざすは大会新記録。それで優勝できなかったら仕方ない。」そう自分に言い聞かせ、イメージ通りの走りを心がけた。平坦地は小鴨由水さん、上り坂は中村彦四郎さん、下り坂は大塚正美さん。ほぼ思い通りの走りができた。
中間点(宿泊先である「シーフレンド」さん前)で、22分39秒。予定通り。
ちょうどそこに、フェリーでお会いした仲村渠さんの奥さんと中学生の娘さんとダーデンちゃんが。心強い応援ですね。
さあ、前を行くお二人ともそんな差はない。後半がんばったら、追いつけるかも。
私は快調に走っていたのだが、私の前を行くお二人は私以上に快調だったようだ。差は縮まるどころか開いてしまった。
そして、そのままゴール。記録は、46分13秒。大会記録を9秒更新。よう、がんばりました。ただ、その前にお二人おられたので3位。これは、しゃーない。
真樹にゴール写真を撮ってもらった。
50代の部の優勝者を見つけたので、少し話をさせてもらった。
大内俊二さん。山口県の下関市立大学の教授。私より1歳下だった。
「ひそかに優勝ねらってたんですけど・・・」と言うと、「遠くから来られているのに申しわけなかったですね。」でも沖縄から見れば、山口も京都もそんなに変わりません。ちなみに、ゴール前で大内さんを追い込んだ2位の方は東京の方だとか。
「そのシューズを見て、優勝ねらっておられるなあと思いました。」
私のシューズは、ハデハデのゲルヌーサトライ。沖縄のマラソンにはピッタリだと思ったが、これがいい目印になったのかな。
大内さんは44分台で優勝。それでも平坦地の10kmレースより5分近く遅かったそうだ。ということは、かなりの力の持ち主。
「私、来年43分台めざしますし、また対決しましょう。」
ゴール後しばらくして記録掲示板を見てみると、真樹の名前が。13秒差で5位入賞。
「やったー。」
宿に帰る都合があったので、役員さんにお願いし、先に賞状とメダルをいただいた。(本当は表彰台でもらいたかったな。)
しっかり走ったから、この結果があるんやね。パオパオは3km、10km両方あかんかったけど、真樹の入賞で大満足。
ちょっと早めに宿に帰り、そこいらをお散歩。すぐ近くの阿波連ビーチまで行きました。
ばんごはんはバイキング。泊まっておられるお客さんは、マラソンの人よりダイビングの人の方が多いようでした。
旅行の最初にうれしいことがあった(真樹の入賞)ので、この先も楽しく過ごせそう。
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2009年02月06日(金)
いざ、沖縄 [沖縄]
今日の午後から沖縄へ。今回の旅行の予定は・・・。
2/7(土) 走
2/8(日) 鯨
2/9(月) 犬
2/10(火) 皿
シンプル!
しばらくブログの更新ができませんが、いいニュースがあれば眞寿美さんに報告します。
では、・・・。
☆「ロード・トゥ・トカシキ」21日目
今日は朝から、きくと超スロージョグ2km。
「しばらく、パオパオとは散歩でけへんからな」と言い聞かせたら、分かっているようだった。
17分52秒、じっくり味わいながら走りました。
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2008年11月06日(木)
佐渡山豊in琵琶湖ライブ 〜変わりゆく時代の中で〜(11/3)・続き [沖縄]
第2部は、いよいよ佐渡山豊さんのコンサート。
誤解を恐れず言わせてもらうと、「まだこんな歌手がいたんや」。
プロフィールには年齢が書いてなかったが、ネットで調べると私の5歳上。50代半ば。
私が若いときは、こういうタイプのフォーク歌手の全盛期だった。社会に対するメッセージを魂の底から歌い上げるタイプ。
沖縄出身なので、もちろん沖縄がかかえる問題・・・一番は米軍基地に関わる歌が多かった。
それにプラス、集団自決の問題、琉球人差別の問題(人類館事件)、死刑制度に関する問題、などなど。
私が一番心に残っているのは、「日の丸・君が代を指導せよと、校長がヒットラーのように言う」というフレーズが入っていた歌。題名はおぼえてていないが、沖縄の言葉の題名だったように思う。
こんなことを歌にして歌ってくれていた歌手がいたんや。ありがとうございます。これからも、この歌を歌い続けてください。
コンサートの様子を文章で説明するのは本当にむずかしい。これは、実際に聞いてもらうしかないと思う。
今回は、「佐渡山豊&SwingMASAライブコンサート」。
全曲、謎の(?)サックス奏者とのジョイントだった。
