2015年11月12日(木)
沖縄側の不快感 [平和]
◎毎日新聞11月10日朝刊
「論争」の戦後70年 第18回 [沖縄戦 記録と記憶]
戦禍 追体験どこまで
◇個人が生きた証し、とどめる戦跡も
沖縄本島南部、糸満市の摩文仁(まぶに)の丘は沖縄戦終焉(しゅうえん)の地といわれる。一帯は平和祈念公園として整備され、多くの戦没者慰霊碑が建てられてきた。バスで10分ほどのひめゆりの塔と並び、修学旅行生らも多い。
慰霊碑が多いのは、それだけ戦火が激烈だったということだ。だが、別の理由もある。園内の霊域に、県ごとの碑が建てられているのだ。摩文仁に32基。他の地も合わせると、当の沖縄以外、全国46都道府県別の慰霊碑が沖縄県にある。
奇異なことに、沖縄戦以外の戦没者も祭られている。ある県の場合、「合祀(ごうし)者数40409柱、沖縄戦戦没者1607柱、南方諸地域戦没者38802柱」と説明され、沖縄以外での戦没者が圧倒的に多い。他の碑も同様で、フィリピンとかニューギニアとか、南方の激戦地を示す方位盤を設置した県もある。
碑の多くは1960年代に建てられた。しかし、最近刊行された福間良明・立命館大教授(歴史社会学)の「『戦跡』の戦後史」によれば、60年代末、摩文仁の各県碑に対し、沖縄側の不快感が噴出する。華美を競うかのように慰霊碑が林立し、本土から半ば観光気分の慰霊団がやってくる。そのことに反発する議論や論調。沖縄戦の象徴の地、摩文仁の丘に、現地の沖縄からはあまり歓迎されない一角が生まれてしまったのである。では、現在はどうか。
「非常に違和感を覚えますよ」。沖縄県立博物館元館長で歴史家の大城将保(まさやす)さんが憤る。住民の戦場体験を聞き取り調査し、沖縄県史にまとめた中心人物である。
沖縄戦の慰霊の原点は「魂魄(こんぱく)之塔」だと、大城さんが話す。沖縄の戦後処理は、遺骨の収容と不発弾の片付けで始まったという。そうしないと、農作業もできなかった。その時、住民の手で最初に建てられたのが魂魄之塔だ。46年、軍民の別なく米兵も含めて3万5000人の遺骨が納められた。ひめゆりの塔から1キロほど南にある。
一方、摩文仁の丘の霊域。丘の頂点、見晴らし抜群のところに「黎明(れいめい)之塔」が建つ。沖縄守備隊の牛島満・第32軍司令官と長(ちょう)勇参謀長が自決したガマ(石灰岩の洞窟)の上部に位置し、祭られているのはその2人。各県碑は、この塔に向かう道筋に整然と配置されてきた観がある。
「慰霊塔銀座なんて呼んでいますが、牛島司令官を中心とした霊域が政府の補助でつくられたわけですよ。階級トップの人を中心に部下たちを1カ所に集め、2人の顕彰にもなっている。沖縄戦を知らない人が、いつのまにか戦跡の中心を魂魄之塔から移したんです。我々に言わせれば、靖国神社の沖縄版ですよ」
さて、平和祈念公園の中心部には95年、沖縄県によって「平和の礎(いしじ)」がつくられた。国籍も軍民も問わず、沖縄戦で亡くなった人一人ひとりの名前が石碑に刻まれている。その数は24万人を超えている。
「よく戦争体験に基づく『沖縄の心』と言いますが、それは平和の礎に象徴されています。なんで他県の人まで、牛島司令官まで……という人もいましたが、戦争ほど人類にとって最悪のものはない。その根源的なことを残そうとしたんです」
構想に深く携わった大城さんはさらに、名前を刻む意味を語った。
「沖縄では一家全滅の家がものすごく多いんですよ。位牌(いはい)もお墓も遺骨も遺影もない。役所に行っても戸籍は焼けちゃってない。何のなにがしという人がこの世に存在したっていう証明が何もない。これでは、我々は我慢できない。残ったものはたった一つ。名前しかないんです」
平和の礎を見て回る。懸命の名簿作りにもかかわらず、名前の特定が果たせないでいる人々もいる。糸満市の戦没者、「玉城ヨシエ」さんの名の次に「玉城ヨシエの子」という表記が三つ続いていた。なぜ、こんなことになってしまったのか。誰か、訪れる人はあるのだろうか。3人はどんな子だったのだろう……。