主催者からもらったチラシには、ふたりのことを以下のように紹介してあった。
■佐渡山豊プロフィール
沖縄、コザ(現沖縄市)生。1995年「ドゥチュイムニー」が泡盛(菊の露酒造)のCMに起用され、大きな話題となる。1997年、アルバム「さよならおきなわ」を発表。
関西、関東はじめ四国や北海道など全国各地で精力的にライブをおこない、2004年5月にはNY在住サックスプレーヤ―のMASAとN.Y.PEACEツアーを成功させ、着実に活動の幅を拡げている。現在、新年リリース予定の新CDを製作中。
■SwingMASAプロフィール
中学入学と同時に吹奏楽部でサックスを吹き始める。高校時代、JohnColtraneのMyFavoriteThingsを聞いてJazzへと傾倒してゆく。1987年、コンサートの収益金と、支援者の出資金でJazz修行のためNewYorkへと渡る。1996年、NewSchoolUniversityJazz&ContenporaryMusicを卒業。在学中、ReggieWorkman、BillyHarperらに師事する。1997年、JazzSaxophonistとしてビザを取得。1999年、演奏活動の実績が認められ、グリーンカード(アメリカ合衆国永住権)を取得。2001年、大阪府よりプリムラ奨励賞を受賞。NewYork、Harlem在住。アメリカと日本を往復しながら、演奏活動を続け、現在に至る。
Feminist、Pacifist、Vegetarian、Ecologist、死刑廃止運動はライフワーク。
全部で何曲聞かせてもらったのだろう。
ほとんどお話はなく、次から次へと歌われていった。
佐渡山豊さんは見かけによらず(すいません!)、すごくきれいないい声だった。
MASAさんのサックスは、嘆きの表現が秀逸だった。
「そうか、あんなふうにもふけるんや。」
自己紹介の時、死刑廃止運動に力を入れておられるとのことだったが、なにをきっかけにそこに力を入れられるようになったか、もう少しくわしく聞きたかった。ちょっと残念。
コンサートの様子を文章にするのには限界がある。
機会があれば、ぜひもう一度行きたい。人にもすすめたい。そう言うのが精いっぱいです。
コンサートが終わり、最後のあいさつも終わり、ホールを出た。
出口で、高間悦子さんを発見。参加者のみなさんにお礼を言っておられた。
「高間さん、京都の藤井です。今日は、先生のお話もコンサートも両方よかったです。」
「ありがとうございます。よく来てくださいました。藤井さん、ちょっと、こっちこっち・・・。」
「えっ、なんですか。」
「うちの主人です。」
「いつもお世話になってます。と言っても、今日のようなイベントしか参加させてもらってないんですけど・・・。」
「藤井さん、実は私、ついこの間も沖縄に帰ってたの。これ、おみやげです。」
何の役にも立っていない私におみやげなんて。申しわけない。いつか必ず何かのお役に立てるように、努力します。ほんとうにありがとうございました。(想定外の出来事で、うれしかった。)
2階の階段前には、滋賀・沖縄県人会の方々のお見送り。会場を出る一人ひとりにお礼のあいさつをされていた。
その時思ったのだが、こういったイベントの中で、短時間でもいいから沖縄県人会の普通の方のお話を聞けないものだろうか。普通の人の普通の話の中に、沖縄を考えるさまざまなヒントがかくれているような気もする。
会場を出る前、佐渡山豊さんのCDを展示販売してあるコーナーを見てみた。私がもう一度聞きたいと思った曲は、そこにあるCDには入っていなかった。「新年リリース予定の新CD」っていうのが、要チェックですね。
その代わりと言ってはなんですが・・・。
CDの横に、松島先生の著書が。
「琉球の『自治』」。目次を見るだけでも、ワクワクする。石垣島の開発史、西表島の開発史、「日本復帰」と奄美諸島の開発、琉球の開発と米軍基地、八重山諸島における「経世済民」の実践、琉球独立を巡る動き、・・・。
全344ページ、2940円。
今日は、1時間の講演を集中してしっかり聞くことができた。
このぶ厚い本も、絶対最後まで読む。期限は、今年中。
負けへんでー。
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2008年11月05日(水)
佐渡山豊in琵琶湖ライブ 〜変わりゆく時代の中で〜(11/3) [沖縄]
11月3日の夕方、滋賀県栗東市の「さきら」へ。
10/10のブログに書いたとおり、「高間悦子さんを取るか石井慧選手を取るか」。だいぶ思案した上で、滋賀・沖縄県人会のこのイベントに参加することにした。
主催は、「滋賀・沖縄県人会」にプラス「連帯ユニオン関西地区生コン支部・京津、湖東ブロック・朝日分会」。
なにやら長い名前だが、非正規労働者の組合らしい。
「分会」という言葉を久しぶりに聞いた。
私が小学校教師をやめたのは35歳の時だったので、もちろんヒラ。ただし、市教組・雲ヶ畑小中分会の分会長だった。「長」のつく肩書きは、あとにもさきにもこれだけです。(おっと、別所PTA会長を忘れてた。3年前にやりました。)
3時間の予定のイベントは、第1部と第2部に分けてあった。
第1部は、滋賀・沖縄県人会の三線演奏と、龍谷大学准教授・松島先生の講演「琉球の自治」。
第2部が、佐渡山豊ライブコンサート。
小ホールはほんとに小さく、100人も入ればいっぱいになりそうだった。
私が入った時にはもうほぼ満席で、一番前のパイプイスの席くらいしか空いていなかった。一番前だと写真も撮りやすいし、かえってよかったかも。
6時ちょうどに、三線の音色が・・・。
前列には、2月の時に紹介されていた中学生の男の子とお母さん。がんばって続けてはるんや。
総勢11名。後ろでちょっと見えにくかったが、高間悦子さんの姿も。
主催者を代表して、高間悦子さんのごあいさつ。
いろいろとお話されたが、いきなり、「私たちが暮らすこの滋賀にも、いまだ沖縄差別が残っています。」
こういう言葉をはっきり言える人、それが高間さんです。さすがです。
きっと、今までさまざまな圧力と戦ってこられたでしょう。
昨年は体をこわされ、2月のイベントの時も顔色がよくないように見えたが、もうだいじょうぶそう。よかった。
最後の方に言われた言葉もよかった。
「どうぞ、興味のある方は、三線クラブにいらしてください。ただし、ただ三線をひくだけでなく、沖縄全体の問題を考えていただける人しか受け入れられません。」
スパッ、スパッと話される様子は見ていて実に気持ちがいい。
まいりました。
「どうか、この私を弟子に!」と言いたくなります。
あっ、一つ思い出した。
2006年5月、当時湖南市にあった沖縄館まで高間さんに会いにいった時のこと。
「沖縄の人って、宴会とかですぐ踊ったりしやはるんですよね。」
私は、NHKの「ちゅらさん」のイメージでそう言った。
「あれは、ウソ。最後の最後にみんなで踊ったりすることはあるけど、いつも踊ってるわけじやないのよ。」と、ピシャリ!
「テレビのイメージで、沖縄全体をみな同じととらえてもらったら困る」という感じだった。
おやさしいお顔で、ゆうことはピシャッとゆう人。
実はもうその時、「どうか、この私を弟子に!」と思っていました。
このあと、もう一つの主催者である連帯ユニオン関西地区生コン支部の高副委員長のごあいさつ。
今日のイベントを主催されるまでのいきさつなどを説明された。滋賀にもたくさんの非正規労働者がおられる。その中には、沖縄出身者もたくさんおられるらしい。さまざまな問題を解決するには、幅広い人たちとのつながりが必要である。
それにしても、「沖縄」と「生コン」はなかなか共通項がみつからなかった。「生コン支部」というのは、コンクリートミキサー車の運ちゃんの組合なんかなあ。
次は、第1部のメイン、講演「琉球の自治」。講師は、松島泰勝氏。
主催者側からいただいたチラシには、以下のような紹介があった。
■松島 泰勝 プロフィール
1963年石垣市生まれ。石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島にて育つ。その後、東京、グアム、パラオ、沖縄島、静岡、京都、滋賀にて学び、働き、生活する。
那覇中学・那覇高校卒業。東京狛江市の南灯寮で4年近く生活。早稲田大学政治経済学経済学科卒業。早稲田大学大学院経済学研究科博士後期過程履修単位習得。早稲田大学から経済学の博士号を取得。
在ハガッニャ8グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館専門調査員、東海大学海洋学部海洋文明学科准教授を経て、現在、特定非営利法人「ゆいまーる琉球の自治」の代表、龍谷大学経済学部国際経済学科准教授。
著書に、『沖縄島嶼経済史ー12世紀から現在まで』 『琉球の「自治」』(ともに藤原書店)
『ミクロネシアー小さな島々の自立への挑戦』(早稲田大学出版部)がある。
「一言一句、聞き逃すまい。」
この歳になって、大学の先生の講義が聴けるなんて。絶対1時間集中するぜぃ!