戦跡の特徴とは何か。「戦跡にこうべを垂れるのは大事ですが、そのこと自体がいろんな思考停止を生んでいるのではないか」と福間さんは指摘する。慰霊碑で言えば、文字数の制約から詳細を語るには限界がある。だから、どんな解釈も可能になり、見る人に都合のよい戦争イメージをつむぎやすいところがあるという。
かつて各県碑に巡拝した人の中には、私的な追悼の延長で石碑を美しく見せて国の責任を見えなくするあり方への批判や、加害責任に言及する意義深い動きもあったそうだ。しかし、そういうのは例外で、私的な心情に涙することにより、公的な文脈、歴史的な文脈が見えなくなる状況が生まれてきたという。
摩文仁の各県碑などは、そうした落とし穴にはまりやすいモニュメントかもしれない。沖縄の地にありながら、太平洋戦争全体の慰霊碑にずれていき、沖縄固有の史実と問題は後景に退いていったようだ。
「戦跡によって何が見えなくなっているのか。なぜ、そういう状況が生まれたのか。そこから議論が始まるのかな」とも福間さんは話した。
なるほどと思った。思いつつ、今回、大城さんの名前のもつ力の話を聴いたのち魂魄之塔や平和の礎を再訪し、少し別の感覚も覚えた。
元々、平和祈念公園の場合、モニュメントである平和の礎と、沖縄戦の実態を情理を尽くして詳細に伝える平和祈念資料館がセットでつくられた。ただし、平和の礎だけでも、戦争について人々に直接訴えかける力はただならぬものがある。
批評家の仲里効(いさお)さんにもこの点を尋ねる。南部の半島一帯の土地自体が発するオーラにひかれ、なんとなく車を走らせたりする人。
「各県の慰霊塔には、僕も非常に違和感がある」と仲里さんも言い、その対極にあるものとして、くしくも一家全滅の家を挙げた。戦後70年たった今も全滅した家の屋敷跡があり、コンクリートブロックの囲いや香炉だけが残っていたりするのだ。
「華々しい慰霊の塔にはないものがある。こういうものが、戦争の実態が何であるのかを人々に喚起するのではないか。整理された碑の場合、どうしても制度的な鎮魂になり、生きている人たちの都合が投影される。でも、全滅の屋敷跡やガマの暗闇には、生きている人が投影できないものがまぎれもなくある」
沖縄の戦跡の力。「モニュメントが建ったくらいで、見えにくくなるものではないかもしれませんよ」と仲里さんは言った。【伊藤和史】
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■ノートから
◇住民犠牲言及の碑も
各県の慰霊碑のうち、例外的存在が「京都の塔」だと、大城さんが言う。この塔は摩文仁などの本島南部ではなく、那覇市より北の宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園にある。嘉数高台は沖縄戦の最激戦地で、米軍戦史にも特筆されている。日本軍の主力が京都の部隊だった。2536柱の沖縄戦戦没者が、まさにその地で祭られている。
「……多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」と、碑文にある。郷土部隊の勇戦敢闘ぶりが強調されがちな碑にあって、軍人も住民も両方が犠牲になった沖縄戦の実態をごく自然に伝えているという。
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今日は寮の管理代行。
楽しみにしていた朝日新聞がない。新しい寮長寮母さんは新聞を残してくれないようだ。残念!
代りにうちの毎日新聞から。読み応えのある記事だった。
「沖縄側の不快感」など、私たちは考えたことがあるだろうか。「靖国神社の沖縄版」って・・・、確かにそう思う。
とにかく、現地を自分の目で見てみること。それが一番大事なことだと思う。
Posted by パオパオ トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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