松島先生のお話は、内容が濃かった。
「クスッ」と笑うところも一度もなく、時々「フー」となりそうだったが、しっかり聞けたと思う。
順番的にはむちゃくちゃだと思うが、私が覚えていることは・・・。
まず初めに、琉球・沖縄の歴史について語られた時、奄美の人たちの複雑な感情について。
奄美地方は、島津が琉球王国に攻めてきた時、武力によって琉球から切り離され、薩摩藩の統治下になった。しかし、その前は、武力によって琉球王国の統治下になっていたのだ。
だから今でも沖縄の人々をすんなり受け入れることができないらしい。ヤナトンチュー(本土の人)も敵であるが、沖縄の人ももっと古くからの敵であるわけだ。複雑。

次に驚いたこと。
沖縄では、古くからゆいまーる(たすけあい)の精神が根付いている。
その典型が、久高島である。
久高島では、島全体は島の住民みんなのものという考えで、個人資産がない。そのため、本土のリゾート開発業者の誘惑もはね返すことができたとのこと。
すごい。そんな一枚岩のような地域がまだあったんや。


次は、米軍基地に関する話。
伊江島は、終戦直後、島の60パーセントが米軍基地として強制収用された。しかし、その後、島民のねばり強い運動で30パーセントくらいにまで縮小させた。
そんなことを知っている沖縄以外の日本人は、いったいどれくらいいるのか。私もまったく知りませんでした。
辺野古のV字滑走路。これは、新たな米軍基地というとらえ方でないとダメ。決して普天間の代替地ではない。そう思っている沖縄以外の日本人は、いったいどれくらいいるのか。知らないことだらけです。
最後の方に、沖縄のリゾート乱開発の話。
松島先生のふるさと・石垣島は最悪。住所変更をしないまま石垣に住みついている人が、かなり多いそうだ。住民税を払わず、島のいいところだけを享受している移住者。
逆に、ユニマットの社長は、生活実態のない竹富町に現住所を移し、莫大な住民税を払う見返りに西表島のリゾート開発を我が物顔で進めていった。(ニラカナイホテル)
そして、最後の最後に、私にとってビックリ仰天の発言があった。
「西表の西の端に、人口50人ほどの船浮と言う地区があります。そこは、船でしか行けないような不便なところなのですが、そんなところにまで開発業者の手が伸びています。」
まさか、あの船浮が・・・。
お金持っとるやつらは、そこまでやるのか。
私はここ2年間に、三回船浮を訪れた。ほとんど手付かずと言っていい、素朴さの残っている地区であった。船浮小中学校を中心としたこじんまりとした集落で、少し歩いたところにはイダの浜というきれいな浜があった。当時の校長先生は、ご自分の名刺にその景色を入れておられたくらいの自慢の浜だった。
こんなところにまで・・・。
松島先生のお話は、私にとっても多くの課題を突きつけられた内容であった。

今年2月の学習発表会(私たち夫婦も写っています)
第1部が終わり、10分の休けいになった。ホール外の通路でミニ沖縄物産展をやっているということだったので、見に行こうとして席を立った。
その時、一番はしの方の席に松島先生が座っておられるのが目に入った。1時間話されてお疲れであろうと思ったが、ついさっきの船浮の開発の話がどうしても気になりお話させてもらうことにした。(わずか10分間でしたが、内容の濃いお話をさせていただきました。)
驚いたことに、リゾート開発の話はやはりあのイダの浜。 先生のお話によると、浜一帯はすでにほぼ全部業者の手に渡ってしまったとか。
こういう話が持ち上がった時、一番の問題は地域住民が二つに分断されることである。西表島のニラカナイホテルの時もそうである。自然破壊に反対する住民と、雇用先の確保を狙う住民との対立。
けっきょくホテルが建設されて数年たった今、「だまされた」と思っている人(元賛成派)も多いようだ。
松島先生とも話していたのだが、こういった開発業者に抵抗するには、元からいる住民だけでなく、本土から移住して地域に溶け込んでいる人たちの力も借りなければ。(私の中では、住吉のよんなぁよんなぁさん、上原の「工房ながや」のオーナーを頭に浮かべながら話していました。)
今のところは、船浮地区では開発反対派が圧倒しているらしい。しかし、私も含めた無責任な旅行者によって、この船浮地区の平穏な空気を乱すことは今後ますます増えていくだろう。
高間さんが、前に繰り返し言っておられた。
「本土の人は、自分の見たい沖縄しか見ないのか。」
自分に都合のいい部分だけ取り出してわがままに楽しむような人間は、沖縄には来てほしくないということだと思う。
私自身も、しっかり肝に銘じたい。
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